雨宿り 雨が降っていた。口実はなんでも良かった。だからそれを理由に、ここへ留まるように言ってみたのだ。
「雨が止むまで、しばらくここへいてはどうだ?」
「? 我は、特に天候は……」
最後の一口を飲み終えて、魈が席を立った。今すぐにでもいなくなってしまいそうだった。今日はなんだか、魈ともう少し共に過ごしたい。そんな思いで言葉を紡いだ。案の定魈は気にするような素振りも見せず、少しだけ眉を寄せて困った顔をした。ここへ魈がいるのも、ただ茶を共に飲みたいという誘いに応えてくれただけである。その他には、何の用もない。
屋根へと振る雨粒の音が、二人の間へと訪れる沈黙を繋いだ。ポツ、ポツ、と雨がガラス戸を叩く。それ程激しくない雨だ。この程度なら、魈はこのまま外へ行ってしまうだろう。
「では、言い方を変えよう。もう一杯だけ茶に付き合ってくれないか」
「え、と……はい」
魈は少しだけ瞳をウロウロさせたが、頷いてくれた。やはり、言葉を飾らずに尽くすしか伝わらないようだ。
茶を淹れるから席で待っているように告げると、手伝うと魈は厨房までついてきた。湯が沸くまでの間の時間を、窓の外を眺め雨が降る様子を見る。鈍色の空。風はそれ程吹いてはいなさそうだ。
お互い何も話さなかった。いつもなら、次に会ったらしようと思っている話がたくさんあるのだが、実際に会うと忘れてしまう。会えただけで嬉しく、共にいられる時間がただ愛しい。言葉は不要ではないかとすら思ってしまう。単純に、隣にいてくれることが、嬉しかった。
「鍾離様、湯が沸きました」
「む」
鍾離は窓の外を見ていたが、魈はじっと火を見ていたようだ。「次の茶は何にしますか?」と棚を見ながら魈が尋ねてきたので「お前の好きな味にするといい」と返答したが、またもや魈は困った様子で、棚に手を伸ばしたまま固まってしまった。
「鍾離様」
「どうした」
「その……好きな味……はあるのですが……」
「うむ。それにすれば良いだろう」
「茶葉の名がわからず……」
缶にはそれぞれ茶葉の名が刻まれているが、魈はいつも鍾離が淹れる茶を飲んでいる為、名前がわからないと言う。
「ふ、はは。そうか。きっとこれだと思う」
茶葉をしまっている棚には数十の缶が置いてある。その中から一つを取り出して魈へと渡した。魈は缶の蓋を開け、茶器の中へそれを入れ、上から湯を入れた。徐々に茶葉が開き、良い香りがふんわりと鼻腔をくすぐる。
「……あっ……これ、です……」
魈はぽっと一瞬だけ頬を赤く染め、少しだけ破顔した。その茶は苦味が少なく、味もそれ程濃くはない。僅かに花の香りがする飲みやすい茶だ。人によっては味が薄いと好まれないのだが、魈へこれを出すと、飲むペースが些かいつもより早かった。きっと魈はこの茶が好きなのだろうなと思っていた。
答え合わせができた所で席へ戻り、再びゆっくり茶に口をつける。魈の淹れてくれた茶は、いつもより味わい深く美味しく感じる。
「鍾離様は、我に何か話したいことでもあったのでしょうか」
「なぜだ?」
「いえ……もう一杯だけお茶を……とのことだったので、何かあるのかと考えていたのですが……」
「ほう。何かわかったか?」
「……わかりませんでした」
「そうか」
鍾離は茶を一口飲んだ。魈は茶杯に手を添えたまま下を向いている。
「お前は……何か話すことはなくとも、俺と共に居たいと思うことはあるか?」
「え? ……それは……その……」
「正直な気持ちでいい」
「わ、我は……」
魈は何かを言いかけて、あ……だの、う……だの呻いている。一瞬だけ鍾離の目を見て、口をパクパクさせて一生懸命に言葉を出そうとしているものの、すぐに俯いてしまった。なぜだか泣き出しそうな顔だった。
「すまない。困らせるつもりはなかった」
「違います! 我は……話をするのが不得手であり……鍾離様の会話をする相手には相応しくないと思っています。ですが……」
魈がそこまで言って、一旦口を閉じた。
「続けてくれ」
「先程の、湯が沸くまでの間の時間は……ただ隣に立っているだけで……その……」
「ふむ」
「とても……穏やかな時間でした」
「……そうか。なら良かった」
ゆっくり頷いて相槌を打つ。その答えで良かったのかと、心配そうに魈は俯いたままだ。
「俺もこの時間を好ましく思っている。話をするのももちろん楽しいと感じるが、会話がない時間が嫌いな訳ではない。お前とのんびり茶を飲んでいる時間は、俺にとっては貴重な時間だ」
「はい……我にとっても、貴重な時間です」
「では今日は、そんな貴重な茶を飲む機会だ。そのような悲しい顔はしないでくれ」
「ぇ、あっ……」
自分がいかに眉を寄せているか気づいたのだろう。魈はぱっと瞳を開け、やっと琥珀色の目と視線があった。
「申し訳ありません……」
「謝ることではない。どうせなら、笑ってくれると良いが」
「わら……?」
魈はまた眉を寄せてしまった。むぐむぐと唇を動かしているが、笑みとは少し言い難い。
「すみません……」
「はは。無理に笑わずとも良い」
「鍾離様は、璃月港で生活されるようになってからよく笑われるようになったと思います。……我も、善処いたします」
鍾離のことを、魈が存外見ているということに気づいて驚いた。そんなに笑っている自覚はないが、魈と共にいると、不思議と顔が緩んでいるのかもしれない。
「少しずつでいい。楽しみにしている」
はい。そう返事しながら、息で冷まさずともよくなった茶を、魈が口に含んだ。ほっと息を吐き、茶杯を見つめている。
鍾離は特に魈の何かを変える必要はないと思っているが、魈が変わりたいと望むのなら、その手助けをしてやりたいとは思っている。
「はは」
「?」
茶の味が良かったのだろう。魈がふっと笑みをこぼした。それは、誰もが息を飲むような、綺麗で美しい微笑みだった。