No.17甘くない・不機嫌の理由・隣で 風見裕也は辟易していた。
最も尊敬する上司・降谷零が潜入していた犯罪組織が瓦解してしばらく経ち、ようやく後始末も済んだ頃。風見は彼と、警察庁でとある事件の聞き込みをしていた。
トリプルフェイスを演じていた降谷は、晴れてひとつの人格へと戻った。本来の彼はバーボンのような狡猾さも、安室のような爽やかさも持ち合わせた人間だったのだが――
目の前の降谷は、これ見よがしに長い足を組み、眉間に皺を寄せ不機嫌さを隠そうともしない。人前で感情を露わにするなど、彼らしくない態度に風見は気が気ではなかった。彼の不機嫌の理由は、目の前にいる二人の若者だ。
「それで、犯人に関する資料はこれだけ?」
「ああ、オレの推理によると……」
降谷のオーラを気にも留めず独自の推理を繰り広げるのは、高校生探偵の工藤新一。彼が警察庁に顔を出すようなった当初は公安管轄の事件になぜ高校生が口を出すんだと思っていたが、今やそんな突っ込みをする気は起きなくなった。
そして、工藤の隣に立つのは宮野志保。どこからスカウトしてきたのだろうか、若くして降谷の担当事件の科学捜査を請け負う女性。彼女の隣は決まって降谷が確保している。
そう、工藤が来庁する時を除いて。
「ちょっと、この写真見て」
「お、どれだ?」
宮野に声を掛けられ顔を近づける工藤に、降谷はどんどん顔を顰めていく。芸術品と見紛う顔に美しく寄った眉間の皺。彫刻のように刻まれ元に戻らないのではと思った矢先、降谷は片手を振り上げ、机をバンと鳴らした。
「何ですか?」
「何よ」
話を中断させられ驚く二人を、降谷は交互に睨みつけた。宮野は降谷に負けず思い切り眉を寄せ睨み返す。美人の迫力に見ているこちらがたじろぎたくなるが、降谷は意に介さず口を開いた。
「君たちは距離が近すぎる」
突然の異議に対し、二人は目を点にすると。
「やっだな〜! 降谷さん、考えすぎっすよ!」
「そうよ。私たちそんな甘い関係じゃないんだけど」
「そうそう。オレ、こいつのこと女として見てないんで」
兄弟のように同時に肩を竦め、降谷の言葉を笑って流したのだった。
庁内にいる人間は、宮野の隣をキープする降谷から圧を感じるのか、誰も彼女に近づこうとしない。
宮野も不用意に他の職員と懇意になることはないのだが、この高校生探偵は別らしい。気を緩めているのか、気がつくと工藤が至近距離に立つことを許している。
降谷はその様子を見て、どういうわけかいつも不機嫌になるのだった。
**
工藤が持ち込んだ一つの事件は、事の一端に過ぎなかった。あれよあれよと芋づる式に組織的犯罪工作が明らかになり、日中は現場出動、夜は庁舎で捜査会議や証拠品の解析が続いた。次々と舞い込む仕事に、休むこともままならなくなっていく。
そして、気が付くこと三徹目。
風見達は、少しずつおかしくなっていた。
「ちょっと、近づきすぎよ」
手元の資料を覗き込む降谷に宮野は抗議の声を上げる。
捜査を始めて二日目、三日目と。降谷が彼女と話す時の距離はどんどん近くなり、四日目の今、鼻先に彼女の米神を捕らえるほどになっていた。
宮野の抗議に降谷は瞬く間に不機嫌になると、至近距離のまま彼女を見下ろす。
「工藤君とは距離が近いくせに」
「はあ?今あの推理オタクは関係ないでしょう」
姿勢を崩さない降谷に、宮野の方から後ずさる。側のテーブルに手をつくと、降谷のもとを離れていった。
「ちょっと、なんで追いかけてくるのよ!」
「君が逃げるからだろ」
西洋画のような美しい男女がテーブルの周りをぐるぐると回っていく。広い会議室、他の職員がいないからと言ってやりたい放題だ。
――セクハラですよ降谷さん。女性を追いかけ回すなんて、あなたは小学生ですか?
