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    晋江原作天官賜福全巻ネタバレ。花城が殿下を忘れる話です。読了済推奨。冬が舞台の誕生日に絡まない話ですが城主への祝い気持ちはこの上なく込めました。
    花城主お誕生日おめでとうございます~~~~❤
    #花城0610生日快乐
    #0610花城生日快乐

    探花銅炉が開山するときに、鬼が狂うのと同じだ。
    数百年も経てば銅炉の他にも強力な悪地が生まれもする。

    その影響を受けて花城は高熱を出して寝込んでいた。謝憐は心配で心配で仕方がなく、でも鬼のことである……神官には、どうすることもできない。
    信徒が苦しんでいるというのに、なんと無力なことか。「大丈夫、直ぐに治るよ」の花城の言葉をただただ信じるしかなかった。

    一週間が経った頃のこと。
    花城は未だ熱に浮かされていたが、ふと目を覚まし、隣で花城の額に冷たい手拭いを載せて懸命に介抱する謝憐を見て、ぼんやりこう言った。

    「貴方、誰?」

    ***

    謝憐は咄嗟に声が出なかった。

    「貴方と私の関係は何?」

    謝憐はそのように言われても、まだ固まっていた。

    「私は何故、貴方をそんなに信頼しているのですか?」

    謝憐は黙ったまま、自分の顔から血の気が引くのを感じていた。
    言葉が出なくて、手が小刻みに震えた。瞬きすらできず、だというのに嗚咽が漏れそうであった。
    その様子を見てか、やがて花城は小さい声で「連れ合い?」と呟いた。

    「え」

    花城は言い直した。

    「伴侶」
    「えっ!?」

    私のことを忘れてしまったの、と問いかける前にこんなことを言われてしまったのだ。
    心のままに謝憐は「どうして」と呟いていた。

    「どうしてとは?」
    「ど、うして。君はそう思うの?」
    「私の紅珊瑚玉と貴方の紅珊瑚は揃っている。貴方は極楽坊の寝所に立ち入れて、……熱病に浮かされる私を、熱心に介抱してくれる」

    花城は未だ発熱があるので、苦しそうなままであるが、寝台から起き上がった。
    そして立ち上がろうとした瞬間、あの花城がたたらを踏んでよろけた。
    指先が冷たくなってまるで身体が動かなかったというのに、謝憐は俊敏に動き花城を支えた。体が咄嗟に動いて、支えられたのだ。
    紅衣鬼王は抱き留められて、とても驚いたようだった。彼は腕の中から呆けたように白衣の人を見上げた。

    鬼王の瞳は熱病の影響で潤いがあった。
    瞳の中に灯が溶け込んで、焔の華が揺らめいているようにも、金の薄絹が舞っているようにも見えた。
    そして、その瞳の中いっぱいには、あの人が映り込んでいた。

    「まだ熱がある。横になって」

    衝撃が無いよう花城の丸い後頭部に片手を添え、ゆっくりと彼を寝台に押し倒す。
    花城は少しだけ抗おうとするように謝憐の身体を掴んだが、結局はされるがままだった。

    謝憐には花城がなにゆえ自分を忘れてしまったのかは、分からなかった。

    ただ、人は何か予想せぬキッカケを持って、最も信頼し愛している人を、だからこそ、疑い憎み、心の底に封じ込めてしまうことがある。謝憐はそれを知っていた。そして、それはきっと鬼も神も同じだ。
    けれど謝憐は、今はとにかくこの人に少しでも楽になってもらいたかった。

    ***

    「貴方のことを教えてほしい」

    花城は寝そべったまま隣の謝憐を見上げてそう言った。正直言って、花城には眠って回復に専念して欲しいところであったが、花城の黒い瞳はいつものように美しく輝いていた。これではとても眠りそうにない。あの花城が自分に「教えて」と言うのならば、なんでも教えてあげたいと思うものだ。
    謝憐が自分は神官で、仙楽故国の太子であったことを伝えた。

    「仙楽とは、中原の仙楽国のこと?……ああ、私はその国の人だった。では貴方は私の太子殿下なのですね」

    花城はそう言って少し嬉しそうにした。彼はゆっくりと瞬きをしながら謝憐の話を聞いていた。
    謝憐は花城の捲れた布団をかけ直してやったり、水を用意したりしながら話した。

    加えて謝憐はいつか見た巻物に書いてあったような、一般的な仙楽太子のことについて語った。

    「貴方のような金糸玉葉の貴人を伴侶にできるなんて私は運がいい」
    「今の私はガラクタの神様だよ」
    「?、今はガラクタの神であることと金糸玉葉であることは矛盾しません」
    「……忘れてしまったのは私のことだけ?ほかに忘れてしまったことはある?絶境鬼王の血雨探花であることや、鬼市の主であることは?逆に私のことはほんの少しも覚えていない?」
    「鬼市を治めていることや絶鬼であることはわかります、」

