雪夜の青猫 普段よりも少しばかり早く目が覚めた朝、晶が食堂へやってくると、いつも比較的早起きな面々の中にフィガロの姿があった。普段ならまずこんな時間に彼とは会えない。いつもミチルが起こしてやっとといった感じで起きてくるのに、今朝はテーブルで優雅にマグカップを手にしてレノックスと話している。
「フィガロ、レノックス、おはようございます」
「おはよう。賢者様」
「おはようございます」
晶はふたりのもとへ向かい声をかけた。返ってきた反応も、普段とそう変わりない。おかしい、というわけではないが、任務がある日以外でフィガロがすんなり起きてくることは珍しいので、気になり続けて尋ねてみる。
「今日は早いんですね。お出かけの予定ですか?」
「ううん、なんとなく。賢者様がお望みなら、どこか出かけるのもいいけど」
「今日は授業お休みなんですか?」
「課外授業もいいよね。社会見学。賢者様の授業参観も同時にさ」
訊いてみてもフィガロは何食わぬ顔をしているし、質問にはっきりとは答えないが、やはり授業はあるらしい。少しばかり呆れかけた晶の前で、レノックスもやや分かりにくく困っているような、責めるような目をフィガロに向けていた。
「フィガロ先生。そういった提案は前もってするものでは……。準備もありますし」
「言ってみただけだよ! ごめんごめん。でも悪くないでしょ、賢者様。検討しておいて」
「はい、そのうち」
結局フィガロの早起きの理由は分からなかったが、たまにはこんな日もあるだろう―それでいいじゃないかと晶は気にしないことにして、そのまま二人に勧められて彼らと同じテーブルについた。それからすぐレノックスが配膳の手伝いに席を立ち、席に残された晶は今日誰かに話そうと決めていた出来事をまずフィガロに話してみることに決めた。
「聞いてください、フィガロ。昨夜部屋に猫がきたんですよ!」
「へえ? 誰かと一緒に入ってきちゃったのかな」
「そうかもしれないです。でもなかなか出ていこうとしなかったし、寒かったのでそのまま部屋で寝かせてあげてたんですが……」
昨夜のことを思い出しながら、晶は話した。寝る支度を先に整えて、あとはベッドに入るまで何をして過ごそうかと考えていると、ドアの方から物音がしたので開けてみたらそこに一匹の猫がいたのである。
あとは話したとおりだ。迷って入ってきてしまって出られなくなったのかもしれないと思い、外に出してやろうとしたのだが、頑なに出ていこうとしなかったし冷える夜だったので部屋にしまっておくことにした。
野良にしては毛並みがよく、また、初めて見る顔なのに鳴いたり体をすりつけてきたり人慣れしているのも気になったが、そういう性格の子なのかもしれないと思い、寝床を提供したのだが―。
「朝になったらいなかったんです」
「自分でドアを開けて出ていったんじゃない? 賢い猫って自分でドアを開けられるみたいだし」
「鍵はかけてなかったから、そうかもしれないですが……猫ってドア開けっぱなしでいきません?」
「うーん……じゃあ、開けた後閉めていったのかな。それか、やっぱり寒くて戻ろうとしたけど上手くいかなくて閉まっちゃったとか」
「それはありそうです……。ちゃんと帰れたならいいんですが」
「大丈夫大丈夫。野生に生きる子は強いから。一晩賢者様のところで甘えて、きっと元気に帰っていったよ」
思い出して少しばかり寂しくなって眉を下げた晶を元気付けるように、フィガロが言った。彼の言うように、ひとしきり満喫してしれっと帰っていったのならそれで構わないのだが、見送りくらいしたかったという気持ちもあったので、彼にそう言ってもらったことで晶は少し落ち着いた気がした。
「可愛い猫でした。灰色で、短毛と長毛の間くらいの少し毛足が長いかんじで、青みたいな緑みたいな綺麗な目の……」
「猫の目って、角度や光の加減で違った色に見えるから面白いよね。俺も見てみたかったな」
「迷いこんでくるってことは、魔法舎を縄張りにしてる子ですよね。きっと会えます!」
「どうかなあ。俺、動物にはあまり好かれないから猫の方から避けそうな気がするよ」
「プレッシャー放たなければ大丈夫です!」
「ちょっと、賢者様。俺を何だと思ってるの?」
