夜のただなかを、広げた翼が駆け抜けていく。
ミカグラ島でのホリデーの後も、惜しむようにもう少しだけ滞在期間を延ばし……、ついに一年も終わりというこの日に、モクマとチェズレイは機上の人となっていた。とはいえ乗るのは当然、部下の運転するプライベートジェットだけれど。もうすっかりこの移動にも慣れたらしい相棒が、シートに身体をうずめて「そーいや」と家の中のようにくつろいだ声を出した。
「シキ、残念だったよねえ」
「ええ。あなたの言う通り今は情報化社会――、彼ほどの技術を持ったハッカーが我ら組織の傘下に加われば百人力でしたでしょうに。……とはいえ、あれだけの交渉で本当に引き抜けるとも思ってはいませんでしたが」
「目的はプチ荒療治……ね。けども、おじさんホントは、ちょっとだけ妬いちゃったのよ……?」
少女漫画めいたかわい子ぶった顔と声を、チェズレイはフ、と一笑に付した。
「俺以外にもするんだ……、ですか? フフ、ご安心を。あれほど心血を注がないと暴けない程複雑怪奇に根を張った強情っぱりは、後にも先にもあなただけでしょうから。比較になりませんよ」
「ははは、なんせ二十年超の熟成もんだったからねえ。その件に関しては色々と……本当に色々と……お世話になりまして……」
その返しは結構なスマッシュヒットだったようだ。乾いた笑いと共に深々と頭を下げられて、浮かんでいた笑みはくすくすと形を変えて唇から零れた。「あ~」と、モクマはバツが悪そうに頭を掻いてから、
「……けども、実際、一年ってのは結構魅力的だったかもなあ」
「? さっさと終わればラクできる……ですか?」
「いんや。だってさ、今日まで、久々のミカグラ島でさ、なんか毎日、お祭りみたいに楽しくって……」
記憶を紐解くように、宙を見て、しみじみ。言う声は穏やかで、チェズレイは静かに咀嚼してから、ふっと唇をゆがめた。
「おや。こんな闇社会を統べる血生臭い活動はお嫌になってしまいましたか?」
「違うよ」
次のことばは、余計な推論を挟ませないかのよう、間髪入れぬものだった。端的で、静かで、穏やかで、でも有無を言わさぬ強さがある。
「お前さんにしちゃあ、さっきから珍しく外すねえ。って、俺の言い方も悪かったな。ごめんごめん。
……楽しかったのは、事実だよ。山にも登れたし、ナデシコちゃんとも話せた。おカンやガコン、シキ達と飲めたのもね。でも、それよりも……」
じっと、目を見つめられる。隣同士のシート、ほど近い距離で、肘置きの上の手のひらにそっと同じものが重ねられた。
「……なにより、お前さんが、楽しそうだったから。ナデシコちゃんと飲んだり、ルークと遅くまで話したり……、美脚ちゃんのトコとかも行ってたでしょ?」
「おや、目敏いことだ」
まさか知られていたとは。目を丸めると「敏いのはおカンの目だけどね」と挟まって、指先が手袋に包まれた甲を撫でる。
「……お前にとっちゃ、夢に向かって突き進む今こそが『祭り』なんだろう。俺も守り手として、相棒として、望んで――、それに参加させてもらってることを嬉しいと思うよ。けども――、
ミカグラでの姿を見てたら、案外お前さん、祭りの後も楽しめそうだなって思って」
淀みのない声が、空間を震わす。うすぐらい機中で、黄色いランプの光に照らされたチェズレイの長い睫毛がぱちぱちとはばたいた。
「まつりのあと?」
「そ。世界の闇をぜんぶ統べてさ、やることなくなっちゃっても、案外楽しくやれそうだな~って。なんか安心しちゃったし、そんなこと考えてたら、お前さんとしたいこと、いろいろ浮かんできて……」
「……。たとえば?」
「たとえばさ、お酒一緒に作るの!」
尋ねれば、待っていましたとばかりぱっと声と表情が明るくなった。酒造り。なるほど……、
「ワイナリーや酒蔵を買い取れば今すぐにできますが」
「ちがうちがう。経営者になるんじゃなくてさ、自分達で飲むぶんを作るんだよ。それでご近所さんたちに振る舞ったりしてさ~……」
「ふむ。構いませんが……、私たちで消費するならばともかく、そこまで範囲が広がると届出なしでは密造に当たりますねェ。しかし我らは現役から離れようと闇に生きる身、馬鹿正直に身分は明かせませんから、ダミーの素性を用意して……、」
「ものの例えだってえ……」
「……フフ、すみません。意地悪を言いました」
くすくす。うなだれてしまった横顔がかわいくて、手のひら返して指を絡めて、あやすように握ってやる。とはいえもちろんモクマだって本気でショックを受けている訳じゃない、すぐに元に戻って身を乗り出してきた。
「そういうのさ、なんかない? チェズレイも」
「そうですねェ……、」
尋ねられて、考える。世界征服終えた後の、余生の話……。まあ、征服した地を守る方が実は難しいので、一線を退いたとしても組織運営などやることは山積みそうだが……、それを言うのもいい加減無粋だろう。そうでなくて、個人的なこと。だけど、自分で言うのも何だが割と器用な方なのだ。たいていのことはすぐにマスターしてしまう。だからといってそう社交的というわけでもないし……。
考えて考えて、
(あ、)
