やきもち 近頃、鍾離が望舒旅館へ来なくなった。忙しいのだろう。元々岩王帝君であった頃も、年に一度、生辰の祝いの席以外では基本的には会うことはなかった。鍾離が凡人になってから会い過ぎていたのだ。ぱたりと途絶えた鍾離の往来に、胸の内がぽっかりと空いてしまったような気すら感じる。
自分から璃月港に行けば、いつでも鍾離は歓迎してくれるのであろう。しかし用も無いのに訪ねるのは、些か敷居が高過ぎる。
鍾離様にお会いしたい。
そんなことを思ってしまう自分に嫌気が差した。そう思うのは、精神の鍛錬を怠っているからだと思い、今日は降魔の合間を縫って修行に励むことにした。
しかし、空いた穴は塞がらない。鍾離は今日も来なかったな。などと思ってしまう。
ならば、いっそのこと一目鍾離を見れば満足出来るかもしれないと、天衡山から璃月港を見下ろした。今日も璃月港は人で賑わっている。この中から鍾離を探すことは凡人ならば無理だろうが、仙人の目があれば容易である。
鍾離は女人と買い物に来ていた。何やら親しそうに話をしている。鍾離も微笑んでいる。やけに女人が鍾離の肩や腕に触れているのが目につく。二人は親しい仲なのだろうか。そんな事は知りたくない。全くくだらない。
鍾離様が凡人と一緒になることなど有り得ない。
鼻で一蹴してみたが、本当にそうか? と考え込んだ。鍾離も今や凡人だ。伴侶を得る事もあるのかもしれない。
あの女と? 鍾離様はあやつのどこに惹かれたのですか?
考えが止まらなくなった。自分と一緒に居て欲しいなどという傲慢めいた気持ちは持っていないが、何故か鍾離はずっと共に居てくれるものだと思い込んでいた。
そんな契約は交わしていない。鍾離が誰と共にいてもそれは自由だ。
ずっと気にかけてくださるのが申し訳ないと思っていた。望舒旅館へ来なくなったのは、いよいよ凡人として生活されるということの表れなのだろう。
ならば、いい機会ではないか。このぽっかりと空いた穴も、気のせいである。ずっと自分に向けられていたと思っていた眼差しも、表情も、声も、全部気のせいだ。それでいい。
そう思って、魈は天衡山から姿を消した。
望舒旅館へ帰らなくなって、どれくらい経っただろうか。オーナーにはしばらく帰らないことを告げておいたので、何も問題はない。自分の居場所がわからないように気配も消して過ごしている。璃月には身を隠せる場所が至る所にあるので、野宿にも支障はない。
そんなことをするのも無駄な気がしてきた頃、どうせ鍾離はもう会いに来る事などないのだからと気配を消すことをやめた。
ほっと息を吐く。やはり夜叉に感情など不要だ。旅人には親しみやすくなったなどと言われたが、それも無用の長物である。
さて、そろそろ降魔に戻ろうか……と思ったその瞬間、石珀色の光と共に目の前に人影が現れてしまった。
「魈……なぜだ」
開口一番、空気が震える程の圧迫感を感じた。元岩神は腕を組んで、鋭い眼光をしている。久しぶりに会った鍾離は、魈を見下ろしながらあまりに威圧的な声でそう言ったので、膝を折りそうになってしまった。
「なぜ、とは……」
「何故望舒旅館へ戻らず、気配を消していたのかと聞いている」
「……特に理由がある訳ではありませんでした。だから止めました」
理由はただ一つ、鍾離に居場所を突き止められたくなかった。それだけである。
「お前は理由もなくそのような事はしないはずだ」
これ以上尋問されても望むような返答は出来そうにない。なぜなら、魈も自分がどうしたいのか、自身の感情がよくわかっていなかったからだ。
「でははっきりと言います。鍾離様に会いたくなかった。それだけです」
「なんだと?」
ミシ、と辺りの地面にヒビが入った。鍾離が怒っているのは明白だ。指先が震えて仕方ない。
「俺が来るのが迷惑だったのか? だから望舒旅館へも戻らず気配を消していたのか? だったらそう言えばいいではないか」
「違います。そうではありません」
「ではなんだと言うのだ? 納得する返答を聞くまでここから逃げ果せると思わない方がいい」
あっという間に辺りに玉璋シールドが張られてしまった。硬い岩の壁を壊すのは魈とて容易ではない。何か鍾離が納得する答えを今出さなければいけないのだ。
「……鍾離様が凡人と仲睦まじく歩いている所を見かけました」
「そのような覚えはない」
