お裾分けの甘口カレー ——ピンポーン。
インターホンの呼び出しに、爪弾く手を止める。
確信めいた予感を持って時計を見れは、時刻は十時四十分を指すところ。
扉に向かって声だけ掛けて、抱えたベースをスタンドに戻す。広げたままの楽譜も片付けるべきかと一瞬迷ったけれど、結局そのままにして立ち上がる。リカオは普段より大股で玄関へ向かうと、そそくさと鍵を回した。
「……おはようヤス、いらっしゃい…です。」
「おはようリカオ。悪い、ちょっと早すぎたか? 今日は配達、無かったからさ」
「別に問題ない…です。」
「そんなら良いけど」
訪ねて来たヤスに上がってくれと促せば、お邪魔しまーすとやや間の抜けた返答。
彼は背負っていたギターケースを床に置いてしゃがみ、靴を揃えた。
何をするにもおっかなびっくりだった頃と比べ、すっかり馴染んだその手つきに、あぁ通い慣れたんだなと、そんな事をぼんやり思った。
「荷物少ねえから落ち着かなくてさ。なんとなくでギター持ってきちまった」
「あぁ、それでなのか。てっきり午後に練習でもあるのかと……です。」
「この連休中はジョウが入院してるから、ずっと個人練なんだよな。俺は別に構わねえけど……たまには合わせねえと鈍っちまう」
「に、入院⁉︎ 大丈夫なのか? …です。」
「あぁ、検査入院だから大丈夫だ。心配要らねえ」
「そうか……。いや、本当に安心していいのか微妙なところだが。」
胸を撫で下ろすリカオに、ヤスが頷く。リカオのベースの隣へ荷物を置くと、彼はいつものように袖を捲る。
「じゃあ飯作……ってそうか。そうだった、今日は違えんだったな」
彼はしっかり時間をかけて手を洗いながら、だから荷物無えんだもんなと呟く。
勉強を教える代わりにヤスと昼食を食べるこの不思議な会は、どういう経緯で生まれたのだったか。ただ勉強を教えるだけだった頃、教師役の対価として差し出されたサウンドルを、受け取れないからと突き返したのが始まりだったかもしれない。
ならばせめて、とリカオの分まで店の弁当を持参していたのが、いつの頃からか下処理済みの食材に変わった。
そして昼前に訪ねて来たヤスが料理をして、二人で食事をして、後片付けを終えてから勉強する。自然とそういうルーティーンになった。
けれど、今日は違うのだ。
「腹が減っているなら今からでも構わないが……お前はどうしたい? …です。」
「俺はどっちでも……。ちなみに、あんたが言ってた『とっておき』って、何だ?」
「カレーだ。」
「へぇ」
予想外に薄い反応に、リカオは机上を整理していた手を止めて、唇を引き結ぶ。
「む。ただのカレーじゃないぞ。ウララギ特製、大人の甘口カレーだ……です!」
「あまくち……って、ウララギの⁉︎」
「あぁ。なんでも、冷凍庫の調子が悪いらしくてな。調理済みのメニューが軒並み使えなくなったらしい…です。一度溶けかけている以上、店で出すには衛生面に不安があるので廃棄する、と。個人的に消費する分には問題ないらしいがな。」
トントン、と楽譜の束を纏めながら言えば、大丈夫なのかよとヤスが眉を顰める。
「めちゃくちゃ一大事じゃねえか」
「修理は今日だと聞いている。業者はクースカの紹介だから心配ない…です。」
「そっか。そんなら良いけど」
そっと胸を撫で下ろすヤスに、今度はリカオが頷いた。
結局、温めるだけならばと食事は昼まで待つことにして。
片付いたばかりの机には、ヤスの勉強道具を広げる。
授業内容のどこが分からないかすら分かっていない彼に、リカオはやれやれと肩をすくめる。それでも地道に基礎を教えながら、ヤスに課題を解かせていく。
そうして宿題の三割ほどが終わる頃、正午を告げるメロディーが窓から流れて来たのだった。
「……設問のキリもいいし、ここまでにして食事にするか…です。机の片付けを頼んでもいいか? …です。」
「分かった。俺もちょうど、腹減ったなって思ってたとこだ」
散らばった教科書や筆記具をヤスが纏めて、空いた机の上をウェットティッシュで拭き上げる。
リカオはその間に、厚手のビニール袋に小分けされたカレーを三つ、レンジにかけておく。湯を沸かしながら二人分のカップと食器を用意し、レンジの中身を覗き見る。
溶けた頃合いを見計らい、中身を皿に移す。それから、ラップをかけて再加熱。
「ん、良い匂いだな。……すげえ腹減る」
「片付け、ありがとう。俺はコーヒーにするが……お前は何を飲む?」
「リカオと一緒がいい。ミルクも一緒で。あ、砂糖はあんたの三分の一でいいや」
「分かった…です。」
リカオが頷き、並べたマグカップにコーヒーの粉と砂糖を入れたところでレンジが鳴った。
「かき混ぜてもう一度かけてくれないか? …です。念のためよく加熱するようにと、ウララギに言われているからな…です。」
そうヤスに指示を出して、淹れかけのコーヒーに湯を注ぐ。スプーンでくるくると混ぜ溶かして、ミルクのポーションを二つずつ。カップを机まで運んで戻ってくれば、丁度カレーも熱々の頃合いだった。
リカオは濡らした杓文字を片手に、勉強会の日以外ほとんど使われていない炊飯器の前へ立つ。ぱかりと蓋を開ければ蒸気と共に米の香りが一気に溢れて、二人の腹をきゅうと鳴かせた。
そわそわと落ち着かない様子のヤスが差し出してくるのは、彼が頻繁に出入りするようになってから買い足した、専用の食器。元々リカオが使っているものとデザインが似ているのはただの……家主の趣味、という事にしておこう。
きっちりとカレー用の目盛で炊いておいた、少し硬めの白ごはん。リカオの分は普通盛り、ヤスの皿にはこんもりとよそう。大盛りだから、ヤスの分にかけるカレーは二食分。程よくとろけた具材となめらかなルゥが、米の山を伝って転がっていく。
「うわ、やべぇ。絶対美味いやつだ」
ごくりと唾を飲んだヤスに急かされながら、二人揃って食卓に着く。
「準備とかコーヒーとか、いろいろありがとうな」
「あぁ。別に、これくらい構わない。こちらこそ、いつもありがとう…です。」
「おう。俺も別に、好きでやってるから気にすんな。……冷めないうちに食べようぜ」
頷きながら、そうだなと返す。
本日の昼食は、お裾分けの甘口カレー。目の前にあるだけで、芳醇に香るスパイスが食欲をぐんぐん掻き立てる。いそいそとスプーンを握りしめる二人の声が、弾むように自然と揃った。
「「いただきます!」」