    謝憐のことには触れず、花城は目を瞑った。謝憐は咄嗟に「いや、いいんだ。無理しないで」と言う。

    沈黙が落ちた。

    謝憐は大丈夫だ、と言おうとしたが言葉が詰まって出てこなくなった。けれど、花城は「殿下」と力強く謝憐を呼んだ。

    「私は今は貴方のことを思い出すことができないけれど、貴方を忘れることは決してありません」

    彼はそう言った。謝憐は「思い出すことができない」と「忘れる」が、どう違うのかわからなかった。
    けれど、以前、謝憐が記憶を失くしてしまったときも彼は謝憐に現状を悟らせまいとしてくれていた。
    あの時の自分が不安に苛まれたように、彼もまた笑顔を浮かべながらも心に不安があるに決まっている。それなのに、こう言ってくれる。謝憐は彼のこの言葉が自分を励ますための言葉であると受け取った。自分が辛いだろうに、その心遣いが切なかった。
    謝憐はぐっと拳を握りしめて、「もう眠った方がいい。少しだけ熱は下がったと思うけどまだ全然だ」と微笑む。

    「此処に居てくださいますか」
    「ずっと傍にいるよ」

    言って謝憐は花城の頭を撫でた。
    頭に触れられるのは刺激になるかと思ったけれども、花城は心地よさそうにして、すぐに寝息を立て始めた。
    謝憐は再び彼の額の濡れ布巾を取り換えてやり、ぼんやりと花城の寝顔を見つめる。
    やがて、気持ちが抑えきれなくなって頬にそっと口づけた。


    ***


    花城は一昼夜眠った後、目覚めた。
    やはりそんな気はしていたが謝憐の記憶は戻っていなかった。

    けれど熱は完全に引いていた。連日連夜、看病していた謝憐はこれに心から安堵したというものだ。
    連日の徹夜は問題なかったが、苦しむこの人を見つめ続けるのは、心が押し潰されるような心地であったから……。

    「うん!熱は下がったね」

    花城の額に掌を当てていた謝憐は、ぽかぽかと春先の太陽のような笑顔を浮かべてはしゃいだ。
    大袈裟な挙動はなかったが、彼の全身から喜びが発散されているように所作が軽かった。
    謝憐はずっとふんわりと心から安心した笑顔で顔を崩したまま、いそいそと看病に使っていた桶や布を片付け始める。
    花城は寝台から起きあがって、そんな謝憐を黒い瞳でじっと見つめていた。

    「太子殿下。ありがとうございます」
    「こんなの大したことじゃないよ!元気になってくれてよかった。でも、まだ病み上がりだから安静に……」

    謝憐がニコニコと朗らかに言うと、花城は「片付けだけではなく、何日も看病してくださったことです」と、ちょっと困った顔をした。彼は少し逡巡している様子を見せたが、やがてこう続けた。

    「万鬼躁乱があったので、鬼市の様子を軽く見回りたいと思っています。もしよければ、貴方にも私を治める地盤を紹介したい。いかがですか?」

    鬼市はもう自分の庭のように歩き回っているから、案内されるまでもない。
    けれど、花城が紹介したいと言ってくれるなら喜んで応じよう。花城と鬼市をただ歩くだけでも楽しい。

    「勿論私はいいけど、君、身体は平気?」
    「ええ。全て貴方のおかげです」

    花城は笑って赤い糸が結ばれた片手を差し出してきた。

    いつもの花城は信徒でもあるが、同時に恋人である。
    哥哥、と呼んで甘えても来るし、悪戯もするし、我儘も言う。
    今の花城は上元祭天遊で謝憐に抱き留められた記憶はないのだろう。
    「私の為に生きなさい」と言われた記憶もない。
    泥の中を這いずった謝憐をそれでも愛し抜き、無上の献身を捧げた記憶もないだろうに。

    花城はお互いの指に結ばれている赤い糸が重なるのを見て、思わずと言った風に破願していた。

    その笑顔に胸が甘く締め付けられるような、奇妙な苦しさに謝憐は襲われた。
    八〇〇年間の信仰の、その記憶もない彼だ。
    それなのに、どうして。こんなにも……。


    ***


    極楽坊の外は深い夜である。
    屋外は冷え込んでいて、雨か雪かという霙が、微かに目に見える程度に降っていた。
    花城はすぐに外套を用意する。謝憐に着せようとして、やはり止めて手渡した。
    これに謝憐はぽかんとしてしまったが、やがていそいそと自分で外套を着た。

    花城は赤い傘を差してくれた。二人はその中で肩を寄せ合って歩き始める。
    鬼市の鬼は強かの極みであるので、今朝までのたうち回って居たり苦しんでいても、夜には店を開く。商魂逞しい限りである。
    花怜が鬼市を歩けば、当然、鬼たちから歓声じみた声があがる。
    鬼市は案外、常と同じく喧噪にまみれていた。混沌に満ちた緋色の幽鬼街である。

    ……が、隣を歩く人の空気が異なれば、不思議かな鬼市の雰囲気も違うように見える。
    花城はふら、と傘の外に足を出した謝憐をぐっと引き寄せた。

    「無礼をお許しください。どうか離れないで、鬼市は無頼者だらけなのです」

    確かにその通りだ。店の隅の影と埃が溜まる場所にはよくわからない黒いものが蠢いており、建物の合間には昏い瞳をした悪鬼が居る。姦しい話声に、血の匂い。それもまた鬼界の、鬼市の顔だ。

