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    Houx00

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    色々ぽいぽいするとこ
    こちらは二次創作です。ゲームのキャラクター、公式様とは一切関係ありません。

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    Houx00

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    たぬき愛弟子本編まとめです
    愛弟子が平凡なたぬき、変化もします
    続きは随時更新中
    強めの幻覚です

    #たぬき愛弟子

    たぬき愛弟子本編まとめ ウツシ教官はモテる。
     顔良し、声良し、強さ良し、おまけに性格も、少し破天荒なところはあっても人格者。その性格の良さはボロボロで行き倒れていたのを拾われて、育てられた私が一番よく知ってる。
     だからいくら『残念』だと揶揄されても、全員が全員すぐに引くわけじゃない。

    「教官ー! 一緒におやつを……」

     ほら、だから今日も闘技場で女の子をはべらせてる。

    「翔蟲ってどうやって捕まえるんですか?」
    「里にいる翔蟲なら比較的簡単に捕まえられるよ。脅かさないようにゆっくり近づいてごらん」
    「それがなかなかうまくいかなくて。なにか好物の餌とかはないんですか?」
    「そうだなぁ…。花の蜜で居着かせるのは狩り場で見たことがあるかな? だから甘い匂いは好きかもしれないね」
    「ふぅん。あ、そうだ! よかったらウツシさんの好きな食べ物も教えてください」
    「俺? 俺は勿論、うさ団子!」

     そう元気に答えた教官に女の子たちは〈可愛い!〉と歓声を上げた。

    「…………」

     そこまで見守って、なんだかウツシ教官も楽しそうなので声をかけるのをやめた。差し入れに教官の大好きなうさ団子をたくさん、胸に抱えて闘技場までやってきたけれど。

     極上の蜂蜜に群がるミツバチみたいに、教官の周りにはいつも女の子が集まる。おまけに今日は、見るからに雄を誘うような格好の色っぽい女の子ばかりだった。教官がそれに鼻の下を伸ばすような情緒を持ち合わせているかは知らないけど、人間の男の人なら嬉しいんじゃないかと思う。雌の私から見てもドキドキするような綺麗な女の子たちは、誰もがウツシ教官とお似合いに見えていつも少し悔しい。
     だって私の本当の姿は、寸胴な狸だし。だからきっと、あんな弟子がいたら教官も…。

    「…意外とむっつりかもしれないし」
    「誰が?」
    「ひゅっ」

     悔し紛れの悪口に返事をされて焦った。しかも答えた声は、さっき背を向けたはずのウツシ教官本人のものだ。闘技場からあまり離れてない縁台とはいえ、なぜ見つかったんだろう…。

    「教官、どうしてここに…」
    「さっきキミの姿が見えたから追いかけてきたんだ」
    「…女の子たちは?」
    「女の子…? ああ! あの子たちならヨモギちゃんのお店に行ってみたいって言ってたから、道案内だけして別れたよ」

     きっとあの子たちは教官と一緒に茶屋でお茶でもしたくて道案内を頼んだんだろうな…と、容易に想像のつく展開が頭に浮かぶ。それに、せっかく楽しそうだったのに邪魔をした気がして気が引けた。

    「教官も一緒にお茶してきたらよかったのに」
    「え? なんで? そういうのは女の子同士のほうが楽しいんじゃ……」
    「うー…そういうところですよ」
    「そういうところ?」

     極上の蜂蜜は変にガードが固くて、零れ落ちる以外の蜜をこぼさない。本人がそれで困らないならいいけれど、ミツバチは一口でもその蜜を舐めたら諦めがつかないのは、誰よりも近く一緒に過ごしてきた私が一番よく知ってる。

    「あ、うさ団子! 愛弟子もおやつの時間だった…にしては、量が多いね」

     ため息をついた私の傍らに視線をやった教官は、縁台の上のうさ団子に首を傾げた。箱に詰めてもらったのは持ち帰り用の団子で、私と教官のぶんだ。

    「食べますか?」
    「食べる!」

     そしていそいそと隣へ腰掛けた教官は包みを受け取って、さっそく一串取り出し、齧りついた。

    「うん、美味しい!」

     教官がお団子を食べる姿なんて見慣れていたはずなのに、意外と上品なひとくちと嬉しそうに笑う横顔を見つめていたら、また余計なことを考えてしまった。

    (こんな姿を見たら、あの女の子たちはもっと教官に夢中になっちゃう…)
    「愛弟子は? 食べないのかい?」
    「えっ、食べます……けど?」

     そこで差し出されたのはさっきまで教官が口にしていた甘い蜜が滴るようなうさ団子だ。

    「久しぶりに『あーん』する?」
    「えっ、し、しないです!」

     突然の申し出に驚いて、耳がぴょこんと飛び出した。それを見て〈あっ〉と嬉しそうに笑う教官がさっそく頭の上の狸耳に手を伸ばす。

    「キミが小さな頃は喜んで齧りついてきてたのに」

     少しだけ寂しそうな教官が触れた耳をくすぐって〈ふわふわだ!〉と声を上げる。

    「そ、そういうのは! さっきの女の子たちにすれば喜んだと思います!」
    「さっきの? どうしてだい?」
    「だって、ウツシ教官のこと……」
    「俺のこと?」

     その間も耳の根元や縁を撫でる長い指に肩を竦めると、頭上で教官が笑った気がした。

    「好きそうだったし…教官も嫌いじゃないですよね?ああいうスタイルのいい女の子」
    「あぁ、確かに均等の取れた体躯の子たちだったね」
    「それに、“せくしー”でした」
    「うん、まぁ、そうだねぇ…」

     最近、ロンディーネさんから覚えた外の言葉はウツシ教官にもすぐに伝わったらしい。相変わらず耳に触り続けていた指先がふと離れて、俯いた顔を覗き込まれた。

    「キミ、もしかしてヤキモチ妬いてる?」
    「ちがっ……わないかも、」

     図星をつかれて瞬時に昂った感情に『ぽふん』と尻尾まで出てしまった。それに、素直に答えてしまったことが恥ずかしいし、そんなことで…と呆れられたらどうしよう…と不安になる。

    「あーあ、尻尾まで…」

     でも教官は縁台に乗った丸い尻尾に嬉しそうに笑った。

    「かわいい狸さん、こっちにおいで」

     そして手にしていたうさ団子を包みに置くと、こちらに両手を広げる。それを合図に私の変化は完璧に解けて。里の英雄から、ただの狸になった。

    「確かにあの子たちは“せくしー”かもしれないけど」

     縁台の上でちょこんと座る狸の私にウツシ教官が話しかけながら手を伸ばす。優しく抱き上げられた体はやっぱり丸くて、寸胴。顔だって、ハクメンコンモウさんのように凛々しくないし、どこか拍子抜けしていると水面を覗くたびに思う。

    「美人は着込んでこそ、その美しさが際立つと思わない?」

     そう問いかけて膝の上に乗せた私の、二束三文にもならない毛皮を撫でる教官が穏やかに言った。私がその意味を考える前にまた抱き上げられ、同じ視線の高さにある教官の顔が目の前に迫る。

    「それに、こんなに可愛くて格好いい狸さんがそばにいたら…」

     その言葉を最後まで聞く前に、鼻先に触れた唇は甘い蜜の味がした。

    ―○●○―
     
    「子狸さん、こんにちは」

     そう声をかけてきた彼を一目みて思ったのは『なんて格好いい狸だろう』だった。甘く下がった目に凛々しい眉、丸みはあるのに引き締まった輪郭や、風になびく毛皮はナルガクルガにも似ていた。けれど、後ろ脚で凛と立つ姿は他の狸にはない精悍さがある。

    「おお! 本当に頭を垂れるほど大ぶりの…」

     見惚れていると感激の声を上げ、隣にしゃがんで揺らめく赤い実を覗く彼に驚いて、私は口からホオズキを零す。そこでやっと、彼はニンゲンなのだと気付いた。だって、私たちにはない『言葉』を話すから。

    「今日はホオズキが豊作だって聞いてきたんだ。どうやら、キミたちの耳にも入っていたようだね」

     動きを止めた私に微笑みかけた彼は〈落としたよ〉と足元のホオズキを拾い上げて、こちらに差し出した。大きな手のひら、そして骨張った指の先で欠けた朱色の実が甘酸っぱい匂いをさせている。

    「あ、食事中にごめんね? 状態は確認出来たから、俺は他の場所で採集することにするよ。どうぞ、子狸さん」

     その爪先を見つめていたら、彼は褐色の瞳を細め、ホオズキを私の口元に添えた。

    「食べないのかい? もしかして、あんまり美味しくなかった?」
    「…くうん」

     返事をするつもりなんてなかったのに。その甘えたような、鼻を抜ける鳴き声に自分でもびっくりする。心配そうな彼の言葉に反して、ホオズキは美味しかった。夢中で食べていたからその気配に気付かなかったけれど、いつから彼に見られていたのかということに気づくと私のお腹は急に満腹を訴える。

    「子狸さんの太鼓判付き! って交渉のネタにしようかと思ったけど、イマイチならもう少し熟すのを待とうか…いや、でもその間に狩り尽くされたら勿体無いな…」

     腕を組み、〈さて、どうしよう…〉と一通り悩んでから、指先のホオズキを見つめていた彼の瞳が色を変えた。陽の光を浴びて金色に瞬く瞳が再び、私をその中に映す。
     まるで渓流でたまに見かける雷狼竜みたいだ、と考えていたら彼は、

    「そんなに見つめられると…俺の顔になにか付いてる?」

     そう呟いて、暖かな日差しの下で照れくさそうに笑った。



     心地良い微睡みから覚めて、あたりを見回すとそこは見知った家だった。水車小屋じゃなく、狸の私が生活をするウツシ教官の家。

    「…くぅん」
    「あ、起こした?」

     少し顔を上げるとブラシを片手に微笑むウツシ教官がいる。そばにはオトモたちも寝そべって、すぴすぴと小さな寝息を立てていた。その光景に『ああ、そうだ』と思い出す。教官に冬毛の手入れをしてもらいながら眠ってしまっていたらしい。
     そして、さっき夢に見た景色は教官と出会った日のことだ。
     

     大社跡の廃墟の塀、小さな赤い鳥居が私の住処の目印だった。
     前後にキノコ、少し駆ければホオズキもタケノコもある。それから水場も近い。モンスターと遭遇する可能性もあるけれど、小路や竹藪に逃げ込めば体の大きな彼らは追って来られないから大丈夫だと先祖代々伝えられていた。
     ウツシ教官に声をかけられた日もご近所のアイルーやメラルーの住処へ遊びに行った帰りに、丸々と実ったホオズキをつまみ食いしていた時だ。

    「あの時のキミはまだこんなに小さくて、そばに親狸もいないから迷子かと思って声をかけたんだ」
    「ホオズキを食んだり、タケノコを掘ったり、キノコをつついたり、小さな毛玉が忙しそうにあっちもこっちも転がって…可愛かったなぁ」

     本当に、一体いつから見ていたんだろう。ウツシ教官の言葉が本当なら、私の記憶にある以前の動向まで見ていたらしい。 

    「それが今は里の英雄だなんて」

     ふふ、と楽しそうに笑うウツシ教官の手にしたブラシが冬毛を撫でる。その優しい手付きと居心地のいいあぐらの上で目を細めた。そのまま太ももを枕に顔を伏せると、規則的だったブラシの動きが止んで、鼻筋を指でなぞられる。
     そしてまた私は追憶の旅に出た。
     

     私は大社跡で暮らす狸だった。
     爆発もしないし『なんの変哲もない毛皮は剥ぐ価値もない』と、どこかの狩人は言っていた。
     お父さんとお母さんと人間の残した建屋に住み着いて、モンスターがいない時を狙ってキノコや木の実を取りに行く。ホオズキやタケノコは食べ荒らかすと人間に怒られるので、たまのご馳走。家族は仲が良くて、いつも一緒のお父さんとお母さんは、狩りをするのももちろん一緒。いつもと同じその日も、仲良く寄り添って家を出た。
     でもその日以降、両親は家に帰ってこなかった。
      
    「くぅん…」

     両親が戻らなくなってから何度目かの夜が来て、やけに冴えた目にお腹が鳴る。近くでなにか食べるものがないか探したけれど、悪天候の続いた大社跡には泥濘んだ地面があるだけだった。そして、とにかく両親を探しに行かなくちゃ、と恐る恐る一人で降りた渓流の片隅ですぐ、変わり果てた両親の姿を見つけた。その体にはなぜか、鋭い切り傷がある。

    「きゅん…」

     それ以外は眠っているような姿に思わず、前足でその体を揺らした。いつものように鼻先を毛皮に突っ込んで甘えてみても、お父さんもお母さんも冷たい。毛皮も本当は寝床の枯れ葉の匂いがするはずなのに、知らない匂いがした。その場に呆然と座り込んで、どのくらいそうしていたのか思い出せない。
     あとから考えれば、あの時に大きなモンスターが通りかからなかったのは、幸運以外の何ものでもないと思う。

    「きゅ…」

     高かった陽は何度も落ちて、暗い杜は日に日に一層、暗さを増す。ふと、足元を流れていた水に気づいて身震いをした時だった。

    「子狸…? こんなところでなにを…」

     そこを通りかかった狩人は、両親を見つめ続ける私に気づいて近寄ってきた。そして逃げもしない私のそばに立つとお父さんとお母さんの亡骸に、小さく落胆の声を上げる。

    「酷いな…」

     その声に見上げると悲痛な表情を浮かべる狩人の顔に見覚えがあった。そこで、その狩人と初めて会った日のホオズキの赤さを思い出す。
     あの日は両親も家にいて、少しの冒険で杜を探検していた。そんな時に、彼に出会った。あの時は走って逃げてしまったけれど。
     それ以降、私は彼の姿を大社跡でよく見かけるようになった。モンスターの上を飛んだり、モンスターに乗ったり、舞うように武器を振るったり、たまに失敗しても楽しそうに笑っていたり、そんな勇敢で強かな姿をお母さんとこっそり覗いて応援していたのを思い出して泣きそうになる。

    「おいで、一匹で怖かったね」

     〈きゅ〉と鳴った鼻にすぐその人は私を抱き上げて、濡れて冷えた足元にも構わずに抱きしめた。それからすぐに、連れていたアイルーに私のことを任せると、そばの土を他の動物に掘り返されないようにとガルクと一緒に深く掘る。
     そして丁寧に、お父さんとお母さんを弔ってくれた。
     


     その子の後ろ姿を見たときは一瞬、子犬かと思った。でも近くでよく見てみると顔も足も、まだ毛の色がはっきりと出ていない小さな狸は、二匹の成体の狸のそばで頭を垂れて座り込んでいた。

    「ゆっくりおやすみ」

     墓標のない墓に野花を手向けると、子狸が近寄ってくる。そしてその墓の匂いを嗅いで、花に額を擦りつけた。

    「キミも大変だったね」

     思わず伸ばした手は子狸の頭を撫でる。けれど、子狸はすぐに踵を返すと、渓流をあとにしようとしていた。『野生動物に過度な介入は厳禁だ』とは解りながら、フラフラと歩くその小さな後ろ姿から目を離せずにいたら、隣りにいたオトモたちも同じだったらしい。

    「ご主人! あの子狸、毛並みもパッサパサ、しかもガリガリだニャ」
    「うん、だいぶ衰弱してるね」
    「さっき見つけたときは雑巾かと思ったニャ」
    「それにまだ子供だ」

     親をなくした今、放っておけば餌も取れずに…という可能性は否めない。それも自然の摂理といえばそうだ。かと言って、餌を与えるのも…と、悩んでいたらライゴウが〈わおん! 〉と大きく鳴いた。

