澄んだネイビーが音を吸いこみ、星の光だけが響く夜更け。俺がなにげなく送ったひとことはス~ちゃんの声を連れて返ってきた。突然ふるえたスマホを耳に当てて着信に応じる。
「ごめん、起こした?」
「あっ、いえ、もしもし。凛月先輩。こんばんは」
機械ごしのス~ちゃんの声はちょっとだけ低くまろやかに聞こえる。俺の手の中で冷めつつあるインスタントコーヒーと、しずかな夜空とへ、ミルクみたいに溶けていった。
「ふふ、こんばんは」
「起きていましたので、だいじょうぶです」
「そう。よかった」
「どうされました?」
俺の第一声がもしもしじゃなくて、台詞の順序を乱されてしまったのだろう、ちょっとあたふたしている様子が目に浮かぶ。声さえも表情ゆたかなおもしろい子。俺が気まぐれに与えるものにだって、いちいち心を揺らしてくれるいじらしい子。そんなス~ちゃんだからこそ、俺も今ふと、『起きてる?』なんてメッセージを送りたいと思ったのだ。通話で返してくれたのはうれしい誤算だったけど。
「ながれぼし」
「え?」
「見えたよーって。そっちは見える?」
「どう……でしょうか」
ス~ちゃんはス~ちゃんで、完全に予想外、みたいな反応をしている。
「明け方くらいまでかな? ちょうど流星群のピーク? らしいけど」
「そうなのですね、全然知りませんでした……ああ、曇っていて星も見えませんね、あいにく」
カーテンを開ける音が聞こえた。今日はたまたま俺もス~ちゃんも個人のお仕事があって、それぞれ別のホテルに泊まっている。俺は地方ロケでちょっと離れた土地にいるから、都心にいるス~ちゃんとは見える空模様が違っていても不思議ではない。
「そっかぁ」
「それを教えてくださろうと?」
「だましちゃった?」
「そんなことは。ただ」
「んー?」
「Bedに入りながら、でも……いいでしょうか」
ス~ちゃんは遠慮がちにそう言った。いきなり俺から連絡が来たものだから、大事な用でもあると思って、わざわざ姿勢を正して電話をよこしてくれたのだろう。申し訳ないのと、いとおしいのとが同時に込み上げて、俺のくちびるから漏れたのは微笑だった。
ほんとは別に、ス~ちゃんに流星群のことを教えてあげようとか、そこまで考えていたわけでもない。誰かと過ごすことにすっかり慣れてしまった体と、自分以外の気配のない部屋、持てあました長い夜。窓辺に椅子を置いて一人ぼんやり見上げていた空に、流れていった光の尾は単純にきれいで、見つけたことに胸がおどって。夜が、色づく心地がして。そしたらなんだか、このことをス~ちゃんに伝えたい、と思った。ただ、それだけ。
「寝るとこじゃましてごめん」
「いいえ。凛月先輩のお声が聞けてうれしいです」
確かにいつものス~ちゃんよりもなんとなく間延びして、眠そうな声ではある。けれど、そのことばが本心なのも分かったから、その素直さに俺は耳がむずむずしてきたりもして。
「電話ありがとね」
「あっ、まだ星をご覧になりますか?」
俺が通話を切り上げようとするのを察してか、ス~ちゃんは慌てたように引き止めた。
「うん、どのみちもうちょっと起きてるだろうから」
「では。ふふ……私もご一緒していいですか? ながれぼし、もっと見ましょう」
照れているみたいな、あるいは甘えるみたいなあどけない笑みを挟んで、ス~ちゃんは言う。そうして俺の夜に、思いがけない光をそっと埋め込んで。
「じゃあ、つぎ流れたらス~ちゃんのぶんもお願いしといてあげよっか。なにがいい?」
「お願いですか。迷いますね」
「ぼふ」
「音が入りましたか。すみません、枕がとてもふわふわで……」
聞こえたままのノイズを俺が復唱したらス~ちゃんはまた照れたようだった。まっしろでいい匂いのシーツ、やわらかい枕に、弾むほどの勢いで体をあずけるス~ちゃん。その光景を想像すると、俺の心まで温かいふわふわにくるまれてしまうみたいだ。
「いいなあ。俺もふかふかの抱き枕と眠りたい」
「さすがにお仕事の時は持って行かれませんね」
「ちがうよ。そっちじゃなくて」
「……あ。それは、またの、機会に……いえ、ちがいます。ちがいますね。私は抱き枕ではありませんから」
「ふふふ、枕の自覚ありのひとだった」
「もうっ、凛月先輩もHotelの上質な枕がそこにありますでしょう」
窓の外ではいくつもの星がしゃらしゃらまたたいている。俺がくすくす笑うのどのふるえと、電子化されたス~ちゃんの吐息が重なる。それはすぐに収束して、部屋にはまたしずけさが訪れる。けれどもまったくの無音ではなくて。ス~ちゃんのもとから運ばれた波のような雑音が、俺の耳もとへ寄せては返している。
ぽつぽつと今日のお仕事のことを報告しあって、黙って、またたわいのない話をして、また黙って。しばらくして、ふと空の気配が揺らいだ。変わらない景色の端っこのほうを、音もなくつらぬいていった光のすじ。かと思えば、また同じ空に戻る。ほんのまばたきの間のできごとだった。
「あ、流れた」
つぶやいたけれど、ス~ちゃんからの返事はなかった。
「ス~ちゃん?」
スマホからはざらついた沈黙だけが流れつづけていた。その奥に、ときどき布の擦れる音と、かすかな規則正しい呼吸。
名残惜しさはなかった。たった一瞬で消えてしまうのに、鮮烈に焼きついて、この夜を特別にしてしまうながれぼし。俺は少しだけほほえむ。
星にお願いごとをする時って、ほんとは流れた瞬間に唱えなきゃいけなかった気がするけど、まあ少しくらい大目に見てもらえるだろう。ス~ちゃんのお願いは結局あずかり損ねてしまったので、代わりに俺が願っておく。
今は少しだけ遠くで眠る、たいせつな子の、今夜みる夢が幸福なものでありますように。
できたらそこに俺がいますように、と付け足したのは俺自身のお願いだけど、せっかちな星さんがそこまで聞いてくれたかはわからないので。あとは明日、ス~ちゃんに答え合わせしてもらうことにしよう。