    「私がご案内したいと言い出しておいて、申し訳ありません」

    花城は眉を下げて、本当に申し訳なさそうだ。
    謝憐は視線を彷徨わせた。
    此処の者は全て謝憐が花城にとってどのような存在か知っている。
    此処は花城の土地で、花城を慕っているものばかりである。だから、他の者にはそうであっても謝憐だけは安全であるし、謝憐自身、制圧できないわけもない。
    それに此処は商取引が成立している場所であり、どれだけ荒っぽかろうと鬼たちの知と理は比較的高く、花城によって保たれている秩序もある。
    しかし、金が動く場所にはやはり思惑は多いだろう。久方ぶりに謝憐はそれを意識した。

    まずは軽食でも取ろうかと話していた彼らの前に、バタバタと足を鳴らして二人の神官が現れた。
    風信と慕情だった。

    「殿下!ようやく見つけました!」

    そう言ったのは風信で、慕情はただただ花城を睨みつけている。

    「えっ、どうしたの二人とも。何か天庭であったのかい?」
    「何を言ってるんですか。万鬼躁乱があったというのに、今までずっと音信不通で!」
    「あ……」

    そうだった。上天庭の武神の一人として自分も対応に動かねばならないのだ。花城の事ばかり考えていて、重大なことであるのに失念していた。
    けれど今の花城からは離れたくなくて、彼は無意識に傍らの紅衣の鬼の裾を掴んだ。

    「神官が鬼市を我が物顔で歩くとは、随分と度胸のあることだ」

    隣の花城は笑みを浮かべて、低い声で言った。風信と慕情は思わず身構える。
    相も変わらずの美しい貌で嗤い、視線は水銀の氷柱を思わせる。
    金属のように冷たいその瞳の中には、時に憎悪の影がちらちらと揺らめくのだ。
    悪鬼である。
    これは言うなれば、謝憐が三度昇る以前の花城のようであった。

    謝憐は花城のその暗く酷薄な笑みを見て、宥めるように彼の背を撫でた。

    「あの二人は私の旧友だ。君も記憶を失う前は彼らが鬼市に来訪することを……まぁ……受け入れてくれていたよ。鬼市には私の観もあるからね」

    花城はゆっくりと瞳を動かして謝憐を見る。そして、彼と視線を絡めると直ぐに綻ぶように笑った。
    花城は二神官への敵愾心に満ちた態度は変わらなかったが「貴方がそういうのなら」と謝憐の腰に手を回して傘の中で更に引き寄せ、身を引いた。
    この花城はどうしたのか、と風信と慕情は視線だけで謝憐に語りかけてくる。謝憐は頭を掻いて、そっと通霊を繋ぎ『後で事情を話すよ』と二人に告げた。

    『彼と居たいんだけど、駄目だろうか』

    謝憐の通霊での頼みに、慕情は溜息を吐き口頭で答えた。

    「そもそも急に連絡が取れなくなったから来ただけだ。悪地に鬼が集まっていると言っても絶鬼が生まれるような規模のじゃない。貴方一人居ないくらいで体勢に影響ありません。それよりもそいつがおかしなことをしないように見張っていて」

    これは気配りだったので、謝憐が笑顔で「ありがとう」と言えば、彼は白眼になる。

    それを見てか、何を思ったか、急に花城がちゅっと軽い音を立てて謝憐の頬に吸い付いた。

    「わ」

    花城は二人を睨みつけていた。謝憐はぱっと頬を赤くした。これは明らかに一つの牽制であった。
    帰ろう、と即決した風信と慕情がスサマジイ速さで姿を消すのを見送る。謝憐の隣で花城は「二度と来なくていい」と言って、愉快気にケラケラ笑っていた。

    謝憐は花城に抱き寄せられている腰の辺りを一瞬見る。花城がそのままそっと歩き出したので、謝憐も一緒に歩み始めた。

    「君は他の神官には厳しいね」

    これでは「私には優しい」と言外に言ってる、と謝憐は思ったけれどそう思われても良かった。花城は「それは当然です。どうして貴方と他の神官を同じ様に扱えますか」と軽快に言った。

    「でも今の君は私と過ごした思い出はないでしょう」
    「確かに貴方とのことで、具体的に言えることはない」

    花城は繕わずに断言した。けれど、直ぐに「でも他の神官連中と貴方を同じ扱いなんてできるわけもない」と笑った。

    「「君」とは、まだ会って数日なのに?」
    「……一目惚れかもしれない」

    花城は「貴方はどう思いますか?」と問いかけた。謝憐はなんとも言えなくて「風信と慕情とはうまくやれないようだ」と話を逸らした。

    「アイツらはとりわけ気に入らない。以前の私は上手くやっていましたか」
    「いいや、上手くやってはいなかったなぁ」

    花城は「いつだって奴らのことは何もかもが気に入らないということでしょう」と塵箱にモノを入れるみたいな言い方をして、謝憐は苦笑させられた。

    謝憐のことを思い出せない。それは謝憐への思いが誘因となって起こしていた行動の理由も思い出せない、ということも意味している。
    今の彼が常に絶境鬼王・血雨探花として振る舞い、いつかの家出少年のような振る舞いを見せないのと同じように。

