たぬき愛弟子短編・イベント小話まとめ2人の日常
朝早くにウツシさんの家を訪ねると、一体何時から起きているのか。
身支度をすっかり整えたその人はまだ眠そうな黄色いオトモたちのそばで、腕立て伏せに勤しんでいた。
「愛弟子?さあ、里にいなかったら狩りにでも出たか…ヒノエさんやミノトさんも知らないとなると、散歩にでも出たのかもしれないね」
ここに来た理由である英雄の行方を師であるこの人なら知っているだろうと思ったのに、あては外れてしまった。
「なにか火急の用なら、俺が探してキミのもとに行くように知らせておくよ」
「そうという訳じゃ…でも、そうしてもらえると助かるかも」
その会話の間も腕立て伏せをやめないウツシさんの体力は今更なのでさておき。
ボクは彼がずっと背中に乗せたままの小柄な狸から目が離せずにいた。
「………………」
丸い目を縁取る黒い隈のような毛並み、狐と比べると高いとは言い切れないけど、ブンブジナと比べれば小ぶりで可愛らしい鼻と口、丸い輪郭とふわふわの体。
そんな生き物が上下する背中の上できちんとおすわりをして、数を数えるようにその太い尻尾をウツシさんの背中に柔らかく打ち付けている。
狸は小首を傾げてボクを見返すと、ボクもつられて首を傾げた。そしてそのまま、つぶらな瞳と見つめ合う。その愛嬌のある狸はウツシさんのペット、いや、家族だという。野生の狸を山で保護して、そのまま居着いたのだとおじいちゃんから聞いた。
オトモも可愛いけど、狸もいいなと考えていたらそんなボクの考えに勘付いたのか、足元にいたガルクがボクの袖を噛んで引いた。
「あ、ごめんね。そろそろ行こうか。じゃあウツシさん、よろしく」
「うん、またね」
そう言って片手で体を支えて余裕の笑顔で手を振るウツシさんにやっぱりハンターの筋力は凄いな、と感心しながら手を振り返してその家を後にした。
イオリくんが静かに戸を締めるのを確認してから、四本脚が背中を蹴る感触の後、ぽん、と軽い音が響く。それと同時に急に重量の増した負荷に、上げていた手を慌てて降ろした。
「うわっ!」
「用、とはなんでしょうか」
背中に跨って座る二本足の彼女を振り返ると、狸の時と同じく丸い目で首を傾げる。
「愛弟子、急に変化するとびっくりするから」
「あ、つい。ごめんなさい」
「あと耳が出てるよ」
「うそ!もう変化は服まで完璧なは…ず、」
慌てて頭部に触れて確認した愛弟子は、その感触にすぐ頬を膨らませた。
「出てないじゃないですか!」
「あはは、ごめんごめん」
「いじわる!」
そう叫ぶと俺の背中を叩く。そんな愛弟子を止めようと彼女を乗せたまま体を捻った。
「ごめん、って」
「きゃっ」
急に仰向けになった俺に怯んで倒れ込んでくるその体重を受け止め、暴れていた細い腕を掴んで止める。
そのタイミングで再度、玄関の引き戸が勢いよく引かれた音がする。
「ウツシさん!伝え忘れてたんだけど、そろそろ狸さんの健康診断の時期で……えっ?」
「えっ!もうそんな時期!?あの子にもまたオトモ広場に行くように言っておくよ」
再び現れたイオリくんに顔だけで振り向いて答えると、彼はみるみる顔を真っ赤にして黙ってしまった。
その視線の先は俺の体の上。そこには彼の言う『狸さん』が俺ともつれ合い、腰に馬乗りのまま同じく赤い顔で彼と見つめ合っている。
「う、うん…そ、それじゃあ……」
「わざわざありがとう。あ、愛弟子がいたけど、どうする?」
「ま、また後で来るね!」
そして急いで飛び出したイオリくんの閉めた戸口はその勢いとは別に、カタリと遠慮がちな音をたてる。それを見届けて愛弟子の方へ向き直ると、彼女は俺の手を振り払い、両手で顔を隠して俯いた。
「と、いうことだから。きちんとオトモ広場に行くんだよ?」
「…くぅん」
猫の日
ウツシ教官の弟子たるもの、声帯模写もできて当然。
モンスターのモノマネを得意とする教官にはまだ程遠いけど、と練習を繰り返すのはアイルーの真似だ。
「にゃぁん」
なにか違うと感じて〈こほんっ〉と咳払いをする。
「ニャぁん」
すこし似てるかも、と嬉しくなってもう一度。
「ニャァン」
