次はないと思え「……今夜は帰りたくないです」
思わず急ブレーキを踏んだ。蹴躓くようにして前のめりになった体にシートベルトが食い込む。後部座席からワッと驚く声となにかがぶつかる音が聞こえた。
なに?なんて?ギギギと首だけを動かして後ろを見た。
タクシーの後部座席に座る緑土丁呂介は打ち付けたらしい鼻をおさえていた。
「ですから、今夜はまだ帰りたくないんです」
「な、なに、なんで」
「ようやく小五月蝿い連中から開放されて晴れ晴れしい気分なんで。たまにはお酒に付き合ってくれませんか」
丁呂介の妹のダヨ子ちゃんが結婚することになった。これはめでたいことなのだが、田舎の古臭い村にはめでたいだけでは済まない「お付き合い」がたくさんある。
結婚をするにあたっての挨拶まわり、手配、お祝いと返礼品、その他諸々ひっくるめた接待の数々。
緑土家は一応田舎ではちょっとばかり名のある家だから余計にそういった付き合いが多かった。
俺はその送迎を任せられることが多く、式の日取りが近づいた最近は専ら丁呂介の専属ドライバーのような形になっていた。
緑土の名代として忙しなく奔走する丁呂介は、妹の前ではお兄ちゃまに任せておきなさいといい格好をつけて、接待をする相手にはニコニコと取り繕い、そして俺の前では何でこんなことをと愚痴り妹の結婚を嘆いた。
この酒の誘いは、心身ともに溜め込んだストレスのはけ口に俺が選ばれた、ということなんだと思う。多分。でもそんなの超面倒くさい。
だってコイツ絡み酒なんだもん。
それになんだ。今夜は帰りたくない、なんて今どきドラマの台本にすら採用されないセリフは。
時代錯誤は丁呂介らしいといえばらしいけど。
使い古されたセリフでも、実際言われるとドキッとしてしまうものなんだなぁと妙なところで感心する。
これはトキメキとかそういう類じゃなくて、驚きや恐怖の意味合いが強い。多分。知らんけど。
さあてどうやって誤魔化そうかな、と考えながら止まっていた車を走らせた。
周囲は野焼きの終わった田園ばかりの田舎では急ブレーキで止まった車に追突するような後続車はいない。
街頭の少ない道をヘッドライトの明かりを頼りにとろとろとしたスピードで進ませた。
「あ〜〜、でも直帰って連絡してないし……」
「今から連絡すれば良いでしょう。そのくらいの融通は効く贔屓客だと思ってましたけど」
「明日朝はやくて……」
「明日はゆっくり昼出勤だってさっき言ってたでしょう」
「…………」
そう、そうなんです。ゆっくり昼までダラダラしようと思ってた。だから付き合いたくないんだよ、とは言えない。言葉に詰まった。あーどうしよう。
「まあ、残念ですが……、無理にとは言いませんよ。帰りたいならどうぞ」
「えっ?」
あっさりと丁呂介は引き下がった。
「お祝いにって良いお酒をいただいたんです。商店街の会長さんにね。日本酒とビールと……、」
「良いお酒……」
ごくりと喉がなった。商店街の会長さんは確か羽振りがよいことで有名な初老の男だ。あかつか交通のお得意さんの一人。そんな男のヨイオサケとは、相当良いものじゃないだろうか。
「まぁ、大蔵さんは予定がありそうですし」
「は?」
「今度唐次たちが来たときに振る舞いましょうかねえ」
「あ〜〜そういや予定全然なかったわ、俺の家で良いよな?」
前言撤回。酒を出されると弱いんだよなぁ。丁呂介の面倒臭さよりも高級酒に惹かれた。我ながらゲンキンだった。
自分じゃ決して手が出ないような高い酒。しかもタダ酒。そしたら飲まない方がおかしいでしょ。
意気揚々と直帰の連絡をして、そのまま俺のアパートへ車を走らせた。
高級酒はやはりうまかった。結婚のお祝いにふさわしく、箔押しのラベルで包まれた一升瓶。他にも地ビールである双子嶽ビール。
酒はいつ飲んでも何を飲んでも旨い。そう、酒は。
「丁呂介さぁ。飲み過ぎじゃないの」
「え?何が?全然大丈夫ですよ〜」