    一人の人を忘れるというのは、その人に見せていた己の一面をも忘れることなのだ。謝憐はこの花城を見てそう思った。

    「打って行きますか」

    突然言われ、謝憐がなんのことか分からずに戸惑うと、そこは鬼賭坊であった。中から巨大な怒号と絶叫が聞こえている。花城はずっと謝憐の腰に手を回したまま歩いていた。心臓がトクトクと鳴っていて、周りの音が聞こえず、謝憐は無意識に灯が回りよりも濃いほうへ顔を向けていたようだった。それを花城は賭坊に寄りたいと受け取ったのだ。

    「殿下は賭坊にはよく足を運ばれるのですか」
    「いや……たまにかなぁ。修道の関係もあるし、私は運がよくないから君に運を貸してもらったりしたときとか」
    「運を」

    謝憐は訥々と「初めて来たときは、ここで君に賽子の振り方を教えてもらった」と話した。

    「城主!大伯公!来ていただけたんですね!!」

    賭け坊に入るや否や、場を仕切る鬼がわらわら寄ってきて、花城と謝憐の外套を受け取り、席へ案内した。
    鬼女がきゃらきゃらと啼き笑い、魑魅魍魎が花怜の周りにやってくる。
    花城が謝憐と共に来るときは、あの華麗な一人掛けの椅子には座らずに一緒の卓について酒でも飲みながら、卓上に転がる賽子のようにコロコロと変わる謝憐の表情を見つめているばかりだ。
    しばらく花城は黙っていたが、ふと「大伯公」と独り言のような、問いかけるような微妙な音程で言った。

    「あー、えっと、私たちの振る舞いを見た鬼たちが、君が鬼市の父だとすると、私は叔父だってことで言いだしたんだ」
    「ああ」

    咄嗟に謝憐はそう説明した。「君が私のことを哥哥と呼ぶから」とは言わなかった。

    謝憐が賽子を振ると何回振っても「一」が出た。それを見た花城は、少し目を見開いて何も言わずに謝憐に運を貸した。それで今日も今日とて謝憐は大いに勝った。
    そしてやはり今日も、花城は謝憐の隣で彼の顔ばかりを見つめていた。


    ***


    鬼賭坊で盛り上がりすぎて、謝憐は身体が火照っていた。
    雪まで降っているのに、どこかぬくい。湿った夜だった。熱くなった体に心地よい。

    鬼界は雪も何か違うのだろうか、大粒の綿雪がふわりふわりと宙に浮かんで、ゆったりと回転しながら落ちていく種子のような振る舞いを見せる。
    それに蛍のように小さな鬼火が触れると、雪と火は一つになって心中するようにそっと消えた。

    二人は雪花と燐光とが混じりあう鬼界の湖畔を歩いた。

    紅衣の人を見上げると必ず目が合う。
    花城は賭坊から出ると、謝憐の腰にまた自然に腕を回していた。
    仄かに頬を染めて謝憐は俯き、これでは生娘のようだと彼は恥ずかしくて、けれどもこうして当たり前のように触れてくれることが嬉しかった。
    腰に回された手からじわ、と熱が移ってくるようだった。

    …………。

    次第にそれは身体の奥からの熱を沸き立たせた。
    謝憐は更に顔が火照った。これだけの触れ合いに、腹の奥を疼かせる生娘なんて居ない……。
    でもだって、毎日のように褥を共にしていたのに、看病とその後彼がこうなってからはまるきりそういう触れ合いがなかったものだから。
    謝憐はまたぼぅっとしてしまった。そして通りかかった辺りが丁度、花城に命を助けられた場所だったので、「此処で君に助けられた」と言った。

    「私に?」
    「君に助けて貰ったことは、それこそ数えきれないくらいあるんだ」

    ゆらめく鬼界の湖畔に眩惑されたかのように「君が私をずっと昔から想ってくれていたことを知ったのも、丁度今くらいの季節だった。君の想いを知って直ぐには返事ができなくて、多くのことが一遍に起きて、私はそら恐ろしいやら、君からの想いが嬉しくてたまらないやら、君に誤解させてはどうしようって、混乱して大変だった」とクスクス笑いながら言った。

    「それで、ここで口づけましたか?」

    謝憐は顔を上げた。

    「覚えてるの!?」
    「いえ」

    花城はすまなそうに眉を下げ、「此処で誰かと口づけをしたような気がしたんです」と呟くように言った。

    「湖から上がったような……でも、こんな冬に湖に入るなんて貴方の身体に悪い。当時の私は何を考えていていたのだろう」

    それを聞いて謝憐はああ、と思った。
    花城にはこの湖で口づけた記憶が薄くあったのだろう。だから謝憐の話から、此処で思いを伝えあい、そして口づけたのだと思っているのだ。
    確かにそういう受け取り方になっちゃうな、と謝憐は笑った。

    「あはは、違うよ。ここに入ったのはまだそこまで凍えるような季節じゃなかったし、君は直ぐに極楽坊に連れて行ってくれたから。此処で溺れかけている私を助けてくれて、その、空気を渡してくれたんだ。それでく、口づけを、口づけと言うよりは救助かな!銅炉に行ったのはその後で……」