    「あっ、子狸が!」

     渓流から続く坂道の途中で、ふらり、と倒れた子狸が動かなくなった。それは俺たちの目の前で起こったことで、思わず全員で駆け寄ると、ぴくりともしない子狸は地面に横たわっている。

    「死んじゃったニャ?」
    「…ううん、息はある。でも行き倒れだね」

     軽く当てた指の下で微かに上下する腹は薄い。体温も低下している。きっとお腹も空いていたんだろう。可哀想に、と内心呟いたところでデンコウが大きなポーチをゴソゴソとあさっている。〈あっ! 〉という声とともに、その手が持っていたのは緑色の生物だ。

    「アメフリツブリなら、ここにいるニャ」
    「さすがデンコウ! じゃあ、少し場所を変えよう」

     そうして抱き上げた子狸はひどく軽くて、両手のひらに収まってしまった。
     でもその重さが将来、里の命運を預ける命の重さだとは、この時の俺は知る由もない。
     


     モンスターの襲撃がない高台で、アメフリツブリのそばに横たわらせた子狸はしばらくして目を覚ました。

    「気がついた?」
    「くぅん…」

     力なく鳴いた子狸の体を撫でる。その頃には、オトモたちのかき集めた食べ物が子狸の枕元に並べられて、中にはホオズキもある。それを見てふと思い出した。少し前にホオズキを食べていた子狸を見た気がする。それもこの近くの話だ。

    「もしかして、キミはあのホオズキの子?」

     よく見れば顔つきに面影があるような…と記憶を辿っていたら、よた、と起き上がろうとした子狸はまたふらりと体勢を崩す。そのまま倒れ込んできた体を手で支えて抱き上げた。

    「だめだよ、まだゆっくりしてないと」

     しばらくそのまま、包み込むように腕に抱いていると子狸は一つ、深呼吸をして〈くぅん〉と鳴く。

    「ホオズキ、食べるかい?」

     目の前に赤い実を見せると、暗かった子狸の目に少し光が宿った。その光に揺らめく赤い実が反射して、瞳の中で焔のように見える。

    「少し待っててね」

     そう断って爪先で潰した実を一欠片、口の前に差し出すと、子狸は恐る恐る舌を伸ばした。ぴちぴちと控えめに舐め取られる実からは甘酸っぱい匂いがする。ややこのようなその姿に目を細めていたら後ろからどすん、と重量のある音がした。モンスターかと思って即座に振り向くと、

    「調達ついでにファンゴも狩ってきたニャ!」
    「わおん!」

     その元気な声にホッと息をつく。そこには仕留めたファンゴを咥えたライゴウの背中に、デンコウが武器を手に乗っていた。そしてその立派な大きさのファンゴに目を見張る。

    「流石は俺のオトモだ! 今夜は牡丹鍋にしようか!」
    「今後のために干し肉にするのも捨てがたいニャ。ちなみに相棒は生がいいって言ってたニャ」

     ライゴウの背中から降りたデンコウはまだまだ余裕の顔で言う。

    (拾った時はあんなに怯えていた子たちが……)

     そのたくましい姿に感慨深く思っていると、指先に急な痛みが走った。

    「痛っ!」
    「くぅ…」

     そこで俺の指に小さな歯で噛み付いたまま、気まずそうな目をする子狸と視線があった。その指先にはもうホオズキの実はなくなっている。すると、お詫びとばかりにぺろりと舐められた指がくすぐったい。

    「もっと?」
    「くぅん」

     その甘えたような鳴き声は、いつかのホオズキの子狸とやっぱりよく似ている。

    「気が付いたニャ? 少しは良くなったニャ?」
    「ひとまずは意識があるよ。食べ物も口にしたし」

     口元の食べこぼした実を拭いながらいうと、俺の腕の中を覗き込むデンコウが子狸の額を撫でた。ライゴウはその体の匂いを嗅いで、ぺろりと頬を舐め上げる。
     そうして誰かが何かをするたびに目を細めるか弱い子狸は、この場でこれ以上ない加護の対象となっていた。
     このときにはもう、おそらく全員が今後について同じことを考えていたんだろう。
     


    「で、どうするニャ」
    「…餌付けしちゃったからなぁ、しかも子狸を」
    「わおん」

     輪になって話す一人と二匹の真ん中で、地面に降ろされた私は全員の顔を見上げていた。久しぶりの食べ物とアメフリツブリのおかげで座ることができるくらいには回復した体はまだだるいけれど、意識は会話が聞き取れるくらいにははっきりしている。

    「帰る?」
    「そうニャね」
    「わんっ」

     そう頷き合って顔を見合わせた狩人とオトモは、こちらを見ずにそそくさと帰り支度を始めた。

    「くぅん…」

     その背中につい、淋しげな声をかけてしまった。すると、私の寝ていた場所に並べられていた薬草をポーチに詰めるアイルーが振り返る。

    「一応、暖かくしとくにゃ」

     そう笑って、頭から手ぬぐいをかけられると前が見えない。誰の姿も見えなくなったことに怯えて、払いのけようとすればするほど、腕にも頭にも手ぬぐいがまとわりつく。

    (おいていかないで、ひとりにしないで)

     この手ぬぐいから出た時に、もし、誰もいなくなっていたらどうしよう。そんな思いを抱きつつ、しばらく手ぬぐいと格闘していたら体が急に浮かび上がった。

    「なにしてるの?」

     声の主によって払われた手ぬぐいはそのまま私の体を包み込んでいる。そうして、なにも荷物がなくなった地面を見下ろすとアイルーとガルクが揃ってこちらを見上げた。

    「帰ろうか、うちに」

     爽やかな声のする方を見上げると、包み込まれている腕と同じように優しい、月色の瞳が微笑んでいた。
     


     そして、すっかりされるがままの私を連れて彼は里へと帰還する。

    「ウツシさん、その布の中になにを隠しているんですか?」
    「えっ?! な、なにも…」
    「本当に?」
    「本当だよ、ヒノエさん」

     隠すように包まれた布の中で聞こえる外の声は柔らかい女の人の声と、焦った狩人の声だった。あたりからは微かに煙の匂いや美味しそうな甘い匂いがする。その後も一言二言、会話を交わして、大きく体が揺れたのは私を抱く狩人が駆けたからだとぼんやり考えた。
     そして『ぴしゃん!』と勢いよく響いた乾いた木の音に体が跳ねると、ゆっくりと手ぬぐいが取り払われる。
     そこは大社跡にある人の住処の跡のような形で、火のついた穴やよくわからない石の桶、お肉の匂いと果物の匂いもした。そして怖いモンスターの匂いもする。でもその暖かそうな雰囲気は天気のいい日の陽だまりみたいだ。

    「着いたよ、今日からここがキミのうちだ」
    「ようこそニャ!」
    「わおん!」

     頭上と足元から聞こえた声に辺りを見回すと、鼻筋を指で撫でられる。それがくすぐったくて、また〈きゅ〉と甘えた声がもれた。

    ―○●○―

     人間の沢山いるそこは『カムラの里』というらしい。
     連れ帰られてから囲炉裏のそばに置かれたまま、あたりを見回すと部屋の片隅には狩猟道具や巻物が積まれて。頭の上には干されたお肉やお魚があった。

    「狸が食べられそうなもの、ブンブジナなら雑食だけど…まだ子供だから切って与えたほうがいいな…あっ、そういえばここに丁度いい餌皿が…」

     そして土間を隔てて離れた場所では、ここへと私を連れてきた人が忙しそうに動き回っている。
     その背中でゆらゆらとゆれる布が気になるのに、その隙間からこちらを睨むジンオウガはニセモノとわかっていても怖かった。

    「ラッキーな狸だニャ。うちのご主人はうんと可愛がってくれるからペットになれば今後の人生は安泰ニャ」

     あの時、隣で笑った黄色いアイルーがマタタビを棍棒ですり鉢に擦り付けながら言った。その独特な匂いの充満する中で私の体を包むように眠っていたガルクも同意するように〈わう〉と小さく鳴き声を上げる。
     "ぺっと"ってなんだろう?

    「迷ったから全部、乗るだけ皿に乗せてみたんだ!気に入るものはあるかな?」

     聞き慣れない言葉に首を傾げる私に、その人はお皿いっぱいのご馳走を持って駆け寄ると目の前に膝をついた。

     せっかくの御馳走はしばらくまともに食べていなかったから思ったようにはお腹に入らなかった。けれど、狩人もオトモもそのことを責めずにむしろよく食べた!と口々に褒められて反応に困った。
     そのあと、オトモのアイルーさんは『デンコウ』と名乗って、ガルクさんは『ライゴウ』とデンコウお兄ちゃんが教えてくれた。そして狩人はというと、さっきの女の人との会話の通り、『ウツシ』というらしい。

    ―○●○―

      ちぅ、と高い音を立てて哺乳瓶の先を吸う生き物は懸命に瓶まで抱え込んでいる。
     連れ帰ってから思ったよりも食欲のない子狸に、オトモたちがゼンチ先生から借りてきたという哺乳瓶は小さかったらしく、中身はもう半分もない。
      
    「やっぱり、弱った体にいきなり固形物はよくないニャ」

     と、得意げなデンコウが哺乳瓶を支えながら言った。

    「デンコウがお兄さんみたいだ」
    「ニャ!ただの元野良の知恵ニャ」

     やけに子狸に構う彼に言うと照れたように目をそらされる。
     その背中を支えるライゴウも子狸の様子を窺っているようだ。
     そしてそんな二匹の腕の中で子狸は『きゅぽん』と哺乳瓶を離した。

    「すごい!全部飲んじゃったね」
    「くぅん」

     素直に感心してその膨らんだ柔らかい腹を撫でると子狸はむずがるように身をよじる。
     やっぱりこんなに小さくても獣らしく腹部は警戒するんだろうか。

    「これだけ食欲があるなら、あとはこの家の中のルールと、それから里のことと、教えることがたくさんニャ」

     指折り数えて考えるデンコウをライゴウが鼻の先でつついた。
     その間にデンコウの手から子狸を抱き上げるとウトウトと船を漕いでいる。

    「どうしたニャ、相棒」
    「わおん」
    「『ひとまず休憩』?でも、その前に…」

     そういってデンコウがこちらを見るころには、子狸は寝息をたてて眠ってしまっていた。
     その気ままな子狸の態度にオトモたちは揃って安心した顔をする。

    「子狸さんも寝ちゃったし。今日はもう、みんなでお昼寝にしようか」

     そんな提案をして横になると、子狸はしばらく寝床を探ってから、俺の腕を枕にすやすやと寝入った。
     ライゴウも頭を伏せたのを見ると、デンコウは〈ニャア〉と納得したように鳴いて立ち上がる。
     そして、使い終わった哺乳瓶を片付けながら
    「次はもっと大きな哺乳瓶をゼンチ先生から借りるニャ」と笑った。

    ―○●○―

    「子狸」

     ウツシたちと暮らし始めて数日。
     ウツシとライゴウお兄ちゃんが出かけているときにマタタビを擦っていたデンコウお兄ちゃんはふと、私を呼んだ。
     デンコウお兄ちゃんは里のお仕事に忙しいウツシや、喋らないライゴウお兄ちゃんに代わって私に家のことや里のことを教えてくれる。
     そしてもとは二匹もウツシに拾われたんだとも教えてくれたから、私はすぐ二匹にもウツシとは違う親近感をもった。

    「誰もいないニャね?」

     真剣な表情で私の前に立った彼はキョロキョロとあたりを見回して声をひそめる。それから『しぃ』と鋭い爪を立てて口元に指をあてた。

    「子狸にはこの家の秘密を教えてあげるニャ」
    「くぅん?」

     ニャ!といたずらに笑ったデンコウお兄ちゃんがウツシの家の奥にある押し入れに向かった。
     そして、その襖の前で私に手招きをする。

    「ここニャ。相棒も知らない秘密の場所だから誰にも言っちゃだめニャ」

     そばに近づいた私が開かれた襖の奥を覗くとデンコウお兄ちゃんは楽しそうに笑う。
     そして物の少ない押し入れに入り込んだ彼はその床の一部をめくって、その下に続く床下に足を突っ込んだ。その先は暗くて見えないけど、デンコウお兄ちゃんが言うにはここを入り口に、こっそり床下に掘り進めた抜け穴が里のどこかに繋がっているらしい。
     そういえば野生のアイルーも抜け道や獣道に詳しかったのを思い出して懐かしい気持ちになっていると、<にゃは>と楽しそうな彼がまた手招きする。狭くて暗い押し入れは興味があったので近づくと、私は抱き上げられてその穴の入り口まで案内された。
     驚きながらも久しぶりに嗅いだ蒸した土の匂いに深呼吸をすると隣で伏せたデンコウお兄ちゃんが言う。

    「いいニャ?もしイタズラをしてご主人に追いかけられたら、ここから逃げるニャ!」

     イタズラ?と首を傾げながら、きっと私は使わないだろうとも思った。ウツシを困らせるのは気が進まなかったからだ。

    「あ、でも万が一、見つかったら一緒に怒られてやらないこともないニャ」

     <拾われた者同士のよしみニャ>と頭を撫でるデンコウお兄ちゃんはそれからもたくさんのことを教えてくれた。
     罠のこと、応援のこと、採集のこと。コガラシさんの隠密隊はかっこいいこと。

     でもまさか、近い将来にイタズラ以外の理由でこの抜け道を使う日がくるとはこの時の私は思いもしない。
     その日、私はこのデンコウお兄ちゃん特製の抜け道が想像の数倍長いことを知る。

    ―○●○―

    「子狸さん、子狸さん」
     
     『コダヌキ』。
     ここカムラの里で暮らすようになって、私はそう呼ばれていた。
     今も里の中央の縁台に腰掛けた『ヒノエサン』がその名を呼んで、私に手招きをしている。
     
     ててて…と、駆け寄るとその人は地面からすくうように私のことを抱き上げた。

    「いい天気ですねぇ」
    「くぅん」
    「子狸さんはお団子を食べられますか? あぁでも、お砂糖は駄目かしら…」

     柔らかい膝の上で話しかけられながら、ヒノエさんの手からいい匂いがした。
     この里にいつも漂うのは、花の匂いと黒煙、それから甘い甘い穀物が漂わせるお団子の匂いだ。
     人間が美味しそうに頬張るそれを私は食べたことがない。
     ウツシはいつも新鮮なお肉や野菜を食べさせてくれるけど、『狸のキミにとって、人間と同じ食べ物は〈毒〉だから食べちゃいけない』と言うから。 

    (でも、どんな味がするんだろう) 

     頬をくすぐるヒノエさんの指からは毎日、お団子の匂いがする。 

    (いつか、食べてみたいな…) 

     そうヒノエさんの膝の上で丸まりながら願った夢は、ウツシが大切にしてくれている限り、叶わないと思っていた。
     でも私にとっては思わぬ方法で、近い将来に叶うことになる。
     その話はまた、別の機会にしようと思う。
     

     
    「子狸ちゃん、子狸ちゃん」
     
     ヒノエさんとのやり取りのあと、散歩をしていたら次に声をかけてきたのは穀物を扱う『スズカリサン』だった。
     里の人の名前はウツシが教えてくれるから、よく顔を合わせる人の名前はすぐに覚えた。

    「お腹空いてない? 今度から扱う新種のお米が炊けたところだから、食べていく?」
    「くぅん」

     店先にしゃがんだスズカリさんは私の返事に頷くと店の奥に引っ込んで、それからすぐに小さなお皿を持って戻ってきた。
     お皿の上にはお米を小さく丸めたものが乗っている。お団子に似ているけど少し違う。色も真っ白で輝くようだ。