いや。絶対に大丈夫じゃないから。
酒は飲んでも呑まれるな。酒を飲みすぎるな鬼になる。
丁呂介は間違いなく酒に呑まれ、溺れ、泥酔し、顔を赤鬼のように真っ赤にしていた。
高級酒を飲めたのは最初の二杯までだ。今は丁呂介が抱えてラッパ飲みしている。今まさに、ゴクリと最後の一口を飲み干し、乱暴に手で口を拭った。
あーあ、もっと俺も飲みたかったのに。
そんな軽口すら叩けない。なぜなら丁呂介の目はここではない虚空を見つめ、すわっていた。完全に酔っ払いのそれだ。しかもタチが悪いタイプの。
「ハハ、な〜~にが緑土さんにはそういう相手はいないんですかぁ?だよ!僕はさぁ、緑土の跡をつぐわけだからね。相手だって、それなりの器量のある人じゃないとダメなんですよぉ。そんなの簡単に出会えるわけねーよッ!」
「うんうん、そだね〜~」
何回目かの悪態と同じ数だけ相槌を打った。
「それに、恋人じゃなくてもそういうことはできるからね」
「は?丁呂介?」
「良いでしょう?ねえ。今日はめちゃくちゃになりたいんです」
だから。そういうドラマでも言わないセリフどっから仕入れてくんの。
ドキッとした。ときめきとかそういう類ではなく、欲を刺激されてそそられたから。
赤らんだ顔。すわっていた目つきは縋るような色香をまとって、口の端をつりあげて笑う様は扇情的だった。
丁呂介の指が俺の股間のあたりをまさぐる。
「あのさー、風呂とか入ってないよ、俺」
「構いませんよ」
つう、とズボン越しに撫でられる。やわい刺激に硬くなっていく。
「お前さぁ〜……酔がさめてから後悔すんなよ」
丁呂介の体がしなだれて覆いかぶさってきた。酔って積極的になる姿は嫌いじゃない。
耳のあたりを撫でていると腹に丁呂介の顔が埋められた。シャツをまくり、スウェットのゴムに手をかけた。
俺の部屋についてから、窮屈なスーツと着物を脱ぎ捨て、二人で楽な部屋着に着替えていた。
いつの頃からこうやって着替えることが当たり前になったのか、明確な日付は覚えていない。
丁呂介の着物をぐちゃぐちゃに汚してしまったときだっけ。泊まっていった次の日、着るものがないからと俺のTシャツを貸したときだっけ。
どうせこうやってなし崩しに着るものを脱いでヤることをヤるのだから、お互い脱がしやすい服装になった方が楽だったんだと思う。
丁呂介の指が慣れた手つきで俺のちんこをやわくしごく。早くこれが欲しいんです、なんて言いそうだ。
今日の丁呂介はいつになく性急で積極的だった。酒のせいもあると思うが、それだけ色々な鬱憤がたまっているんだと思う。
「丁呂介……」
腹に埋められた頭をさらりと撫でる。それを合図に弄っていた手がとまった。
いっちょ前に焦らしてくるわけね。人を煽るのがうまいなぁなんて思いながら、ここで急いては丁呂介の思うツボだ。丁呂介の出方を待つ。
髪を指ですくってみたり、くしゃりと遊ばせる。うなじからつうっと耳裏をなぞる。そんなことをしていると、しなだれかかる重さが増した。
なにか、様子が変だ。こんなに何もしてこないなんて、さすがにおかしくないか。
「丁呂介?」
上半身を起こす。ぐぅ、と鈍い空気の通る音がした。まさか。
俺の腹の上で寝息を立てて丁呂介は眠っていた。
「はぁ!?おいっ、丁呂介ぇっ!」
ふざけんなよ。こんなヤる気がでてきたところで、こんな。だから酒飲み過ぎなんだよ。
酒を飲みすぎるな鬼になる、なんて呪い歌で聞いたけど鬼になりたいのはこっちの方だ。
「まぁー、いっか」
丁呂介を叩き起して続きをしても良かったが、ぐっすりと眠るアホ面を見てその気も失せた。
たまには寝かせてやるか。そのままずるずるとからだを抜いた。
『今夜は帰りたくないんです』
『めちゃくちゃになりたいんです』
丁呂介の声が頭に反芻する。
ここまで人を煽っておいて、ハイ終わりなんて覚えておけよ。
チッと盛大に舌打ちした。