これだ!と隣で静かにお面を作っていた教官を見上げると、彼は私の視線にすぐこちらを向いた。
「なにをしてるんだい?愛弟子」
「デンコウお兄ちゃんの鳴き真似です!さっきのは似てたと思います!」
「うん、まぁ…似てたけど」
そこで言い淀んだ教官に褒めてほしくてじっと見つめていると、たしんっ!と背後から音がした。それが自分の尻尾が畳を叩いた音だと気付いて、慌てて頭にも触れる。そこには二つの耳が生えていた。
いけない、さっき集中しすぎて変化が解けかかってた。
「猫なのか狸なのか、どちらかにしてもらえる?」
「可愛くて集中できないんだ」
そう言ってお面から離れた教官の手が私の尻尾を狙ってる。そのことに気付いて後ろに隠した尻尾は、すぐ大きな手に捕まってしまった。
冬の2人
ジンオウガは寒いのが苦手らしい、
大社跡でも、雪玉コロガシをぶつけられて尻尾と角をへたりと下ろす彼を何度か見かけたことがある。
そして二足で立つジンオウガの護るカムラにも冬が来た。
深々と冷える空気にオトモのお兄ちゃんたちに埋もれて眠っていたら、壁の向こうから何度となく聞いた足音がする。
(ウツシの足音だ)
そのことに気付いてすぐ走った玄関の前で座ると、戸口に影がかかった。そして、すぐに刺さるような外気と一緒に待ち焦がれた人が帰還する。
「うぅ…寒い…」
「くぅん」
「あっ、子狸さん!ただいま!」
足元の私をすぐに抱き上げてウツシは笑う。すると部屋の奥で顔を上げたオトモたちも、のそのそと玄関へと集まった。
「おかえりなさいニャ。砂原はどうだったニャ?」
「ただいま、デンコウ、ライゴウ。今回は…」
そしてウツシは私を片手に抱いたまま、砂原での成果をオトモに報告する。みんなの話す難しい話はわからない。そもそも話す言葉を持たない私はウツシの胸で揺れるモンスターの装飾を手持ち無沙汰に前足でつついて遊んだ。
「それにしてもカムラがこんなに冷え込んでいるとは思わなかったよ」
「ご主人が里を出たあとに冬将軍が吹いたのニャ。それからすっかりこの調子ニャ」
身震いしたデンコウお兄ちゃんはそばに佇むライゴウお兄ちゃんと身を寄せる。
「砂原帰りだと余計に身に沁みるよ。でも、今年は子狸さんがいるから安心だ」
「?」
〈ね?〉と笑ったウツシの言う『安心』がどういうことなのか、その日の夜、すぐにわかった。
冬の夜は早い。
あっという間に家の外は暗くなって、凍てつくような暗闇になる。
「子狸さんおいで、寝るよ」
寝そべって手招きするその人が掛け布団を上げて誘った。
洞穴に似て居心地良さそうな暗がりが口を開けて、そこに吸い込まれるように私の足は赴く。
ここに来てすぐ用意してくれた私の寝床は、全く使われないままだった。ウツシのそばか、ウツシが狩りに出ていない時はオトモたちが一緒に眠ってくれたからだ。
「今日はお出迎えありがとう」
布団の縁で頭を撫でてくれた手のひらに目を細める。そして白い敷布を踏むと肉球に触れた場所がひどく冷えていて慌てて足を離した。
しぴぴ、と払った前足にウツシが不思議そうな表情を浮かべる。
「何をしているんだい?子狸さん」
「くうん」
「ああ、冷たかったんだね」
布団の縁に座り込んでいるとウツシは私の踏んだ敷布に触れ、そしてすぐに手を伸ばして抱き込むように布団の中へと連れ込んだ。
ころんと転がるようにして彼の隣に潜り込むと、大きな手が背中から包み込む。
「キミの冬毛は本当に暖かくて気持ちいいよ。湯たんぽいらずだな」
毛皮に指を沈めて、背筋をなぞりながらうっとりと呟かれた。
ウツシが寒くないのはいいことだけど、湯たんぽ扱いは少しだけ不服だ。
「どうした?なにか気に食わなかった?」
抗議のつもりで前足を突き出してウツシのお腹を夜衣越しに押していたら、彼は急に笑い出す。
「ちょっと、肉球はだめだって。くすぐったいから」
そして、私の前足は捕まえられて動きを封じられてしまった。
だからもう諦めてウツシの腕の中で私は丸くなる。
「ほら、もうおやすみ。明日はみんなで一緒に山に行こう。山菜と、キミにはクコやフユイチゴを採ってあげようね」
囁かれた言葉に耳が立ち上がって反応するとくすくすとウツシが笑う。
