真夜中の影「おやすみ」
囁き声が上から降ってきて、獅子神はびくりと震えそうになる体を抑えた。
真夜中の、明かりの落ちた真っ暗な部屋だ。
獅子神の家だ。
獅子神は、リビングの毛足の長いラグに身を横たえ、毛布を被り、もうずっと眠ったフリを―――している。
これはここ最近の獅子神の癖のようなもので。
なぜなら、最近親しくなり、他の友人らとともに獅子神の家に泊まりがけで遊ぶようになった、先程獅子神に声をかけた男。
叶黎明。
この男が、このように毎晩、誰よりも最後まで起きて。
こうして誰も起きていないことを確認するように、声を落としていくからだった。
―――こえーよ。殺人鬼かよ。
叶黎明は得体が知れない。
獅子神がこの男について知っていることといえば、真経津にギャンブルで負け、その後友人になったこと。村雨を一方的に慕っていること。そして、異様なまでに観察力に優れており、「見ること」と「見られること」に異様なほど執着している、それだけだ。過去も職業も、犯罪者かどうかさえも何一つ知らない。ネット配信を行っているらしいが、それが「表」の職業なのかすら定かではない。
それはひとえに、この男に一を尋ねれば、この男は獅子神から十の情報を読み取っていくからだった。
―――この男を恐れていることを、警戒していることを悟られてはならない。
それは獅子神の二十六年の人生で培った経験則だ。
生きていくために身に着けたあらゆる感覚が、この男を警戒しろと告げている。
そうでなくとも、見るからに異常な男だ。
目に対して大きすぎる、毒々しいコンタクトレンズをはじめ、男の身なりは何もかも異常だった。身長も獅子神より高く、体格もそれなりに良い。となれば、安心できる要素は何一つない。
真経津のやつ、ダチは選べよ。
心の中で、近くで眠っているだろう、変なところでふわふわした年下の友人に文句を飛ばしつつ。きちんと眠る体勢を取ろうと大きく息を吐きかけて、獅子神は呼吸を止めた。
―――まだ、いる。
ゾッと背筋が粟立った。
まだ、獅子神のそばに、立っている。
叶黎明が。
害をもたらす男が。
―――オレが起きていないか、息を殺して確かめている。
獅子神は止めた呼吸をゆっくりと再開した。
叶黎明に気付かれないように。
おかしなリズムにならないように。
ほどほどに深く、ほどほどにゆるやかに。
息を吸って、吐く。
また吸って、吐く。
自分の呼吸音をかき消すほどに心臓の音が五月蝿い。
目を開いて確認したくて仕方がない。
男は、叶黎明は今もオレを見ているのか?
すぐそばに…ウッカリ手を動かせば当たってしまうかもしれないほど近くに、息づく男の気配を感じる。
………どれほど経ったか。
無限に続く気さえした時間の中、く、と気配が笑い。
そうして、極限まで音を消した足音が。衣擦れの音が、獅子神のそばから立ち去っていった。
獅子神は、音が遠く聞こえなくなるのをジッ…と身動ぎもせぬままに確認して。
そうして、ようやくいなくなったと確信したところで目を見開いて。暗闇のほとんど何も見えぬ中。自分の周辺に大きな影が何かひとつでも立っていないか確認して。
漸う深呼吸をして、目を閉じた。
そうして、緩んだ警戒の隙間に入り込む眠気に引き摺りこまれ、あっさりと眠りについた。
この、習慣とも呼ぶべき警戒の癖は。
ある日、ソファで真っ先に叶黎明が寝落ちた日に終わりを迎える。
猛獣がようやく懐いたような安堵感は、警戒が反転したように、獅子神に叶への多大な好意すら抱かせた。
「叶さん、毎晩獅子神さんのとこで何してるの?」
「敬一君が寝たフリするの面白いから観察してるんだ。でもそろそろ満足したかな」
「わざと音を立てるのをやめろ、無視するのも面倒だ」
「ごめんごめん」