フィガロがここで優しい魔法使いだと思ってほしいし言ってほしいのであろうことは考えずとも分かったが、晶は笑って流した。今朝は珍しすぎるほど珍しく早起きなフィガロが、何だか機嫌も調子もよさそうなのは気のせいか否か。そうは思ったものの、猫が暖を求めて迷いこんでくるように、フィガロが二度寝を決め込むことなく起きてくることだってあるだろう。そうして、誰かに話したいと思ったことを一番に話すという偶然も。
「笑って誤魔化したね?」
「えへへ……はい!」
だから、そのまま笑って頷いてみせた。カップを持つフィガロの手の血色が良いように見えるのも自分の中でだけ完結させて、少し違う朝のひとときを過ごすのだった。
◆◇◆
それからあの灰色の猫は度々晶の部屋にやってきた。毎日ではないが、夜になると来たり来なかったりする。続けてやってくることもあれば、何日か顔を見せない日もあった。
魔法舎の敷地内を縄張りにしている子だろうと思い昼間に姿を探したことはあったが、それらしい姿は見られず、敷地を出入りしている猫に関して比較的詳しいファウストとオーエンに聞いてみても知らないと返ってくるだけだった。
「賢者様、それ本当に猫?」
「少なくとも犬ではないですね」
「魔法生物かもしれないから、気をつけなさい」
「はい。ありがとうございます、ふたりとも」
「まあ、この辺りではそれらしいものは見ないから大丈夫だろうけどね」
ふたりと別れて晶は魔法舎をぶらつきながら、ふと思い出した。もうすぐ任務で少し空けることになるのだ。自分がいない間にあの灰色猫がやってきたらどうしよう、と来るかどうかも分からないのに心配になってきた。
晶の頭のなかに、誰もいない部屋のドアをカリカリ引っかく猫の様子や、寒い廊下で正座してドアが開くのをじっと待ち続ける姿がぼんやりと描かれる。そんなことは起こらないかもしれないが、もしかしたらあるかもしれない。晶は以降の半日そのことを考え続け、夕食後シノとヒースクリフを呼び止めて猫のことを話した。
「大体分かった。そいつが来たら部屋に入れてやればいいんだな」
「はい。気づいたらで構わないので……。すみません」
「いえ。その猫が来ているくらいの時間ならまだ起きてますから」
「起きてたって機械いじりで集中して聞こえてないだろ、ヒースは」
「そうかもしれないけど……!」
来るかどうかも分からないところをふたりは快く引き受けてくれたが、やはり少し申し訳ない気もする。晶は迷ったが、一旦口に出したことをやっぱりいいですというのもそれはそれで気まずくなってしまうので、考えるのはやめてぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます! よろしくお願いします」
「任せろ」
すると、話にきりがつくのを見計らったようにルチルとミチルがやってきて晶に声をかけた。次の任務は南の魔法使いたちが受け持つことになっているから、それに関することかもしれない。
シノとヒースクリフにもう一度礼を言ってからふたりについていくと、彼らのいく先にフィガロとレノックスもいた。小さく頭を下げるレノックスの横でフィガロが笑顔でひらひらと手を振っているのをみたとき、晶はまたあの灰色猫のことを思い出した。
灰色の毛は少し毛足が長く、目は青いような緑色のような、不思議な色をしている―。
「(似てるな)」
猫と人だから雰囲気くらいのことでしかないけれども、何となくそう感じた晶は覚えず頬を緩めた。
◆◇◆
任務から戻った晶にシノとヒースクリフが告げたのは「猫は来なかった」ということだった。晶は残念なような安心したような、言葉にしづらい気持ちでふたりに礼を言うと、彼らも猫に会ってみたかったらしく少しばかり残念そうにしていた。
「見たかったのにな」
「シノってば、猫が来ないかどうかそわそわしてたんですよ」
「ヒースもそうだろ。何度もドアを開けて廊下を確認してたの知ってるぞ」
「ふたりとも、ありがとうございました。次に猫が来たときは呼びますね」
人懐こい猫だし、シノもヒースクリフも動物に優しいから、きっとふたりにも愛想を振りまいて可愛がってもらえるのだろう。そんな想像をしながら、晶は帰った後そのままにしてきてしまった荷物の整理をしに自室へ戻った。
それから食事と入浴を済ませた後、軽く今回の調査任務のことをまとめたら今日は早めに休もうかと思っていたとき、ドアを一枚隔てた先で猫が仲間や人を呼ぶとき特有の鳴き声がした。
猫は個体によるが猫同士では声によるコミュニケーションをほとんどしない。人間が喋るのでそれに合わせてくれている―という話を思い出しながら晶は机の前から立ち上がり、カリカリ音が聞こえだしたドアを開けた。