    謝憐は照れて後半声が大きくなってワタワタしたが、花城は急に真剣な顔になった。

    「銅炉?」
    「?、うん」
    「……殿下、此処で私たちが初めて口づけたとき、思いを通じ合わせていましたか?」
    「え?」
    「此処で浅ましい信徒が、空気を渡すことにかこつけて貴方の唇を奪った方が早かったのでは?」
    「えっ!?」

    謝憐は仰天した。
    その表情で花城は確信したと言わんばかしに、凄絶な表情を浮かべて膝を地面につけて頭を下げようとした。謝憐は花城の肩を押さえてそれをなんとか止める。

    「わーーっ!!!待って、待って!確かに君とは、えっと、お互いの思いを通じ合わせる前に口づけたことはある!でも!!一回目は私を助けるためだったし、二回目は君を助けるため!私からだ!いやこれは別になんの助けにもならなかったんだけれども!君に人工呼吸はいらなかった!!」
    「!?、二回もしたのですか」
    「だ、だから助けるためだって!!それに私からだ!」
    「…………私は……二回……いや、まさか」
    「どうしたの!」
    「本当に二回ですか?それ以上は?」
    「…………」
    「……殿下?」
    「……してない!君と結ばれた後だよ。口づけたのは」

    謝憐は急に落ち着きを取り戻し、優しく、必要以上に慈愛に満ちた表情を浮かべた。
    しかし、その変わりように花城は返って「殿下……?」と怪訝な顔を浮かべている。さっきはなんとか止められたが、花城はまた傅きそうな気配を感じる。
    彼は縋るような表情で「殿下……」と更に訴えてくる。
    謝憐は敗北し、もそもそと「三回目は私を助けるため……法力を吸い取る必要があったんだ。私からも法力を吸い取り返すためにし返して……おあいこだ。気にすることない。その後は……銅炉山が開山した時の君が凄く苦しそうで法力を抜いてあげたくて……」と説明した。

    「………私は……まだ、………自分の、……思いを打ち明けても居ない頃に、そんなにも何回も……貴方の寛大さに付け込み……」

    「己の欲求を優先して唇を奪ったのか」と花城は茫然と呟く。

    「いやいやいや!だから助けるためだよ!」

    どうしてこんなに彼が衝撃を受けているのか謝憐にはわからなかったが、謝憐はええい!と花城の両頬を手で覆った。
    彼の頭を引き下げ、己は踵を上げる。
    謝憐は睫毛を振るわせて、思い切って強く唇を押し付けた。温かい唇と冷たい唇が触れ合う。
    ほんのわずかな間だったが、長い時間そうしていたようだった。
    そぉっと目を開こうとしたとき、腕の中に引き込まれた。
    咄嗟にまた目を固く瞑った。

    「ん、」

    あいにく鬼王は太子からの可愛らしい口づけでは、もの足りなかったようである。
    謝憐を抱き上げる勢いで腕に力を籠め、何度も口づけ返した。咥内から爛れた音が脳髄に直接響くようだった。
    唇を割ってお互いを味わった。
    血雨探花は閨で見せてくるような凶悪な視線で見下ろした。
    謝憐ははふはふと息をして、足を縺れさせたが、花城は力強く彼を抱き留めていた。
    すぐそばにある鬼市の喧噪がどこか別世界のようであった。


    ***


    「太子殿下、足元をお気をつけて」
    「うん」
    「ああ、此処が貴方の観ですね」
    「うん」
    「千灯観か」
    「うん」

    謝憐は先ほどの口づけの余韻がまだ抜けず、ぽうっとしてしまい、全ては花城に先導されるに任せていた。
    あんなに衝撃を受けていた癖に、顎を取られて口づけられるとは思わなかった。ちょっとひりひりする。

    「君は此処を落成した記憶がないだろうに、よく直ぐにわかったね」
    「此処を落成したときのことは、なんとなく覚えているんです」
    「そうなの?」
    「ええ。私はとても拘りを持って、多くの場所を自分で手を加えた……そんなこの観を建てた記憶も、何度もここで祈った記憶もある。けれど、此処になんの神を祀っているかがわかりません」
    「…………」
    「ただ、わからないということは、貴方なのでしょう」

    彼に手を引かれて道観の中に入った。
    恭しく振舞うのに、あんな情熱的な口づけをするこの花城。千灯観を思い出せないのに、あんな風に力強く抱きしめてくる血雨探花。

    「花城」

    そう、太子殿下は小さく呟いた。
    呼ばれた彼は今日初めて自分の名を呼ばれたことに、わかりやすく氷肌玉骨の美貌を優にした。
    まさかこの血雨探花は、常日頃、太子殿下が自分のことを呼ぶとき愛称で呼んでいるとは思っていなかった。
    今日、太子はずっと彼を「君」と呼んでおり、
    武神はそんな鬼王の懐に一瞬で迫り、耳朶を食めるほどの距離で「紅紅児……」と囁いた。

    これに鬼王閣下はビシリと硬直した。
    骨でも折ったのかという顔をする。

    しばらく黙っていた彼は謝憐のほうを一つの目玉を動かして見つめ、それからやや後退った。

    可愛い。

    さっきまであんなにも恰好良かったと言うのに、今は目をいっぱいに広げて耳を手で覆って固まっているではないか。

    「どうして私の幼名を知ってるんですか」

    そう言った彼に謝憐は意地悪く「秘密!」と答えた。その顔は笑顔で、花城はなんとか気を取り直して、軽く咳払いをして「茶を淹れてきます」と言って一時退室した。明らかに撤退であった。

