こひの成り立ち1
胸の鼓動。発汗、指先の震え。この症状は何だろう。
アレルギー、熱病。あるいは――
「見て、イケメン!」
東都大学第七号館の隣、食堂前でよく聞こえる黄色い声。授業を終え、前を通りかかった私は顔を上げる。その先には、周囲の女子大生たちの視線をさりげなく集める男、安室透が立っていた。
目があってしまいそうになり、一瞬で逸らす。ラフなパーカーにジーンズ姿の彼は周りの学生に違和感なく調和していて、とても三十すぎだとは思えない。
「あ、安室さんじゃない!」
園子さんが手を降ると、一緒にいた蘭さんも足を止めた。安室スマイルを携えながら歩いてくる男の顔を見ないよう、私は頑なに視線を落とす。
「こんにちは。蘭さん、今日も工藤君を借りますよ」
「どうぞどうぞ! 新一、学食で待ってるって言ってました」
蘭さんに頷いた彼の顔が、次に私に向けられる。
「志保さんも、ちょっといいかな」
名指しされ、ええ、と返す。脈拍が速まっているのに気づかれないように。平静を装いながら。
*
工藤君と私は、東都大学の学生だ。蘭さんと園子さんは別の大学だけれど、工藤君に会いに来る蘭さんと、東都大のテニスサークルに所属している園子さんとは、このキャンパスで何かと一緒に過ごす仲だった。
そんな私の平穏な大学生活に時折出没するのが、ポアロ店員の安室透。本来の身分が公安警察の降谷零だと知らされたのは、黒の組織がなくなる直前のことだった。
「やっぱり、この男が怪しいっすね」
「君もそう思うかい?」
食堂内の最奥、声を潜めた彼らがテーブル席で繰り広げるのは事件の話だ。警察の救世主として表舞台に舞い戻った工藤君は、時折安室さんに捜査の助言をしていた。ついでに私も呼ばれて、意見を聞かれることもしばしば。
「じゃあ、今日も貴重な意見ありがとう。志保さんも」
「別に」
不意に、右隣に座る彼に呼ばれびくりとする。この奇妙な捜査会議には、最初は名探偵さんのしたり顔を見るのも悪くないわと思いながら参加していた。けれど、今では安室さんの発言や反応にいちいち反応してしまう。
それどころか、声を聞くとむずむずして。今日なんて彼がいる側の右半身が火照って、私は正気でいることができない。
ちらりと、立ち上がった彼を見上げる。吸い込まれるような深い蒼の瞳に、浅黒くきめの細かい肌。灰原哀の頃は怯えて見ることのできなかった顔。組織がなくなった今でも、直視できないままだった。
彼らと解散した後、近くのカフェにいた蘭さん、園子さんと合流する。安さが売りの学食とは違い、デザートの種類が豊富な隠れ家風のカフェテリア。二人とも、期間限定の甘夏ケーキを食べていたところだった。
「今、ちょうど志保さんの話してたのよ」
「あら、悪口でも言ってたのかしら?」
珈琲と共に席につくと、園子さんのしたり顔に迎えられる。軽口で返した私に、蘭さんが微笑んだ。
「志保さん、安室さんはどうなのかな? って」
「……は?」
突然の問いに、頭がフリーズする。脈が早打ち、息が上がってくるのをどうにか抑えた。
「どうって、何よ」
「だーかーら! 決まってんじゃない。異性としてどうなの? ってことよ! 志保さん彼氏いないんだし、安室さんなら美男美女でぴったりじゃん!」
「はあ……大学生って本当に恋バナが好きよね。男と女がいればすぐくっつけようとして……」
園子さんも蘭さんも、自分たちが恋人と安牌だからか、人の恋路に首を突っ込むのが趣味なのだ。二人だけじゃない。同じ研究室の仲間だって、口を開けば医学の次には誰と誰の仲が怪しいだの付き合っているだの、そんな話ばかり。中には、恋の話に乗りたいから適当に好きな人を見繕うなんて話も聞く。全く、若者の恋愛至上主義にはほとほと呆れるばかりだ。
「異性として……なんて、よくわからないわ。私は、新しい病気に関する研究で忙しいの」
「さっすが医学部! どんな病気?」
「特定の抗原で過剰な免疫反応を引き起こす……言ってみれば、新種のアレルギーね」
「アレルギー? 何に反応するの?」
園子さんと蘭さんに興味津々に聞かれ、私はカチャと珈琲カップを置いた。
「とある人間が抗原になっているのよ」
「人ぉ?」
訝しむ園子さんに「ええ」と返す。何も、アレルギーは食物や花粉に限ったことではない。世界では水や色の染料など、珍しい物質で発症する例もあるのだ。
「ええ。特定の人が近くにいると発症する、体温の上昇、不整脈、毛細血管の拡張……」
「えっ、体温の上昇と……? 不整脈って、ドキドキするってこと?」
「ドキドキ? ええまあ、そうね」
「毛細血管の拡張って?」
「ようするに、皮膚が赤くなるのよ」
私の回答を聞いた二人が、同時に顔を見合わせる。そして、蘭さんが曇りなき眼を私に向けた。
「それって、その人に恋してるってことじゃないの?」
「……恋?」
――恋、こひ、KOI?
