おつかれさま「! 鍾離様、いらしていたのですか」
「ああ、邪魔をしている」
先日、古い友人達との集まりがあるので一週間程璃月を離れると言って出て行ったはずの鍾離だが、あれから三日程しか経っていない。望舒旅館の最上階、魈が寝泊まりしている部屋に降魔を終え戻ると、そこには鍾離がいた。備えつけの簡素な椅子に腰掛けており、テーブルには茶器が置いてあった。ここで一人茶を飲んでいたようだ。
「……すまない。俺がいては邪魔になってしまうな」
「あ、いえ。新しい茶を淹れてきますので、少々お待ちください」
鍾離は全く立ち上がる様子もなく、珍しく憔悴した顔をしていた。きっと何かがあったのだろう。
厨房へ降りていき言笑に茶を淹れてもらい、再び部屋へ戻る。鍾離は先程と何一つ変わらぬ姿でそこに座っていた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
「……」
「……」
新しく淹れた茶を口に含み、鍾離は思い切り深い息を吐いていた。鍾離がここにいるということは、何か自分に用があるのだろう。しかし、鍾離は何も話を始めない。魈には鍾離がここにいる理由が、さっぱりわからなかった。
「……璃月港には、戻られたのですか?」
「堂主には予めあと四日程は家を開ける旨を伝えてある。それ故戻ってはいないんだ」
「さようでございますか」
つまり、あと四日程は璃月港に戻るつもりはないということだ。一人になりたいのなら、洞天に籠られるはずだ。つまるところ、やはり何か理由があって鍾離は望舒旅館にいるのだ。
「……しばらくここを拠点にされるのなら、宿を取ってきますが……」
「いや、いい。どこで俺がここにいるか漏れてしまうかわからないからな」
「なるほど。早計でした」
……と、いうことは……鍾離様はあと四日程この部屋におられるということなのか……?
つい聞いてしまいそうになって、口を固く結んだ。それは別に構わない。鍾離がここに居たいと言うならば、何日でも居てもらって問題はない。
しかし、一方で、なぜ? どうして? という疑問は尽きなかった。
「ふぅ……」
魈が戻ってから、鍾離は六度目くらいの深い息を吐いていた。けれど、何かを話し出す様子が一向にない。それはつまり魈に話せることではないのだと予想がつく。そうであれば無理に聞く必要もない。
「……そこで控えておりますので、何か我にできることがあれば、おっしゃってください」
鍾離の前で呑気に寝台へ横になる訳にもいかず、部屋の隅に座して軽く目を瞑った。鍾離が茶器を動かす音や、茶を飲む音が聞こえる。ガタ、と椅子の動かす音がして、次第に足音が近付いてくる。この場を離れられるのかもしれない。
「魈」
「!」
びくっと肩を飛び上がらせて、魈は瞬時に目を開く。同じ目線の高さで、すぐそこに、逃げられない程の距離に鍾離がいた。
「少し、触れても良いか?」
石珀色の目が、魈を捉えている。瞳に映る自分の姿は、申し訳ない程に狼狽していた。
「なっ、え、あ、はい、ふ、触れ!? ひっ」
半ば返事をしたところで、鍾離が覆いかぶさってきて、ぎゅう、と抱きすくめられる。鍾離は少しと言ったが、掻き抱くように、骨が軋むほど強く抱き締められた。
「……しばらく、こうしていたいのだが、駄目だろうか」
「……だ、駄目では、ないですが……」
ドッと心臓が跳ねて、それからドクドクと脈打つ音が、鍾離にも聞こえているのではと思う程にうるさく耳にこだましている。
鍾離は魈に体重を預けるようにして、肩口に鼻先を埋めている。翡翠色の髪が鍾離の頬に当たってくすぐったくはないのだろうか。
視線を下げて、鍾離の方をちらりと見やる。ここからでは髪しか見えず、鍾離がどのような表情をしているのかもわからない。
「……気分が安らぐ……。次はお前も共に連れて行きたいところだ」
「何か……あったのでしょうか」
鍾離がこれだけ疲弊しているのだ。何かがあったことには違いない。だから少しだけ、魈は理由に触れた。
「いや、何もない。皆相変わらずであった」
「……さようですか」
結局理由は魈に伝えられなかった。この神を癒し、労うことなど魈にはできないのだ。しかし、それでも何かできることはないかと恐る恐る手を動かし、鍾離に触れる。
「……おかえりなさいませ」
「ああ。ただいま」
鍾離の腕に、よりぎゅっと力がこもった。ただこうしているのが鍾離の望みであるのならば、あと四日間この体勢でもそれを受け入れようと、魈は瞳を閉じた。