    花城が席を外した本殿で、謝憐はしばらくクスクス笑っていた。
    けれど一人になると花がしおれていくように、どんどん気配が虚ろになっていった。
    千灯観は花城が法術で温度を快適に保ってくれているから快適だ。
    それなのに謝憐は何故だか少しだけ寒さを感じていた。さわさわと胸の辺りを擦った。
    何か、考えたくもないことを考えそうになる。

    その前に、扉がキ、と開いた。

    入ってきたのは花城ではなかった。
    いや、それは彼自身ではなく、一羽の銀の蝶であった。
    蝶は一輪の白い花を持っていた。謝憐の好きな白い小さな花であった。
    太子殿下はそれをそっと掌で受け取る。白い生き生きとした花に、常世のモノではない蝶が留まって蜜を吸ってるように見えた。
    花城が入ってくる。彼は謝憐の前に茶杯を置き、花に留まる蝶に見惚れる太子を見つめ、眩しい光を見た時のような仕草で瞼を伏せた。

    「冬だと言うのに、この観の敷地にこの花がたくさん咲いていました」
    「好きな花なんだ。君が法術で年中咲くようにしてくれていた」

    謝憐が手の中の花の香を楽しみ、大切そうに花弁に触れると「もっと大輪の華のほうが、美しくありませんか」と花城は少し抑えた声で言った。

    「大輪の華も好きだよ。でも私はこの花が一等好きなんだ」
    「何か理由が?」

    微笑みと共に太子は言った。

    「ある信徒の献身そのものなんだ、この花は」

    そんな彼を見て、鬼王は「早く貴方との思い出を取り戻したい」と呟いた。


    ***


    千灯観にも就寝するための部屋があるので、今日はそこに泊まることになった。
    食事をし、湯浴みを終え、さて眠ろうという段階になって「では、殿下。私は隣室に居ますので、何かあればお呼びください」と花城が部屋を出ていこうとしたから謝憐は茫然とした。まさかそう言われると思っていなかったのだ。
    謝憐は突然手を離された子供のようにあどけなく目を見開いて、花城の中衣に縋り付くみたいにしがみついてしまった。
    花城は振り払うことをせず、しかし、振り返ることもせず、それが太子殿下の焦燥を煽った。

    「一緒に寝ないの」

    迷う気持ちよりも寂しさが勝り、謝憐はそう言っていた。
    一緒に眠らないときのほうが珍しいのに。任務で宿に滞在して部屋を分けても、当然のように同じ寝台に潜りこんで眠る仲であるのに。

    謝憐はこの花城との距離感を見失い、もうどうしようもなくて、しどろもどろした。
    やっぱり、どうしても言葉に出せない。いつもだったら、もう少し上手く誘えるのに。
    謝憐は懇願するような瞳で花城を見上げた。それしかできなかった。

    「……今日は、お疲れかと思います」

    謝憐は眠るだけなのに疲れていることがどうして関係あるのか、と思った。

    「え、疲れてはーーー」

    言いかけて、自分が何を求めているか、誤解を受けたのだと耳まで赤くなった。

    「違う!私はただ一緒に眠るだけのつもりで」
    「……」

    慌てた謝憐であるが、花城は「ええ、わかっています」と眉を下げた。
    彼が耐えるように奥歯を噛んだのが分かる。花城は「私は貴方と隣あって眠ったら、自分を抑えることができないかもしれない」と均一な声音で言った。

    「そうなったら、抑える必要なんてない」

    返答がなかった。謝憐はそろっと見上げようとした。
    ただ、相手の胸の辺りまで視線を上げた辺りで、今の花城のことを考えて…………謝憐はすっと冷えていった。

    本当は、暗に断られてたんじゃないだろうか。

    まず、自分は疲れてなかったが、彼は疲れているに決まってる。
    花城は昨日まで何日も熱が出ていて、今日は病み上がりにも関わらず外を歩き回ったのだ。しかも記憶もなくて精神的にも落ち着かないだろう。
    それに彼にとっては、如何に親切に友好的に接してくれているとはいえ、やはり自分は今日初めて出会った人ではないか。
    自分は彼に初めて会ったとき、どんな反応であったっけ。
    謝憐は自分が初めて「小花」と出会った時のことを思い返してみた。
    彼に対してなかなかに好意はあったけれども、全く疑っていたわけではなかったし、何度も試す真似をした。
    一緒に眠ったが、そんなことをするなんて少しも考えて見なかった。
    もしあの夜、小花に迫られて自分は応じただろうか。
    いいや、初対面の少年とそんなことはしない。
    彼だってそうだ。初対面の神官とそんなことはできないだろう。
    更には、何もなかったとはいえ一緒の床に横になるのだって……嫌だろう。
    でも、花城はこうなってもやはりとても親切だ。だから、彼は傷つけないように自然に断ってくれたのだ。

