winter morning 夢から覚めた瞬間は、いつだってなぜか、もの哀しい。
零れた雫は夢に消えた何かのせいか、生理的な涙か。夢の内容さえ覚えていないのに、おぼろげな感覚のままに志保は、軽く目を擦った。
ぼんやりとした視界が開けてくると、室内の様子が目に飛び込んでくる。
カーテンに覆われた窓の外は既に日の光を透かしていた。
季節は、冬。夏のそれよりも薄い光は、朝にあってもどこか薄暗く、モノクロームだ。
一晩を過ごしたベッドの中はぬくぬくと温かいが、外気に触れれば急激に冷えるだろう。
起きたくないわね……と眠気の狭間に思いながらも枕元のリモコンで暖房を入れようとすると、背後からにゅるっと腕が伸びてきて、志保の身体を抱きこんだ。
「ちょっ…」
「……」
抱き枕か何かと勘違いしているのか、彼――降谷は、志保を抱きしめたままスヤスヤと寝息を立てている。
熟睡しているだろうに、むしろ熟睡しているからか。きつく縫い留められて、非力な志保には太刀打ちできない。
まあいいか、となすがまま彼の胸に頭を預ける。
髪が鼻先に触れたのがくすぐったかったのか、むにゃむにゃと漫画のような寝言を零した年上の男の声に、志保はクスリと笑みを浮かべた。
トクン、トクン、と届く鼓動。
抱きしめられた腕には確かな血の通う体温。
生きているという証。
人肌に触れるのが、こんなにもやさしくて安心することだなんて知らなかった。
幼いころから犯罪組織に触れていた志保にとって、男女がひとつの寝台にいるということはすなわち、欲に濡れた夜だけを意味していたはずだった。
昨夜眠ったとき、志保は一人だった。
深夜に帰宅した降谷が自室に戻らず、志保のベッドに潜り込むことは珍しいことではない。
珍しくもないので、すっかり慣らされてしまった志保は、そのまま目を覚まさないことさえ日常となってしまった。
以前は物音が聞こえるだけで鋭敏に反応していたはずの五感が、すっかり鈍っているのを自覚する。
無論それだけ、この腕の持ち主を信頼に足りる人物だと思っているからでもあるのだが。
背後から聞こえる安らかな寝息に耳を澄ませていれば、その顔を見たくなるのは道理だった。
抱き留められた腕から逃れるように身をよじる。起きてしまうかもしれないが仕方がない。
それに、まだ時刻は早い。二度寝もまだ許容範囲のはずだ。とはいえ、彼の今日の予定は知らないけれど。
「……ん…」
「……降谷さん…?」
身を翻し、眠る彼に向き合ってみる。一瞬吐息を吐いた彼はしかし覚醒には至らず、再びスウスウと夢の中へと舞い戻っていく。
洗い立てだったはずの真っ白なシーツは、志保自身の寝相と彼が潜り込んできたことで皺を深く刻んでいた。
綺麗な金色の髪を梳いて隠された顔を覗き込む。
端正ながらもやや幼い顔立ち。熟睡し、眉尻を下げた姿は、尚更少年のように見えた。
―――きっと、彼も。志保と同じ。
隣に誰かがいる状況で深く眠ることなど、出来なかったに違いない。幼い時分から組織の籠に居た志保より、明確に外部からのスパイとして潜り込んだ彼の方が緊張はより強かったことだろう。いくら任務の責任感で覆い隠そうとも、日々心身を苛むものを、『慣れ』程度で取り除けていたはずは無い。
それが今は二人、互いに互いの隣が一番心地よい場所として認識している。
縁とは不思議なものだ。全くもって、人生とは何が起こるかわからない。
「……好きよ」
小さく、囁く。
眠っている降谷には届いていない筈の言の葉は、音になってすぐに溶けたけれど、告げただけで満足感を覚えた。
「……大好きよ、降谷さん」
胸が満たされていく。
そっと彼の鼓動を、今度は正面から耳を充てて聞いてみる。
トクン、トクン、と。
規則正しく叩かれるリズムは、やがて志保をまどろみの世界へ誘いはじめた。
心音を聞くと心が安定する理由として挙げられている一説は、母親の鼓動を聞いていた胎児の記憶が蘇ることに由来するのだという。ならば今志保は、母と供に在ると同義だろうか。
(……違うわね)
母の胸はこんなに硬くないし、逞しくはない。母を知らぬ身ではあるがそうであってほしい。
それに、学術的な根拠に基づいたなら誰の鼓動であっても良い筈だが、志保をこんな取り留めもないことに没頭させ、安心して身を委ねられるのはこの鼓動の持ち主だけだ。
そこに科学的な根拠はない。
宮野志保は降谷零を愛している。ただ、それだけ。
恋愛感情というメカニズムにしても動物的な求愛行動の一種。生殖本能を根源としたものだという説もあるけれど、理詰めでは説明のつかないこともある。
今、目の前で彼が安心しきって眠ってくれることへの喜びとか。
その空色の瞳を開いて志保を映し、おはようと微笑むときの愛おしさとか。
そこには一ミリだって、生殖本能なんてものは含まれていないといえよう。
科学ではわからないことなんて、世の中にはいくつもある。
徐々に溶けていく思考の海に溺れるように身を委ね、眠りの淵に落ちていく。
起床予定時刻まで、一時間ほど。
次に目が覚めるのはどちらが先かしら、なんて。
敗北を予感せざるを得ない微睡みに浸されながら、志保は幸せそうに微笑んだ。