寝言・アイスクリーム・「私はパス」「私はパス」
彼女の怜悧な声が、広いリビングに響いた。
――
よく晴れた休日。ポアロのバイトを切り上げた僕は、阿笠邸にやってきた。コンビニで購入した棒付きバニラアイスの箱を手に下げて。
「あー! おやつ買ってきてくれたのかよ!」
「わーい! ちょうどお腹すいてたの!」
「安室お兄さん、ありがとうございます!」
計算通り、子ども達がわらわらと群がり、喜んで唐突な訪問者である僕の居場所をつくってくれた。アイスの箱は六本セットで、ちょうどこの家にいる人数と同じ数だ。子ども達三人、博士、僕、そして――
「私はパス」
灰原哀。最後の一本を渡そうと思っていた彼女は、そう言って地下室に降りてしまった。
*
アイスを食べ終えた子ども達は、いつのまにかTVゲームに夢中になっていた。
僕の目の前にあるのは、ダイニングテーブルにぽつんと置かれたままのバニラアイス。包装袋についていた霜は溶け、机を濡らしている。袋の中のアイスも、表面が滲みてらてらと光りだしていた。
六月の、冷房が必要のないくらい絶妙な気温。涼しくもない室内で、このままでは溶けてなくなってしまうだろう。
そう思うのに。僕は未練がましくアイスをしまうことが出来なかった。
彼女が戻ってくるかもしれないから? やっぱり、アイスいただくわ。そう言って彼女が、僕の隣に座るかも知れないから?
「アイス、しまわんのかね」
博士が、彼女の代わりに僕の隣に座った。
「振られてしまいました」
「哀君にかね?」
「ええ」
子ども達の騒ぎ声に隠れながら、ふっと口元を緩める。
「彼女は、なかなか氷のようで……溶かすことは難しいんでしょうか」
今でこそ彼女は仲間の前で無邪気な顔を見せているが、慣れるまでは随分時間がかかったと、以前小さな探偵が溢していた。その心を溶かすヒントを彼女の保護者に求め、ついつい弱音を漏らしてしまう。
「氷とは……ちょっと違うんじゃないかのお」
「え……」
博士はそう言うと、茶目っ気溢れる顔をした。
「哀君は、溶けたらアイスみたいに甘いんじゃぞ」
トントンと、階段を上がる足音がする。僕も、博士も彼女の気配を察知し、同時に口を噤んだ。
「博士。アイス食べたの?」
「ギクッ」
「よかったわね? 今週のおやつはこれで終わりよ」
「トホホ……」
肩を落とす博士を尻目に、彼女は冷蔵庫から麦茶を取り出した。一瞬、アイスを食べに来たという淡い期待をしたが、どうやら喉が渇いただけのようだ。
「あれがアイスみたいに甘い、ですか?」
「塩アイスじゃよ……哀君はツンデレさんだからのお……」
声を潜める僕達に、彼女が顔を向ける。その視線が僕を捉えていると気づくのに、時間はかからなかった。
「ねえ」
「え?」
「……悪いけど、まだ、心の整理がつかないの」
彼女の発言にはっとする。
『君の、家族を知ってるんだ』
先日、ポアロに顔を見せるようになった彼女に思わず掛けてしまった言葉。
敵だと思っていた相手からの唐突な発言に、彼女はずいぶん狼狽えていたようだ。
「あなたの言うこと、信じる気になったら……またお店に行くから」
そう言い残し、彼女は地下室に降りていった。
*
彼女の心はいつか溶けることがあるのだろうか。阿笠邸で柔らかくなったアイスのように。
季節が一周し、また冷たいものが恋しくなった時期。淡い期待をもとに、彼女にメッセージを送った。
『ポアロの新発売です』
彼女の連絡先は無論勝手に入手したものだ。メッセージに添えた写真は、デザートカップの上にウエハースを乗せた、昔ながらの喫茶店を思わせるバニラアイスクリーム。
「安室さんの待ってる人、本当に来るんですか?」
「ええ。きっと、来てくれるはずです」
梓さんに聞かれたのは、閉店時間が残り一時間に迫ってから。もう他のお客さんはいなかった。片付けは一人でやるから、と梓さんを帰らせ、一人店で待つ。
閉店まで残り三十分。バニラアイスをカウンターテーブルに置く。
店内の掃除、レジの締め、在庫の確認。店じまいをすっかり終えた僕は、心細く震えるバニラアイスに目をとめる。ゆっくりと表面が融解したそれは、液体となりカップの底に溜まっていた。
何がきっと来る、だよ。寝言は寝て言えって? カウンターに肘をつき、目を細め、アイスの様子を観察する。その時、入口のドアベルが鳴った。
「……もう、閉店しちゃったかしら」
遠慮がちに顔を覗かせたのは、彼女だった。
「志保さん」
エプロンを脱ぎ捨て、彼女に駆け寄る。
大人になった彼女は、僕を見てほっと表情を緩ませた。
僕も同じように微笑む。卓上のアイスはすっかり溶け、元の形がわからなくなっていた。