夜更かしのべっこう飴ぺらり、はらり。
秒針音に時折混じる、紙の擦れる微かなノイズ。
「…………ふぅ。」
集中の切れ間にふと顔を上げれば、時刻はもうすぐ午前2時になろうとしていた。
——もう、こんな時間か…。何か、甘いもの……。
リカオは空になったマグカップを片手に、のそのそと立ち上がってキッチンに向かう。
冷蔵庫にはドリンクと、それからキャンディチーズがひとつだけ。リカオは一度扉を閉めて、天井を仰ぎ見る。そのまま深く息を吸って、ゆっくり吐く。
一縷の望みを抱きながら…今度は冷凍室を開けるも氷菓の類は何もなく。リカオは結局、深々と溜息を吐きながら扉を閉める羽目になった。
ひとまず先程のチーズを口に放り込み、他に甘味はあっただろうかと台所を見渡す。
——チョコレートは食べ切ってしまったし…あぁ待て。確か事務所で貰った大福が……いや、あれは【夜風】に行く前に食べたんだったな。
そう、つまるところ。
——何も、無いな……です。
無いものは仕方がないと諦めて、ケトルに水を張りスイッチを入れる。湯が沸くのを待つ間に、洗ったマグカップへいつものインスタントコーヒーと砂糖を入れて…そこでふと、リカオは手を止める。
彼の紅い双眸は、砂糖のケースをじっと捉えていた。
カチ。
ケトルのスイッチが切れた音にハッと顔をあげる。普段なら驚くような事もないけれど、真夜中のキッチンにはやたらとよく響いた。
気を取り直してカップに湯を注ぎ、ぐるぐると掻き混ぜる。
——さすがにそのまま食べるのは何か…俺の、ミューモンとしての矜持が失われる気がする…。
ふぅふぅと息で冷ましながら、淹れたてのコーヒーをちびちび啜る。嚥下と同時にじんわりと食道が温まっていくのを感じながら、前にも似たような事があったなと記憶を探っていく。
砂糖……確か砂糖しかなくて…あぁそうだ。あのときは、砂糖を飴にして食べたのだ。
どうしてそうすることになったのか…きっかけはもう忘れてしまったけれど、ヤスの家だったのは覚えている。ヤスの家の厨房の片隅で、鍋と砂糖と少しの水、それからスプーンとアルミホイルだけで作ったあの飴の味を、リカオはたしかに思い出した。
それぞれで小鍋を抱え、ヤスと1工程ずらして教わりながら作ったことも。リカオが焦がした飴の代わりに、ヤスが自分の分を譲ってくれたことも。
最初からリカオに渡すつもりだったと微笑む、彼の優しく強い瞳の色も。
カフェインと糖分が、揺らいでいた思考の輪郭をそっと補強していく。 …というのはプラシーボ効果かもしれないけれど、リカオにはそれで良い。
仕事の終わりは、さほど遠くないところに見えている。本当はこんなことに感けず、さっさと片付けて眠るのが良いのかもしれない。それは、分かってはいるのだけれど。効率を上げるためのほんの気晴らしだと、リカオはそう銘打って、取り出した鍋をコンロに置いた。
「小鍋に砂糖と、少しの水、だったな…。」
あのときのレシピに、正確な分量はなかったはずだ。リカオは記憶の中のヤスに従って、カレースプーン山盛り5杯の砂糖と、同じスプーンで2杯と少しの水を入れて、火にかける。
——点けたら中火に…。このくらい、だろうか…です。…そしてこのまま、少し待つ……。
待っている間に鍋敷きと厚めの…出来るだけ広くて平らな皿を用意して、アルミホイルを広げておく。鍋を覗き込めば、溶け残った砂糖の塊。あの日の動作を反芻しながらそっと鍋を揺すれば、糖液が色付き始める頃には全て綺麗に溶け切った。
「おぉ……!」
驚くほど順調に、飴作りは進む。飴に関する母親との思い出をぽつぽつと話すのヤスの、やさしく持ち上がった口角と飴の色は、よく覚えている。…あの時焦がした、自分の飴の色も。
リカオは記憶に残る…理想の色よりも少し手前で、火から鍋を浮かせる。途中で鍋の中身を回すのは、温度や色を均一にする為だとヤスが言っていた。スプーンでガシャガシャかき混ぜるのはいけないらしい、とも。理由はたしか…ヤスも知らなかった、というオチだったような。
火から遠ざけていても、色付きは待ってくれない。鍋をゆさゆさくるくると振っているうちに中身が混ざり合って…その頃にはちょうど、あの時の飴と同じ色になった。
鍋へスプーンを突っ込んで、アルミホイルの上にぽてぽてと垂らしていく。小さいほうが、きっと早く固まる。持ち手は不要なので、あの日と同様に端折る。
形が歪でも、隣の飴と繋がろうと構わず続けた。
繋がってしまった飴を自分でどうにか出来る力量は無い、…という事をリカオは知っているし、無理に拘ったとして、結局自分の首を絞めるだけだということも一応、前回の体験で理解している。歪だろうとひとりで食べるのなら、この飴たちは全て胃で吸収されて脳の栄養になるだけだ。
空になった鍋には水を入れ、沸かしておく。溶かしてしまえば洗うのが楽なのだというのも、ヤスが母親から受け継いだ知恵だ。沸きたつ鍋を火からおろして…使った道具は全て、鍋の湯を使って飴を溶かし洗っておく。
アルミホイルの上に広がる、鼈甲色の歪で不規則な水玉模様。見下ろすそれは不恰好でも、じわじわと湧き上がる達成感がリカオの胸を満たしていく。
「ひとりで、作れたぞ……です!」
頃合いを見計らい、よく拭いた指先でちょん、と飴をつつく。もう垂らしたてのような熱は感じられない。少しベタつく感覚がある気もするが、固まってはいるのである程度落ち着いているようだ。
リカオはホイルの上の飴たちを写真に収め……少し考えてから、形の整ったものをいくつか選んで小皿へ移した。一枚だけ、出来のいい飴も写真に撮っておく。
彼の指導の賜物なのだから、昼間にでもヤスへ報告しようと、そう心に決めて。彼の手前…多少厳選するくらいの見栄は許容したいところだ。
例え自分で許せなくとも、歪な飴たちを見て笑ってもらえるのであればそれも良いだろうなんて、そんな事を思った。
形の整った飴も、整わなかったそれも、全てまとめてデスクまで運んで、ぬるくなったコーヒー片手に仕事に戻る。資料を見つめながら口に放り込んだ鼈甲飴は、あの日と同じ味。
「甘いな………です。」