「おやすみ、子狸さん」
けれど、それからすぐに聞こえた寝息に誘われるように私も目を閉じた。
夢を見ていた。まだ愛弟子が子狸だった頃。
今日と同じ冷える夜に一緒に眠った日の夢だ。
その目覚めるか否かの浅い眠りの中で、ぽん、と軽い音がした。
「ん…」
布団からはみ出した体に瞼を開けると、目の前に愛弟子の寝顔があった。
湯たんぽのように抱き込んで眠った時の狸の姿じゃない。
彼女も寝ぼけていたんだろう。眠りながら変化したらしい身体は、暖かな毛皮ではなく人肌でこちらにすり寄る。
「キミはどちらの姿でも湯たんぽみたいだね」
健気な様子に可愛らしく思う。そして、健康的な体温を胸に抱き寄せて、いつもの癖でその健やかな寝顔に口付けた。
「あっ」
そこでまずかったかと気付く。今の彼女は立派な女性だ。
つい、狸の感覚で口付けてしまった。
(いやでも、さすがに起きてはいないはず…)
と、願ったところで抱き込んでいた腰にふわりと何かが当たった。ゆらゆらと揺れる柔らかな毛並みは、俺の腕を撫でている。
これは尻尾だ。
「………」
すると腕の中で愛弟子は必死に目を閉じて、顔を真っ赤にしているのが月明かりの中で見えてしまう。
「ま、愛弟子、起きてる?」
「ねっ、寝てます」
「そ…そう」
それきりお互い黙ると、愛弟子は湯たんぽよりも熱い顔を俺の胸に埋めた。
ハクメンコンモウとたぬき
「狸、光り物は好きか?」
突然、背後から聞こえた声に振り向くと絶世の美狐がいた。
「貰い物だ。不要なら捨て置け」
首飾りを口に咥えたハクメンコンモウさんは私の家の前の鳥居に輝くそれを掛けると、静かにそう言った。
その先で揺れる石はハクメンコンモウさんと同じ瞳の色をして、月明りに煌めく。
「だれからもらったんですか?」
「人間の男」
「どうして?」
「さあ」
〈興味がない〉と呟いたハクメンコンモウさんは、美狐なのに小首を傾げるととても可愛らしい。
ハクメンコンモウさんは絶世の美狐だ。
ふさふさした尻尾に、艷やかな毛並み、鼻筋の通った輪郭、切れ上がった瞳は見つめていると吸い込まれそうな気分になる。そんな神々しい美狐だから人間も貢ぎ物を持ってきたのかな、と考えていたら彼女はゆらりと尻尾を揺らしていた。
「なにより、人間の考えることはわからない」
そんな眉根を寄せた悩ましげな顔もサマになるのが、さすがハクメンコンモウだと思う。
「私もわからないけど、この石はきれい」
「そうか」
「ありがとう、ハクメンコンモウさん」
憧れのハクメンコンモウさんからこんなに素敵なものを受け取ってしまった。そのことに私が心を弾ませていると、遠くから人間の声がする。反射的に、隠れなきゃ!と考えていた私とは真逆に、彼女は悠々とその場に鎮座していた。
「おーい」
誰かを呼ぶような、探すような声は男の人で、その声にゆっくりと揺れていたハクメンコンモウさんの尻尾がぴくりと反応する。
「しつこい男だ」
そして、声が近づくと彼女はくるりとその場で一回転して、次の瞬間には着物を身に着けたあでやかな美人が立っていた。
「ハクメンコンモウさん?」
「邪魔をした」
ハクメンコンモウさんと同じ、蒼の瞳を持つ美人は私の頭を一度撫でて背を向ける。そして門の前まで来ていた男の人の方へとゆっくり歩き出した。
その姿をすぐに見つけた男の人は嬉しそうに美人へと駆け寄っていく。
「ああ、今夜もいてくれた!」
「ああ、今夜も押し掛けてきた」
「相変わらずつれないね。貴女の名前も知らないから、呼びかけられずに困ったよ」
「さっきのように騒がれて連れ合いだと思われぬよう、今後も教えまいと今、心に誓ったところだ」
「えぇ…」
そんなやり取りをしながら、その先の門をくぐった二人は私から見えなくなった。
ハクメンコンモウさんが人に化けた。
狐狸は化けると話には聞いたことがある。でもそれは特別な力を持った、ハクメンコンモウさんのような存在だけだとこの時の私は思っていた。狐狸の端くれとはいえ、ハクメンコンモウさんと私とでは天と地ほどの差があるから。
「きれい」
それにその時は目の前の燐く石に夢中で、深く考えずにその背中を見送った。