    謝憐は震えて、ガバッと布団をかぶった。その急な挙動に花城も振り向いた。

    「殿下」
    「違うんだ!私は……その……、違う……ごめん…、違………違、くは……ない。私は勝手だった。軽率だった。よく休んで、おやすみ!」
    「殿下、待ってください」
    「う」

    布団にすっぽりと隠された謝憐の身体を、花城は覆うように抱きしめた。
    これに太子殿下は首を掴まれたように、ピタ、と動けなくなった。
    やがて、花城は「殿下。私は貴方にいつもどのように触れていましたか」と囁いた。

    「どのようにって、」
    「今の私が私の欲望のままに貴方に向き合って、記憶が戻ったのち、私は己を許せなくなるかもしれない」
    「……」
    「……自信がありません」

    太子殿下は布団の中で目を見開いていた。
    こんなにもこの人が素直に感情を吐露してくれるとは思わなかったのだ。
    そっと布団から頭を出して、謝憐は花城を見つめた。
    紅衣鬼王は自分の神から目を反らさないようにすることに懸命である。その白い頬に触れて、太子は言った。

    「私たちは恋人なんだ。君に求められれば、何時だって嬉しい」

    謝憐は花城に笑いかけようと頬を持ち上げた。

    その瞬間、目からぽろっと涙が零れた。

    花城は瞠目した。謝憐はそれでもなんとか笑おうとして、どうしても駄目で唇を噛んだ。
    謝憐の胸の内で張り詰めていたものが、ついに湛えられる量を超え、器の縁から溢れたのだ。

    「気にしないで。駄目だな、私は、本当に君には叶わない」
    「何を……何を仰ってるんですか」

    花城はどうしたらいいのかと、首を振っていた。
    謝憐はそんな彼に謝ろうとして……更に辛そうな顔をさせてしまうだろうと、言葉を飲みこむ。

    「私のせいでしょう」
    「違うよ」
    「貴方を傷つけた」
    「違う」
    「自分の問題で、貴方を拒むような真似をした」
    「そうじゃないんだって……」
    「…………」
    「………そうじゃない」
    「……では」
    「……」

    花城は辛抱強く、謝憐の言葉を待ってくれた。

    「……」
    「…………」

    いつもの彼と同じだ。

    「君は」

    ようやく謝憐が口を開く。

    「君は不安じゃないのか?」
    「え?」
    「君の言うことは、全部、全部「私を思い出す」ことが前提だ。どうしてそんなにも信じられる?このまま私のことを永遠に忘れてしまうことだってあり得るじゃないか。どうして思い出せると確信できる?私は……私は君が私のことをこのまま思い出さなかったらって、思って、でも考えないようにして。君がもし、もしこのまま私のことを忘れたままだったとしても、この先もずっと一緒に居られるんならそれでもいいって」
    「…………」
    「思えるようにならないと……って……」
    「……殿下」

    謝憐は嗚咽交じりに言った。一息に抱えていたものを吐き出した。

    「…………」
    「それとも、ただ私を安心させるために言ってるだけなのか?」

    謝憐はそんな訳ない、と己の言葉に首を振った。
    花城は冗談は言っても、浅はかな出まかせなどは言ったりしない。
    全て解っているけれど、こと花城のことであるから……謝憐はどうしても感情を抑えることができなかった。
    花城は謝憐の肩をさすり、その問いかけに対して、答えた。

    「殿下、その確信の理由は単純です。私がこの世界に居るからです」

    花城は笑っていた。

    「私が何故この世に留まっているか知っていますか?」

    謝憐は唇を震わせ彼の胸元に顔を埋めた。真珠のように大きな涙で花城の紅い衣を湿らせた。

    「……まだこの世界に愛する人が居るから、と……」

    花城は嬉しそうに目を細め、「そうです。私は確かに貴方と過ごした日々を思い出すことはできない。けれど、私の中から貴方が消えたわけでは決してありません。消えるわけがない」と続けた。

    「自分の執念の所在が、完全に消えてなくなることなんてあり得ません。もし本当に私の中から消えたのなら、執念も無くなり、私自身が消え去るでしょう。けれど、私は此処に在る」

    花城は己の心をよく知っており、そこには一分の不安もないようだった。

    「今はただ、心の奥深いところに沈み込んでいるだけ。失われた訳ではないです。私の中から貴方が居なくなることは決してない。私の中で、生前に転機がいくつかあります。毎日あらゆるものを憎んで死にたいと思っていたのに、ある日を境に何かを美しいと思い始め、また違うある日を境に、何かのために生き始めた。あんなに生きていることが苦痛だったのに。そして死してなお、安らかな眠りにつこうとはとても思わない……」

    「貴方が私と一緒に居てくれることが、私は幸福でたまらない。貴方と永久に共に居たい。貴方の役に立ちたい。貴方を守りたい。貴方を見ていると、自分の執念がわかる」

    「私を信じて、殿下」

    太子殿下は、ああ、と言う言葉と共に溜め息を吐いた。
    彼の説得は決して、二人の思い出を取り戻すと確約してくれるものではなかった。

    でも、それはあの日と同じだった。
    銅炉山で、彼が幾千の銀の蝶となり砕けた時と。

    彼は散らない宴などないと言いつつも、決して離れないと断言し、そしてその言葉の通り戻ってきた。
    彼が戻ってくると彼の神に誓った時、「戻れる理由」を彼は伝えることはなかった。
    それと同じ、「思い出せる理由」に論理的な説明はない。
    けれど、けれど何よりも信じられる言葉だった。
    彼は自分を信じてと言い、彼を信じた太子を彼は決して裏切らなかった。

