朝日和の鍋炊きごはん日が登り始める頃に、ふと意識が浮上した。起きたというにはまだ遠く、リカオは碌に目も開けられぬまま枕に顔を擦り付ける。
窓から季節にそぐわぬほど澄んだ風が吹き込んで、リカオの髪をそよりと混ぜた。昨日の酷い雨は、もう遠くへと去っていったらしい。
そのまま再び夢の中へ沈みかけたリカオの耳を、囁きとハミングが入り混じるようなやさしい歌声が掠めて、そっと引き留める。
「…ん……、」
閉じた瞼の向こう側から流れる慣れ親しんだその音階は、これから目覚めていく街並みに相応しい。無意識に音の方へ目を向ければ、まだぼやけた世界の中で窓辺に佇む影があった。彼の口からちいさく紡がれる歌は、とても優しく心地よく部屋のなかを満たしていく。
起き抜けの掠れた声でハミングを重ねたら、すぐにぴたりと歌声が止んだ。
「…ぅ?」
止めたいわけではなかったのにと眉根を少し寄せたら、それと同時に曙光の空と同じ、夜明け色の瞳が跳ねるようにこちらを向いた。
「わり、起こしたか?」
「ん…べつに、かまわない…です。おまえは…眠れなかったのか?」
「ただの習慣。いつも仕込み手伝ってるからな」
「そうか…。えらいんだな……です…。」
ぽそぽそと返事を返せば、何が面白いのかヤスが笑う。
「眠いならまだ寝てろよ、適当に時間潰すし」
「ん…? ん…いや、もう起きる…です。」
充分寝たから、そう呟いて布団のなかで伸びていると、ヤスがあぁそうだと口を開く。
「キッチン、勝手に借りてるけど大丈夫だよな?」
「ああ。問題ない…が……。」
「…ない、が?」
「いや…お前は客なのに家主の俺がこれでは申し訳ないと、そう思っただけだ…です。」
「別に。俺がしたくて勝手にやってるだけだし…そもそも世話んなってるのはこっちだし。…だから…えっと、…おたがいさま、ってことで」
照れたようにそっぽ向いて、彼は逃げるように調理台の前へ移動した。追いかけようと布団から出たところで思い直し、リカオは洗面所へと行き先を変えた。
最低限の身支度だけ整えて戻ってくると、コンロの上には鍋とフライパン。張られた湯に顆粒だしが入れられて、するすると溶けていく。その横ではフライパンの蓋がしきりに揺れていた。
「…何を作っているんだ?…です。」
「味噌汁。こっちは米炊いてる」
「米? フライパンで炊けるのか……です。」
純粋に感心したリカオは、衝動的に腕を伸ばす。…けれど即座に手首を捕まえられて、結局その指が蓋へ触れることはなかった。
「フタ開けんな」
真顔のヤスが、一切の温度を感じさせない声で言う。調理中に手を出そうとしたのが悪いと素直に反省し、リカオは真剣な顔で頷いた。
「……分かった。すまない…です。」
「ん」
掴まれていた手がパッと離され、自由になった腕をそのまま引っ込める。その間も相変わらずコフコフ蒸気を吐きながら蓋が震えていた。
「何か、手伝えることはあるか?俺だけ何もしないのも落ち着かない…です。」
「手伝いか…、ん〜〜……?…今のとこ特にねえな」
「そうか……です。」
「あっ。いや、ある、あった。わかめ取ってくれ、…場所分かんねえ」
「…! 今出すから待ってくれ。」
気を遣ってくれたのだろうなと思いながら頷く。いそいそと取り出した乾燥わかめを差し出せば、振り向いたヤスの頬が緩んだ。
「ありがとな」
「あぁ。何かあれば言ってくれ…です。」
「分かった。……っふ…」
「? 何かおかしかったか?…です。」
「いや悪い、なんでもねえよ」
なんでもない、とくつくつ笑いながら繰り返す。その視線を辿っていくと、ゆらゆらと揺れるリカオの尻尾があった。すぐにピンと真下へ伸ばしてみるが、それも見られていたらしく再度くすりと笑う声がした。
「わ、笑うな…です!」
「ごめん、悪かった。なんか面白くて……」
「いや…怒っているわけじゃない…です。…は、恥ずかしいだけだ…です…。」
「…そっか。」
フライパンの火を強めたヤスが、切り替えるようにわかめの袋を軽く振る。
「どうする?」
「多めがいい…です。」
「ん、了解」
ざかっと鍋へ放り込まれたわかめは、緩く沸き立つだし汁のなかで踊りながらふやけていく。半分ほど戻ったところで鍋とフライパン両方の火が止められる。
「…うん、これでよし」
「……もう炊けたのか?…です。」
「まだ生煮え。こっから10分くらい蒸らさねえといけねえから…蓋、触んなよ」
「う……承知した…です。」
懲りずに伸ばしかけた手を再度引っ込めながら、リカオはまたしても真剣な顔で頷いた。
満足げに口角を上げ頷き返したヤスは、フライパンをそっと鍋敷きの上へ移動させた。スマホでタイマーをかけると、何やらシンク下を覗き込みはじめた。
「何か探しているのか?…です。」
「あ、いや…もう一個フライパンねえかなって」
「フライパンはそれしか無いぞ…です。」