    「冷ましてあるけど、ゆっくり食べてね」

     そう言って差し出されたお皿から、言いつけ通りにゆっくり食事を済ませて、水まで飲ませてもらった。
     それから満腹に眠くなった私はスズカリさんのお店の前でまた丸まってしまう。
     
     この里の人は優しい。
     ウツシも優しいけど、ヒノエさんもスズカリさんも、この前に少し遊んでくれたイヌカイさんも。ポポという大きなモンスターを連れたカゲロウさんは顔の見えない不思議な人だったけど悪い人ではなさそうだ。
     
    「あら、子狸ちゃん寝ちゃった?」

     うとうと、と瞼を閉じた私の背中をスズカリさんが撫でてくれた。
     天敵もない、モンスターもいないカムラの里でぬくぬくと過ごす日々はとても居心地が良い。
     

     
    「カゲロウさん、うちの子狸さんを見なかった? 散歩に出たまま帰ってこないんだ」
    「子狸殿ならあちらで昼食をご馳走になっていましたよ」

     そう言ってカゲロウさんが指したのは、里の入り口に位置する米穀屋さんだった。
     そこにはお客が引っ切り無しに訪れて、よくよく見ると地べたにうちの子狸が腹を見せて寝そべっている。
     その姿に客は喜んで立ち止まり、スズカリさんのお店で一つ二つ買い物をして帰っていく。

    「狸の焼き物を店先に置くのは商売繁盛にいいと聞きますが…今度、子狸さんをお借りしても宜しいですか? ここにちょこんと、座っていただくだけでいいのですが…」
    「うーん、あの子に聞いてみてください」

     笑いながら口ではそう言いつつ、カゲロウさんの指す商品棚の隅に座る子狸の姿を想像した。
     悪くはないかもしれない。
     その時は首に飾り紐でもしてあげよう、あの毛皮に映えるなら何色だろう…と思案していたら、米穀屋の前に動きがあった。
     突然、ゴロンと寝返りを打った子狸はしばらくぼんやりと辺りを見回して、自分を見下ろす人間たちに気付くと、驚き飛び上がる。

    「あ、子狸ちゃん! また来てね!」

     そして人間たちの足の合間をぬってその場から逃げ出した子狸は、俺の姿を見つけると、こちらに一直線で向かった。

    「やっとお目覚めかな?」

     しゃがんで出迎えると二足で立ち上がり、膝に前足を載せた子狸にそう声をかける。〈くぅん〉と応えながらも、その姿が少し焦っているように見えて、笑いを噛み殺しながら抱き上げた。
     
    ―○●○―

     オトモ広場にある隠密隊の出発口には蒲公英が咲いている。
     半分は綿毛のそれを鼻先でつついて遊ぶ獣には、丸く大きな尻尾があった。この季節の毛並みはアイルーほど深くもなく、ガルクほど硬くもない。
     耳も丸く、頭も小さなその獣は訓練に明け暮れるオトモたちの隣で、立ったまま眠るコガラシさんの足元をうろちょろと動き回った。

    「うちの子は今日もお散歩かな?」

     そう、声をかけると獣はすぐに顔を上げてこちらを振り向く。
     
     愛嬌のある大きな目、丸い顔、寸胴な胴体に、小さく短い足。福々としたその姿は山で拾った時のボロ雑巾のような姿が嘘みたいだ。

    「くうん」

     まるで俺への返事をするように、可愛らしく鳴いた声にコガラシさんもハッと顔を上げ足元を見やる。
     そして、駆ける振動に尻尾を振ってこちらに駆けてくる四足歩行の小さな狸の後ろ姿を穏やかに見送った。

    「種蒔きをして遊んでいたのかい?」
    「さっきまではそれを集めていたでござるニャ」

     抱き上げた子狸は毛皮に綿毛をつけている。それを指先で摘みながら話しかけると、コガラシさんが代わりに返事をくれた。
     よく見ると彼の視線の先には地べたにいくつか、アキンドングリが転がっている。

    「あれをキミが? コガラシさん、この子には採取の才能があるかもしれないよ!」
    「ガルクに続いてタヌキのオトモでござるかニャ?」
    「それも面白そうだね」

     会話しながら拾い上げたドングリは、ぴかぴかと艶のある皮に、実入りを語る張りと重さ、虫食いもなく充分!
     アイルーたちのお眼鏡に敵いそうだ。

    「でもまだキミは子狸だから、今はまず沢山食べてしっかり寝て、大きくなろうね。そして、大きくなったら隠密隊に入れてもらおう!」

     そう声をかけると腕の中の子狸は小首を傾げ、コガラシさんは、「その時は狸用の凧の用意がいるござるニャ」と呟いた。

    ―○●○―

     今日は経過観察のために診療所を訪れた。里に連れ帰ってすぐ、診療所を訪ねてそれから何度目かの診察だ。
     初めこそ緊張していた子狸も、優しいゼンチ先生に今はすっかり懐いている。

    「毛艶も来たときよりも格別に良くなって、至って健康な狸だニャ」

     猫じゃらしを子狸の顔の前で振り、視線の動きを確認したゼンチ先生は猫じゃらしにじゃれつく子狸をかわしながら言った。
     
    「そういえば、名前はつけないのかニャ?」
    「名前?」
    「例え狸でも飼うなら名前がいるじゃろ?」
    「飼うんじゃなくて、家族だよ」
    「どっちでもええニャ」

     ゼンチ先生はそう言って笑い、その膝の上では子狸が無防備に寝そべっていた。
     その姿に、言われてみればそうだとは思う。
     子狸は思った以上にうちとカムラに馴染んだ。俺も寝食を共にして、狸のいる景色に愛着も出てきたところだし、オトモとも相性がいい。
     カムラは自然豊かな土地だし、過酷な自然に戻す理由も特にないのだから、子狸が気に入っているのなら今の暮らしを継続すべきだろう。
     と、なるとやはりゼンチ先生の言うとおり、名前は必要だ。

    「そういえばそのことについては考えたこともなかったな…」
    「不便じゃないのかニャ? それに、いつまでも『子狸』じゃないしニャ」
    「それもそうだね、なにがいいかな…? オトモたちにならって四文字? 俺と同じ三文字もいいな。勇壮勇敢で豪胆無比な名前に…」

     子狸を見ながら考えていると、ゼンチ先生が不思議そうな顔をする。

    「ヒノエやミノトに頼んだらどうだニャ? 言えば喜んで可愛らしい名前を考えてくれるニャ」
    「可愛い? 出来れば格好いい名前のほうが…」
    「雌なのにニャ?」
     
     そこで、はた、と子狸と目があった。

    「え? 雌、なんだ? 子狸さんって…」
    「気付いとらんかったニャ?」
    「というか、気にしてなかった。子狸さんは子狸さんだし…」
    「雑だニャア」

     呆れ声のゼンチ先生が子狸さんをひっくり返そうとして暴れられている。
     なるほど。寝姿なら大いに披露してくれるのに、普段じゃれつくときにあまりお腹を見せてくれないのはそういうことか。

    「どうりで。みんなが〝りぼん〟や、お花を子狸さんに与えてた理由がわかったよ」

     そしてそんな事実を知ってから見る子狸は、妙に可愛らしく小首を傾げていた。 
     
    ―○●○―

    「くぅん」

     カチャカチャと鍔のなる音に振り向くと、刀を背負った毛玉がいた。
     丸く小さな体に二対の刀を風呂敷で縛って現れた狸は、ワシの店の前で行儀よく座ってみせる。

    「なんだ」
    「くうん…」

     黒に縁取られたつぶらな目が懸命にこちらを見上げるので、思わず声をかけた。
     すると狸は刀を差し出すように頭を下げる。
     その拍子に、前のめりになった鞘が勢い良く地べたを弾んだことは、ウツシには秘密にしておいてやろう。
     
     

    「子狸のおつかいかニャ?」

     シャッシャッ、と小気味良く響く砥石の音の合間で、フクラさんが言った。
     そう、今日はウツシから『おつかい』を頼まれた。
     
    『ハモンさんのところに行って、刀の調整を頼んできてくれないかい? 代金と手紙も入れておくよ、一人でも大丈夫かな?』
     
     そう言って背負わされた刀は少し重かったけど、ウツシから頼られたことが嬉しくて私はすぐに家を飛び出した。

    「刀を狸に託すか、相変わらずだな…」

     静かに呟いたハモンさんは手を止めると薄い刃を空にかざす。
     重いと思った刀は、鞘から抜くと普通の刀の何倍も薄くて鋭い。
     そして刀に負けないほど眼光鋭いその人は艷やかに燿る刃先に頷いて、小さな和紙のようなものを刃にあてると、手際よく刀身を拭っていく。
     使っている道具の名前も砥石の種類も知らないけれど、どんどん艶を増す刃は見ていて面白かった。

    「…………」

     すると、そんな視線に気づいたらしい。
     一振り目の刀を元の形に戻したハモンさんと目が合った。
     職人さんたちのいる場所よりも一段高い、加工屋を囲うように連なった木の縁に座る私へと彼は視線をよこす。
     実はハモンさんとはこの里に来てから少し距離があった。
     ウツシはいい人だというけれど、無口でいつも難しい顔をしているから…近寄りがたい。
     
     はずだったのに、今はその目の奥に暖かなものが見えた気がして一歩、前足を踏み出した。縁を渡って、隣まで回り込むとハモンさんが青い座布団から少しだけ腰を浮かす。

    「くぅん」
    「来るな、怪我をするぞ」

     『来るな』その言葉はこの里の人からは言われたことがないけれど、意味はわかる。
     でも言葉とは裏腹に、とても優しい声だったから私はそのまま縁から降りて、ハモンさんの膝の上に前足を乗せた。

    「来るなと、」
    「くぅん」
    「…………」

     そのまましばらく見つめ合っていたら、筋張った職人の手でハモンさんが頭を撫でてくれる。

    「ハモン師匠、ガルクはだめでも狸は平気なのかニャ?」

     後ろでフクラさんが愉しそうな鳴き声を上げた。
     それに答えないまま、ハモンさんは鼻筋も撫でてくれた。
     この手はウツシの手とは感触も匂いも違う。
     でもハモンさんの手は、静かな笹林の木陰に似た安心感があった。

    「…さあ、もとに直れ。おぬしの主人の刀は二対だ」
    「くぅん」

     しばらく頭を差し出してくつろいでいたら、急な浮遊感。
     抱き上げられていると気付いた時には、私はまた元の縁へと戻されていた。

    「…………」

     そしてもう一振りに手を掛けたハモンさんはまた、厳しい横顔を向けてその刀と向き合う。
     その手の中でまたウツシの刀は艶を思い出していた。
     
     

    「一人で帰れるのか」
    「くぅん」
    「そうか…」

     来たときと同じ、風呂敷で背中に刀を縛り付けてやると子狸は律儀に返事をする。

    「気をつけろ」

     そう声をかけるとまた頭を下げた。今度は来たときほど勢いもなかったので鞘は無事だ。

    「人の言葉や礼儀が解るみたいだニャ」

     こちらに背を向けて家路を行く子狸をフクラと見送る。
     フクラの言葉に〈確かに…〉と感心しつつ、あれだけ騒がしい飼い主といれば人間くさくもなるか、と納得もする。
     そしてなんの気なく、さっきその顔を見ていて思いついた事が口をついた。

    「今夜は狸汁か、いや、狸蕎麦も捨て難いな…」

     帰りに蒟蒻か天かすを買って帰るか。
     揺れるふくよかな尻尾にそんなことを考えていると、ピクリと耳を動かした子狸が恐る恐るといったふうに振り向いた。
     そして上目遣いにこちらを見上げると、暫くしてその瞳が潤み、体がガタガタと震えだす。

    「師匠! 子狸が怯えてるニャ。師匠の真顔でその冗談はキツいのニャ」
    「きゃんっ!」
    「あっ! 食べられないから大丈夫ニャよ!」

     そうしてなぜか慌てたように駆け出した子狸の背中で、二対の刀は乱暴に揺れた。
     
     
     
    「ウツシさん、そこでなにを…?」

     集会所の二階から、加工屋の方角を隠れるように覗いていたら背後から声を掛けられた。慌てて振り向くと、ギルドの書類を抱えたヒノエさんと目が合う。

    「えっ、あぁ! ヒノエさんか! 実はうちの子狸さんがはじめてのおつかいをしてて…」
    「その後をつけていらっしゃったんですか?」
    「そう! そうしたら、あのハモンさんと打ち解けててびっくりだよ!」
    「そうですか、それは…あら、子狸さんが…」

     同じく里を見下ろした彼女の視線の先を見ると、子狸は勢い良く走り出してうちの方角へと駆けている。
    「うまくお遣いが出来たから、きっと早く褒めてほしいんだね! じゃあヒノエさん、俺は子狸さんよりも先にうちに帰るよ」
     そして二階の柵を乗り越えて翔蟲を飛ばすと、背後から納得のいかないような声がした。

    「にしては、焦っていらっしゃるような…」
     
     

     先に家の中で待つことしばらく、逃げるように飛び込んできた子狸は、いの一番に俺の足元に向かう。

    「おかえり、子狸さん!」

     そうして抱き上げるとはトットッと小さな心臓は脈打っている。余程の思いで疾駆けてきたらしい。

    「こんなにきちんとおつかいが出来るなんて! キミは本当にオトモの才能があるかもしれないね!」
    「くぅん」

     一も二もなく称賛すると、なんとなく得意げな子狸の頭を撫でてやる。そして、〈いい子だね〉と、背中の風呂敷を解きながら思いついた。

    「そうだ、一緒にハモンさんにお礼を言いに行こう!」
    「くぅん?!」
    「あれ? 仲良くなったんじゃなかったの?」

     そういうと必死に爪を立てて、俺から離れようとしない子狸に首を傾げる。それ以降、ベッタリとくっついて離れない子狸さんに首を傾げていたら…
     
     

    「美味しく出来たからってハモン師匠からのお裾分けニャ」

     その夜、フクラさんが届けてくれた料理は料理上手なハモンさんらしい立派な根菜と蒟蒻で具沢山、味噌も香り高い。
     紛うことなき精進料理の狸汁だった。
     
    ―○●○―

     そのハンターは見た目に反して熱苦しい男だった。
     そして『黙っていれば…』と口惜しそうに呟く女を気にもせず、或いは気付きもせず子供のようにはしゃぐ。
     それは狩り場でも、酒の席でも変わらなかった。そんな男と食べて飲騒げば下衆な話もしたくなる。

    「もったいない!俺がオマエの顔なら入れ喰い生活を愉しむのに」
    「入れ喰い?なにそれ、釣り?」

     きょとんとした顔でその男は言う。
     『かまととぶるとはあざといな』と内心で舌打ちしながら『この男の調子ならそうだろうな』とも納得した。

    「なにってほら、女には困らないだろう?」

     下種張りは承知の上で尋ねると、男は〈え?〉と驚いたような顔をする。困らないとは言わせない、そんな圧をかけると男は困ったように目をそらす。

    「もしかして、本命がいるとか?」

     そう続け様に聞くと、男は控えめに考える素振りを見せた。

    「本命といえばそうなんだけど…」
    「なんだけど?」
    「恋人とも違うというか」
    「まさか、片思い…」
    「ううん、あの子も俺のことが大好きだと思う。むしろそうじゃなかったら結構落ち込む…」

     そこで男は大袈裟に肩を落としてみせる。
     どういうことだ?
     本命だけど恋人でもなく、片思いでもないのに相思相愛?
     わけのわからない主張に頭がこんがらがってくる。