と、天啓が彗星のように降り立った。
「……あなたに、ピアノでも教えて差し上げましょうか。つぶさに、ひたむきに……みっちりと」
「え。……いつまでも蛙の子守唄じゃダメだって?」
「ええ。お嫌ですか?」
「いやいや、いいけども……、おじさん音楽の才能はあんまし無いからなあ……お前さんのOK出るまでとなると、だいぶ長丁場になっちゃうかもよ……?」
それは、本当に予想外の提案だったらしい。焦ったような声が心地よく、だけど本気で嫌というわけでもない、付き合わせるのが悪いだけ、でもその分相棒の時間を独り占めできるかも、それはちょっと嬉しいな――なんていう下心に溢れた心中が、今ではちゃんと見える、受け取れる。
「構いませんよ。……祭りのあとの時間は、あなたと一緒に往くのならば、どのみちたくさん与えられるでしょうから」
目を見返して微笑めば、モクマは息を飲んで、それからやれやれと肩をすくめて目を伏せた。
「相変わらず買ってくれるねえ」
「間違った買い物だとは思わせないでくださいね?」
「……やあ、プレッシャーだなあ」
「何をおっしゃいますやら。そんな心音、していない癖して……」
ふふ、くすくす。
手を繋いで、ぽつぽつ繰り返される会話のキャッチボールは、慌ただしかった十二月を越えた年の終わりの空気を孕んで、なんとなくまるみを帯びてのんびりとしている。
夢物語のような、だけど彼と同じ道を行けるならきっとそう遠くない先に訪れるだろう『まつりのあと』の空想の絵巻物を広げながら、少しだけ開けた窓のシェードの向こうは星も海もない、ただ深い夜空だけがしんと横たわっていて、一年という長々とした小説が、ついに最後の数行を残すのみとなってしまったのを、終わりの寂しさの気配を、肌が感じる。
(……だけど)
だけど、最後の一文字まで読み終えてしまっても、またまばゆい陽の新生と共に、新たな本のプロローグが始まる。
この隣で声を弾ませるひとも、また、当然のように同じ本を開こうとしてくれて、そしてそれを、とても楽しみにしてくれているのだ。
そっと目を閉じる。瞼の裏に同じ夜の色。思い出す。去年の今頃のことを。
一年目は、出会ってすらいなかった。夢にまで見た、ようやく動き出した運命の輪郭をなぞりながら、あの監獄の淀んだ空気を吸っていた。
二年目は、ニューイヤーの打ち上げ花火もかくやという盛大な爆発を背景に、眉を下げて、「あ~……、クリスマスに引き続きこんな状況だけど、明けましておめでとう。今年も一年、よろしくね」と、しらじらしく白む夜に照らされた頬っぺたがかたちづくる笑みを、夢中で目に焼き付けた。
今年もよろしくね、だなんて、ありふれた挨拶が、あんなに意義深いものだって、知らなかったから。
それから、一年。また大きく変わった。自分でも驚いた。もう歳も三十に近くなり、身体はもちろん精神だってすっかり成長しきり、積もり積もった澱は完全に固着し、復讐に身体ごと焼かれ、本懐を遂げたあとは尽きていくだけだと思っていたのに。
ちがった。新しい恋を知った。燃えるような執着を知った。炎のような怒りを知った。頭の中を全部ひっくり返されるような言葉があることを知った。内臓が冷たく凍りつくような不安を知った。涙が出るほどの喜びを知った。絡まり合った小指の、熱さを知った。
隣にひとのいることの、温かさを、無敵の心地を、思い出した。
約束を破ってしまった自分への、絶望があった。
迎えに来てくれたとわかった瞬間、心臓が止まるかと思った。
身を捩るような、痛みがあった。
ひとのまえで泣くことの屈辱と、居た堪れなさと、安心感と、もうどうでもいいや今さら何を知られても、なんて……奇妙な解放感を知った。
……この想いが、けして一方通行ではなかったことを、知った。
時に美学すら覆させる深い情があることを知った。
その名前が、時に幸福であり、時に愛であることを知った。
まだまだ、変われる。あたらしい本を読むたびに。このひとと一緒ならば。祭りの本編も、その後のエピローグも、終わったと思えばまた新しい事件が起きたりして、そうやって、一文字一文字、ふたりで、人生という新たなページを記してゆくのだ。
(――あァ、)
それは、なんて、なんて……幸せで楽しいことなのだろう。
目頭を突き刺す熱を感じながら、そっと腕時計に目を落とす。
プライベートジェットの中にはコックピット内で操縦桿を握る部下とその補佐がひとりきり、当然一言も発さずに、しんと静まり返っている。だからカウントダウンは頭の中で。三、二、一……、
……だって、今年は、わたしの方から言いたいから。
「おや、モクマさん、年が明けたようですよ。旧年中は色々と……本当に色々と……お世話になりましたが……、どうぞ今年も引き続き、『祭り』にお付き合いいただきますよう、よろしくお願いしますね」
頭の中で何度か繰り返していた言葉を口に乗せれば、となりのモクマはぱっと目を開いて、それから子どもみたいな笑顔になってくれた。
「うん、喜んで! チェズレイがすること全部、祭りもその後も、一緒にやらせてよね!」
そうして続いた言葉には、もう、言い直しの必要はなかった。
おしまい