光の連なり 歯みがきを終えてリビングに行くと、ベランダに続くガラス窓が開いていた。俺はまた狡噛が煙草を吸いに出たのかと思い、蒸し暑い風が吹き込んで来るその窓をくぐる。するとやはり彼はスピネルを咥え、空になったハイネケンの瓶ビールを足元に置いていた。
狡噛が見つめているのは高層ビル群のきらきらとした夜景と、その裏側に位置する猥雑な地域のどぎつい色味のネオンだった。彼はそれを等しく愛しているように思えて、俺はそんな恋人の仕草に安心感を覚えた。
狡噛は等しく人を愛する。博愛主義者と言ってもいい。赤の他人のために大切な全てを捨てられる人間なのだ、彼は。槙島に出会う前の彼を知っている者ならきっとそれを理解してくれると思うが、あの男に出会ってしまった後の彼しか知らない者なら、それも難しいかもしれない。何せ狡噛は長くあの犯罪者に執着していたので、そのせいで自分が身につけてきた者全てを捨ててしまっていたので。
「親父も煙草を吸う時、窓を開けて吸ってたな。母さんに壁紙が汚れるからって怒られてさ」
俺はそう言いながら狡噛の隣に立った。彼はベランダの手すりに寄りかかりつつ、出島の夜景を見つめている。
「へぇ、とっつあんが」
「あぁ見えて結構な恐妻家だったんだよ」
俺は笑う。だからかな、母さんを真似て、俺はお前に厳しくしてしまうのかな。それしか知らないから、お前に外に出て煙草を吸えって言ってしまうのかな。狡噛は目を細めてその青い瞳で夜景を見つめる。道路は渋滞しているのか車のライトは線のように辺りを照らし、それは幾重にも重なって出島の足元を縛るかのように光を放つ。
「とっつあんはお前の母親について、俺には何も話さなかったな。ただ亡くなった時だけ、写真に手を合わせていたのは見た」
狡噛が煙草の煙を長く吐く。それは正面の光に照らされて、細かい粒子まで輝いて見えた。
「俺が参列を許さなかったから、そうするしかなかったんだろうな。青柳に後で聞いたところによると、たまに墓参りはしていたらしいけど」
母親は沖縄ではなく、祖母が管理する宜野座家代々のそれに入っている。俺は父が母の墓参りをしていたことを知った時には悔しい気持ちになったけれど、今思えば葬儀にくらい外出を許可してやればよかったと思う。けれどやせ細り、面影もなくなった母の最期の姿を、あの父に見せたくはなかったのもあった。彼を責めたくはなかった。俺も子どもなりに、あの人のことを考えていたのだろう。
「そうだったのか。そんなこと、俺には何も言わなかったよ。俺を息子扱いするくせにさ、大事なことは何も言わないんだ。結局は血の繋がりがないと駄目なんだなって思わされたな。ほら、俺には父親がいないだろう? だからとっつあんなんて呼んでさ。疑似的な家族になったつもりでいたのに」
狡噛は寂しそうに言った。だが、父は彼を買っていた。息子の俺に刑事としての責務を求めなかったあの人は、息子の恋人を息子よりも子どものように扱うことがあった。俺はそれに日々苛立ち、怒りすらしたけれど今なら分かる。あれはあの人の気まぐれで、狡噛はそれに付き合わされていただけなのだと。傷つかない親子関係を築くふりをして、俺にしてやりたかったことを、かつて俺にしてやっていたことを狡噛にしていただけなのだと。だから対等に付き合うふりをして、子ども扱いをやめなかったのだと。
「あの人はずるい人だったから。刑事として尊敬は出来るけど、親子になったら厄介な人だった」
俺がそう言うと、狡噛は複雑そうな顔をした。きっと彼は俺に父を慕っていてほしいのだろう。自分が尊敬した人を、慕っていたほしいのだろう。けれどそれは無理な話だった。俺は父を心から愛しているが、彼の愛し方は不器用すぎて子どもだった俺には難しすぎたのだ。けれど俺も今は父と同じ潜在犯だ。そして父を殺したのは、あの時へまをしてブラフに引っかかった俺なのだ、他でもない。
「思うに、お前はあの人のいい面ばかり見せてもらえてたんだろうな。ちょっと羨ましいよ。母さんは悪い面を見つめすぎて病んでしまったし、それを見た俺も同じようだった。あぁ、サプリはもうやめたけどな」
監視官時代に頼りきりだったメンタルケア薬剤は、一切を常守に処分してもらった。執行官宿舎には持って行かなかった。それの効力なんてもう信じられなかったし、色相が改善する者は、そんなものなくたって一般人に戻る。六合塚や唐之杜がそうだったように。俺のサイコ=パスはずっと高い値で安定している。自分が攻撃的だとは思わないが、命の危険に晒されれば銃を取って容赦なく犯人を殺すだろうことは分かっていたし、それはこのシビュラ社会ではやはり一般的な価値観ではなかった。
「なぁ、狡噛。親父は何か俺について言ってたか?」
不出来な息子について、何かを言っていたか? 俺がそう尋ねると、狡噛は考えるそぶりを見せて、「酔っ払った時に少しだけ」と言った。俺はそれにあの人らしいな、と思う。でも酒に強かった父が酔っぱらうほど飲むなんて、きっと弱っていた時なのだろう。だからこそ息子のように扱う同僚に、そんなことを喋ってしまったのだろう。
「自慢の息子だって、お前の幸せだけを望んで生きてるって。あと孫が欲しいとも言ってたな。俺と付き合ってる時点で無理な話だったのにさ。それも知ってたのに」
狡噛がいたずらっぽく笑う。そりゃあ男同士で子どもは出来ないが、昔将来について彼と話し合った時に、将来的に養子をもらおうかという話になったのを思い出す。もし槙島と狡噛が出会っていなければ、そんな未来があったのかもしれない。それは父の望んだ孫ではなかっただろうが、きっと喜んではくれただろう。
「蒸し暑いな、そろそろ俺は部屋に戻るよ」
狡噛が言う。彼のスピネルはもう明かりを消してしまっていて、携帯灰皿に吸い込まれていった。足元のハイネケンの瓶ビールを手に取って、狡噛は部屋に戻ってゆく。
俺はしばらく夜景を見つめていた。時折こうやって思い出さずにはいられないということは、俺は俺なりに父を愛していたのだろう。生前にうまく伝えられなかったのが、たったひとつの心残りだが。
夜景はずっと朝まで続く。出島は眠らない街だ。マーケットの猥雑な看板も、高層ビル群のライトアップも朝まで続く。人々は動き続ける。そこには笑みもあり、涙もあるのだろう。どうしても解決出来ない苦しみもあるのだろう。けれど目に映るのは、いくつもの光の連なりでしかない。俺はそれを見つめて、今父が側にいたら何を言っただろうと思う。そんなこと無理な話なのだけれども。そう、そんなことなど、思い出話にすらならない、俺の空想でしかないのだ。
俺は煙草の匂いを吸って、部屋に戻ることにした。部屋に戻ったら、きっとまだ煙草くさいあの男に、抱きしめてもらおうと思って。