「おわあ、こんばんは」
床にはあの灰色猫が座っていて、晶の顔を見るとにゃんと鳴いてすたすたと部屋のなかに入ってきた。自分の部屋に入るような様子に、晶は笑ってドアを閉める。次に猫が来たら呼ぶとシノとヒースクリフに言ってあったけれども、今夜はシノがファウストから出された宿題をやっていなかったのをヒースクリフと一緒に片付けることになっているそうなので、どうするか迷ったがやめておくことにした。
「俺がいない間、どこにいたの?」
ベッドの方へ歩いていく灰色猫に、晶は優しく話しかける。訊いて答えが返ってくるわけでもないのに、でも不思議と話しかけてしまうのが人間だ。
「抱っこさせてね」
そう断って後ろから抱き上げれば、猫はゴロゴロと喉を鳴らしていて、その振動がわずかだが晶の胸のあたりに伝わってきた。あたたかくてやわらかくて、そして重い。猫の重みは幸せの重みとはよく言ったものだと思いながら、晶は猫の後頭部にそっと頬を寄せてからベッドに下ろしてやった。
「今日は寒いねえ」
ベッドの上に着地した猫は、晶の声に答えるようににゃあんと鳴いて足を伸ばしてくつろぎ始める。
調査任務から戻ってくると、中央は南よりも少し寒くて驚いたし、スノウとホワイトの天気予報によれば今夜は雪が舞うということだった。それで猫も暖を求めてやってきたのかもしれない。
初めてこの猫がこの部屋に来たときも寒い夜だったが、あれからどれくらい経っただろう。まだまだ寒いから、冬の間じゅうは姿を見せてくれるだろうか。
でも、どんないいことも悪いことも永遠に続くわけではない。仲良くなった猫だって、いつまでもそこにいるわけじゃない。それを思うと、猫は目の前にいるというのに寂しくなる。この子がここに来たのも何かの偶然や気まぐれでしかなくて、同じように気まぐれでそのうちきっとどこかへ行ってしまうのだ。
野良猫というのはそういうものだと分かってはいるけれども、それと寂しいと感じるのはまた別の話である。晶は猫の頭を撫でながら思う。
「いつまでここに来てくれるんだろうね」
猫からの返事はない。けれども、喉を鳴らす音が大きくなったような気がする。ゴロゴロを通り越してぐつぐついうような、バイクのエンジンの音にも近いが、こんなに喜んでくれていても、この時間は永遠ではない。それが怖くて寂しくて、この猫を呼んでやるための名前さえつけられないでいる。
けれども、それでいいのかもしれない。自分のエゴを押しきせて、いなくなったら勝手に悲しむなんて馬鹿みたいだ。それに、自分で傷を深くするようなことなんかする必要もないだろう。
晶は着替えてベッドに入り、灰色猫を撫でた。ゆっくりと、この時間を惜しむように。
いつまでここに来てくれるんだろうね、と彼は言う。優しく穏やかに、しかしもの寂しさを一雫垂らしたような笑みと声で、そっと転がすように。
きっと猫という生き物の習性を思ってあんなことを口にしたのだろうけれども、あんな表情をされて不覚にも心が揺れた。そんな自覚がある。
「(俺ならずっとそばにいてあげられるのに)」
そうは思っても、いまそれを言うことはできない。なぜなら、いまの自分は猫だから。そして、それをいま明かすべきではないから、代わりに盛大に喉を鳴らして応えた。
いつまでなんて言わず、望むなら、必要とするのならいつまでも。そんなことを言うと微妙な顔をされるような気もしなくはないが、自分が選ぶとしたらこんな言葉になってしまう。でもその一方でいらないと言われるのが怖くて、そして自分で自分の言葉に背いてしまう気がして、そんなことは言えやしないのだけれども―。
それにしても、あたたかい。晶が先ほどからうつらうつらとしながら、それでも頭や体を撫でてくれているからだろう。
ある晩やけに冷えてしかたなく、思い付きでこんな姿になって訪ねたのが始まりだったが、すっかり癖になってしまった。
「(駄目だね、どうも)」
いつか言わないといけないことなら、いますぐにでも元の姿に戻って正体を明かした方がいい。そうすれば、晶が抱いているであろう喪失の予感を拭いさってやれる。しかし、このぬくもりは手離しがたい。特別な関係や理由や、許可もなにもいらないことにもう少し甘えていたかった。
春までは。そう思い、フィガロはふさっとした尻尾を晶の手首の上に乗せて目を閉じた。