    「なんだそれ」

     と、思わず呟くと男は〈なにかなぁ〉と笑って、その背後で集会所の入口に座っていた案内役の男性がふと席を立つ。
     そしてしばらくするとなにかを抱いて戻ってきた。
     再度、縁台に腰掛けた男の膝の上には狸。
     しかも頭に桜を挿した狸がいた。

    「家であの子が待ってるのかって思うと、早く帰らなきゃって思うし」
    「へぇ…」

     蕩けるように甘い声で言った男に生返事で頷く。
     それというのも、思わず狸をじっと見つめていたら案内役の男性が狸の手を持ってこちらにその手を降ってきたからだ。
     きょとんとした狸の目と黒い肉球が俺に向けられている。

    「帰ったら玄関で出迎えてくれるのも嬉しくて、起きてる時間に帰ろうって思うし」
    「ふぅん…」

     今度は完全に溶けきった声で言う男にひとまず頷いた。
     案内役の男性が狸の手を下ろすと、狸はその膝から飛び降りてこちらに歩いてくる。とてとてと、細い足が真っ直ぐに俺の隣の男に向かってくると、突然、男はそちらを振り向き花でも咲きそうな笑顔を浮かべた。

    「子狸さん!!」
    「くぅん」
    「迎えに来てくれたの?」
    「くぅん」

     男の足に前足をおいて立ち上がった狸は男に返事をするようにタイミングよく鳴いている。

    「あっ、その桜はハナモリさんにもらったのかい?」
    「くぅん」
    「似合うよ、ありがとうハナモリさん!」

     抱き上げて頬擦りでもしそうな勢いで狸にデロデロな男を呆気にとられて見つめていたら、狸は円な瞳でこちらを見返した。

    「紹介するね!俺の家族の子狸さん!」
    「くぅん」

     そして男の膝の上で片方の前足を上げた子狸は、また俺に小さな肉球を見せてきた。



    「それで、あの人なんて言ったと思う?!告白した私に『子狸さんと居たい』って言ったの!狸に負けるってなに?!」

     怒り狂った狩猟仲間の女に呼び出されて落ち合うと、開口一番そう叫んで泣き出す。
     今日の昼間、例の男が頬に真っ赤な手形をつけて狩猟の待ちあわせ場所に現れた謎が解けた俺は、例のとぼけた子狸を思い出して笑った。

    ―○●○―

    『あの遠くに見える船には、面白いものがたくさん載っているですよ』とホバシラさんは抱きあげて見せてくれた。
     その高さからは『ふね』のお尻しか見えない。
     ホバシラさんの前にあるのとは違う、その大きなふねが見てみたくて、私は集会所の近くの桜の木に登った。
     木登りはお父さんとお母さんから木の実を食べられるように、と教えてもらっていた。
     狩りを教えてもらう前に別れた両親に教えてもらった、唯一のことかもしれない。
     

    「くぅん」

     一生懸命登った木の天辺からの景色は見晴らしがよかった。苦労して登ったのもあって、つい、声が出る。
     大きな滝にあんなに大きくて深そうな川は見たことのない。
     ホバシラさんの教えてくれた『ふね』も小さくだけど、遠くに全体が見える。
     悠々と川の上を進むふねを見つめていたら下から私を呼ぶ声がした。

    「ここにいた!子狸さん!ただいま!」
    「くぅん」

     下を覗き見るとここ数週間、狩猟に行っていたウツシが里に戻ってきていた。
     ウツシの大きな声はあたりに響いて、船着き場で振り向いたホバシラさんが葉の隙間に私を見つけて微笑む。

    「自分で登ったのかい?」
    「くぅん」
    「すごいな!俺もそっちにいってもいい?」

     こちらを見上げて感心するウツシに尻尾を振ると、彼は翔蟲さんを飛ばして同じ目線まで一瞬で来てしまった。
     そして目の前で鉄糸にぶら下がると楽しそうにたずねる。

    「なにを見てたんだい?」

     そしてまた、『ふね』のほうへ視線を向けた私の視線を追った。

    「大きな船だね」
    「くぅん」

     近くの枝に飛び移ったウツシとしばらく並んで見送っていたら、ふねは小さく見えなくなる。
     人間はいろんなものを作って面白い。カムラの里にきてから色んなものを見たけど、水の上を走る木まであるなんて。
     山育ちの私には見るものすべてが新鮮だ。

    「見えなくなっちゃった」
    「くぅん」

     もっと近くで見てみたかった、と残念な気持ちになっていると、

    「そろそろ、おやつの時間にしようか」

     〈今日はお土産に熱帯イチゴがあるよ〉と言われて、枝から垂らした尻尾が揺れる。

    「サボテンも美味しいから食べてみる?」

     おまけにそう畳みかけられると、さっきまであんなに夢中だったふねやここの景色は、すっかり食べ物に負けてしまった。

    「荷物の中にあるから降りようか。あ、自分で降りられる?」

     きっとそんなことはお見通しのウツシに声をかけられる前に、私はズリズリと枝を後ずさっていた。
     登るのは勢いで何とかなるけど、降りるのは苦手だ。

    「くぅん…」

     枝に爪を立てて、恐る恐る木の上を這いずっていたらウツシは先に下へと飛び降りてしまう。
     そうしてきれいに着地した先で、大きく腕を広げて言った。

    「大丈夫、俺がここで見てるから自分の力で降りておいで!」
     


     それからというもの、ウツシは私を山に連れ出すことが増えた。
     背中にはデンコウお兄ちゃんのような風呂敷を背負って、赤い橋を渡る私たちの背後で楽しげな声がする。
     
    「最近、ウツシのやつはなにをしてるゲコ」
    「子狸さんに狩猟を教えていらっしゃるそうですよ」
    「まさか、本気で狸をオトモに……」
    「ウツシさんなら成し遂げそうですね。その時は子狸さん用の首巻きを作って差し上げなくちゃ」

     はしゃぐヒノエさんの声が遠くに聞こえた頃、隣を歩いていたウツシはふいに私を抱き上げた。

    「子狸さん、今日は美味しいキノコの見分け方や木の実の旬も教えるね!」
    「それと、試しに狩りもしてみようか!」

     楽しそうなウツシはこのあと、私がエンエンクを捕まえて大騒動になることをまだ知らない。

    ―○●○―

     大社跡の近くに住む私が、同じく近くの隠れ里にモンスターの討伐を依頼したのは先日のこと。
     『討伐を請け負ってくれたハンターにぜひお礼がしたい』とカムラの里を訪れると、ギルドに向かうように里の入り口に座っていた受付嬢から言われた。
     そのハンターの顔も知らないとこぼすと、受付嬢は〈元気いっぱいのハンターを探してください。すぐにわかりますよ〉と笑っていた。

    「この度はお世話になりました。貴方のおかげでまた畑を続けられます」
    「それは良かった!うちの里にも貴女のところの作物を卸していると聞いて心配してたんだ!」

     受付嬢の言葉通り、そのハンターはすぐに見つかった。
     集会所で大きな団子を食べているハンターの集団の中に彼はいて、人一倍はきはきとした声で話す彼はたしかに〈元気いっぱいのハンター〉だ。
     そして挨拶に向かうと、深々と頭を下げた私にそのハンターは爽やかに笑う。
     見たところ五体満足で、怪我も見当たらない。
     そのことに良かった、と一安心していたところで彼の姿かたちを見る余裕が出てきた。
     たくましい体つきと、浅黒い肌はハンターらしい。
     精悍さの中に可愛らしさのある絶妙な顔つきに、葉裏色の髪は自然を彷彿とさせて優しげな雰囲気を醸し出している。
     そんな髪の襟足に、小さな獣の手が見えた。
     その手はハンターの肩に載ると、もう一本隣に添えられる。そうしてハンターの頭の後ろから、小さな狸の子供が顔を覗かせた。

    「狸っ?!」
    「くぅん」

     ハンターの後ろから子狸が鳴く。
     よくよく見れば、ハンターの身につけた装束に頭巾がついている。その頭巾の中に子狸は入り込んで、そこからこちらを覗いているらしい。

    「子狸さん、里の外からのお客さんだよ」
    「くぅん」

     そう言って子狸に伸ばしたハンターの手が子狸の頭をくすぐるように撫でる。それに目を細める子狸はずいぶん人馴れしているようだ。

    「かわいい子ですね」

     つい、口をついた言葉に彼は嬉しそうに目を輝かせて答える。

    「そうでしょう?!今回の依頼もこの子の好きな野菜を貴女が作っているから受けたんだ」

     〈良かったね、子狸さん〉と狸に声をかけたハンターに呆気にとられる。ハンターというのは常人離れした肉体と感覚を持っているとは思っていたけど。
     狸一匹のために危険な依頼を受けた、と宣った目の前のハンターは頭巾から子狸を出してこちらに見せた。

    「子狸さんも応援してるから、これからもいい野菜を作ってね」
    「くぅん」
    「はい……」

     子狸登場まで『この人とこれを期にお近付きに…』と考えていた私は、べったりくっついた一人と一匹を見て消え失せた。

    ―○●○―

     カムラは製鉄の盛んな土地だ。
     近くの大社跡は鉄鉱石の産地、そしてそこに多く生息するブンブジナは狸獣下目。
     今でこそ民芸品のモデルとしてカムラで愛されているブンブジナも、狸といえば狸だ。
     たたら場と狸には様々な縁がある。
     それはもちろん、うちの子狸さんも。
     

     里の中心に位置するたたら場の前を通ると、小さな生き物が座っていた。

    「また、たたら場を覗いているのかい?」
    「くぅん」

     微かに開かれた門扉からこっそり中を覗く子狸に声をかける。すぐに振り向いた子狸の毛が、中からの熱気になびいた。
     その門扉の奥では大きなうちわを振るアイルーが、子狸と俺に気づいて手を振る。

    「子狸、今日も来たニャ?」
    「すっかり常連なんだね、子狸さん」
    「くぅん」

     すると、中心に設置された踏みふいご担当のアイルーたちも仕事に励みながら子狸に見守るような視線を向けた。

    「火傷するから来ちゃだめニャ、って何度言ってもここを見に来るニャ」
    「そうなんだ? 聞き分けの良い子狸さんにしては珍しいね」
    「まぁ、狸なら他にここの秘密を漏らさないからって里長も大目に見てるニャ」

     ただし灼かれるような熱を感じ取ってか、中には入ろうとしないらしく子狸はいつも門扉のかげで見学をしているらしい。

    「ここは暖かいからかもしれないなぁ」
    「暖かいというか、あっついニャ」

     そう言って汗を拭ったアイルーの奥から、ふいごのきしむ音がする。溶けた砂鉄の赤い色はホオズキのようだし、打たれる金床は賑やかに祭り囃子のような音を立てて、大うちわを凪いだアイルーが職人たちに声援をかけると返事も高らか。
     そんなふうに活気に溢れるたたら場は、子狸の興味を引く要素がたしかに多い。

    「これがよそのたたら場なら、すぐ捕まってふいごにされちゃうのニャ」
    「カムラで拾われてよかったニャ、子狸」

     笑ったアイルーに子狸が首を傾げる。
     その奥ではまた、ふいごを踏みしめるアイルーたちが賑やかに鳴いた。
     

     因縁はさておき、たたら場で働く狸もいいな、と考えながら足元を見下ろすとたたら場はもういいのか、石段を降り始めた子狸はまっすぐに加工屋へと向かう。

    「また来たのか…」

     そんなハモンさんの声が微かにして、加工屋の縁に両手をのせた子狸は大人しく彼の技術を見つめていた。

    「オトモ、たたら場、加工屋…いったいキミはなにになるんだろうね」

     そして、それぞれの装束を身に着けた子狸を想像して俺の口元は緩んだ。

    ―○●○―

     今日は昼間に里守の仕事が済んだから、子狸を連れて散歩にでも行こうと里の中を探した。

    「おかしいな、オトモたちも見てないって言ってたし…」

     でもどこにもその姿はなく、一度家に戻ることにする。
     きっと縁側で昼寝でもしているんだろうと家路を急ぐと、その風景に違和感があった。
     見慣れた玄関がいつもと違うような…と妙な胸騒ぎにかられる。

    ≪ お前の子狸は預かった ≫

     そして、恐る恐る近付いた我が家の戸口に張り付けられた紙に俺は一瞬、押し黙った。殴り書かれた文字の隣には小さな肉球の跡が押されている。無理やり押すことを強要されたのか、その印の周りには墨が散っていた。暴れたような肉球の形を何度も触れて確かめる。
     …これは紛うことなき、うちの子狸のものだ。



    「子狸さんが誘拐された?」
    「見てよ!こんなものがうちに…!」

     血相を変えたウツシさんが受付を訪れて私の眼前に広げた紙を突き付ける。近すぎて見えません、と答える前に彼は頭を抱えて座り込んでしまった。

    「居住区の門番さんも怪しい人は見てないって言うし、ご近所さんも見てないって…」
    「私も本日はお客人にお会いしてませんね。もちろん、子狸さんが誰かと出ていくのも…」
    「だったら誰が…!!」

     見るからに取り乱しているウツシさんが握りしめている半紙をそっと取り上げる。改めて広げてみるとなんだか、その力強い筆遣いに見覚えがあるような…。


     
     今日はウツシはお仕事で留守だ。
     帰りは何時になるかわからないと言っていたから、ゆっくり里を散策していたら茶屋のオテマエさんに呼び止められた。

    「子狸、お昼ごはんを食べてくニャ」
    「くぅん」

     だから今日は集会所で過ごすことにする。
     手招きするオテマエさんに誘われるまま、桜の下をくぐると柔らかい光の差し込む集会所は今日もいい匂いがした。


    「次はお手ニャ」

     差し出されたオテマエさんの手に手を重ねると彼女は喜んでくれた。
     そして、すぐにもう片方の手を挙げる。

    「からのハイタッチ!」
    「くぅん!」

     後ろ足を踏ん張って立ち上がると、よち、と歩いたところで屈んだオテマエさんの両手に私の前足が重なった。

    「よくできたニャ!」
    「オテマエさん、子狸さんに芸を仕込んでるの?」
    「いつ茶釜に化けるかわからないから、今のうちに仕込んどくのニャ」
    「あはは、その時はぜひ宴会に呼ばないとね」

     私と手を合わせたまま、オテマエさんはハナモリさんに笑いかける。ハナモリさんも笑い返しながら答えた。
     二人のおっとりしたやり取りを見ながら『そろそろ足が限界、』と座り込むと、オテマエさんは厨房に声をかけて新鮮なキノコを出してくれる。そのキノコをごちそうになって、次に私が向かったのはゴコク様のところ。

    「おっ、子狸ゲコか!」
    「くぅん」

     テツカブラさんに乗ったゴコク様の足元に座ると、前に垂らされていたお団子が揺れた。ゆらゆらするそれに前足を伸ばすと触れる直前で竿が手繰られる。

    「おっと、」

     目の前から消えたお団子に顔を上げると、ゴコク様は困った顔でこちらを見下ろしていた。

    「これ、ウツシに怒られるでゲコよ」
    「くぅん」

     ウツシとの約束を破ってまでお団子を食べたいとは思わないけれど、揺れるそれが気になってまた私は狙いを定める。
     さっきオテマエさんとしたみたいに、後ろ足で立ち上がってお団子に前足を伸ばした。あとすこし、串の先に前足が触れる直前にぐらりと風景が傾いた。

    「子狸!」
    「あっ、子狸さん!」

     踏ん張っていた足元の切り株はでこぼこで、つまずいた拍子にバランスを崩してのけぞる。すぐにこちらに手を伸ばしたゴコク様と、受付からミノトさんの声がした。
     そして、鳴き声を上げる間もなく私の体は後向きに倒れ、