「しかし、先日我は確かに見たのです。それに最近はめっきり望舒旅館へいらっしゃらないので、もう我の事は忘れて凡人の生活に完全に溶け込まれたと思ったのです。だから会わないようにしたまでです」
自分の口から出ていく女々しい言葉に吐き気がした。いつの間に自分はこんなことを覚えてしまったのだろう。
「俺が魈のことを忘れる? ありえないことだな」
「しかし現に、ここ数ヶ月鍾離様は望舒旅館へ来なかったではありませんか!」
「長期の仕事でお前の所へ寄れなかった。すまない」
「鍾離様が謝られることはないです。だから、我のことは放っておいてください。凡人の所へお帰りになられた方が良いと思います」
「だから、そのような者はいないと言っている!」
声を荒らげる鍾離の言葉がビリビリと空気を震わせ、息が詰まり気持ちで負けそうになる。鍾離の言葉に意を唱えたり逆らったりしたことは、これまで数千年顔を合わせた中ではないに等しいのだ。どうしたら鍾離は納得してくれるのかがわからない。
「鍾離様が……我に構うことはありません。時間の無駄です」
「魈……いくらお前と言えど、怒るぞ」
「もうお怒りではないですか。何をそんなに怒ることがありますか」
いよいよ地面に大きな亀裂が入り、割れてしまった。
「懇意にしている相手に不要だと言われたら、俺といえど心中穏やかではいられないからな」
「……我は……鍾離様の事は尊敬はしておりますが、決して好んでいる訳では……ありません」
「なに?」
鍾離の額に血管が浮かび上がった。怖い。怖くて恐ろしい。久々に恐怖を感じる。
「好きではないと言っています。むしろそうやって自分の思い通りに何でもなると思っている所が……嫌い、でした」
吐きそうで目眩がしてくる。鍾離は決して嘘を言っている訳ではないのだろう。しかし、今なら自分から離れてもらういい機会だと思った。俯いて嘘の言葉をどうにかこうにか並べたものの、頭がクラクラして足が竦む。
「魈、本当か? もう一度俺の目を見て言ってみろ」
「鍾離様のことなんか、嫌いだと言ってい……ンッ、鍾離様、ぁ」
はっきりと石珀色の瞳を見ながら言おうとした瞬間、口を塞がれてしまった。ぐっと腰を寄せられ舌に噛み付かれ、鋭い痛みが走る。
「魈、いい加減にしろ」
「な、何がでしょうか」
「そんなに泣きそうな顔をすれば、嘘だとすぐにわかるぞ」
「なぜ嘘だと思うのですか? 我は、鍾離様のことなど、ン、ぅ」
「聞きたくない」
流されてしまう。手を取られ、再度優しく口付けをされる。
ではあの女は何なのですか。我は一体あなたの何なのですか。
聞きたいけれど、口を開く度に塞がれてしまうので、聞くことができなかった。
「……少し前、視線を感じることが多いので見て欲しいと言われ、凡人の警護をしていたことがある。歴史の研究をしていると言っていたので、少し話し込んでしまった。そういえばあの時お前は天衡山から璃月港を見ていたことがあっただろう。もしやそのことを言っているのか……?」
「……わかりません……」
ふと鍾離からの周囲への圧迫感が解け、玉璋シールドも消えた。立っていることが既に限界だったので、がくんと膝が折れてしまった。しかし、鍾離の腕に抱き留められてしまった。
「しばらく望舒旅館へ行っていなかったのは、中々警護の合間を縫って会いに行くことが出来なかったからなのだが、もしやお前は……」
「知りません……わっ」
「そうかそうか」
何を納得されたのかわからないが、途端に上機嫌になった鍾離に横抱きにされてしまった。
「俺が曖昧にしていたのが悪かった」
「……何がでしょうか」
「魈。お前のことを好いている。誰よりもだ。そしてそれが覆ることはない。契約書を書いてもいい。俺が一言言えば良かったんだ。だから拗ねないで欲しい」
「我は拗ねてなど……」
「そうだな」
お前は寂しかったんだな。と言われて、何も返せなくなる。寂しいという感情は、とうの昔に捨てたはずのものだった。
「………………鍾離様」
「どうした、魈」
試しに名前を呼んでみると、鍾離に貰った音で名前を呼んでくれる。優しい声で、表情で、眼差しで、魈だけを見ている。これは気のせいではない。気のせいではないのだ。
「……なんでもないです」
「続きは帰ってから聞く。何年かかってもいいからお前の気持ちを聞かせて欲しい」
鍾離には本当に何もかも敵わない。この後望舒旅館へ帰って、もう一度はっきりと気持ちを伝えられてしまえば、魈はもう頷くことしか出来そうにない。
鍾離様のことなんか、ことなんか──……。