「そうよ!」
脳内で必死に情報処理している間、園子さんがテーブルをばしんと叩く。
「一緒にいると体が熱くなったりドキドキしたり顔が赤くなったりするのは、恋に決まってるわ!」
「……え?」
力強く言う彼女に、私は開いた口が塞がらなかった。
2.
こい【恋】コヒ:一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。
(出典:広辞苑 第七版)
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分厚い辞書を胸に抱いた私は、地下室のベッドに寝転がりながら、途方もない気持ちで天井を見上げていた。
どうやら、私が新種の病かと思っていた症状は、恋というものらしい。ちなみに、医学用語辞典第三版に用語の記述はなし。やむなく広辞苑を手に取ったところ、冒頭の結果となった。
身体をうつ伏せに反転し、もう一度該当ページに目を通す。一緒に生活できない人……それはまあ、当てはまっているとして。強く惹かれるって? 切なく思うって? その意味が上手く飲み込めず、堂々巡りの禅問答となる。
「恋、ねえ……」
口に出して呟くと、なんだかこそばゆい。同時に、大声で否定したい自分もいる。私が、あんなにモテモテの男に、他のミーハーな女子大生と同じように惹かれてしまうなんて!
面倒になって思考を放棄し、とりあえず昼食を取ろうと部屋を出ると、階上から博士の話し声が聞こえた。不思議に思いリビングに上がると、視界に鮮やかな金糸が飛び込む。
「安室さん、来てたの?」
「ああ。サンドイッチの配達にね」
彼はポアロのエプロン姿だった。私は偶然に驚きながら、帰ろうとする背中を追って廊下に出る。玄関口で二人きりになってしまい、とりあえず何か話さなければと口を開いた。
「……家の中にまで上がってきて。また事件を持ってきた訳じゃないわよね? 工藤君みたいに、証拠品の解析依頼とか」
「いや、少し世間話をしていただけだよ。博士の発明は勉強になるからね」
彼は靴を履くと、くるりと私の方に向いた。
「それとも、もし僕が手伝いを頼みに来たら、君は協力してくれるのかな?」
瞼を細められ、どくりと血がざわめく。
「そうね……まあ、報酬次第じゃないかしら」
「はは、そっか」
いつも以上につっけんどんになる私とは対照的に、彼は爽やかに去っていく。
一人残された玄関で頬に手を当てると、熱が出ているのではないかと思うくらい火照っていた。
やっぱり。彼と一瞬でも接すると脈拍が上がり、呼吸が乱れ、体温が急上昇する。
……でも、嫌じゃない。それどころか、私はこの時間を喜んでいる……
その後博士と一緒に食べたサンドイッチは妙に温かく感じて、上手く咀嚼することができなかった。
*
この気持ちはやっぱり恋なの? 恋って何? 手持ちの本を読み漁っても流行りのOpenAIに尋ねてみても、納得のいく答えが出てこない。恥を忍んで、園子さんに恋愛感情について学びたいとそれとなく相談してみれば、参考文献として少女漫画を大量にプレゼントされた。
地下室の部屋に並べ、片っ端から表紙を開く。何作か読み終えると、ようやくいくつかの共通項が見つかった。
どうやら年頃の女子というものは、壁ドンされたり、出会い頭にキスされたり、髪についていた芋けんぴをとられたりすると恋に落ちてしまうらしい。