    「!」

     台座から転がり落ちることを予感して、ぎゅっと目を閉じると思ったような衝撃はいつまでも来なかった。その代わりに、そっと背中を支えるごつごつした感触がある。

    「木の根で転ぶのは兎だぞ」

     頭上からした笑い声にまぶたを上げると見上げた先にいたのは、ウツシの尊敬する…

    「子狸、退屈をしているのなら俺が遊んでやろう」

     そういって屈んだまま歯を見せて笑うフゲン様に私は驚き、ぱちぱち、と数回まばたきをしたところで抱き上げられた。
     その感触からさっきのゴツゴツしたものはフゲン様の手だったのだと気づく。

    「最近はウツシと山に行っているそうだな」
    「くぅん」
    「楽しいか」
    「くぅん」
    「そうか、ならば俺も連れて行ってやろうではないか」

     そしてそのまま集会所のカウンターに向かうと、紙と墨を所望したフゲン様は豪快に筆を使った。私は文字が読めないから、なんて書いてあるのかはわからないけれど〈よし!〉とフゲン様が上機嫌で頷いたから、悪いことではないと思う。

    「オマエも手を貸せ」

     そう言うとフゲン様は私の足をつかんでその墨に浸す。

    「きゅんっ」

     その冷たさに驚いて前足をふると墨が紙に散った。
     それを気にしてないフゲン様は私の前足を紙に押し付ける。そのひっつくような感触にも身じろぎした。

    「それじゃあ、俺はしばらく里を留守にする」
    「お気を付けて」
    「あんまり遠くに連れて行くとウツシが夜泣きするゲコよ」

     いったい何をさせられているんだろうと考えているうちに、フゲン様はその紙を片手に持つ。
     そしてゴコク様とミノトさんにご挨拶をすると集会所を出た。
     もちろん、片腕に抱かれた私も一緒だ。

    「置き手紙はあったほうがいいだろう。ウツシが慌てると気の毒だからな」

     そんなことをつぶやきながら、私を自分の頭巾に放り込んだフゲン様はウツシの家へと向かう。それから玄関にその紙を貼って、満足気に何度も頷いていた。



     そしてまたフゲン様の頭巾の中で揺られてしばらく、ついたのは大社跡だ。
     フゲン様はいつも里のあちこちを見回って忙しそうにしてるから、あまり接したことがない。でも、ウツシが私を家に置くことを面白がっていたらしいのできっと嫌われてはいないはず…。
     そう思いながらその白髪の後頭部を見つめていると…

    「オマエの元の住処を見せてみろ」
    「くぅん」

     アイルーの住処の下まで歩くと、フゲン様は私を地面に降ろしてそう言うので彼の前を走って道案内をする。
     ウツシを案内した時と同じ道を行くと今日はモンスターもいないし、すぐにその場所まで着いた。

    「そうか、ここか。オマエの祖父母、いや、曾祖父母なら俺も見かけたことがあるやもしれんな」
    「くぅん」

     すこし懐かしそうな顔で、住処の前の苔生した地蔵を撫でたフゲン様に首を傾げる。そういえば、フゲン様もハンターだったとウツシが言ってたのを思い出した。

    (ここにも来たことがあるのかな)

     そんなことを考えるとフゲン様は、私が留守にしている間に傾いたらしい赤い鳥居をしっかりと地面に押し込んで直してくれた。



     それから大社跡での散歩に付き合ってくれたフゲン様は、大きな石の鳥居まで戻ると『しばらく自由にしろ』と一旦、解散の号令を出した。一緒に過ごしたことでフゲン様に慣れた私はおとなしく従う。
     こぼれるハチミツを舐めたり、ススキに隠れていたブンブジナさんに挨拶をしたり、モンスターの気配のないそこは安心して駆け回れた。一通り近辺を見て回って、飛んでいたイッタンモンシロを捕まえようと岩の上で飛び上がっていたら、さっきまでどこかにいっていたフゲン様の声がする。

    「子狸、こちらに来い」
    「くぅん」

     すぐ、フゲン様に駆け寄って見上げると、背中に背負っていた刀をフゲン様は地面に突き立てた。
     その衝撃にびっくりしながら『何をするんだろう、』と首を傾げる。

    「これは里に伝わる宝刀だ」

     真剣な顔をして静かにつぶやいたフゲン様に私も背筋が伸びた。
     なのに彼は突然、その宝刀の鞘の先に長い紐を結びつける。
     刀の部位の名前はウツシが教えてくれたけど、そんな使い方はウツシもしていなかった。
     そして今度はその紐の先に、狩ってすぐのような新鮮な骨付きのお肉を結びつけたフゲン様にますます私は混乱した。

    「ゴコク殿とテツカブラを羨ましそうに見ていただろう」
    「くぅん?」

     再度首を傾げる私の前で近くの大きな岩の上に翔蟲さんで登ると、フゲン様はこちらに例の紐を垂らす。すると、目の前でお肉がゆらゆら揺れて楽しそう。

    「子狸!上手に取れたら褒美を取らすぞ!」
    「くぅん!」

     岩の上で笑うフゲン様の持つ刀から垂れる紐に飛びつくとお肉は逃げていく。右、左、上にも動くお肉のうずうずするようなその動きに私は躍起になって、何度も何度もそのお肉に飛びついた。
     
    ―〇●〇―

    「なんだ、皆勢ぞろいで」

     遊び疲れてうとうとしながらフゲン様と一緒に山から帰ると、赤い橋の上で項垂れたウツシがいた。
     そしてその周りにはヒノエさんやミノトさん、ゴコク様にオテマエさんやハナモリさんもいる。

    「子狸さん…!!」

     フゲン様の声に顔を上げたウツシは、私と目が合うと大きな声を上げた。
     そこでヒノエさんいわく、『きっとこの字は里長の字です』と言っても聞かず、集会所の人たちの証言にも半信半疑で私を探しに行こうとするから、すれ違ってもいけないので里で待っているようにと、みんなでウツシを引き留めていたらしい。

    「少し離れていただけで大袈裟なやつだな」

     そういってウツシの頭をぐりぐりと撫でたフゲン様が私をウツシに返す。
     首根っこをつかまれてウツシの前にぶら下がると、彼はひしっと私を抱きしめて毛皮に頬をつけた。

    「よかった、帰ってきてくれたんだね!」
    「くぅん」

     <はぁ~…>と深いため息をついたウツシの目尻を舐めたら少ししょっぱい。
     なんでだろう、体調が悪いのかな…と心配になりながら顔を覗き込んだ。

    「里長、せめて名前くらい書いておいてください」
    「すまんな、書く隙間がなかったのだ。その代わりに子狸に捺印させておいただろう」

     〈確かに大きな里長の字であの紙はいっぱいだったけど、〉とすねたようにつぶやいたウツシの腕で丸くなる。
     くぁ、と一度あくびをすると心地いい疲労感と安心する腕の感触に、私は早々に眠りについた。

    ―○●○―

     
     里で暮らすようになっていくつかの季節が過ぎた。
     穏やかに過ぎていく時間が当たり前のことに思えてきた頃。
     
     ウツシが狩猟で怪我をして帰った。
     怪我自体は大したことなくても、その後の経過が良くない。
     それでここ数日、熱を出して寝込んでいる。
     診察してくれたゼンチ先生は、傷口にタチの悪い菌が入ったみたいだと言っていた。
     
     そしてタイミングの悪いことに、彼のオトモは揃って遠征に出ていて家には私しかいない。
     私はアイルーのように手足を器用に使えるわけでもないから買い出しにも行けない。ガルクのように布団を直してあげることさえ出来ない。

    「くぅん、くぅん」

     いつも元気なウツシがお布団から出てこない。
     その初めてのことに落ち着かず、枕元で右往左往する私に彼は熱で朦朧とした目をして言った。

    「ごめんね、キミのご飯はヒノエさんたちに頼んでるから。お腹が空いたら行ってきなさい」
    (そんなことを心配しているわけじゃないのに…)
     
     そう伝えたくても私は声も言葉を持たないから、励ましの言葉どころか返事さえできない。
     
     
     
    「子狸さん、もうよろしいんですか?」
    「くぅん…」

     なにかできることはないかと外へ出てはみたけど、ご飯を勧めてくれたヒノエさんには残してしまって申し訳ないことをした。
     たくさん集めたアキンドングリと交換してウツシの大好きなお団子をもらって帰るのも考えたけれど、今はウツシも食べられそうにないし。お肉も魚も野菜もお米も、私じゃ料理ができない。それにそんなことは、ウツシのことを心配した里の人たちが、もうしてくれている。
     
    (こんなときに私はなんにもできない)
     
     里を見渡してどんどん落ち込んでいく気持ちに、自然と足は暗くて狭い建物の隙間へと向かった。
     そこでしばらく丸まって塞ぎ込んでいたら、

    「子狸さん?」

     唐突に声をかけられて振り向くと、しゃがんでこちらを覗き込むミノトさんと目があった。

    「あなた様の泣き声が聞こえたので…」

     そう気まずそうに目をそらしたミノトさんに急いで立ち上がると、私はじめじめした隙間から出る。
     するとミノトさんはしゃがんだまま話しかけてきた。

    「おつかいですか? ウツシさんのお加減は? 大丈夫だとご本人は言っていたようですが…」
    「くぅん」
    「そうですか、まだ…」
    「お食事は?」
    「くぅん」
    「あなた様の食欲があまりないようだと、ヒノエ姉さまが御心配していました。こちらをどうぞ。ご家族で召し上がってください」

     そこでミノトさんは風呂敷に包んだ小さな林檎を背中にかけてくれた。
     ぺこり、とデンコウお兄ちゃんの真似をして下げた頭に彼女は『まぁ』と少し驚く。

    「…え?」

     そして意を決してその袖に噛み付いて引っ張ると、大きく目を見開いた。

    「もしかして、様子を見に行ったほうがよろしいですか?」

     その言葉にもっと強く袖を引くとミノトさんは私をすぐに抱き上げて、うちの方角へ小走りに向かう。

    「でも、わたくしにできる事があるでしょうか」
     
     その最中に呟かれた声は自信のなさげなものだったけど、なにもできない私にとってはミノトさんならなんでもできるように思えた。
     
     
     
     家に帰ると、ウツシは相変わらず苦しそうな呼吸をしていた。
     熱もまた上がっているかもしれない。
     その額に肉球で触れると、汗の浮かぶ肌の感触がふやけているように感じた。

    「熱が下がらないのですね」
    「水分をとる余裕もないのでしょうか」

     そしてそんなウツシをしばらく観察したミノトさんは土間へと降りて、桶に水を汲むと手ぬぐいをそれに浸していた。
     一体なにをするのかとウツシとミノトさんを交互に見ていたら、彼女はまたこちらに戻ると小さな桶を枕元に、そして手ぬぐいをウツシの額に置いている。

    「少しでも楽になるといいのですが…」

     そう呟きながら、水差しの中身も新しいものに変えてくれた。

    「ウツシさん」

     そう何度か名前も呼びかけてくれたどウツシは返事をしないまま、ぐったりと横たわっている。
     そこでミノトさんは難しそうな顔をすると手にした水差しをお盆に戻した。

    「薬を飲ませるにしても、この状態で起き上がらせるのは至難の業ですね。それに溺れさせても困ります」
    「待っていてください。すぐにゼンチ先生を呼んできます」

     それからすぐ履物を履いたミノトさんの袴の裾を引き止めるために噛みつこうとしたら、するりとかわされる。
     空振りした口を開けたまま見上げると、彼女は言い含めるように言う。

    「必要な道具も持ってきます。あなた様はあの方のお傍にいてあげてください。それがあの方にとって一番です」

     そして背中の装飾を翻したミノトさんは足ばやに家を出ていってしまった。
     
     
     
     そして残された私はウツシの枕元で丸くなっていた。
     呼吸を聞き逃さないように必死に聞き耳を立てて、少しでもうめき声が聞こえると慌てて起き上がる。
     
     そんなことを何度も繰り返していたら、苦しそうな声を出して寝返りをうったウツシのおでこから手ぬぐいが落ちた。

    「くぅん…」

     咥えて戻そうとしたけどその手ぬぐいはもうぬるくて、きっと冷たいほうがいいんだろうと咥えたまま、そばの桶につけた。
     でも、水を吸ってぐっしょりと濡れたそれは重く、滴る水もそのままだ。
     
    (ミノトさんの手ぬぐいはこんなのじゃなかった)
     
     余計なことをしたかもしれない、とひどく困惑していたら誰かが私の尻尾に触れた。
     驚いて逆立った毛のままそちらを見ると、ぼんやりとした目のウツシが尻尾に手を伸ばしている。

    「子狸さん…?」
    「くぅん」
    「…なにしてるの…?」

     いつもの何倍も覇気のない声は呂律もたどたどしくて、思わず手ぬぐいを桶に落として駆け寄る。
     外にもあまり出ていない、ウツシの手入れもしばらく受けてない爪は畳を引っ掻いたけれど気にしていられなかった。

    「ご飯は…? きちんと食べてる?」
    「くぅん」

     こんな時も自分以外の心配をしているウツシに胸が締め付けられる。
     力なく撫でられる頬に返すように、私もウツシの頬を何度も舐めた。
     いつもの健康的な汗の匂いとも違うし、普段ならくすぐったいと声を出して笑うのに今日は口元だけで笑う彼になおさら心配になる。

    「ちゃんと食べて寝ないとだめだよ?」

     それだけ言って、目を閉じたウツシがぴくりともしない。

    「くうん、くうん」

     前足の肉球で揺すった体もその振動で揺れるだけだ。
     そこで私の短い過去で一番、嫌な記憶を思い出す。
     
     動かない体に、匂いの違う肌。
     その感触と匂いに呼び覚まされたのはお父さんとお母さんの亡骸だった。
     ウツシは息をしているけど、もしこのまま息を止めてしまったら。
     そう思うとぞくりと背中に悪寒が走る。
     すると今度は体中の毛が逆立って動けなくなった。
     それでも頭の中は必死に考えようとする。
     
    (なにかしなきゃ、じっとしてたらお父さんとお母さんのときみたいに…)
     
     でも、狸の私に何ができる?
     手足も使えないのに。
     誰かを呼んでくる?
     でも喋れないから『助けて』も言えない。
     もし私が狸じゃなかったら。
     私が狸じゃなかったら。
     狸じゃなかったら?
     
     
     ……そうだ、私は狸だ。
     
     泣き出しそうな混乱の中でふと、浮かんだのは故郷の大社跡だった。
     そして月夜に私の住処から見えた屋根の上の白面金毛。
     狐と狸は人に化けると言われている。
     だったら、もしかしたら、私だって。
     
     どうして急にそんなことを思ったのかはわからない。
     でも大社跡は神様の居た土地だ。
     そこに先祖代々住み着いていた私にも、なにかしらの神通力があるかもしれない。そんな神頼みにも似た気持ちだった。
     
     そして切羽詰まった私は、藁ではなく土間に落ちていた落ち葉を掴んだ。
     うずくまるようにして頭の上に落ち葉を乗せて、前足で押さえながら一生懸命念じてみる。
     
    (この人がしてくれたように、こんどは私がウツシをたすけたい)
     
     そう一心不乱に念じていたけれど、しばらくは何もなかった。
     
    (にがてな物もちゃんとたべます。だからウツシのために私を人にしてください)
     
     『念じるだけではだめなのかもしれない』と思って、誰に何を願っているのかわからないまま、そんなことを繰り返す。
     するとそんな懇願とも念とも言えないものが、何処かの何かに奇跡的に届いた。

    「きゃんっ?!」

     どくん、と大きな鼓動がして急に体が熱くなる。
     次の瞬間、体の中身がせり上がるような感覚に思わず背中が反った。
     そしてその勢いのまま、後ろ足が地面を蹴って飛び上がると、空中で一回転する。
     そしてワケもわからないまま、私の体は着地と同時に土間に手をついていた。
     
     
    「………?」

     よつん這いでしばらく呆然としていると、視界の先に人の指が見える。
     
    (いち、に、さん、し、ご、五本ある…し、動く?)
     
