真夜中の決意唐次は駅の改札を通り過ぎた。
時刻は夜十一時近く。疲れた体でふぅ、とため息をつく。
と、同時にスラックスのポケットに入っている携帯が震えた。
こんな時間に誰だ。面倒くさい。非常識な時間帯の電話に、疑問よりも煩わしさが勝った。
(会社からの呼び出しだったら無視してやる)
深夜残業にならないギリギリの時間に退勤し、自宅の最寄り駅にようやくついたばかりだ。これで『やっぱり戻ってきてくれ』なんて言われたら会社の上司を殺しかねない。
一定のリズムで震える携帯を取り出して、ディスプレイに表示された名前を確認する。
紫坂一。ぎょっとした。弟の名前に驚いて、見間違いではないかと凝視する。
——— おれはかけないと思いますよ。
数奇な出会いをした弟と連絡先を交換してから、結構な月日が経過した。その間にこちらから連絡をしたことはあっても、一度もはじめから電話をかけてきたことはない。
そのはじめからの着信。歓喜と驚きが混ざって暴れる。
緊張しながら通話のボタンをタップし、耳に当てる。
プツッ……ツーツー……
もしもし、と声を発する前にそっけない電子音が耳に入る。
切れてしまった。出るのが遅かったのだろうか。逡巡した間はあっても、最初の着信からそんなに待たせていないつもりだったが。
慌ててかけ直そうと操作していると、画面が着信に切り替わり、携帯が震えだした。今度ははじめではなく、見慣れない番号だった。
間違い電話かもしれない。しかし、このタイミングだ。はじめの着信と何か関連があると思ったほうが良いだろう。
迷いながら、通話をタップする。
『あ、でた。えーっと、アオトさんでよろしいですか』
若い男の声だった。聞いたことのない声。
『……もしもし?アオトさんじゃないです?』
「……アオゴ、だが。どちら様でしょうか」
よく間違えられる名字を、訂正するのには慣れている。
学生時代からずっと間違えられてきた。
それじゃあ、アオトさんから自己紹介をお願いします。
いいえ、先生それはアオゴと読みます、と訂正からはいる名乗りを何度したことか。
そういった間違いをしてきたということは、この相手は名字の字面だけをみて電話をかけてきているということだ。つまりは初対面。警戒を強めた硬い声になる。
『あ、ごめんなさい。アオゴさん。えっと、僕、紫坂くんの知人なんですけど。紫坂くんお酒飲んで潰れちゃって。えーっと、それで、迎えに来れたりできますか?』
「はじめが?」
紫坂。紫坂一。警戒が緩む。先ほどのすぐに切れた電話が思い浮かぶ。あの着信も、この声の主からだったのだろうか。
……なぜ、オレにかけてきたのだろう。
着信履歴の最後がオレだったからか。それだけでかけてくるのだろうか。それともオレが兄だと知っているのか。疑問は尽きず、思考はどうして、で一杯になる。
そもそも、あのはじめに、酔い潰れてしまうほど砕けた関係の知人がいたことにも驚く。
『そう、です。紫坂くんのお兄さん……ですよね?』
シサカクンノオニイサン。疑問の一つが解消されたことなどどうでもよくなり、胸がジンと熱くなる。
どういう状況か、いまいち飲み込めない。疑問は多いままだ。夜は遅く、身体も疲れている。しかし、はじめ自身が電話をかけられない状況で、酔い潰れているとしたのなら、彼の言うとおり迎えに行かなければいけない。
今、はじめが頼りにできるのは唐次以外にいないのだから。だって、オレは兄なのだから。
「すぐに迎えに行きます。場所はどこです?」
『えっと、△△駅の————』
聞いた場所は、はじめの家の最寄り駅だった。今いる場所からは、遠くはないけれど、地味に面倒な距離だ。
————— 紫坂くんのお兄さん。
脳裏で言葉をなぞる。先程出た改札に、小躍りしたい気持ちで再び入っていった。
◇
「あっ、青戸さんですか」
居酒屋の入り口で、男は一目唐次を見るなり声をかけてきた。
眼鏡をかけた優しそうな青年だった。
「はい。青戸です」
よかった、と青年が安堵して笑みをこぼした。唐次の到着時刻を見越して、待っていてくれたようだ。
「それにしても、よくわかりましたね」
「何言ってるんですか、一目瞭然ですよ」
あっ、そうか、と気がついた。はじめと唐次は六つ子の内の二人なのだ。顔を見れば他人には兄弟だとすぐわかる。
当たり前の事実にまだ慣れない。
今までの人生に比べたら、六つ子だとわかってまだ少しの月日しか経過していないのだ。兄だから、兄として、と思ってはいるけれど、実感が追いついていない。
「紫坂くん、こっちですよ」
店内に入るよう促され、後についていく。
色々この青年に聞きたいことはあるが、とりあえずはじめの安否を確認しなければ。
店の奥に案内され、小上がりになった座敷部屋の襖を開ける。
年配の男と、青年と同じくらいの若い女性と、そして机に突っ伏したはじめがいた。卓上には、この四人よりも多い人数で飲み食いした痕跡が残っている。
察するに、他の大勢は帰宅し、酔い潰れたはじめとそれを介抱する数人だけが残ったのだろう。
「わざわざ来ていただいてすみません」
ボブカットの女性がぺこりと頭を下げた。はじめの一番近くで、心配そうにしていた可愛らしい女性の姿に、唐次は動揺した。
女の子とお酒を飲むなんてなんて羨ましい。まさか、はじめのカノジョだったりするのか。
だが、そんな疑問は一瞬で消えた。女性がはじめの隣から、眼鏡の青年の隣に流れるようにうつると、ああ、と納得した。