今までなら一笑に付していたような、私には共感のできなかった世界。それなのに、物語のヒーローに彼を当てはめながら読んでいると、顔からはみ出るほど目の大きい主人公達にいちいち感情移入して、胸の鼓動が止まらなかった。
きっと私は、彼に恋をしている。
自覚してから、私は変わった。
朝起きると、世界が明るい。鏡に映る肌はつるつる輝き、髪は天使の輪ができるくらい艶めいている。
彼の顔を思い浮かべるだけで、心が浮き立って。変わり栄えのない日常が彩り豊かになる。
今までは恋というものがあるとすれば、眼鏡の少年に抱いていたような、切なく苦しい思いの事かと思っていたのに。恋って、こんなにときめいて、こんなにくすぐったくて、こんなに幸せな気持ちになるものなのかしら?
そんなことを考えながら学食内をスキップしそうな勢いで歩いていると、隣を歩く工藤君が、私を不審気に見た。
「宮野、最近なんかいいことあったか?」
「え?! 別に、何もないけど。どうして?」
「いや、妙に機嫌いいなと思ってよ」
ドキリと心臓が鳴る。彼の言うとおり、海の中に閉じ込めた初恋から一転、地上で掴んだ第二の恋は、加速して止まらなかった。
まず、彼が大学に訪れる日をさりげなく工藤君から聞き出すようになった。その日はいつもより早起きして、丁寧にメイクをし、とびきりお気に入りの服を選ぶ。気合いが入っていると思われないように、派手すぎず、でも小綺麗に見えるように。
約束の時間が近づくと、ちらりちらりと時計を気にして、彼が来る直前には、トイレにファンデを直しに行って。
そんな恋に恋する毎日を満喫していた私にも、一つ問題があった。それは、彼の前だと今まで以上に緊張して、上手く話すことができないということ。せっかく身なりを整え会う機会を増やしても、避けてしまっては仲を深めることなんてできない。
「安室さん、七号館の図書室に寄ってから来るってよ」
食堂内の定位置で、スマホをスワップしながら工藤君が言う。もしかして、二人きりになるチャンスかもしれない。私は意を決して立ち上がった。
「私、迎えに行ってくるわ」
「え、わざわざ?」
恋する私に、工藤くんの声は届かなかった。今日こそは、彼と目を合わせてスムーズに会話したい。そう思い食堂の裏を抜け、七号館に繋がる人気の無い小道を歩く。石畳を慎重に踏みつつ、ぶつぶつと会話の練習をしながら歩いていると、角を曲がったところで眩い金の頭が見えた。
「安室さん」
直後、甲高く震える女性の声が耳に届く。声の主は、彼の真正面に立っていた女子学生だった。
髪を華やかに巻き、精一杯のお洒落をした女性が、緊張の面持ちで一人の男性と対峙している。
私はこの光景を知っている。自宅で予習した、少女漫画にあった世界――
「私、安室さんがポアロで働き始めたときからのファンで……」
その女性は顔を真っ赤にしながら、彼に一歩近づいた。
「友達からでいいので、連絡先交換してもらえませんか?」
二人に気づかれないようその場に立ち尽くしていた私は、見ていられなくなり目を瞑る。すぐに、彼の息を吐く音が鼓膜を震わせた。
「……ごめんなさい。僕、彼女がいるんで」
――え?
聞いた言葉が信じられず、恐る恐る目を開くと、既にその場には彼も彼女もいなくなっていて。
ようやく意味を呑み込んだ時には、足元にぽかりと巨大な穴が開いた気がした。
深い闇の中に、真っ逆さまに、落ちていく。