「おぁ…そうか…。なんかおかずでもと思ったんだけど…無ぇなら仕方ねえよな」
それじゃ代わりに、とヤスは続ける。
「冷蔵庫のきゅうり、貰っていいか? 最後の一本」
「あぁ。勿論構わない。お前の好きに使ってくれ…です」
「ん。じゃあ遠慮なく使わせてもらうぜ」
トトトトトン、トトトトトン。
ヤスが規則正しいリズムで包丁を動かすと、きゅうりはあっという間に形を変えた。それを保存用のポリ袋へ突っ込むと、顆粒だしを匙7割程度と、3本指で塩ひとつまみ、醤油を2滴。
他人の家のキッチンなのに、ヤスの動きはまるで早送りのようだ。軽く空気を抜いて口を縛った袋が、揉んどいてくれと手渡される。
「……手慣れているんだな…。」
「そうか? それなりだと思うけど、普段の仕込みのおかげかもな。…母ちゃんはもっと早え」
道具の片付けを始めたヤスの隣で、もみもみと調味料を馴染ませながら口を開く。
「ここまで出来るなら充分すごい事だろう。……俺には到底出来そうにない…です。」
リカオは自分が包丁を握る所を想像して首を振った。ヤスのように素早く同じ厚さに切れるようになるのは、果たして何年先になるだろう。
「あーー…あんたこういうの苦手そうだもんな」
「厚さを揃えるくらいは出来るはずだが…。」
「早さが伴わねえんだろ、なんか想像つく」
「だろう?…です。」
「だな」
不名誉ではあるけれど、実際リカオもそう思うので仕方ない。ふたりは顔を見合わせて小さく笑いあった。
「食器、出してもらって良いか? 茶碗と、汁椀と…あとそれ入れるやつ」
「わかった…です。終わったら机を拭いてくるから、何かあれば声をかけてくれ。」
「ん、了解」
ピピピ、ピピピ——
「お」
「炊けた…のか?」
「今度こそな」
丁度机も拭き終わって配膳の準備が整ったところだ。いいタイミングだなとヤスが呟いて、鍋を火にかけた。
「リカオ、杓文字かスプーン貸してくれ」
「……このスプーンで大丈夫だろうか?…です。」
「ん、充分。…さんきゅ」
手渡したスプーンをさっと濡らして、彼がフライパンの蓋を開ける。
途端に蒸気が溢れて、米特有の甘い香りがリカオの鼻孔をくすぐった。
「おぉ…本当に白米だ…です。」
「よかった、うまく炊けてそうだ」
杓文字代わりのスプーンで返すように混ぜると、底面からほのかに色付いたおこげが顔を出す。リカオの腹が、くぅと鳴いた。
「茶碗、貸してくれ」
「あぁ…!」
「あんたはどんくらい食える?」
「…そのくらい、で大丈夫だ。ありがとう…です。」
「ん。おかわり、残しとくからな。あんたが食わなかったら俺が食う。…リカオんちの米だけど」
「好きなだけ食べてもらって構わないぞ…です。頂き物なんだが、俺ひとりでは使い切る前に悪くしそうだからな。」
鍋が沸いて、ヤスが火を止める。匙の上で少しずつ味噌が溶かされ、ふわりと香る。
「……ん…?…俺的にはもうちょっとなんだけど、あんたはどう思う?」
小皿に少量入れて手渡され、リカオも味を見る。
「……このままでも悪くはないが、もう少し濃くても良い気はする…です。」
「ん、なら足す。………ん、これでよし。出来たぞ」
味噌汁で満ちた椀を、溢さぬように慎重に運べば、配膳が終わり食卓が整った。
普段リカオしか使わないテーブルだからか、ふたり分の食事が載るだけでなんだか狭く思える。それでも嫌な感じはしなくて、愛おしいようなぬくもりが、ささやかにリカオの胸を満たした。
「じゃ、食おうぜ」
「あぁ。」
「「いただきます。」」
本日の献立は、ほんのりおこげの炊きたてごはん、きゅうりの浅漬け、わかめの味噌汁…それから生卵。
「たまごかけはさ、やっぱり炊きたての飯がいちばん美味いんだよな。………うん、美味い」
「おこげがあるのがまた良いな…です。フライパンでこんな風に炊けるとは思わなかった…。…むっ、浅漬けも美味いぞ。」
「マジか、…マジだ…。いつもと量がちげえから適当に調味料突っ込んだけど…ちゃんと出来てて良かった」
「ふぅ……味噌汁も美味しい…です。ほっとする味だ…。」
「そりゃ良かった。…今度母ちゃんにも何か作ってやろうかな」
あんたに褒められたらちょっとは自信出てきた、とヤスは頬を掻く。
「それは良いな。きっと彼女も喜ぶ…です。」
「だといいな」
「……ヤス。」
「ん? なんだ?」
「作ってくれて、本当にありがとう…です。どれもとても美味い。」
「おう。……もし次があるんなら、もうちょっと良いもん作ってやるよ」
「そうか…。…では楽しみにしている…です。」
「ああ。…あとさ、言い忘れてたんだけど」
「なんだ?…です。」
首を傾げて尋ねると、彼はほんのり微笑んで口を開く。
「おはようリカオ」
「あ。すっかり忘れていた…です。おはよう、ヤス。」
早起きの朝に、ふたりの笑い声が小さく響いた。
きっとそれは、ささやかな幸せのおと。