風見は、エネルギー不足でよかったと心底思う。二人を止める元気があれば、上司に向かって無礼極まりない発言をしてしまっただろうから。
何周か回った降谷は、とうとう宮野に追いつき腕を掴んだ。
「何で逃げるんだよ!」
「は、離して!」
腕をひねり上げにじり寄ると、宮野は観念するように目をぎゅっと閉じた。
「お風呂! ずっと入ってないのよ!」
その声に、彼の動きがはたと止まる。
「あなただって同じでしょう?」
降谷は掴んでいた腕をゆっくりと離した。風呂に入っていない、それは二人だけでなく風見も同じだ。なるほど。確かに日を跨ぐ捜査に慣れた刑事ならまだしも、年頃の女性なら身体の臭いが気にならないわけがない。
一人で納得していた風見は、目の前の二人を見て固まった。
宮野は羞恥で赤面していた。それを見て降谷も、頬を薄く染めていたのだ。
鈍感な風見でも察する。
二人の間を流れるのは、篭り切った会議室の空気に相応しくない、何か、桃色の……
――なんだ、この空気?
「一度、風呂の時間にしませんか?」
浮かんだ疑問に解を出す前に声を上げた。二人とも、冷や水を浴びて落ち着いてくれと願って。
「そうね。もうそろそろ女性の時間も終わるし」
宮野は我に帰ると、そそくさと会議室の出口に向かった。現在庁内の女性風呂は故障中であるため、時間交代制で女性も男性風呂を使うことになっているのだ。
「覗かないでよね、おまわりさん」
降谷に向かって皮肉を言った宮野は、いつもの小生意気な研究者に戻っていた。
**
頭の揺れで目が覚めた。一瞬地震かと思ったが、自重でバランスを崩しただけだとすぐにわかった。どうやら数秒意識を飛ばしてしまったらしい。
隣の上司も、デスクに肘を付き仮眠の姿勢をとっていた。風見が目を向けると、彼はタイミングよく立ち上がる。
「風呂に入ってくる」
――はて、もう風呂は使えただろうか。
降谷の姿が遠くに消えるのを感じながら、風見は朧げな思考を巡らせた。
「きゃあああ!!」
女性の金切り声に今度こそ目を覚ます。一瞬で覚醒した風見は立ち上がり廊下に出た。
「どうしたんですか!」
廊下に出て声の出た方に走ると、降谷が風呂場の前に立ち尽くしていた。すぐに扉が開き、服を整えた志保が姿を現す。その様子から、風見はすぐに状況を理解した。
「風見さん、この人逮捕して! 脱衣所を覗いてきたんだから!」
宮野は風見を見るなり顔を真っ赤にして怒鳴った。
「だから、悪かったって言ってるだろ。よく見えなかったし、わざとじゃない! 軽犯罪法一条二十三号には該当しない」
「人の素っ裸をみて何開き直ってるのよ!」
「素っ裸……って、下着は付けてたじゃないか!」
「やっぱり見たんじゃない! 最低!」
睡眠不足からか、動揺してるからか。いつもなら絶対に見抜けただろうカマかけに引っかかった降谷は、返す言葉もないといった様子で口をぱくぱくと動かした。
騒ぎを聞きつけ他の職員がだんだんと集まる。部下達の前で降谷の醜態を晒すわけにはいかない。どうにか上司の尊厳を守ろうと風見が働かない頭をぐるぐると逡巡させる横で、降谷は苦し紛れに口を開いた。
「大丈夫だ。僕は君のこと、女として見てないから」
降谷が絞り出したのは、数日前工藤が言ったのと同じ台詞。工藤に対抗するためだろうか。それにしても状況が悪すぎる。降谷もそう気づいたのか、自分で言っておきながらバツが悪そうに口を噤んだ。
志保はしばらく黙っていたが、ぷいと顔を背けると、集まった職員をかき分けその場を離れていった。
ひとまず場が収まったことにほっと一息ついた風見は、去っていく彼女が恐ろしい顔をしていたことに気づかなかった――
**
男女交代の時間が過ぎ一風呂を浴びた風見達は、捜査会議に出席していた。会議室から出た後、職員らが前を歩くのを見届けた降谷は何やら腰をモゾモゾと動かす。
「降谷さん、どうしたんですか?」
風見は背後から声をかけた。他の部下の前では颯爽と歩いていたのに、自分の前では気を許しているのかと思うとどこか嬉しい気持ちになる。