それから私が大社跡を離れるまで、その二人の逢瀬は度々見かけることになる。
あれから十数年。
カムラに移り住み、狩人になった私はハクメンコンモウさんのお気に入りの場所へと翔蟲を操り、自力で来られるようになっていた。
「ハクメンコンモウさん!変化したときの上手な尻尾のしまい方を教えてください!!」
「切ってしまえば話は早い」
「切っ…!だめ!痛いのは嫌だし、それに…ウツシはこの尻尾を可愛いって言ってくれるから…」
「じゃあ仕舞わなくてもかまわないだろう」
にべも無く断ち切るハクメンコンモウさんは相変わらずの美狐だ。自分の尻尾を抱いて教えを請う私の前で、私と同じように人に化けたハクメンコンモウさんはその尻尾だけをゆらゆらと愉しそうに揺らした。
「でも誰かに見られたら恥ずかしい…」
「『ウツシ』が良いと言えば良いものじゃないのか」
「それは…そうですけど、」
確かにそうだけど、と頷きかけたとき、人の足音が聞こえた。真夜中にこんなところまで来るのはハンターか、警戒すべき相手かもしれない。
(その時はハクメンコンモウさんを護らないと…)
そう思って背中の武器に手を伸ばすと、ハクメンコンモウさんがその手を押さえた。
「ハクメンコンモウ、今日は先客がいる?」
下からの親しげな声にハクメンコンモウさんは屋根の下を覗き込んで、つられるように私も顔を出すと、歳を重ねたいつかの男の人がこちらを見上げて手を振っていた。
「あ、今日も着けてくれているのか。その首飾り」
そして先日、私が返した輝く石の首飾りがハクメンコンモウさんの首で揺れたのを見て嬉しそうに微笑む。その笑顔にハクメンコンモウさんの大きな尻尾もふわりと揺れた。すると人懐っこそうなその動きに、屋根の下の男の人はまた笑みを浮かべる。
自分も恋を知って、やっぱりあの首飾りは彼女が持っているべきだと考えた私の考えは正しかったようでなんだか嬉しい。
「ハクメンコンモウさん、あの人も尻尾をいいって言ってくれるんですか?」
「人間の男はよくわからないだろう」
こちらのかけた質問に珍しく曖昧に答えた彼女は、本来の性格らしい砕けた笑みを見せてくれる。その可愛らしさに私もドキリとした。
「そうでもないですよ、ウツシは」
「あれは……そうだろうな」
〈どちらかといえば、こちら寄りの人間だろう〉と、なにか思い出している様子のハクメンコンモウさんは呆れたように呟いた。
りんごあめ
「りんご飴いかがですかー」
今日も元気に声をかけるコミツちゃんの隣で一匹のたぬきが座っている。その狸はお客が足を止めたとみると、とてとてとその足元に近寄った。そして両手を上げて立ち上がると手招きしてみせる。外からの客人らしいその人は見上げる狸に悶絶してりんご飴を一本お買い上げ。
「たぬきさん、今日もありがとう!」
「くぅん」
お客を見送って仲良くハイタッチする少女と狸にヒノエさんも振り向き微笑んだ。ブンブジナ好きのコミツちゃんはうちの狸さんを気に入っていた。狸さんも客商売に向いているのかお客に愛嬌を振りまいて、たまに見られるりんご飴屋の二枚看板は今日も順調に売り上げを伸ばしているみたいだ。
「俺にも一本くださいな」
「あっ!ウツシ教官!」
俺も売上貢献に声をかけると狸さんはいつも通りに俺を見上げるだけだ。だからしゃがんでその黒い縁の中の瞳と視線を合わせる。
「あれ、俺にはお愛想してくれないの?狸さん」
「…くぅん」
その言葉が機嫌を損ねたのか、ぷい、とそっぽを向いたたぬきは藁の裏へと隠れてしまった。
コミツちゃんのお店は完売につき今日は早めに店じまい。そしてお手伝いのお礼としてもらったりんごを教官におすそ分けに行くと、彼は昼間買ったりんご飴を私にくれた。でも、
「お手伝い中にからかわないでほしいです」
「からかってなんかないよ」
苦笑する教官の隣でりんご飴を齧りながら頬を膨らませた。コミツちゃんのりんご飴がおいしいから、その頬もつい緩みそうになる。
「あれは…観光客に妬いたって言うと笑うかい?」
「え?」
「だから今度は俺にも手招きしてね」
