ほんのかすかな頭皮への刺激は、タブレットに集中していた意識を引き戻すには十分だった。
ベッドのヘッドボードにふかふかのクッションを立てかけて、起こした腰を支えて、伸ばした脚は掛け布団の中に。
こんな半分寝ながらみたいな格好で仕事をするの、昔だったら公私混同って眉をひそめていたかもしれない。けれど今はすっかり慣れてしまった。どころか……、
「ふふ、なんですか。構ってほしい?」
視線を落として、長い髪のしっぽにじゃれつく男にうすく笑む。
……慣れてしまったどころか、同じ寝台に他人を入れて眠るなんて、数年前の自分が見たら卒倒ものだ。
そんな風にチェズレイを変えたのは、当然この男。甚平の紐は何回言っても雑な結びで、ゆるんだ胸元を布団の合間からちらつかせながら、厚い指の腹が愛おしげに毛先の上を何度も滑っている。横向きに寝転んで、こちらを見る下がった目尻が、眠たい猫みたいに細くなった。
「……ん~、お前の毛、きもちいなあ、猫ちゃんみたいだなあ、って思って……」
「ねこ?」
偶然にも、口をついた話題も、猫についてであった。問い返すとうん、と頷いて、目が開いて天井を見つめて、
「――うんと昔にさ、ミカグラから出て数年って頃、猫を拾ったことがあったんだ。近所の空き地の隅で鳴いてた、傷だらけの、ぼろぼろの子猫。半日様子見たけど親猫も迎えに来なくって、飼い猫にも見えないし、ああ、こいつには帰るところがないんだなって思ったら……ほっとけなくって」
今思えば、自分とダブらせてたんだろうなあ。
声は記憶の糸を手繰るようにゆったりと。邪魔せぬようタブレットを脇に置いて、続きを促す。
「だけど、四畳半のアパートじゃあ、当然飼っちゃダメでさ。大家さんにバレちゃって、捨ててこいって言われて……」
「……」
聞きながら、想像する。
ナデシコに聞いた、まだ軽口にも酒にも逃げられぬ時代。黒い髪した相棒がうさぎ小屋みたいなせまい部屋で、痩せた子猫と身を寄せ合う姿を。小さな身体を抱いて、途方に暮れる顔を。
「でも、どうしようって思いながら仕事行ったら、現場の親方の娘さんが飼うって言ってくれたんだ」
「……そうですか。ずいぶんと幸運な猫だ……」
どう転ぶかと危ぶんだ昔語りの結末は、意外や心温まる美談であった。
とはいえ、ルークのように感動の涙を流す……なんて反応はできないけれど。でも、何を成すのだって生きてこそだ。良かった、と思う。それが相棒の思い出の中にある大切な命ならば、尚更。
静かな返答に、モクマはにこりと笑って「ありがとね」と返した。
「うん。よかった。嬉しくて、泣いちゃったよ。俺は咎人で、主を手にかけておいて、そんな資格ないと思ったけれど、こいつが生きられるんだって思ったら、どうにも涙が止まらなかった。
ちょうどお前さんのみたいな、薄い綺麗な金色をしててさ。身じろぎする度にシーツの上で揺れる髪見てたら、久々に思い出しちまって……」
洗って乾かしたら、びっくりするくらい毛並みがよかったんだ。お前さんのキューティクル? にも負けないくらい。ふわっふわでさ……こーんなちっちゃくって、目は茶色で……、
ぺらぺらと語りながら肘を支えに身体を持ち上げて、こーんな、と、モクマが手のひらで示したのは、彼の握るおにぎり二つ分くらいの大きさだった。色、形、毛並み、チェズレイの頭の中でどんどんと見知らぬ子猫の解像度が上がっていく。相棒は次いでくるくると毛先を指に絡めて、そこにじゃれるみたい、痩けた頬をすり寄せて、
「……子猫ってさあ、あんなちっちゃいのに、抱えて眠るとあったかくって。これで良かったって思ったけど、でも、いなくなった日は、この部屋こんなに寒かったっけって驚いたなあ……」
しみじみと語り尽くして、そこで漸く見つめるチェズレイの視線に気づいて、眉が下がる。
「ってことで、おじさんと猫ちゃんの昔語りはおしまい! ごめんごめん、語っちまった――」
顔とおんなじ覇気のないせりふは、けれど途中で打ち止めになった。
「えっ、……え、なに、そのサービス……、」
驚いて撥ねる声と鼓動が心地いい。
ずるずると身体を倒してベッドに入り込んで、横向きになって手足を丸めて、相棒も横向きに直して、はだけた胸元に頭がくる位置におさまる。
「……あっ」
唐突でぶしつけな動きに、けれどすぐに意図は察したようだった。ぶあつい腕が回されて、熱い身体にすっぽりと包まれる。
そのままよしよしと、ためらいなく髪を撫でる指先は、全く性のかおりがしない……、というか、完全に猫をあやす手つきだった。
そう、そうだ。心地よい感覚に目を閉じる。
「……ありがとね、チェズレイ」
「いいえ……」
モクマはしばしまるい後頭部の毛並みを楽しみ、それから首を撫で、背をなぞり、腰に触れ……、た辺りで、くすくす、耐えきれぬように破顔した。
「……く、ふふ、俺の猫ちゃん、随分とでっかくなっちまって……!」
……おやおや。
せっかくこの私が郷愁にかられるニンジャさんの為に猫になり、さらには『抱えて眠る』を叶えるべく丸まるだなんて大サービスをしてやったというのに、なんだその言い草は?
まァそりゃ、普通の猫よりは大きいだろうが、
「……面積が多い分、暖をとるには適しています」
憮然と言い返してやったのに、残念ながら笑い声はますます大きくなって、抱く力は強まって、震える肩は密着した身体も揺らして、
「……はは、違いない……! 毛並みが良くって優しくて、おまけに最後までそばにいてくれる、俺にはもったいないくらいの猫ちゃんだ……」
続いた声もまた、まるで嬉し泣きみたいに震えていたので……、チェズレイの胸の奥も、不覚にもつられてじんと温められてしまったのであった。
おしまい