名前を呼んで「降魔大聖、今日は共に任務に当たれて良かった。またいずれ」
「あの、帝君」
「では旅人、また会おう」
いつもなら望舒旅館でしばし茶を飲み休憩してから璃月港に帰るところを、旅人が口を挟む暇もなく常人ではないスピードで、帝君は帰離原に向かって去って行った。旅人も、なんとなく気まずい空気が流れているのを感じ取っていたのであろう。指で頬を掻き、どうしたものかと魈に尋ねてきた。
「魈……その、先生と喧嘩でもしたの……?」
「喧嘩……?」
喧嘩とは、お互い譲れないことがあり、折り合いがつかなかった場合にそうなるものだ。しかし、帝君と口論をした覚えはなく、不手際があり叱責された覚えもない。何について謝罪すれば良いかわからない状態なのだが、何か確実に帝君の機嫌を損ねていることはわかっていた。
今日は璃月で依頼があるということで久々に旅人に呼ばれ、任務に同行していた。きっと旅人は気を使って帝君も呼んでくれたのであろうが、今は少しだけ間が悪かった。それだけのことだ。
「我は帝君に対して怒りを感じるような事柄はない」
「うん」
「しかし……これは推測なのだが、帝君は……何かについてお怒りのようだった」
「そうだね。今日はいつもより口数が少なかったし、星岩が落ちる回数も多く感じたよ」
「ああ。それは我も感じた。戦闘においての連携はいつも通りなのだが……」
「やたらと降魔大聖って呼んでたよね。俺の前では魈って呼んでも大丈夫なのに」
「名前……」
「……魈?」
「呼び名とは、それ程重要なものだろうか?」
「えっ? それ魈が言う?」
「? なぜだ?」
降魔大聖、護法夜叉、金鵬、魈。様々な名前で自分は呼ばれているが、名前など記号でしかなく、本質が変わらないのであれば、呼称に差異はない。
「魈は、特別な名前なんじゃないの?」
「もちろん。これは帝君に頂いた大事な名前だ。しかし、我が降魔大聖と呼ばれようと、魈という名に変わりはない」
「鍾離先生のことは鍾離って呼んであげないの?」
「鍾離と名乗っていようが帝君は帝君に違いないからな」
「……そっか」
帝君はこれまでも偽名のようなものはいくつかあった。その内の一人が鍾離であり、岩王帝君は岩王帝君でしかない。鍾離と呼ぼうが、帝君と呼ぼうが、そこに違いはないと思っていた。
「で、魈は鍾離先生に降魔大聖って呼ばれてどう思ってるの?」
「どう、とは……」
わざとらしく呼ばれる『降魔大聖』という呼び名。最近二人で会う時も何故かその名で帝君は魈のことを呼んでいた。帝君はそれまで一度たりとも「魈」という名前以外で魈の名を呼んだことはなかったのだ。だから、違和感を感じる気持ちはある。
「複雑な気持ちだ。できれば、魈……と、呼んで欲しいところではあるが、帝君に進言する程のことではない」
「でも、鍾離先生の方はそうじゃないのかもしれないよね」
「……確かに、帝君からは『鍾離と呼んで欲しい』と三回程言われたことがある」
「……呼ばなかったの?」
「必要性を感じなかったからな」
……改めて思うと、帝君はもしや、それに対して怒っているのか……? 岩王帝君が? そんな些細なことで?
「先生、拗ねてるんじゃないの?」
「帝君が拗ねる……? 子供ではないのだぞ?」
「でも、凡人なんでしょ?」
「凡人……」
『今は璃月港に暮らす凡人として、鍾離と名乗っている。だから、鍾離と呼んで欲しい』
帝君はそう言っていた。しかし、実際にあの方に会うのは望舒旅館か、或いは帰離原であり、璃月港で会うことは基本的にはない。だから、実際に鍾離と呼ばざるを得ない場面に出くわしたことはなかった。
「魈に名前を呼んで貰ったら、鍾離先生嬉しいんじゃないかな」
「名を……呼ぶ……」
「魈もそうなんでしょ?」
『魈』
風に乗って、柔らかく鼓膜へ響く優しい声。何千年と変わらない、モラクス様にいただいた名前。その名を呼んで貰う度に、自分は魈という個体なのだと、存在を確かめていた頃を思い出す。
「そうだな。……旅人、我は行ってくる」
「うん。頑張ってね、魈」
「ああ」
帝君はもう璃月港に着いてしまっただろうか。何かを変えるのは難しい。でも、今からでも遅くはない。
「帝君」
「……降魔大聖か。何か追加の用でもあったか?」
仙術を使い、すぐ様鍾離へと追いついた。石珀色の瞳を伺えば、幾分か色を失い、冷たい視線を魈へと向けていた。
「はい。大事な用を……思い出しました」
「ほう?」
「……鍾離様」
名を呼んだ瞬間、驚いたように鍾離の瞼が瞬かれた。
「鍾離様は……我のことを、また魈と呼んでくださいますか? それとも……凡人の鍾離様は、ずっと我のことを『降魔大聖』と呼ぶのでしょうか……鍾離様」
意図的に、名前を呼ぶ回数を増やしてみた。その度に、鍾離の瞳に温度が灯っていくのがわかった。
「……鍾離様? その、呼び慣れぬ故、たまに帝君と呼んでしまうこともあるかもしれませんが……鍾離様がそう呼んで欲しいと仰ったので、我は、善処しようと……」
鍾離は何も言わずに魈をじっと見ている。段々居た堪れなくなって、逃げ出したくなって、やがて口を噤んでしまった。
「魈」
「わっ」
突然鍾離に手を引かれ、その胸に抱き込まれてしまった。鍾離が少し屈んで、魈の耳に声を届ける。
「魈……魈、魈」
「鍾離様、お、おやめください」
「魈」
「ひっ」
何度も何度も直接名を吹き込まれ、その度にぞわりと全身に鳥肌が立ち、膝が崩れそうになる。
「もう一度、名を呼んでくれないか」
「……し、鍾離様」
「うん。やっと呼んでくれて俺は嬉しい」
「鍾離様の意図を理解するのが遅くなり、すみません……。しょ、鍾離様も……」
「ん」
「我のことは……その、魈と……お呼びください」
「ああ。そうだな……魈」
ゆっくり、はっきりと音になって名前を呼ばれる。久しぶりに自分の名前が魈であることの意味を噛み締め、もう一度名を貰ったその方の名を呼びたくなった。
声に出して耳へと届けたその音を聞いて、鍾離はまた嬉しそうに、魈の名を呼んでいた。