    考えてみれば、彼はいつだってそうだったじゃないか。

    花城は屈託なく、また、常のように不敵に笑い、目の中に光を宿している。
    花城は謝憐を信じる己を信じている。
    だから、彼は何があっても平気なのだ。

    「うん……うん。信じる。三郎を信じる」

    ならば、自分だって、あの時と同じく彼のことを信じるだけだ。

    太子殿下はこの人の背を掻き抱いた。
    その力強い抱擁に血雨探花も同じ強さで思いを返した。


    ***


    抱きしめ合っているうちに、太子はこの甘えなくなった恋人に何度も口づけて、彼を下にした。
    太子が彼の身体に熱心に触れれば、結局、忍耐強い癖に忍耐強くない鬼王閣下は冷たい指先を直ぐに伸ばしてきた。
    決壊したと言わんばかしに、彼を抱きしめ、どちらとも同じだけの情熱を持って、身体に触れ合った。

    彼は太子が連日自分を介抱し、疲れていることを解っていた。
    それでも太子に自分の治める地盤を見てもらいたかった。そして、この方が自分の伴侶であることを多くに知らしめたかった。
    けれども、鬼市に住まう鬼共も、神官までもそれを認知しているようで、この一神一鬼の関係を皆が全て承知している。
    己と太子の指に結び付けられている赤い糸を真似た連中を幾つも見た。
    この鬼市に太子の観があった。己はこの方の信徒であると解った。
    信仰した神から愛を返されている。
    太子殿下が鬼市を歩きながら不安に苛まれていたとき、この不肖の信徒はこの方が己の伴侶であることに酔いしれていたのだ。

    貴方の腰に回した手に、力を込めてしまいそうだった。
    湖畔で貴方から口づけられて、抑えが利かなくなった。
    まさか同衾が当たり前だとは思わなかった。伴侶なのだから当然だろうが、今は隣り合って眠りたくなかった。自分が何を仕出かすかわからなかったから……。


    太子殿下は大いに彼の下で乱れた。
    朴訥な彼でも清廉な彼でもない。見たことのない、今の花城には想像もしたことのない彼がそこに居た。
    こんなにも乱れ散るようにこの人と求め合えるとは思わなかった。なのにこの方の中に「慣れ」を感じる。自分も知らないはずなのに何をどうすればこの方を悦ばせられるかを知っていた。
    これに彼は驚き、そして、そして何かに嫉妬した。
    太子は時に恥じらう少女のように睫毛を震わせ、また時には媚びすら感じるような艶やかな視線を寄越した。神はこのように何度も鬼王を煽った。雪花を散らすような背徳があった。

    「さんらん、三郎……。三郎。大好き、大好きだ………」

    本当は嫉妬した何かが何なのか、聡明なる鬼王閣下は知っていた。
    この方が「三郎」と呼ぶ男が妬ましい。羨ましくてたまらない。

    その「三郎」と言う男は、この人の全てを知っているのだろうから。


    ***


    「一目惚れかもしれない」と花城は言った。
    花城は何度だって自分のことを好きになってくれる。愛してくれて、敬ってくれて、大切にしてくれる。
    なら謝憐だってそうだ。例え、今は奥深くに多くの思い出が沈み込んでしまっていたとしても、それを抜きにしても彼は何も変わらない。

    実を言えば、二人ともずっと恐れていたのだ。
    謝憐は花城の中から自分が消えてしまうことを。
    花城は貴方を思いだせない自分が貴方からの愛を損なうような真似をすることを。
    けれどそれを払拭したのは、外ならぬ貴方だった。

    彼は記憶を引き出すキッカケになるように、謝憐に色々なことを聞いてきた。
    あの花城がたくさん質問してくれることが、謝憐にはやはり新鮮でとても嬉しかった。
    二人は民間で語られている一神一鬼の説話を聞き、万神窟に行った。

    彼は十歳の時に太子殿下と出会った。
    それからずっと、その人を、その神を、想ってきたのだ。彼が成長していく中でずっと太子殿下への想いは共にあった。
    太子殿下を通して、誰かを愛するということを学び、何かを大切にする心も、慈しむ心も得た。
    それは花城を創り上げてきたものの一つが謝憐ということではないだろうか。だから彼は彼であり、何も変わらない。


    時が経ち、花霞の季節の頃。

    血雨探花は太子殿下に「哥哥」と呼びかけた。

    そのように呼びかけられるのは久しぶりで、謝憐が勢いよく振り返ると、彼は流麗な動作で跪いた。その動きは謝憐の心に深く刻み込まれたもので、黒衣と笑みの面が過った。

    小さな白い花が差し出される。
    とても小さくて可愛らしい白い花だ。

    そして探していた花が何なのか思い出した血雨探花は笑顔でこう言った。

    「ただいま。哥哥」

    謝憐は花を受け取り、そのまま花城に抱き着いた。

    「おかえり。三郎」




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