「浮かない顔だな。リオ」
そう声をかけられてはっとした。鍾離先生と帰り道で遭遇し、そのまま食事でも、という話になったのだが、どうも日中のことがショックでつい考え込んでしまったらしい。考えたところで解決もしないし不毛だが、やはりショックはショックだ。
「すみません。せっかく鍾離先生にお誘いいただいたのに」
はあ、とこらえきれずに溜息をつくと、構わない、と鷹揚な返事が返ってくる。
「だが、君らしくない印象だ。何かあったなら話してみると良い。俺で良ければ力になろう」
「お気持ちはありがたいんですが……」
鍾離先生にセックスフレンドという単語を口にするのはさすがにはばかられるし、それが公子様のこととなると、弱みを握られる可能性があり、余計に口に出来なさそうだった。
「恋事だな」
さらりと言った鍾離先生に思わず酒を飲みこみ損ねてむせこんだ。強めの度数がのどを焼く感覚がする。
俺の様子がおかしかったのか口元に微かに笑みを浮かべた鍾離先生に、そんな顔もするんだなと思いながら、俺は失礼、と何度か咳をして整えると、鍾離先生の顔を見た。これでは図星ですと言っているようなもので、隠しても仕方ないかと思いながらも迷う。
「公子殿のことだろう」
さらに盃の水面を見下ろすようにした鍾離先生の言葉に、俺は肩を落とした。
「よく……ご存じで……」
「そんな顔をするな。最初は公子殿の態度で気づいた。君のせいだけじゃない」
「公子様で?」
まさか恋愛相談をするわけはないし、どういうことだと不思議に思うと、鍾離先生は顔を上げる。
「最初に君と食事をした夜に、君と俺の帰り際を眺めていた者が居た。君は気づいていないようだったが、気配から察するに、あれは公子殿のもので、俺は敵意を抱かれていた。公子殿に俺がそんな態度を向けられる理由を考えれば、いくつか想像できることがあるが、君の態度を見て確信した」
「さすが鋭い……」
公子様が一目置く存在ではある。素直に感心すると、そうでもない、と鍾離先生は謙遜をした。人間もできてるなんてこの人ずるいな。
「君たちの件は、察するのがそれほど難しい話じゃないからな。さて、君が心配している公子殿の情報漏洩はもう意味がなくなった」
「…………」
そして意外と良い性格してるな、なんて感想を抱きながら、俺は先生に馬鹿な遊びをした告白をするような気持ちで、公子様とのことを話すことになった。
一通り俺の話を聞いてから顔色も変えずに考え込んだ鍾離先生は、ふむ、と顎に手を当てていたのを外して俺を見る。
「それで、君はどうしたい」
「え?」
「君がどうしたいのかが今の話には入っていない。それを聞かないことには、相談にもならないだろう」
「それは……そうですが……」
俺がどうしたいか。そう、それが一番の難問なのだ。
「現状維持か、関係の解消……でしょうか」
立場は変わらずに、何もなかったような関係になるのが一番の望みだ。これはあり得ないとはわかっている。
「なぜ?君は公子殿に懸想しているんじゃないのか?」
鍾離先生がそう問いかけてくるのももっともだった。
「…………そう、ですね。でも俺は公子様が何を考えているのかが分かりません。俺が好きであるようなことを言われましたが、それも勘違いで単なる所有欲かもしれない。これまで、公子様の好意を感じたことがないので戸惑っているのが正直なところです」
「つまり公子殿が信じられない。ということだな?」
「…………公子様の名を出してそう断言するのは躊躇いがありますが、そうなりますね。そもそも、好きだと言われたわけではありませんから」
上司としては最上の人だと思う。冷徹で厳しく、仕事ができ指示も的確。そして自分で動くことをためらわない。そして、そんな人だから好きになったのだ。
「君は気持ちを伝えないのか?」
問われて首を横に振る。
「俺には手が届かない人ですよ。公子様のことは敬愛しています」
「敬愛しているから、恋人にはならないと?」
深く追及されて、俺は本音を口にする。
「……そうなったら良い、とは思いますが。……もう叶わないと思っています」
「ああ。そういうことか」
何がそういうことなのか分からない。何故か納得した様子で言って鍾離先生は分かった。と言った。何が分かったんだ?