     自分の思った通りに動くその手には毛がなくて、裏を返すと肉球もない。
     爪を丸める要領で握ると人間のような動きをした。
     そして他の部分もよくよく見てみると、足も、お腹もどこにも毛がない。
     手と膝をついて四つ足で這って、近くにあった水桶を覗くと、知らない人間の女の子がその中にいた。
     その子は私が首を傾げると同じように傾げて、手を振ると同じように振った。
     さらに水桶に勢い良く手を入れるとその子は消えて、小さな人間の手がその中に浸かっている。
     
     そこで、もしかして…と気付く。
     
    (人になれた?!)
     
     頭の上の葉っぱを探して触れてみると、確かにあった。
     触れた拍子にはらりと落ちた葉は水桶の中を泳ぐ。
     そのくすんだ緑を見て思い出した。
     
    (そうだ、ウツシを助けないと!)
     
     弾けるように顔を上げて、ウツシの横になるお布団に行こうとしたけど、二本足ではうまく立ち上がれなくてまた手と膝をついて移動した。
     そんなに離れている場所じゃないから良かった、とつるんとした胸を撫で下ろす。

    「ぅ…」

     その物音に小さくうめき声を上げたウツシの顔を覗き込んで、やっぱり顔色の優れないその肌に泣きそうになる。
     さっきのミノトさんの見様見真似で桶の中の手ぬぐいを取ると、持ち上げられた。でも、絞る方法がわからなかった。
     
    (どうやればいいんだろう…)
     
     このままじゃいけないのはわかっても、流れるように手ぬぐいを絞り上げたミノトさんの手元が思い出せない。
     だからとにかく手ぬぐいを握って、なんとか水をそこから抜いた。
     そしてウツシのおでこの上に載せると、彼は少しだけ穏やかな表情になる。
     
    (えっと、あとは…)
     
     たしかミノトさんは水分を取らせないと、と言っていた。
     ゼンチ先生から病人用の道具をもらってくるとも。
     
    「はぁ…」

     でも、目の前で苦しそうに息をつくウツシには、今すぐ水が必要な気がした。
     傍の水差しにはミノトさんの汲んでくれた新しい水がある。湯呑みも、ウツシが使っているのを見たことがある。
     とはいえ、寝たままのウツシにどうやって飲ませようと頭を悩ませた。
     まずは湯呑みにお水を汲もう。
     くびれを握ると私の小さな手でも掴めた。
     一生懸命持ち上げて、その縁を湯呑みへと寄せる。それから恐る恐る傾けていると。

    「くぅん?!」

     急な重さに水差しが一気に傾く。雪崩れるように湯呑みの中にお水は満たされて、その勢いに溢れたお水であたりは水浸しになってしまった。慌てて畳の上のお水をかき集めたけれど、すぐに畳が吸い取ってそこだけ色が変わってしまう。
     失敗しちゃった…。
     でもここで落ち込んでもいられない。気を取り直して今度はウツシの頭のそばに居場所を移した。そしてその頭を持ち上げて、自分の膝に乗せる。これで枕よりも高さがでた。
     そして恐る恐る湯呑みを掴んで、ウツシの口元に持っていく。ゆっくりと水分を流し込むと、こくり、と喉の鳴る音がする。
     
    (やった! じょうずにできた!)

     また、じょうずに飲んでね、と祈りながらゆっくり湯呑みを傾けるとウツシの唇がうっすら開いた。すこしだけど、口に入ったはずだ。
     覗き込んでその顔を確認すると、気のせいかもしれないけど、顔色がよくなっている気がした。それに気をよくして、そのあとも同じようにウツシにお水を飲ませた。そしておでこの上の手ぬぐいも、もう一度かえておく。
     夢中でそんなことをしていたら、背後で誰かの足音と戸口に手を掛ける音がした。
     
     

    「大丈夫だニャ。ハンターにはよくあることじゃろ」
    「でも子狸さんが…」
    「ハンターの家族ならそのうち慣れるニャ」

     診療所に慌てて飛び込んできたミノトに引きずられるように訪れた家は、いつもの賑やかさもなく静寂に包まれていた。
     ミノトはありったけの看病のための道具を詰めた箱を抱え、ワシの後を続く。

    「ニャ? 子狸のやつはどこにもいないニャ」
    「え? …さっきまではそこに…」
    「腹でも減ったんじゃろ」

     ニャニャと笑いながら家の中に足を踏み入れると、土間に置かれた水桶に葉っぱが落ちている。そして底には小石がいくつか沈んでいた。
     おかしな病にかからぬように、水の管理は怠らないよう里の衆には口酸っぱく言い含めているのに。真面目なウツシにしては珍しい。

    「あとで桶ごと洗っておくニャ」
    「はい。…でも先程は綺麗なお水でしたよ?」

     桶を見つめ、首を傾げるミノトを置いて奥に向かうと、数十年に一度見られるかどうかだろう。すっかり寝込んでいるウツシがいた。

    「なんだニャ! あちこち水でびしょびしょニャ!」
     
     その光景に驚いて声を上げると、駆け寄ったミノトもすこし眉を潜めた。
     枕元の桶と水差しの周りの畳、そしてウツシの枕も濡れて染みができている。

    「…、ぁ、ゼンチ先生…?」

     そこでワシに気づいたのか、薄っすらと目を開けたウツシは掠れた声で呟くと頭だけでこちらを見る。それ以外、動くのも億劫なほどは弱っているらしい。
     そしてウツシの額に載っていた手ぬぐいもきちんと絞りきれていなかったんだろう。ウツシがこちらを向いたと同時に、水気の多そうな音を立てて布団に落ちた。

    「水もマトモに飲めない、手ぬぐいも絞れないほど弱っているなら素直に言うニャ」
    「…え? 水…? 手ぬぐい…?」

     〈なんのこと…? 〉とまだ熱で浮かされたような口調のウツシの枕元に、ミノトが準備した吸いのみが置かれる。
     いつの間にかあたりの水も手際よく拭き取っていた彼女は、次は玄関の桶を洗いにその場を離れた。

    「ほれ、薬を飲んで安静にしとくニャ」

     そしてまだ不思議そうな顔をするウツシの前に追加の薬を置く。吸いのみがあれば自分で飲むくらいは出来るだろう。
     袋から出すくらいはしてやろうかニャ、と考えていたら肘をついてゆっくりと起き上がったウツシは辺りを見回した。

    「ねぇ…ゼンチ先生。子狸さんはいる?」
    「この家にはいないニャ」
    「えっ!! ぁ、もしかしてご飯かな…」

     今日一番の大きな声を上げたウツシは、ワシの答えに見るからに淋しげな顔をしてみせる。
     ミノトが『子狸が露地に隠れてきゅんきゅんと泣いていた』という話はまだわかる。大の男が狸一匹でこうも儚げな顔をするもんかニャ。
     
    (まぁ、でもウツシだからニャ…)
     
     と、内心思っていたら物置だろうふすまの向こうが『カタリ』と微かな音を立てた。そしてガタガタとしばらく音が続いておさまる。

    「ネズミかニャ?」
    「だと思うよ。デンコウがしばらく家にいないから」

     曲者ならどうする、と思いながらも、まるで気にしたふうもないウツシにワシもそれ以上はそこに触れなかった。
     そして水桶を戻したミノトが、子狸に持たせたという林檎を風呂敷から取り出すと、ウツシと子狸のぶんとして切りわけ、水差しの盆に載せていた。
     
     
      
     追加の薬を飲むように言い、しばらくウツシの様子を診てからワシとミノトは揃って土間へと降りる。

    「お大事にニャ」
    「ありがとう。ゼンチ先生。ミノトさん」
    「お大事に……きゃっ!」
    「ニャッ?!」
     
     そしてその家をあとにする直前、換気のために開けっ放しにしていた戸口から、子狸が弾丸のように駆け込んできた。
     
    「びっくりしたニャ! 子狸、どこに行ってたニャ」
    「くぅん」
    「子狸さん、もう大丈夫ですよ」
    「くぅん」

     家に飛び込んですぐ、ワシとミノトの足元でお座りをする子狸が健気に頭を下げる。ずいぶん躾けられている、と感心していたら所々掠れた声が背後から響いた。

    「子狸さん! おかえり」
    「くぅん」

     そして子狸は起き上がっていたウツシの傍にすぐ駆け寄ると、額をその体に擦りつける。

    「どこに行ってたんだい? ご飯? それとも、なにか面白いものでも見つけた?」
    「くぅん」

     ウツシもウツシですっかり顔色を良くして、子狸を余すことなく撫で回すと上機嫌だ。
     しまいには抱き上げて、人形を離さない子供のように腕に閉じ込めている。

    「ふぁ~あ、あれならなんも心配はいらんニャ」

     狸と人間とはいえ、数年ぶりに会った恋人同士のようなその姿にあくびが出たニャ。

    ―○●○―

     ゴコク様お手製の絵巻には子供向けのものもある。
     双子の美人姉妹が出てくる竹取物語、ビシュテンゴが暴れ回る猿蟹合戦、そして今日は…。
     
    「『決してこちらの部屋を覗かないでください』」
    「『もし覗いたら…』」

     可愛らしい絵で描かれたアケノシルムが、切々と男に言って聞かせるのをどこか可笑しく思いながら読み上げていく。
     絵巻を広げ、あぐらをかいた膝の上に座る子狸が妙に静かなことに違和感を感じ、ふとその小さな後頭部に声をかけた。

    「子狸さん、面白い?」
    「…くぅん」

     子狸の顔を覗き込むと、食い入るようにその絵巻を見つめている。よほど集中していたのか、一呼吸置いてから顔を上げた。
     どうやら、子狸さんは人間の子供と同じように読み聞かせが好きらしい。
     だから俺はまたすぐに、その物語の内容を再開することにした。
     
     その物語はこうだ。
     人間に助けられ、自分も人に化けてから助けた男の家を訪れたアケノシルム。
     そこで男と暮らすようになると、自らの羽根を使って反物を織るようになる。そして、それを売った男は大金を手に入れた。
     でも、アケノシルムは自分を助けた男に、本当の姿を見られるのを嫌がって『私が機織りをしている時、決してこの襖の向こうを覗いてはいけない』と、念を押す。
     なのに男は好奇心に負けて襖の向こうを覗いてしまい…
     
    「『見てしまったのですね、あれだけ見てはいけないと言ったのに』」

     そこで子狸は少し身じろぎをした。
     どうやら、物語の佳境を感じ取って緊張しているようだ。

    「『どうして見てしまったのですか』」
    「『本当の姿を見られたからには、もうここにはいられない』」

     さめざめと泣くアケノシルムは本当の姿に戻ると、驚く男に背を向けて羽を広げる。
     膝の上の子狸は絵巻と俺の顔を交互に見て、心配そうな瞳を浮かべた。

    「『どうかお元気で。私は山に帰ります』」
    「『そして、自分の元を去っていくアケノシルムの姿を、男はいつまでも見つめていました』」
    「おしまい」

     呆気ないその言葉を聞いてすぐ、子狸は前足を伸ばすと絵巻の縁を掻く。

    「くぅん」

     まるで絵巻の続きを探すように縁を何度かかりかりと掻いて、それがないと解ると俺を見上げて鳴いた。

    「このお話はここでおしまいだよ」
    「くぅん…」

     そう再度、告げると子狸は残念そうに膝に頭を預ける。
     絵巻の中で肩を落とす男と同じように、可愛らしいアケノシルムがいなくなってしまったことに気を落としたみたいだ。

    「あぁ、でも! また山で罠にかかったおっちょこちょいなアケノシルムをこの男は助けるかもしれないね!」
    「そんな二人だから出逢ったんだろうし」
    「きっと、また会えるよ」

     あまりに残念そうなその姿を見て慌てて付け足した物語の続きに、撫でていた子狸の耳がぴくりと揺れる。
     それから〈くぅん〉と納得したような返事を返した。
     
     そしてしばらくすると俺の膝を降りて、少し迷ってから次の絵巻へと前足を掛ける。
     気を取り直して、ということらしい。
     それはこれまでも何度か読んだ『悪い妖術使いに蛙にされてしまった見目麗しいお殿様と、それを助けたお姫様の話』だ。
     絵巻を縛る紐を咥えて引き摺ってきた子狸から、絵巻を受け取る。
     すると子狸はすぐに、俺の膝に上がり込んでわくわくと瞳を輝かせた。

    「『昔々、あるところにそれはもう見目麗しいお殿様が…ふふっ』」
    「くぅん?」
    「ごめんね、やっぱり似すぎてて笑ってしまう。流石の模写力だ」

     そう、何度読んでもこの絵巻は卑怯だと思う。
     わざとなのか偶然なのか、はじめの絵からもうゴコク様に瓜二つなお殿様に笑いを堪えていたら、子狸は不思議そうに首を傾げた。

    ―〇●〇―

    「うわっ! 林檎がピカピカだ! 誰か磨いた?」

     朝、数日間にわたるお仕事から戻ったウツシは玄関で待っていた私を抱き上げると、そばにあったリンゴを手にして感嘆の声を上げた。窓からの朝日に反射して輝くそのリンゴは、昨日の夜に私が磨いたものだ。

    「ホントだニャ! ニンジンまでピカピカニャ」

     そして同じくつやつやのニンジンを手にしたデンコウお兄ちゃんの声にも、私はすこし得意気になる。
     
     変化のできたあの日から、私はウツシが家を留守にする時には人間になる練習をしていた。
     夜はオトモのお兄ちゃんたちもぐっすり眠っているから、その時間に変化して、こっそり家の中のものを磨いてみたり、お掃除をしてみたり。
     立つのも歩くのもまだ慣れないけど、いつもより視界の高い世界や普段は触れないものに触れられるのは楽しかった
     の、だけど…。

    「…まさか、この家、おばけが出るニャ?」

     ニンジンを持ったまま、デンコウお兄ちゃんが不安げな顔をして呟く。

    「食べ物を磨くおばけ?」
    「わからニャいけど…実は…」
    「ご主人のいない間、夜中に子供の足音がしてて…昨日は姿も見たニャ! 子供の素足が枕元を横切って…」
    「素足? 足があるならおばけじゃないよ」
    「おばけじゃないなら尚更、何者ってならないニャ?」

     デンコウお兄ちゃんはウツシを見上げて、ウツシもリンゴを見ながらすこし考えているようだった。
     そしてその視線はこちらに向かう。

    「子狸さんは見たことある?」
    「…………」

     顔を覗き込まれて、思わず黙って目をそらした。

    「子狸さんは見てないって。それに、別に害があるわけじゃなさそう…」
    「あの細っこいフラフラした足を見てないから、ご主人はそんなことがいえるのニャ!」
    「うーん…あっ! もしかしたら座敷わらしとか! だとしたらうちに福が来るね!」

     〈子狸さんも座敷わらしさんに会ったら、ご挨拶するんだよ? 〉そう笑ったウツシにデンコウお兄ちゃんは拗ねた顔を浮かべて。そのことに気付いたウツシはデンコウお兄ちゃんの目線に合わせるように、屈んで尋ねた。

    「デンコウ…もしかして、怖いの?」
    「べ、べつに! 怖くなんかないニャ!」
    「姿を見たならネズミみたいに捕まえてもよかったんだよ?」

     笑いながら頭を撫でる手にデンコウお兄ちゃんは慌てて首を振る。
     そんな会話を聞きながら、私は冷や汗が止まらなかった。
     
    (しばらくは変化の練習をやめておこう…)
     
     そこで私と同じに黙っていたライゴウお兄ちゃんと目が合う。寝そべっていたライゴウお兄ちゃんは、〈わふ〉と一度あくびをすると前足に頭を乗せた。そして、そのままなにか言いたそうな顔でじっとこちらを見つめてから目を閉じると、朝なのにすやすやと眠りはじめてしまった。
     
     ―○●○―
     
     デンコウお兄ちゃんに姿を見られたかもしれない日からしばらく。
     私は二本足で真夜中のカムラの里に立っていた。
      
     夜のカムラの里は静かだ。
     たたら場の火は消えることがないけど、住居区を抜けた市場には誰もいない。

    (あっ、翔蟲さんがあつまってる!)

