月夜の壺 任務を終え、月が大きな夜中に、木々の連なる山の中をバンで移動していた時の話だ。
花城は珍しくアイマスクをして眠り入り、須郷は勤勉にもデバイスで報告書を書いていた。俺は愛用の銃の手入れをしていて、狡噛は古びた本を小さなライトで照らしながらゆったりと読んでいた。運転手はこちらには話しかけて来ず、俺たちの間に会話はなかった。ただ少しおかしいことに、狡噛はどういうわけか、ふとした瞬間からバンの窓の外を見つめて動かなくなってしまった。本のページをめくる手も止まり、彼は夜中の山の景色に釘付けになっているようだった。
「どうしたんだ?」
俺は不思議に思って、銃の手入れを中断し、恋人に話しかけた。すると彼は狸にでも化かされたかのように「壺を持った老人を見たんだ」と言い、何かを考えるそぶりを見せた。こんな夜中に、こんな山の中を壺を抱えてすごすごと歩く老人か。案外その壺の中には骨が入っていたりして、と、俺は安い怪談のような空想をして、きっとそれとは全く違う想像をしているだろう狡噛を見た。
「それで、その老人はどうしたんだ? 子泣き爺みたいにお前に迫ってきたか?」
俺がそう尋ねると、狡噛は「いや、消えた」と言った。そして「消えたんだ、壺の中に。まるで壺中の天だよ」と続けた。
「壺中の天?」
また訳の分からない言葉が出たことにため息をつき、話を合わせるためデバイスで検索するのも面倒で俺は直接彼に尋ねる。すると狡噛は「中国の故事さ」と言って、次のような話をした。
後漢の時代、汝南という町に、ある若い男がいた。彼は市場に勤める役人で、ある日薬売りの老人と出会う。その老人の名前はここでは省略するが、二人は親しくなるに至った。けれどある日、その役人は老人が普段持ち歩いている壺の中に、あろうことか老人が入るのを見てしまう。それに興味を持った役人は何かと老人に尽くし、その下心たっぷりの誠意を認められ、ついに自分も壺の中に入りたいと伝える。そこには何が広がっているのか、きっと気になっていたのだろう、そう狡噛は言った。
「その壺の中はどうなってたんだ? 地獄でも広がってたのか? 老人は妖怪だったとか?」
夜にいぶされた俺が尋ねると、狡噛はそうじゃないと笑って「御殿が広がり、まさに仙人が住む土地だったらしいぜ」と言った。そこには美味い酒とつまみがあり、薬売りの老人に招かれた役人は、その世界に浸り、しかし充分に楽しんだ後は俗世に戻ったのだという。
「それで終わりか? 浦島太郎みたいに、外に出たら老人になってたってことはないのか?」
俺がそう言うと、狡噛は「何せ故事だからな」と言って、話はそれで終わりだよと締めた。
けれどそんな美しい世界から促されなくても素直に俗世に戻るなど、その役人も真面目な男だったんだな。俺はそう思い、そして再びこんな夜の山に老人がいるか? と思った。けれど狡噛は全てに納得しているようで、チープな怪談など望んでいなかった。壺中の天とやらをその目で見られて喜んでいたのだろうと思う。狡噛慎也という男は、知識欲が旺盛な男だったから。
「……俺ならその壺とやらから出たくないがな」
ふとそう言うと、狡噛は珍しく驚いた顔をして俺を見た。そんなに怠惰な恋人が珍しいのだろうか? 俺だって俗世から離れて楽をしたい気持ちはあるさ。刑事として生きると決めても、お前と一緒なら、どこへでも行けそうな気がするし。その時、俺は彼と一緒に壺の中に入ることを考えていたのだと悟って、少し気恥ずかしくなった。そりゃあ恋人と一緒ならどこでも楽しいだろう。酒もつまみも美味い壺の中にともにいられるのなら、きっと楽しいことだろう。仙人が住む美しい場所は、きっと居心地がいいだろうから。
「さて、俺は狸に化かされたのか、本当に仙境に続く壺があったのか、どっちだろうな」
狡噛がにやりと笑って楽しそうに言う。これはふざけているなと思ったが、下手な怪談を聞くよりも不思議な気分になったから、目覚ましにはなった。今夜はそれで良しとしよう。
「賭けるか? 狸か、壺中天か。負けた方が酒を奢ると話がつながっていい」
狡噛のその台詞に、俺は笑ってしまって銃を持つ手が震えた。けれどじきに手入れは終わり、俺はホルスターに銃を戻した。狡噛が見たのは狸だったのか、本物の壺中の天だったのかは分からない。けれどどちらであっても、不思議なことに変わりはなかった。それがたとえ疲れた末に見た幻であったとしても。
「俺の冷蔵庫で、ちょうどハイネケンが冷えてるんだ。帰ったらお前にそれをやるよ。何せ中国の故事をご教授いただいたんだからな。賭けはなしだ」
俺はそう言って、バンの中のシートを倒した。狡噛はしばらく老人を探していたようだったが、諦めたのかまた古書に目を落とした。
美味い酒とつまみのある美しい場所。そこに狡噛とともにいられたらどれだけいいだろう。けれど俺はきっと何かを恐れて、この出島に戻ってきてしまうのだろうけれども。
しかし何もかもが終わったら、その壺の中に入るのもいいかもしれない。そもそも潜在犯である俺たちにその資格があるのかは知らないが、その薬売りの老人が俺たちを認めるのかどうかは知らないが、なんとも夢のある話じゃないか。
俺は目を閉じて想像する。素晴らしい世界を、素晴らしく美味い酒とつまみを、そしてそこでは大切な人が側にいることを。酒を飲んでキスをするのもいいかもしれない。いや、そんなことくらい、今の俺には簡単に叶うことなのだけれども。
バンは木々の連なりを抜けて走る。空にはさっきと同じ大きな月がある。俺はそれを見て、俺も化かされてみたかったなと、そんなどうしようもないことを思ったのだった。