照れて言う教官の希望通り、後日お愛想した結果。『きゃわいい』『きゃわいい』と大声で騒がれて、また私は藁の裏へと逃げ込んだ。
お月見
「いい夜だね、子狸さん」
「うん、あかるい」
満月の夜、ウツシは散歩に行こうと私を誘った。散歩といっても里の中で。手を繋いで歩いていたら自然とオトモ広場に行き着いた。
シルベさんも帰ったオトモ広場は誰もいない。
そのオトモ広場の奥にあるフクズクさんの巣まで抱き上げて運んでくれたウツシと並んで外をみる。今夜はフクズクさんもお出かけしているのか、巣は卵がいくつか転がっているだけだった。遠くの山脈も、そばの運河も、おおきな滝もその場所からはよく見渡せる。今夜は空にも星はなく、おおきなお月さまだけがこちらを見下ろしていた。
「そうだ、せっかくの満月だからキミに俺のとっておきを伝授しよう!」
その満月を見上げてウツシは言う。〈とっておき?〉と首を傾げた私に彼は大きく頷いた。
「ジンオウガのモノマネだよ」
「いいかい?子狸さん。遠吠えはお腹に力を入れて、」
「背筋を伸ばす。そして己の潜在能力を開放するように…」
「ワオォォォォォン!!」
「こうだ!」
たしかによく似ている、と山育ちの私は感激してぱちぱちと拍手をしたら彼は照れくさそうに笑った。
「さあ、やってみて!」
「くぅん…」
でもウツシの説明は難しくて、特に『せんざいのうりょく』と言われても初めての言葉で意味もよくわからない。
「えっとね、まずはここに力を入れて」
するとウツシは跪いて私のお腹を押さえる。
「次は背筋だ」
そっと背中に添えられた手は暖かくてチカラが抜けそうだ。けれどウツシがまじめな顔をしていたから、背伸びをするように体に力を込めた。
「そうそう、じょうずだよ」
それに目を細めて褒められると嬉しい。くるくる変わるウツシの表情を見るのは楽しいし、なにかを教えてもらうのも好きだった。
「じゃあ次は潜在能力を…えっと、そうだな。キミが変化をするとき、みたいな感じかな?」
〈ごめんね、違ってるかもしれないけど…〉と自信がなさそうに言ったウツシがうんうんと悩む。けれど私はその言葉に思い当たるものがある。変化をするときのあの熱い感覚のことかもしれない、と。そして大社跡で聞いたジンオウガの遠吠えを思い出して…
「ゎ、わおぉぉぉぉぉぉん!」
月を見上げて吠えた私に隣からウツシの嬉しそうな声がした。
「すごい!初めてとは思えないな!」
「できた?」
「うん、花丸だよ!」
思わず出た尻尾も気にせずに〈百点満点だ〉と頭を撫でてくれるウツシの上には、おおきくてきれいなお月さま。私を見つけてくれたお月さまと同じ、優しい光で照らしてくれていた。
「お月様にはうさぎさんがいるんだよ?知ってたかい?」
二人で並んで座っているとウツシは月を見上げて言う。けれど私にはうさぎさんが見つけられない。どこにいるんだろう、ときょろきょろしていたらウツシはそんな私を肩に乗せてくれた。
たしかこれは…肩ぐるま、と里の子たちは呼んでいたっけ。
「これで見えるかな?」
その声に首を振って答える。高くなった視点から月を見上げたけれど、やっぱりお月さまには誰もいなかった。
「十五夜には会えるかもしれないね」
「じゅうごや?」
「そう、うさぎさんが月でお餅をつくんだ。それからキミの大好きなお団子をたくさん作って、そうだ!一緒に大社跡まですすきも取りに行こう」
〈楽しみだね〉と微笑むウツシの頭に掴まって何度も頷く。お団子にすすき取り、それにうさぎさん。人間の行事は楽しいことがいっぱいだとこの里に来て知った。それらを教えてくれるのはやっぱりウツシで、そんななんでも知っているウツシを私は尊敬していた。
「さあ、じゃあそろそろうちに戻ろうか。子狸さん」
「くぅん」
「まだ?でもあまり遅くなるとデンコウたちが心配するよ?」
「くぅん…」
「じゃあ、あとすこしだけ」
そう甘やかしてくれるウツシに潜んでいたフクズクさんの急襲があるまで、あと二分。
節分
「鬼は外ー!福は内ー!ゲコッ」
如月の空の下、集会所の前からゴコク様のご利益のありそうな豆撒きの声が里に響く。
今日は里のあちこちから同じ掛け声が聞こえていた。
