そこに咲く花は 雨が降って来たのは、狡噛と出島のマーケットに行ってしばらく経った時のことだった。俺たちはその時ちょうどベランダに飾る花を探していて、やれ百合がいいだの、薔薇が無難だの、香りを楽しむならラベンダーだの、やはりここは紫陽花だのと、花屋の店先で話し込んでいた。店番をする老婆は、にこにこと笑いながら俺たちにどれもいいですよと、拙い日本語で言った。私の祖国では沖縄のデイゴに似た花が咲くんですよ、とも。百年ほど前に日本でも流行歌になったそれにもあった、咲けば咲くほど台風が強く来るとの迷信がある花。それに俺は惹かれて、けれどこの小さな店にそれはなく、世話も難しいことから俺は記憶の中のあの花を思い出していた。
「雨つぶに濡れて綺麗なのは、やっぱり紫陽花だな」
サァァ、と静かに流れる雨に色とりどりの紫陽花は、まるで水を飲むように、水浴びをするように、しずくをその身に受けている。俺もこればかりは狡噛に賛成だった。やっぱり今回は紫陽花にしておこうか。
「でも色んな種類の色があるな。紫に、淡いピンク色に、八重咲きの水色に。緑もある。どれにする?」
俺はいくつも並べられた紫陽花をさして言う。すると狡噛はくわえ煙草をやめて両手でシャッターを切るように、俺と紫陽花を見た。
「緑のそれ。やっぱりお前の目の色と同じがいい。水のやりがいもある」
狡噛が指さしたそれを、老婆は笑いながら白い花模様のビニール袋に入れる。
「紫陽花は土の表面が乾いてからたっぷりあげてね。ベランダで育てるなら乾きやすいから注意してちょうだい」
はい、どうぞ。老婆はそう言って紫陽花を狡噛に渡す。俺は財布から紙幣を取り出してそれを彼女に渡し、礼を言って店を離れた。その間中も雨は降っていた。でもずぶ濡れになるほどでもない。肌がしっとりと濡れて、髪がしずくを含むぐらいだ。
「そろそろとっつあんの誕生日だな」
紫陽花を傷つけないよう煙草に火をつけず、狡噛がそっと言った。父は六月に生まれた。梅雨の終わりがたの、美しい季節に。夏生まれだから暑さには強いんだと笑っていた彼を思い出す。汗っかきのくせにあれは強がりだったのだろうけれど、子どもで夏バテを繰り返していた俺には、彼はとても強い人に見えた。でも命日じゃなく誕生日を覚えていてくれたのは、俺はとても嬉しかった。ぬかるんだ道を歩く。緑の紫陽花、父親の瞳の色、俺の目の色。
「……すまなかったな、あの時は、お前に酷い選択を迫ってしまった」
槙島か、彼に殺された父か、そして自分か、俺はあの時恋人にすがり、彼の人生を滅茶苦茶にしてしまった。俺が親父を殺したようなものなのに、狡噛は一番苦しい選択をしなきゃならなかった。
「お前の中じゃいつまでも終わりがないんだな。苦しくないのいか?」
狡噛が少し足を速める。俺はそれについて行きながら、少し強くなった雨の中、屋台のテントを見つけてそこに入った。甘い匂いがするのは、ここがベトナムコーヒーの店だからだろう。練乳を使った濃く甘い、それでいてコーヒーの風味も残された飲み物。俺たちはそれをアオザイを着た少女に二つ頼み、さっきの会話を再開させるべきか悩んだ。
「苦しんでるうちは、親父が側にいる気がするんだ。馬鹿みたいだけれど」
コーヒーがやって来る。俺たちは熱いそれをすする。また紙幣を少女に渡して、電子決済がないのが出島のマーケットの醍醐味だな、なんてことを思った。
「とっつぁんがいたら、俺は殴られるだろうな。そろそろ息子とはっきりしろってさ」
「え……?」
狡噛は笑ってコーヒーを飲む。彼の言葉をそのまま飲み込むなら、そういうことなんだろう。
「とっつぁんに言われたことがあるんだ。覚悟はあるのかって。執行官堕ちした時、伸元をずるずると苦しませる覚悟はあるのかって」
俺はコーヒーをまたすする。隣の客が大きな笑い声を上げる。手を叩いて母国語の歌を歌う人々。私の故郷のあちこちでテトの日を祝う、たくさんの芳しい花が美しい彩りを競い合う、子どもたちは新しい服を着て誇らしげ、はしゃぎまわって、花火を見てますます美しい。テト、テト、テト、テトが来た。可愛らしい歌だ。異国情緒あふれるそれに、狡噛も懐かしいのか目を細めていた。
「あの人は俺の心配ばかりしてたんだな。お前を離さなかったのは俺の方だったのにさ」
その言葉に、狡噛は少し驚いた顔をした。俺はそんな彼が愛おしく、息子の恋人に未来を訊ねずにはいられなかった父を不憫に思った。でもそんな父ももういない。彼のところに行くのはそう早くはないだろうが、もし時期が早まることがあったら、俺はずっと狡噛といられて幸せだったと言おう。彼が執行官に堕ちた時でさえ、俺は彼を恋人と慕っていた。俺にはずっと彼しかいなかった。
「なぁ、狡噛、さっきの答えなんだが……」
俺は口を開く。狡噛が目を丸くする。雨が上がる。子どもたちが水たまりではしゃぎ始める。俺たちは紫陽花を挟んで話をする。何も確かなものがない場所で、何も確かなものがなかった関係を変えるために。