     そこから水車の向こうに見える翔蟲さんの光に誘われて、かけ橋を渡る。
     弾むように歩くと橋が揺れて楽しいのは、狸の頃には軽すぎて気が付いていなかった。
     
     
    (だれもいない、よね?)
     
     見渡したオトモ広場はしんと静まり返って、昼間の喧騒が嘘みたいだ。
     そんな広場を入り口の木の陰から辺りを見回して、誰もいないことを確認してからそっと、足を踏み入れる。
     
    (きれいなしっぽ…)
     
     巣に集まっていた翔蟲さんに近寄ると、私に気付いた彼女たちは警戒もせずにこちらに飛んできた。
     ウツシのよく使う疾駆の翔蟲さんは鋭い鉄糸を繰り出してかっこいい。
     でも、今夜この静かな暗闇の中では、その体の淡く残る光の翠がとてもきれいでつい、手を伸ばす。
     すると一匹の翔蟲さんが指先に、
     
    (あっ! とまってくれた!)
     
     
     
     この前、しばらく変化は…と決めたはずなのに、私は好奇心とその楽しさに負けてまた人の姿になってしまっていた。
     
     里のあちこちを歩いてみたり、昼間は狩猟中のウツシが見たくて、こっそり会いに行ったりもした。
     何度目かのときにもらった風車は、宝物なので私の元の住処に隠している。
     まだ長い時間は変化出来ないけど、色んなことが出来るようになるのは嬉しくて、私は変化を繰り返す。
     
     ただ、一つの不安を抱えながら。
     
    (もし、そんなことになったら私はここにいられないかも…)
     
     心の隅ではそう思いつつ、手に入れた長い手足をウツシたちのために使ったり、思い切り動かしてみたいという気持ちも強かった。
     
     だから私はまた今夜も、誰もいないオトモ広場で一人、翔蟲さんと追いかけっこをする。
     背後から見守る二つの気配には気付かずに。
     
     ―○●○―

    「今日もニャ」

     真夜中にのそのそと起き出した子狸は、忍び足で寝床を離れると、ご主人の服をくわえて引きずりながら外へと出た。
     器用に鼻先で開けた玄関は、鍵がされてないことを知っているみたいだニャ。
     
    「相棒、仕事の時間ニャ」
    「わふ…」
    「子狸がまたどこかに行ったのニャ」
    「わふ…」

     慌てて揺すった相棒はやる気のない返事をしてまた眠ろうとする。

    「ちゃんと見てないとなのニャ! ご主人のいない間に、子狸がどこの馬の骨とも知らない輩に拐かされたらどうするニャ!」

     そこまで言ってやっと目を開け、起き上がった相棒はゆっくりと伸びをする。それからでっかいあくびをしてから立ち上がると玄関へと向かった。
     そして子狸が閉めそこねた隙間を前足で閉めると…

    「そうそう、ちゃんと戸締まりは…なんで閉めるニャ!」
    「わおん」
    「『眠い』じゃないのニャ」

     そこでまたあくびをする相棒に地団駄を踏む。 
     カムラは里自体は平和な里なので、相棒は心配してないのかもしれない。でももし、一匹で、しかも真夜中に出歩いていて侵入者や事故にでもあったら…。
     それに、毎晩家からこそこそ忍び出て夜遊びするような不良狸にご主人は育ててないのニャ。

    「相棒が行かないなら一人で行くニャ」

     そう言って隠密の頭巾をかぶると相棒はしぶしぶ、といった様子であとをついてきた。
     
     
     子狸を探して里のあちこちを歩き回った。
     子狸のよくいる場所は里の広範囲に渡るので、目星をつけて向かった市場でも見つけられず。子狸は暗闇に消えてしまった。
     でも、代わりに不審な影をその先の吊橋の上で見つけてその背中を追いかけたニャ。
     
    「誰ニャ…あれは」

     深夜のオトモ広場で駆けて飛び跳ねるように遊ぶ子どもは、里の子じゃない。
     なのに、その子はご主人の服を着ている。
     上からかぶっただけの墨色の大きな上着、その子の膝下まである裾から覗くのは素足で、靴も履かずに飛び回る子どもは楽しそうに翔蟲を追いかけていた。
     そしてその子の頭には、何故か、茶黒の耳があるニャ。
     気配を消して隠れていた木の陰から見てもはっきりとわかる耳。頭にとまった翔蟲が光ると色までしっかり見えたニャ。

    「曲者? 洗濯物泥棒? まさか、ご主人の隠し子…ニャ?」

     あらぬ疑いを主人にかけるほど不可解なその子どもに一つ、覚えがあるとしたら、ふらふらと安定しない歩き方がこの前のおばけに似てる気がして身震いをした。

    「一体、何者ニャ」

     その子から目を離せないまま相棒にそう呟くと、翔蟲に翻弄されていた子どもの足がもつれたニャ。

    「あっ」

     次の瞬間、前のめりに転ぶとその拍子に裾がめくれて、足元からなにかが飛び出す。
     こちらに背を向けていたせいでしっかり見えたそれは…それはどう見ても、

    「尻尾だニャ! 丸くて、太い、狸みたいな尻尾…!」
    「わおん」

     慌てて押さえた声の代わりに何度も瞬きをしていると、隣の相棒は小さく鳴いて〈なにも心配ない〉と言いたげな顔をした。
     
     消えた子狸…ご主人の服、耳、尻尾…

    「…まさか……」

     そして相棒は返事をせずに、踵を返して架け橋の方へと歩いていってしまう。
     
     
     その間にまた起き上がった子どもはブカブカの装束を翻しながら、翔蟲を追いかけて広場の奥へと走っていった。
     
    ―○●○―

     最近、大社跡で変わった女の子を見かける。
     今日もその子はどこからともなく俺のいるキャンプへと訪れて、しばらくすると逃げるように駆けていってしまう。
     そして、その子がくると決まって…

    「今日は立派なアキンドングリだ」

     キャンプの入口には自然の恵みが転がっていた。
     
     年の頃なら十もきていないような女の子。着ているものはこのあたりの子らしい動きやすい装束で一見、目立つような子じゃない。すぐに逃げてしまうのでその顔をよく見たことはないけれど、小動物のような仕草が可愛らしい子だと思う。
     とはいえ見知らぬ子だ。しかも、何故かその子は俺に懐いているようにみえる。

    「今日も来てくれたんだね。こんなに貰っていいの?」

     彼女が駆けていった方角にある支給箱に向かって声をかけると、その向こうでガサガサと草を揺らす慌てた音がした。

    「かくれんぼしてるのかい?」
    「…………」 

     返事はない。それはいつものことなので『了』と受け取った。

    「お礼をしないと。そうだ、手を出してくれる?」

     しゃがんで支給箱に話しかけるように言うと、その箱の向こうから小さな手が伸びてきた。そして紅葉のようなそれに風車を握らせる。一瞬、ビクリとした彼女はゆっくりと手を戻した。

    「いつもありがとう」
    「…………」

     それにもやっぱり特に返事はないまま。
     ただし、支給箱の端から覗く丸い尻尾がふわりと一度、嬉しそうに芝生を叩いた。 

    ―○●○―

     夜間の偵察から戻ると、俺の布団の上にいたのはお腹を見せて眠る子狸だった。
     
    「おはよう、子狸さん」

     静かに声をかけると、子狸は射し込む朝日の眩しさに目元を前足で隠す。
     肉球を見せながらのむずがる子供のような仕草を微笑ましく見守っていたら、その子は布団の中へと頭まで潜り込んでしまった。

    「ふふ、今日はお寝坊さんだね」

     布団をかけ直し、しばらく毛皮を撫でていると毛玉はその下でもぞもぞと動く。

    「くぅん」

     そして、しばらくすると鼻先だけを布団から差し出した。 
     それから寝ぼけた子狸は俺の姿を確認すると、かけられた布団の中からもぞもぞと出てくる。
     そばに眠っていたオトモたちはぐっすりと寝息をたてていた。

    「まだ寝ててもいいよ」
    「くぅん」

     厨に向かう足元を追うように、子狸はあとをついてくる。踏まないようにと立ち止まると、甘えたい盛りの子狸はその足に前足をかけて立ち上がった。
     そこでふと、目に入ったものがある。

    「…あれ?子狸さん、いつ、何処でこんな草をつけてきたんだい?」

     そういって子狸の尻尾を指すと、子狸も体を曲げてそちらを見る。そして掛けていた足を降ろすと、その場で尻尾を追って『くるり』と一回転した。

    「くぅん」
    「俺が捕まえようか?」

     そう声をかけるが返事はなく。
     その代わりに尻尾を追いかけてまた、一回転する子狸。

    「朝からなに可愛いことしてるんだろうね、うちの子狸さんは」
    「くぅん」

     諦め、その場に座り込んだ様子が微笑ましくて笑うと、子狸は困ったような鳴き声を上げた。

    「そんな目で見られると…仕方ないなぁ。おいで」

     そう言って伸ばした腕は子狸を抱き上げて、お尻を支えると片手で抱える。
     そしてお腹に巻いた尻尾には目視通り、たしかに草がついていた。
     小さな枯れ葉もあるのを見つけて、丁寧にそれを取ると観察する。

    「もしかして裏にあるガーグァの小屋に行った?」
    「くぅん?」
    「なんでって、」

     めずらしく意思疎通の出来そうな気配につい、そう返事をした。
     理由は単純で、この葉は里で飼育するガーグァの巣のために山から運んできた里では珍しい葉っぱというだけなんだけど。
     ただ、昨日は夜深くに俺は家を出て、その前に子狸は沐浴をしていたから、朝までにこんなものはつきようがないはずだ。

    「夜中に寝ぼけて土間ででも寝てたの?」
    「くぅん」

     その不可思議な事態にひとつの可能性を上げると子狸はすぐに返事をした。
     誰かの靴裏や裾に付着したものが落ちていた、たしかにそのほうが夜中に出歩く子狸よりも現実味がある気がする。

    「風邪をひくよ?次はきちんとお布団で寝ようね」
    「くぅん」

     そうして素直に頷く子狸の額に葉っぱを戻すと化け狸のようで可愛らしい。

    「さあ、じゃあ二匹も起こして。みんなで朝ごはんにしよう」
    「くぅん」

     そのまま下に降ろすと子狸は頭を振ってその葉っぱを地面に落とす。そして逃げるようにオトモたちのもとへと駆け出した。
     
    (せっかく似合ってたのに…)

     ならばヒノエさんに葉っぱのがま口でも作ってもらおう、と決めて朝ごはんの準備に取り掛かった。
     そして厨に向き直ると、

    「そういえば、今日も食器がぴかぴかだ」

     どうやらまた昨夜も、座敷わらしさんがうちに遊びにきていたらしい。

    ―○●○―

     熱で朦朧としていたあの日、押し入れの奥に消えた尻尾を見た…気がする。
     先が太くて丸い尻尾が引っ込み、静かに閉まった襖の音。それからしばらく、ゼンチ先生とミノトさんの訪問があった。
     その日の出来事は体調のこともあり、夢だと片付けてしまっていた。
     
     けれどそれから、すっかり体調ももとに戻り、大社跡の偵察に駆り出されるようになると。
     そこである子供を見かけるようになった。
     
    「今日は花か」

     陽気に浸る杜の中心にある竹藪で、花を摘む子供を見つけた。
     これで幾度目かの遭遇だ。
     きっと、この近くの村の子だろう。
     服装からなんとなくそう目星をつけていたが、いつも裸足だということが気にかかる。
     その子はどこからともなく現れて、狩り場の隅に隠れてこちらをみていたり、もしくは今日のようになにかを採っていたり。そうかと思えば曲がり門で消えたり、と不思議な少女だ。
     
     そして彼女が現れると決まってキャンプには、

    「あれ、ホオズキだ」

     おそらく花だろう、と予想していた贈り物は外れたらしい。
     赤く狐火のようなホオズキが並んで転がるキャンプ前に首を傾げた。
     それでもきっとあの子からのものだ、と拾い上げて晴れ間に透かしてみる。観賞用にされるだけあって焔のように美しいホオズキだ。
     うちに持って帰れば喜ぶ子狸がいるので、これはあの子にも分けてあげよう。
     そんなことを考えていると、そばの竹藪から視線を感じた。あの子供かな、と顔をあげると笹を踏む慌てた音がする。

    「ねぇ」

     初めて声をかけてみた。すると意外なことにその足音は停止して、こちらをうかがう気配がする。
     竹の合間から見えた装束は、やはり今日、花を摘んでいた子供と同じだ。
     けれど薄暗く笹の合間からしか光の射さない茂みで、子供の顔はよく見えなかった。

    「これはキミが採ってくれたのかい?」
    「………」

     しばらく迷ってからその子の頭は一度、頷いた。
     声を出さないことや、すぐに逃げてしまうのは恥ずかしがりやなのかもしれないな、と考えて次にかける言葉を探す。

    「どこで採ったの?」
    「………」

     無言でうつむいた子供に、しまったと思った。責めるように聞こえたかもしれない。
    「ほら、このホオズキは高い場所にばかりあるから…。採るのは大変だったんじゃないかと思って」
     そう続けるとその子は、おずおずと大社跡の奥を指さした。だとすれば、可能性はアイルーの住処の奥、子狸さんと出会った場所が子供の足でもたどり着ける場所だろう。

    「見たところキミは翔蟲も連れていないのにすごいね! ありがとう! 大事にするよ」
    「………」

     そう告げると子供は少しはにかんだように見えた。俺は和むような空気に目を細める。
     もう少しで打ち解けられるかもしれない、と思っていたらその子はこちらに背を向け、キャンプの奥にある洞窟のほうに駆けていってしまう。

    「え…」

     その後ろ姿にいつかの揺れる尻尾を見た気がして思わず声を上げる。
     すると一瞬、振り向いたその子が、今度ははっきりと尻尾を翻して洞窟の中へと消えていった。
     すぐさま追いかけてもそこに彼女の姿はなく、やっぱり不思議な子だ。
     
     その日、再度見回った渓流に小さな花が横たえられていた。
     数時間前にそれはなく、花はさっきの子供が詰んでいた花で間違いない。
     けれど、花が手向けられた場所は子狸の両親を弔った土の上だった。

    ―○●○―

    「しゃぼん玉って知ってる?」

     ある日、ウツシはそう言って不思議な道具を取り出した。
     目の前をふわふわと飛んでいく玉は何色でもない。桃色も緑も、空の青も写し取る玉が天高く飛んでいく。
     途中で弾けた玉も小さな雫を降らせて面白い。