二人はまるで揃いで誂えたかのようにお似合いのカップルだった。
「いえ、そんな。こちらこそ弟がご迷惑おかけしたようで」
「そんな!教授がいけないんですよ。無理に飲ませるから」
じとりと見た視線の先で、教授と呼ばれた年配の男が渋い顔をした。
「度胸をつけるにはいいと思ったんだがねえ」
「度胸?」
およそこの場に似つかわしくない言葉だ。反応を見せたのは青年と女性だった。二人が顔を見合わせて、どうしようか、と言うかのように苦笑した。
ああ、なんか目だけで会話してるって凄くカップルっぽい。関係のないことが気になる。
内緒にしてくださいね、と青年が前置きした。
「紫坂くん、ずっとあなたに電話かけようとしてたみたいです。でも、用がないのにかけたら迷惑かも、って悩んでて。それでお酒の力でも借りたらってことになったんですけど……」
あと一杯飲んだら、電話します。
そういってあと一杯が何回か続き、相当に酔いがまわったようだった。気力を振り絞り電話をかけたは良いものの、そこで緊張の糸が途切れ、潰れて机に突っ伏してしまった。
慌てて、青年から唐次に連絡がいった。そういう顛末だった。
「そうだったんですか……」
そっけない態度のはじめが浮かぶ。
唐次にとって、兄弟だから仲良くしたいという欲求は、ごく自然なことだった。当たり前すぎて言語化すら難しい。信号機が青に灯って横断歩道を渡っていくのと同じことだ。
しかし、紫坂一という弟は、その信号機が青に灯った事実を疑ってかかるのだ。
————おれはかけないと思いますよ。兄弟だからといって、必ずしも仲良くなる必要はないから。
にこりともせず、嫌そうにもせず、表情を変えずにそう言い切っていた。
だというのに、こんな酔い潰れるまで悩んでくれた。はじめの意外な一面に戸惑う。
(嘘だろ。オレのために、こんな)
戸惑いだけでない感情が突き抜ける。口の端が自然と上がってしまうのがわかった。あのはじめが。オレに連絡するかどうかで。やばい。にやける。思わず口元を手で覆い、大袈裟に咳払いをした。
教授たちは唐次がどうしてそんなことをしたのかわからず、不思議そうな顔をしていた。
「そういえば」
今までの流れを誤魔化すように、大きな声をだした。
「ご挨拶が遅くなってすみません。はじめの兄の青戸です」
「私は、紫坂教授と同じ大学で教鞭をとっている者です。はじめくんとも面識があってね。この子らも、紫坂教授に良くしてもらってたんだよ」
教授が懐かしむように目を細めた。口調が柔らかい。どうやら紫坂教授は人当たりの良い方だったらしい。
「紫坂教授は、よくはじめくんのごはんを心配してたから……。お節介とは思っているんだが、教授がいなくなってからはじめくんをたまにご飯に誘っているんだよ」
「……ごはんの心配、ですか?」
「はじめくんは、自分を疎かにしてしまう子でね。よく飯とか抜いちゃうんだよ。こないだも倒れそうになってたところを、この子達が見つけてラーメン屋さんに連れてってあげたみたい」
教授は困ったように顔を曇らせた。改めて机につっぷしたはじめの身体を観察してみる。半袖シャツから伸びた腕が、心なしか細くなっているような。
「確かに……言われてみれば初めて会った頃より痩せている気がします」
「そう。そうなんだよ。でも直接言って飯奢っても遠慮しちゃうんだよこの子。うちの大学の子たちのついでだから、ってようやく来てくれてね」
「……全然、気にしていませんでした」
今まで何度、はじめと顔を合わせてきただろう。取材に一日連れまわしたこともあった。
けれど言われて、初めて気がついた。少し痩せたからだ。覇気のない声。変わらない表情の中にも変化は確実にあった。それに気付かなかった。見えていなかった。
「きみ、お兄さんなんだろ。悪いけどね、ちょっと気にしてやってね」
教授がにこりと笑った。優しいお人柄だ。だからこそ、はじめも心を開いているんだろうか。
(兄……、か)
小さい頃、兄弟のいる家が羨ましかった。そんな羨望を忘れ去ったころ、兄弟が出来た。
兄弟としての実感はまだ浅い。毛色の異なる彼らは、おおよそ兄弟だと言われなければ関わりを持つことはなかった連中ばかりだ。
すぐ近くにいる弟だってそうだ。無表情で、物静かな性格。自分とは違う視点を持ち、異なる尺度で物を考え、知らない分野の知識に富んでいる。聡い弟だと思っていた。
しかし、オレが見えていたのは、紫坂一という人間の表層だけだった。
父親を失ったばかりの人間が、一人で大丈夫だなんて、どうして思っていたのだろう。
もっと知らなくちゃいけない。表層でない深層をわかっていなくては。そうでなければ兄とは呼べないんじゃないか。
素直じゃない弟。大丈夫そうに見えて全然そうでない弟のことを、もっと知りたい。わかりたい。近くにいたい。
「任せてください」
オレが、支えてやらないと。だってオレは兄なのだから。
教授たちと別れ、はじめを背負って帰路につく。時刻はもう遅い。面倒だからこのままはじめの家で寝てしまっても良いだろうか。そのくらいはいいだろうな。
そしたら朝ごはんを一緒に食べよう。そしたらお前はどう言うだろう。こんなことしなくていいですよ、なんて遠慮するだろうか。そんな態度をとったって無駄だぜ。だってもう知ってしまったんだから。知りたいと思ってしまったんだから。
(はじめ。オレが傍にいるからな)
背負った重みを噛み締めながら、兄としての決意を新たにする。ふと見上げた星は遠くに瞬いていた。