「尻が痛いんだよ」
「御尻……ですか?」
「そうだ」
降谷は先ほどの会議で明朗に話していたのが信じられないくらい、沈んだ声で答えた。
「どのような痛みでしょうか」
「皮膚がヒリヒリするんだが原因がわからなくて……会議前にトイレで見てきたんだが、よく見えなかったんだ……」
「はあ……」
気の利いた返しが思い浮かばず曖昧な声を出すと、降谷は何か閃いた様に立ち止まる。
「そうだ。君が見てくれないか」
「は……私が、ですか?」
聞き間違いだろうか。そう思ったが、降谷の長い指が真っ直ぐに示すのは、男性用の仮眠室だった。
――気を、許しすぎじゃないか。
密室に二人で篭り、今更ながら青ざめる。部屋を満たすのは、汗が混じった男の臭い。その中で、小ざっぱりした見目麗しい上司がカチャカチャとベルトを外すのは奇妙な光景だ。彼の手が下着に掛かったところで、風見は思わず目を逸らす。
気がつくと、降谷は二段ベッドの下段にうつ伏せに寝転がっていた。
「どうだ?」
風見はしゃがみ込むと、恐る恐る上司の尻に目を向けた。視界に入るのは程よく鍛えられ、きゅっと引き締まった美尻だった。皮膚が痛いという訴えを思い出し、褐色の表面をまじまじと観察する。
「赤くなって腫れてます」
「腫れてる?!」
「失礼します!」
原因を特定しなければ――風見は使命感でぐいとパンツを引っ張ると、裏地に赤い粉が塗されているのを発見した。
「どうやら下着に刺激性の物質が付着していたようです!」
「なんだって?」
「公安を狙った内部犯による犯行かもしれない……鑑識に成分鑑定を依頼しますか?」
風呂に入った隙を狙いパンツに細工するなど、紛れもなく悪意のある行為だ。動機が降谷の立場によるものであれば言語道断。鑑識課の手は空いているだろうか……そう考えた瞬間、仮眠室の扉がいきなり開いた。
「その必要ないわ」
「わあ!」
現れたのは宮野だった。化粧を直したのか、肌は光沢を帯び艶々と輝いている。
「カプサイシン、ジヒドロカプサイシン、ノルジヒドロカプサイシン……」
ルージュが引かれた唇から紡ぎ出された成分に、風見は目を白黒させる。
「まさか……唐辛子?!」
「ええ。前に江戸川君にしたお仕置きと同じ。唐辛子を塗ったのよ」
カプサイシンが引き起こすのは痛みや灼熱感。こんなものが皮膚に触れたらひとたまりもないだろう。なぜ、彼女がこんなことを。慌てる風見を尻目に、宮野は降谷に向かって悪魔のような微笑みを湛える。
「あなたが工藤君のこと羨ましがっていたから。同じことして欲しかったんでしょう?」
降谷は尻も隠さず、彼女を上目遣いで睨みつけた。
「……男風呂の脱衣所に入って、男の下着漁って、何考えてるんだよ、君は」
「あら、私たちの関係、甘くないって言ったじゃない」
「甘くないどころか辛すぎだろ!」
降谷はうつ伏せのまま思い切り怒鳴ると、はあはあと息を整える。
「君は科学者のくせに、男の身体機能に無頓着すぎないか……」
「何よ、それ」
「もし僕が、パンツを後ろ前に履いてたらどうなっていたと思ってるんだ……」
もしも、この禍々しい粉末を自分の大事な息子の先に塗られたら――想像しただけで風見の下半身はキュンと疼いた。
「あら。その時は、私が責任取ってあげる」
――なんだって?
内腿に力を入れた風見は、宮野の予想外の言葉に顔を上げた。徹夜明けの幻聴か。そう思ったが、目下の降谷も風見と同じように驚きの表情を見せている。
二人の男の視線を受けた宮野は、一瞬頬を染めると、爽やかなソープの香りを漂わせその場を去っていった。
彼女の声と香りが仮眠室に残留し、降谷の尻をふわりと擽る。彼の顔が綻び、尻のように赤くなっていく。
ああ、やはりこの空気はまずい。我々は一刻も早く、事件の捜査を進め睡眠時間を確保し、正気に戻らなければならない。風見は立ち上がると、眼鏡をキラリと光らせながらブリッジを中指で押し上げた。
「降谷さん、そろそろパンツ履いてください」