そして今日は節分だからと張り切っていた里の食べ物屋さんには、行事にちなんだ料理が並んでいるはずだ。
「そういえば子狸さんに恵方巻はだめかな?中身を変えれば食べれなくも…いや、でも海苔が…」
その子狸の後ろを歩きながら今夜の献立を考えていると、足元にいたはずの子狸を見失った。たしか、目抜き通りには揃って出たはずなのに。里の中にいるのなら好きにさせて構わないけど、誤って川に落ちたりしていないか心配になって辺りを見回す。
すると、さっきゴコク様の声のした方角に見慣れた丸い尻尾が見えた。
「鬼はー外ー!…ん?」
ゴコク様の掛け声から少し遅れて、足元にパラパラと豆が散る。
その足元に子狸はいた。
「ウツシの狸か、なにをしてるゲコ」
テッカちゃんの上から地面を覗いたゴコク様の下で動き回る子狸は、尻尾まで揺らして上機嫌だ。そして、よく見ればその口元がもごもごとしきりに動いている。
……まさか…。
「子狸さん?!それだとおまめの食べ過ぎだよ?!」
「くぅん」
慌てて駆け寄り、抱き上げた子狸は不満げに鳴いて地面を見つめた。
どうやら落ちた豆を拾い食いしていたらしい。
子狸の小さな歯でよくあの硬い豆が…。
「すみません。うちの子狸さんは食いしん坊で…」
「構わんでゲコよ。ほれ、子狸。豆でゲコ」
「くぅん!」
ゴコク様の差し出したその豆に、喜んで飛びつく子狸を見て決めた。
今夜は恵方巻よりも豆を炊いてあげよう、と。
頭巾のはなし
「愛弟子、懐かしいものが出てきたよ!」
押し入れに頭を突っ込んだまま、大きな声で言う教官の傍に向かうと彼が手にしていたのは小さな頭巾だった。それはデンコウお兄ちゃんと同じ藍色のオトモの頭巾。
馴染んだその頭巾で思い出されるのはあの日のことだ。
「まぁ、かわいい!」
ぱんっと手を叩いて喜ぶヒノエさんの前で私は落ち着かない心地でいた。尻尾が出ないようにそわそわしながら、人目も気になって周りを見回す。するとちょうど通りかかったイヌカイさんが私に気づくと穏やかに微笑む。
ウツシのくれたオトモの頭巾の片隅にヒノエさんがかわいい刺繍を入れてくれた。これも、と渡された葉っぱのがま口をに首に下げ、その中にはお小遣いまで入れてもらっている。
「ちょ…、これは…!!似合うよ!こっち向いて!」
そうして付き添っていたウツシはすぐに“かめら”を構える。そして忙しそうに左右から何枚も写真を撮って「きゅんきゅんする!」「きゃわいい!」と誰よりもはしゃいだ。
「ウツシ、はずかしいからやめて」
その里中に響きそうな大声と姿につい、赤い顔を隠して言うと、彼は見なくてもわかる力強い口調で力説する。
「恥ずかしくなんてないよ!キミはこんなに可愛いのに!」
「ちがう。ウツシがはずかしい…」
「え」
また「え」とヒノエさんを見たウツシに、彼女はふふふと口元を押さえて笑った。
変化がまだ安定してない頃に耳隠しに貰った頭巾はその後、数年のあいだ活躍した。
「あのあと教官が拗ねちゃって謝ったり慰めたり大変でした」
「あぁああ!人のかっこ悪いところ思い出さないでよ!俺は頭巾姿のキミを思い出してたのに!」
今はその拗ねる情けない姿も異様なテンションも含めて大好きだと胸を張って言えるけれどと内心呟いて、棚から取った革張りのアルバムのページをめくりながら笑う。
「たしか、その時に一緒に撮った写真もあるはずです…あ、あった!」
色褪せた写真を撫でて懐かしさに目を細めると隣から教官もその写真を覗き込む。
デンコウお兄ちゃん、ライゴウお兄ちゃんを両脇に、受付に座ったヒノエさんの隣で教官と手を繋いで照れくさそうに笑う私の後ろには丸い尻尾が覗いていた。ヒノエさんからは見えない位置で存在を主張する尻尾は普段、隠しようがなくて教官がよく隠してくれていた。あ、今もたまに…。
「あれ…?」
そこではた、と気づいた。尻尾が丸出しなのにこの写真は誰が撮ったものだろう。
「教官、これって誰が撮ってくれたんでしたっけ」
「さあ?誰だっけ…」
教官に限ってフクズクなわけはないし。うん?もしかしてあの日、一番恥ずかしかしい姿を晒してたのは教官じゃなくて…?私?