    「気に入った?」

     細い枝のような筒を咥えたウツシは、そこから放たれるしゃぼん玉に前足を伸ばす私に笑いかけた。

    「くぅん」

     返事を返すと彼はまた、湯のみのようなものにその筒を浸して、しゃぼん玉を飛ばす。
     
     頭上に浮かぶしゃぼん玉に伸ばした前足は短くて、変化をした姿なら掴まえられるのに、と惜しくなる。それでも時たま、沈んでくるしゃぼん玉にじゃれて遊んでいると、

    「ところで子狸さん」

     妙に真面目なウツシの声がした。
     振り向いた私に手招きして、その膝の上に載せるとしゃぼん玉を飛ばしながら彼は続ける。

    「狸が化けられるって本当?」
    「………くぅん?」

     ドッと冷や汗の流れる背中を、ウツシが撫でた。そばを飛んでいたしゃぼん玉がパチンと弾ける音が、やけに耳に響く。
     突然なにを、もしかして何か見られた?
     でもウツシに大社跡で会ったときの変化は完璧だったはず、と渓流の水面に映った自分の顔を思い出す。

    「よく言うだろう?狐七化け狸八化けって」

     聞いたことがない。
     人間の世界ではそうなのかもしれないけど、私は人にしか化けられないし。周りの狸は、そもそも化けていなかった。
     狐は…ハクメンコンモウさんしか知らないので、そのあたりの事情はわからない。

    「だからキミも化けるのかと思って」

     さらりと言ってのけたウツシに、私は恐怖で返事が出来ずにいた。
     
     もし、私が化けることを知られたら私は山に帰らなくてはいけない。
     絵巻のアケノシルムは、人に化けて恩返しをしたあとにそうしていたのだから、きっとそういうものなんだと思う。
     それに、人の世界に残る狐狸の話は『狸に泥団子を食べさせられた』や『美女に化けた狐に国が傾くほど散財をさせられた』なんてものばかりであまりいい話がない。
     だから、ウツシや里の人たちが気持ち悪がったらと思うと…。
     
    「子狸さん?…あれ、寝ちゃった?」

     彼の膝に頭を伏せてだんまりを通すと、ウツシは顔を覗き込んでくる。それに慌てて目を閉じると、私はたぬき寝入りを貫くことにした。

    ―○●○―

    「こっちも異常はなし。っと、」
     大社跡のしめ縄を見回っていると途中の渓流に差しかかった。
     子狸の両親が眠る墓に真新しい花が添えられている。
     どうやらあの子も来ているようだ。
      
     けれど時刻はもう夕刻だろう。あの子ももう、家路についているかもしれない。
     その“家”がどこにあるのか、直接聞けないのがもどしいところだ。
    「あの尻尾は狸だと思うんだけどな」
     数回見かけた尻尾の生えた子供は狸の妖かしかもしれない、と夢のようなことを考えていた。
     大社跡に狸はいくらか生息している。うちの子狸だってもとはそうだ。
     それにくわえて…と、薄い記憶を辿る。
     高熱にうなされたあの日に見た尻尾も、同じものだった気がしてならなかった。
     だからあの子供の正体は…。
    「まさか、ね」
     …だとしても、別に害はないので構わないけれど…。
     やけに磨かれた食器や、野菜、それからきちんと畳まれた洗濯物まで最近は置かれている。はじめは座敷わらしだと思っていたけど、座敷わらしにしては甲斐甲斐しくて妙だ。
     それに最近の子狸さんの様子も気にかかる。
     そんなあと少しでかみ合いそうな条件の数々は、先日の狸寝入りでまた一歩、確証を得ていた。
    「そろそろ一度、キャンプに戻ろうか」
     いつものお礼に、と置いておいたお土産は気に入ってくれたかな…。


     
     いつも通り、ウツシに恩返しのキノコを持ってくるとキャンプの前になにかが置かれていた。
     見たことのあるその道具はしゃぼん玉だとすぐにわかった。
     一緒に置かれていた紙にはなにか書かれていたけど、私には読めなくて…。
     でも見覚えのあるその道具はきっとウツシが置いているんだと思う。
    (こんなところに、どうして…?)
     そうとも思うし、もうすぐ里に帰らないとオトモのお兄ちゃんたちが心配する。
     でも、遊んでみたかったしゃぼん玉が人の姿の今、目の前にある誘惑に気持ちは揺れていた。
    (すこしだけ…遊んでもいいかな?)
     そして、あたりを見回してからそっと拾い上げた竹筒の中で、ちゃぷんと透明なお水が揺れた。



    「あっ…!」
     つい呼びかけそうになった声を手で抑える。
     キャンプから下った崖のふちに降り立つと、目の前のキャンプにあの子がいた。
     あたりはもう薄暗く、もうすぐ夕日が降りてきそうな時間だというのに。
     いつも通り腰に豊かな尻尾を携えて佇む彼女はキャンプの前でうつむいて、
     それから少しして顔を上げると盛大に「けほっ…!!」と、咳き込んだ。
    「大丈夫!?」
     何度も激しく咳き込む彼女にあわてて声をかけると、彼女はすぐに振り向いて肩をびくりと跳ねさせる。それを気にせず駆け寄って見たその子の手には、俺が置いておいたしゃぼん玉が握られていた。
     黒目がちな大きな丸い目は涙目で俺を見つめる。
     いや、体を固めて少し怯えてさえいるように思えた。
     その様子とは別に、あぁ、と一つの可能性が口をつく。
    「もしかして、しゃぼん玉は初めて?」
    「………」
     なるべく優しく訊ねるとその子は小さく頷いて、またいつものように俯いて顔を隠してしまった。



     (きれい…)
     ふわふわと浮かぶしゃぼん玉を見上げる。
     タマミツネさんの泡も大きくてきれいだけど、いろんな大きさの泡も楽しいと思う。
    (あの大きなのはウツシで、あっちの中くらいはライゴウお兄ちゃん、小さいのはデンコウお兄ちゃん)
     それから、一番小さいのは私。
    「しゃぼん玉はこうやって、ふーって息を吹くんだ」
     隣でウツシがまた、たくさんのしゃぼん玉を飛ばした。
     木々の間に飛んでいこうとするそれに手を伸ばすと、掴まえた瞬間にパチンと弾ける。
    「やってみる?」
     差し出された細い管をおそるおそる受け取って、それから口にくわえてみた。
     さっきは思い切り吸って苦しい思いをしたから、今度は慎重に…。
     ふーっと息を吹き込んだら管の先から大きな玉が飛び出した。飛ばずに管の先でどんどん大きくなるそれに目を丸くする。
    「上手だね」
     そういって笑ってくれたウツシに、さっきまで逃げる機会をうかがっていたのを忘れそうだ。
     ううん、忘れているのかもしれない。
     管の先を離れて飛んでいくしゃぼん玉がゆっくりとテントの上を飛んでいく。
     それを見つめるウツシの隣で座っていると、いつもの二人で過ごす時間のようで幸せだ。

    ―◯●◯―

     件の女の子は意外と人懐っこい子だった。
     あの日もあたりが暗くなっていたので〈送ろうか〉と申し出ると、しゃぼん玉を大切そうに抱えて洞窟の奥に走っていってしまう。
     そして別れ際に小さく手を振り、また尻尾を翻して彼女は消えた。
     
    「うさ団子といってうちの里の名物なんだ」
    「…………」

     今日はキャンプで一休みしているときに現れたその子が、逃げようとしたのを引き留めて呼び寄せた。おそるおそるこちらに近づいた彼女が俺が手にしていた団子をじっと見つめるから一串、団子を差し出すと彼女は両手で受け取って重そうにする。そして一生懸命に掲げながら、興味深そうにその串を見つめた。

    「お団子は食べたことある?」

     ぶんぶんと頭を横に振った彼女が団子に鼻を近づけて匂いを嗅いだ。クセのない素朴な味の並びにこの子は気にいるだろうかと考える。

    「どうぞ、食べてもいいよ」
    「………………」

     そこでピタリ、と彼女は動きを止めてしまった。
     一体どうしたんだろう、さっきまであんなに興味がありそうだったのに。

    「お腹が空いてないとか?」
    「…………っ…」

     訊ねると彼女の腹は丁度のタイミングで鳴く。それが返事ととっておこう。
     そしてその音に団子を取り落としそうになった彼女の手を支え、ひとまず団子を小さくちぎって彼女の前に差し出した。

    「甘くて美味しいから、まずは一口」
    「………………」
     


     ウツシは『人間の食べ物は食べちゃだめ』と言っていた。
     それはもちろん、うさ団子も含まれていて、いつもヒノエさんの食べているお団子が羨ましかった。私もいつか…と夢にまで見たうさ団子が今、手の中にある。しかもウツシは食べやすいようにちぎってもくれた。
     でも…と何度も考える。これは人の食べ物で。…でも今の私は人の姿だ。今日も変化は完璧だからすこしくらい食べても…。

    (約束を破ったことにはならないかな?)

     そう自分の中で納得してからは早かった。
     深呼吸して、ぱく、とウツシの手から食べたお団子は甘い。その初めての味に驚いてまばたきすると、ウツシはにこにこと嬉しそうに笑っていた。

    「美味しいかい?」
    「………」
    「もっと食べる?」
    「………」

     なにか言われるたびに頷いて、また差し出されたちいさなお団子を口に含む。うさ団子はウツシの言う通り甘くて優しい味がする。それから口の中でもちもちするのも楽しい。こんなにおいしいものは初めて食べたかもしれない。山の食べ物もおいしいけど『うさ団子』はもう山に戻れない味がした。
     
     幸せそうにうさ団子を頬張るヒノエさんの気持ちがわかった。うさ団子は幸せな味がする。自分で串を握って、口の中いっぱいの甘味や鼻を抜けるいい匂いに夢中でお団子を食べていたら、隣でウツシもお団子を口にしていた。
     大好きなウツシと並んでうさ団子を食べられるなんて嬉しいと幸せに浸る。思わず気が緩んで出そうになる耳を押さえていたら〈どうしたの〉とウツシが笑った。それにうまく笑い返せたかはわからないけど、目にするもの全部が嬉しいのはうさ団子のおかげかもしれない。

    「ところでキミの名前は?教えてもらえるかな」
    「………」

     うさ団子を食べ終わって本当にうさぎの耳みたいな串を眺めていたら、ふと、ウツシがそう訊ねてきた。
     困った。コダヌキとみんなは呼ぶけどそれを答えるわけにはいかないし、私は喋るということが出来なかった。咄嗟に声が出ることはあっても言葉を音にするのはまだよくわからない。きっとその戸惑いが顔に出ていたんだと思う。

    「俺はウツシだよ」

     先に名乗ったウツシは期待した表情で私を見た。そして口元を見せたまま繰り返す。

    「う・つ・し、言える?」
    「ぅ…」

     その口元の真似をするとウツシがわくわくと瞳を輝かせた。鳴き声以外の自分の声は不思議でくすぐったい感じがする。

    「う・つ・し」
    「う……ちゅ…し?」

     うまく言えた気もするし、なにかちがう気もする。人の言葉は思っていたよりもむずかしい。
     ほら、ウツシも無言で頭を抱えてしまった。
     


    「うさだんご」
    「きゃんぷ」
    「かざぐるま」

     一つ一つ指差しながら教えてもらったばかりの言葉を使うとウツシは嬉しそうに頷いている。

    「うつし」
    「なんだい?」

     そして名前を呼ぶと返事をしてくれた。そのことが嬉しくて彼を見上げる。するとウツシは私の頭に手を置いて狸の姿の時と同じように頭を撫でるから、思わず出そうになる耳を一生懸命我慢していると、突然、頭上から〈ピィー!!〉と甲高い声がした。
     そして橙色の空を旋回するフクズクが見えたと思うと、ウツシ目がけて急降下!

    「うわっ!…ちょ、痛っい!!」

     まっすぐに頭を狙って飛んできたフクズクに驚いていたら、ウツシは必死にそれをはらってフクズクの攻撃を避ける。すぐ抱きしめるように隠されて、胸の中でどうしてフクズクがウツシを攻撃するのかわからなくておろおろと戸惑っていたら、

    「大丈夫っ、いつものことだから!」

     そうウツシは言うけどフクズクは怒ったような鳴き声を上げて、執拗に彼の頭にくちばしを向けている。
     どうしよう。どうしよう。そううろたえているうちにフクズクの鳴き声はいっそう高く響いた。




    「痛っ…隙ありっ!」

     頭を再度つつこうとする嘴を寸でのところで避け、空ぶって悔しそうに鳴くフクズクの足から文を急いで抜き取る。その間も襲ってくる鋭い爪をはらっていたら腕の中で「くぅん」と鳴き声がした。その鳴き声を聞き取ったのか、それとも俺をつつくのに飽きたのか、しばらくするとフクズクは高度を高くしてキャンプのそばで羽を休める。
     そして隠されていた子どもは呆然としたまま、こちらを見上げた。

    「くぅん…」

     しかも大人しくなったフクズクにも怯えて、目が合えば再度鳴きだす始末。
     その鳴き声が見知った子狸にそっくりでつい指摘しそうだ。しかもよく見れば、その子の頭に見たことのある獣の耳が出ている。尻尾は言わずもがな。正体を隠す気があるのか、ないのかわかりかねた。

    「怖かった?」
    「………」

     こくんと頷いて俺の装束を掴んだ小さな手は人のものなのに縋る姿がどうしてもあの子狸と重なってしまう。

    「ごめんね、どうも俺はフクズクに嫌われてるみたいなんだ」

     すると彼女は頷いて、掴んでいた装束を離す。そして俺に背を向け、フクズクの間に立つと両手を広げて見せる。「ふー」と聞こえる声になにをしているんだろうと彼女の顔を覗き込むと小さな歯を剥き出しにして、素知らぬ顔で毛繕いするフクズクへと威嚇をしていた。

    「あはは、もう大丈夫だよ。ありがとう」

     さっきまでの怯えようが嘘のようなその勇姿に耳の出た頭をつい、撫でると彼女は飛び上がるほどに驚いて振り向くと一言。

    「みた?」
    「なにを?」
    「…しらない」

     そう小声で答え、必死に頭を隠す彼女が今度は支給箱の裏に隠れてしまったので見て見ぬふりで文を開く。文は里からだった。
     ――サシミウオを数匹釣って帰ってほしい。

    「一緒に釣りに行くかい?」

     静かな支給箱に声をかけるとそこからひょっこりと顔を出した女の子はこくこくと何度も頷いた。



     穏やかな渓流の奥、キャンプから一番近場の堀まで向かった。
     小さな手に大きな釣り竿は合わず、しっかりとした枝を使って即席で作った釣り竿に釣り糸と餌を付けると彼女は俺の真似をして堀へと釣り糸を垂らす。今はもう丸い耳も尻尾もない女の子は静かにその水面を見つめていた。

    「おさかな」
    「そう、サシミウオだ」
    「さしみうお、おいし?」
    「美味しいよ。たくさん釣って後で焼いて食べようか」

     魚を驚かせないようにだろうか、小声で話す彼女が嬉しそうに頷く。そこでちょうど、彼女の釣り竿が微かに動いた。

    「あっ、食いついたよ!」
    「!」

     そして痺れたように動線を描く釣り竿に慌てた彼女の手を取って一緒にその竿を引く。引いて力を抜き、また竿を引くと何度目かで魚も疲れたように引く力を弱める。

    「今だ!」

     そう合図を出すと一層強く竿を握った少女は力強く竿を引いた。初めてにしては筋がいい、と関心していると頭上高く釣り上がった魚が彼女の目の前にぶら下がった。そのことに目を瞠った彼女が慌てて俺に飛びついたのでまた竿を一緒に支える。

    「これは大物だ!」
    「くぅん」

     ぶら下がったままビチビチと跳ねる魚をつつきながら鳴いた少女は、嬉しそうにその頬をほころばせた。

     
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