あなたの優しい手 初夏の昼過ぎ、ベランダの扉を開けると、傑が縫い物をしていた。大きな手のひらの中には覆面ヒーローのぬいぐるみ、ただし腕や背中が裂けて、中の綿が出てしまっている。彼は扉が開いても、黙々とそのぬいぐるみを縫い続けていた。マリオカートをやろうと意気込んできた俺は、それに言葉をなくしてしまう。
「それ、いつまでやんの」
最初のうちは物珍しくて見ていた俺も、段々と暇になって訪ねてしまった。でも傑は「あとちょっと」と言うだけで、俺の質問にはきちんと答えてくれない。
「それ、誰の?」
しかしそう尋ねると、傑はようやく顔を上げて、コントローラーをさげている俺を振り返った。切れ長の瞳、さらさらの髪、時間をかけて拡張した大きなピアスに、ほのかに香る昨日の湯の石鹸の匂い。そんな傑を構成するもの全てに、俺はそんな質問、しなくてもよかったなんて思ってしまう。
「昨日の任務で宗教施設に行ったろう。そこで神子にされてた男の子の宝物だよ」
傑はそう言って、静かに自分の中にある怒りを処理しようとしているようだった。
確かに俺たちは昨日、前々から問題視されていた、都内のとある施設に行った。そこには在野の呪術師がおり、彼らは小さな少年を神子として扱って、表向きは悩める人を救っていた。少年は元は信者の子で、見えなものが見えるとして母親が相談に来たのだという。そしてその呪力量に驚いた教祖が、彼を神子として扱うようになったのだった。自由のない生活。きちんと術式をコントロールする術を教えられていないから少年は傷だらけだった。それでも彼は教祖に言われた通りに人々を掬い続けていた。それが自分が救われるためだと教え込まれて。
あの日、傑は珍しく怒り、少年を高専預かりにしたのだった。そんな少年は今、この寮の一室に母親と離されている。母親の洗脳が解けず、まだ会わせるにはどちらにとっても危ういからだ。
「上手いもんだね」
俺はベランダにあるエアコンの室外機に寄りかかって、傑がぬいぐるみの傷を治してゆくのを見ていた。傑は優しい。俺たちだって、高専にいいように使われているだけだと言うのに、同じような立場の子どもを助けようとする。
「母さんに昔教えられてね。……それで、悟は何をしに来たの?」
傑にそう言われて、俺はすぐに答えられなかった。マリオカートはもうやりたくなくなっていたし、今はどういうわけか傑とキスがしたかった。悩ましい彼の痛みをとってやりたかった。
「さぁ、どうだろうね。当ててみてよ」
俺は恥ずかしくてそう言って、傑は俺を見ずに小さく笑った。多分、見通されていたのだろう。恥ずかしいけれど、彼なら仕方がない。傑の大きな手のひらの中で、覆面ヒーローのぬいぐるみが出来上がる。丸くて、可愛らしいけど強いヒーロー。きっとあの少年にとっても、傑は自分を助けてくれるヒーローだったんだろうな。
「私に言わせるんなら、分かってるよね?」
傑が艶やかに笑う。それはもう夜の誘いで、俺はいつの間にか完成していたぬいぐるみに、もう少し時間をかけても良かったのにと、そんなふうに思った。もう少し時間がかかったら、ちゃんと答えられたのに、と。
「嘘だよ、あの子のところに行こう。よろこんでくれるといいんだけど……」
傑はそう言って立ち上がった。でも、彼がどうしてベランダで裁縫にいそしんでいたのかは分からないままだった。高専の景色が見たかったのか、それとも内にある怒りを発散したかったのか。少し暑い空気が漂う中で、俺はそこまで考えてやめた。傑は優しい、それでいいじゃないかと思って。
「お前が助けに来てくれたヒーローなんだから喜んでくれるよ。俺はどうだろ、あー、あの時は側にいただけだったからなぁ……」
外ではぎったんばったん大活躍だったんだけどなぁ。俺はそう言って、室外機から離れ、ベランダの扉をまた開けた。傑はその瞬間俺にキスをして、部屋の中に入る。
「あ……」
「さ、行こう。早くしないと夕食の時間だよ」
傑が言う。俺は手のはやい恋人に少し怒りそうになって、でもうれしくて、誰にでも優しい彼が愛おしくなった。そして彼と幼い頃に会っていたのなら、自分も救われただろうに、と思った。優しい大人、自分を助けてくれる人。神子の少年がそんな彼に会えたのは、きっとあの子どもにとって幸せの一つになるだろう。
「そうだね」
俺たちは傑の部屋に入る。そしてそこでキスをする。傑の手には綺麗に縫われたぬいぐるみがある。俺は一度だけそれに触れて、彼の優しさの中心に触れた気がした。傑は何も言わなかったけれど、俺の考えを分かっている気がした。
さぁ行こう、傑を待ってる人の元に。傑に助けられて、それでもまだ怯えている子どもの元に。