人助けたぬき
寒冷群島を舐めていた。水場と資源、生物の多さに多少、寒いくらいだろうと踏んでいた私は軽装備でそこに足を踏み入れてしまった。
「寒い…頭が働かな、ぃ…」
岩陰に隠れ、雪の上にへたり込んで震えていると舌も回らなくなってきた。古龍の発生させるものより柔らかなはずの風は、身を引き裂くような温度で体を擦る指も零れ落ちそうだ。
「うぅ…」
もうだめだ、私はこのままこの場所で凍え死ぬんだろう。だって、幻覚まで見えているのだから。
「さ、最後に見る幻覚が、狸って……」
大社跡じゃないんだから、と笑ったら、雪に足跡を残しながらこちらに歩いてきていた子狸は小首を傾ける。幻覚にしてはとてとてと歩く姿に妙なリアリティがある。
「なぁに?…子狸さん、」
うまく喋れただろうか。薄れゆく意識の中でその子狸に手を伸ばすと「くぅん」ととぼけた鳴き声が聞こえる。幻聴だ。だから伸ばした手が地面に落ちた音が、私が生涯最後に聞いた音になる。
「子狸さん、お手柄だよ!キミが見つけなければこの人は死んでいたかもしれない」
「くぅん」
「暖めてあげているのかい?」
「くぅん」
ハッキリと聞こえた元気な話し声は男のもので、聞き覚えのある鳴き声が合いの手をつとめる。天国にしてはおかしな会話だ。それになんだか、腹部に圧迫感がある。それはまるで子犬でも乗せているような微かで柔らかな圧迫感だった。
ゆっくりと上げた瞼はずいぶんスムーズに開くようになっている。さっきはまつげが凍結して重くて、目を開くのも億劫だったのに。
「あ、気がついた?」
霞む視界の中に男がいた。いや、推定だけれど。なにせ霞んでよく見えない。そうして男のシルエットを見飽きた私は、例の腹部へと視線を向ける。すると腹の上になにかが寝ていた。
「くぅん」
そのなにかが鳴くので手を伸ばすと、ギギギ…と音がしそうにぎこちない。でも中途半端に上がった私の手にそのなにかは丸い頭らしきものを近づけてくる。耳があった。鼻も。ということは目もあるんだろう、と納得して私はまた途切れそうな意識に逆らえず落ちていく。
「まだ休んでいたほうがいいよ。毛布を足しておくね」
殊更優しい男の声にまた、鳴き声が重なる。その声を聞きながら手の中の毛皮を撫でると擦り寄る暖かさに私はホッとため息をついた。
次に意識が戻ると私はキャンプの中で狸と添い寝をしていた。幻覚そのままの狸を二度見して、自由の効くようになった腕で起き上がると外から声をかけられる。
「体調はどう?」
そして払われた幕の向こうから顔を出した男は、さっきの天国にいた男だ。なぜわかるかって?声が同じだから。そこで眠っていたはずの子狸は起き出して、とてとてと男のもとに駆け寄った。もうクリアに見える視界はそこがキャンプの中だと教えてくれた。
小さく丸い体を抱き上げた男は〈優しい子だね〉と子狸に頬擦りをしてみせる。子狸も鼻を鳴らして喜んでいるように見えた。どうやら、あの狸と男はずいぶん仲がいいらしい。それに、抱かれた子狸は野生とは思えない毛並みで、もしかしたら男の飼い狸なのかもしれない。男もあまり寒さには強くないのか、子狸と仲良くくっついてこの寒さを凌いでいるのが印象的だ。
しばらく一匹と一人を観察していると男は手になにかを持ってキャンプへと入ってくる。
「これは子狸さんが採ってきた特製キノコ鍋だよ」
「うわ、何この色…」
「見た目はどうあれ、味は保証するから」
苦笑いする男から渡された茶碗の中身はドブ色の液体に紫色のキノコが浮いていた。決して美味しそうとは思えない鍋なのに、匂いだけはしっかり美味しそうで釈然としない。ただ、意識を飛ばす前、最も求めた暖かな食べ物に私は大した躊躇いもなく箸をつける。うん、確かに味は悪くない。
「くぅん」
「美味しい?って」
男の腕を抜け出し、私の膝に前足をついた子狸と男の名前を聞いていなかった。でも今はとにかく暖をと箸が止まらない。震える手で鍋を掻き込む私に子狸は満足そうな鳴き声を上げて傍で丸くなる。
「助けてくれたの?」
「こんな場所だし、助け合わないとね」
ひとまず椀の中身を平らげて問うと男は頷く。それを真似るように頷いた子狸につい吹き出した。よくよく見れば男はその様相からハンターだと思われる。しかもいい男だ。体躯はたくましく、やけに甘い顔をした…少し狸寄りの顔面につい、膝で寛ぐ子狸と男を見比べた。
まさか、と思う。この男も実は狸でさっきのキノコ鍋も変なものを食べさせられたんじゃないか…と。
「さすがに考えすぎか、助けてもらっておいて」
「うん?」
冒頭の子狸そっくりに首をかしげた男を見て不安になりつつ、思考にずいぶんと余裕のでた己の頭を振った。
その後、体力の回復した私は子狸とハンターに礼を言ってキャンプを後にする。そしてその帰り道、つい後ろ髪を引かれて振り向くと眼下に例のキャンプが見えた。
「ウツシ、ぽぽ」
「あ、本当だね!子ポポもいるよ!」
男の傍らには尻尾の生えた子どもがいた。その子は男の手を引いて雪の中を走る。丸く太い尻尾が揺れて、その尻尾を楽しそうに見つめる男はやっぱり甘いたぬき顔。思わず男の腰にも尻尾が生えていないか瞠ると、そこにはジンオウガの御面から小さな尻尾が生えていた。
同じように揺れる二人の尻尾をしばらく見守って腹を擦る。まぁ、もし腹を壊しても命があるだけ御の字だ。
なにか謝礼をと言っても受け取らなかったハンターは「またどこかで会って、子狸さんが困ってたらその時は助けてあげてほしい」と爽やかに笑っていた。きっと、悪い狸たちではないだろう。
後日
自宅で狩猟道具を手入れしていたときだった。
ころん、ころん、と俺の周囲を転がる子供の姿の子狸さんがころんともう一度、前転すると足を開いて畳に座り込んだ。
「子狸さん、さっきから何をしてるんだい?」
「うるくすす」
「の、マネ?」
頷いて笑った子狸さんはまたころん、ころん、と前転を続ける。痛くないのか頭の耳も尻尾もそのままだ。そうしてしばらく好きにさせてから目の前を横切ったとき、こっそり手を伸ばす。
「最小金冠ウルクススを捕まえたぞ!」
「くぅん!?」
「あはは、さてどんな素材が獲れるかな」
前転で進む彼女の小さな体を捕まえ膝に抱き上げたら、子狸さんは小さく悲鳴を上げ尻尾を抱えた。
「この耳にしようかな、それとも尻尾にしようかな」
「やー!」
暴れる子狸さんを笑いながら擽っていると子狸さんのお腹が〈ぐぅ〉と可愛らしく鳴く。ああ、そうだ。もうすぐおやつの時間だ。
「お団子を食べに行こうか、ウルクススさん」
「くぅん」
そう問いかけると急いで耳と尻尾を隠した子狸さんに待ちきれないとばかりに手を引かれて家を出た。雪じゃなく、桜の降るカムラではしゃいで跳ねるように駆ける彼女を追いかける。目指す茶屋ですっかり常連の子狸さんに今日はおすすめを聞いてみよう。
ひな祭り
「モモノセック」とみんなが呪文を唱えだすと、ウツシが何かを作り始めた。
大きな松ぼっくりにどんぐりの顔がついて、ヒノエさんから貰ったハギレの服を着ている。ハギレにしては豪華な布がキラキラしてきれいだ。
その二つのお人形は絵巻で見たかぐや姫と求婚者の帝ようだった。
「子狸さんも女の子らしいから、お祝いしないとね」
器用に松ぼっくりを飾り付けながらウツシが言う。
でも、何をお祝いされるんだろう。
「こら、キミのお雛様なんだよ?噛まないで」
その後も時々、ウツシのジャマをしながら作業を見ていたら、台に並んだお人形たちが床の間に飾られた。
すると、その前で頷いたウツシが呟く。
「…よし、来年は本物を買おう」
〈なにを?〉と今度は反対に首を傾げた翌年、ウツシの家を圧迫する段飾りの前で、目をドングリよりも丸くするオトモのお兄ちゃんたちがいた。
ウぬいとたぬき
「今日から新しい家族です」
そういって愛弟子から差し出されたのは俺の特徴を綿と一緒に詰め込んだぬいぐるみだった。ぬいぐるみに「ウツシくん」「ウツシくん」と尻尾を揺らして嬉しそうに話しかける愛弟子の様子から名前まで付けているお気に入りのおもちゃらしいと知る。
それからの愛弟子…狸さんは狸の姿で眠るときもぬいぐるみを抱き、くつろぐ時も傍に置き、肌身離さず一緒に過ごすようになった。「大きさで言えば丁度いいニャ」とはデンコウの談。なにが丁度いいのか俺には解らずじまいだ。
そして今日も『ウツシくん』を口にくわえた狸さんはずるずると畳の上を引きずって、座布団の上にぬいぐるみを置き自分は変化する。ぽふんと可愛らしい音を立てて愛弟子の姿になった彼女はそばにあった絵巻を一つ手に取った。それからぬいぐるみを自分の尻尾を支えに座らせる。
どうやらそのためにわざわざ尻尾を残して変化したらしい。最近、うちでよく見るその構図は変化した狸さんと『ウツシくん』の定番となっていた。
「ウツシくんも一緒に見ましょうね」
彼女が小さな頃に俺がよく見せていた絵巻を広げた愛弟子。そのもふもふの尻尾に包まれたぬいぐるみの口元を覆う布からふと、笑った口元が見える。何を考えているのかわからない無表情かと思っていたら、その三日月のような弧が妙に勝ち誇った顔をしているように思えた。だからつい、そのぬいぐるみに手が伸びて取り上げると愛弟子は不思議そうな顔をする。
「教官?どうしたんですか?」
「俺のことも少しは構ってよ」
そうして愛弟子の傍に座り込むとさっきのように尻尾で包み込むことは無理でも、後ろでぱたぱたと畳を叩く音がしたので不快ではないらしい。 でも彼女の戸惑うような表情は見ないふりで、百歩譲ってぬいぐるみは俺が抱いておくことにする。遠くにでも投げようものなら彼女は「くぅん」と耳を下げ兼ねないからだ。
「あっ、キミには『くん』付けだけど俺のことは呼び捨てなんだよ?」
その代わり、ぬいぐるみ相手に謎のマウントを取った俺に狸さんは不思議そうに首を傾げた。
以降随時追加