「それなら、君はよく公子殿を見るといい」
「え?」
現状維持のアドバイスにしては、あまりに普通のことを言われて俺は鍾離先生がそんな答えを出すなんて、とその顔を見る。だが至極まじめな様子の鍾離先生に、何らかの策があるのかもしれないと思い直す。
「その間の公子殿の態度をちゃんと観察することが重要だ」
「観察?」
「見るだけじゃない。ちゃんと目を見て話すことだ」
まるで俺が公子様をちゃんと見ていないかのように言われて、そういえば、と俺は自分のことを振り返ってみる。夜のことを思い出さないように、公子様の顔はあまり見ないようにしていた。
「出来るなら恋人になりたい。というのが本心ではあるのに、難儀だな」
「自分でもそう思いますが、どうしようもありませんから」
「そうか。……俺が言えるのはこのくらいだ」
「いえ。十分です。ありがとうございます」
胸に手を当てて礼を取ると、そんな大げさにしなくていいと言われた。しかしどうしてこんな風に親身にしてくれるのかは不思議だ。意外と公子様関係のことだから面白がってたりしてな、なんて思った。本当のところはわからないが。
俺は話しても差し支えない程度に、ここ最近ファデュイ内での噂や他愛ない事件などを話す。鍾離先生は結構楽しんでくれているようで、食事は和やかに終わった。
次はしっかり酒でも、なんて簡単な約束を交わしながら、帰路に着いた。
それにしても、もし公子様が俺を好きだとして、俺の一体何を好きになったのだろう。
全く分からない。やはり、勘違いなのだろう。期待を裏切られるくらいなら、しない方がましなのだ。それは自分の心が揺さぶられてしまう。冷静さを保てなくなる。
彼のそばをもう離れられないと思うのなら、俺は優秀な補佐官でいないとならないのだから。
そんなことを考えながら、翌日、北国銀行に着いたときに、扉の前で公子様に出会った。
「ああ、おはよう。リオ」
何かを考えているようだった公子様は、俺の気配に気づいて顔を上げると、笑みを浮かべてそう口を開く。
助言通り、ちゃんと目を合わせてその心の奥を透かすようにした俺は、瞠目した。
「おはよう……ございます……。公子様」
美しく静かな青い湖面は、璃月に来て初めて目にしたものだ。
スネージナヤでは、凍っていることばかりで、湖などスケートをするための遊び場のようなものだった。
その瞳に映るのは、喜びの色と、探る色。
会えて嬉しいという、わずかな感情を見つけてしまう。諦めているからこそ、気づいてしまった。
不毛だな。
次に感じたのはそんな思いだ。
「リオ?」
「いえ、なんでもありません」
思考に気を取られて少し動きを止めてしまった俺を、不審そうに公子様は声をかけてくる。首を横に振って、公子様のために扉を開け、続いて俺も中に入った。
どうして今まで気づかなかったのだろう。気づいていたら、と考えて、どうなっていたのかと自問する。
もう始まりから間違っていた。好きなら、断るべきだったのだ。
お互い、好意を抱いているのに。今は関係と立場がそれを阻んでしまう。立場を脅しのように取られて、素直に恋人になることは難しく、そしてそれは公子様も同じだろう。
それなら、望むことは一つだ。
終わりにしたい。
ファデュイにあこがれて任務地に迷い込んできた小さな男の子がいた。
迷い込んできたのはいいが、そのあと寂しくなったのか、親を探して泣くから、弟がいる身としては見過ごせずに声をかけようとしたとき、走り寄ってきた人がいた。
その人はおびえる男の子に、他のファデュイが見ているにもかかわらず、仮面を外して、顔を見せた。任務中に顔を見せるのは規則違反だ。男はそれを知っているだろうに、何のためらいもなく仮面を外し、そして男の子に優しく笑いかけた。ほっとしたのか、結局大泣きし始めたその子供を抱き上げて、男は両親を探すために歩き始めた。
その男は名前も覚えてない下っ端で、でも、その一瞬の笑顔が脳裏に焼き付いてしまって立ちすくんだ。
自分の興味のままに自分の補佐官に指名した。仕事をさせてみれば彼はとても優秀だった。それは嬉しい誤算だが、そのせいで、俺はずっと彼を手放せずにいる。彼が優秀なのは、他のファトゥスも知るところだ。こんな状態なら、彼が俺の元を離れることもあり得るかもしれない。彼が別のファトゥスに着くことを考えるだけで、嫉妬でどうにかなりそうだった。
ろくにはかどらない仕事に溜息をつき、今部下に指示している案件がどうなったのか確認しに行こうかと考えた時に、ノックの音がした。返事をすると、入ってきたのは当のリオだった。
「公子様。指示されていた書類です。また、差し出がましいとは思いましたが、関連する顧客の該当情報をまとめた資料もまとめておきました」
「ああ、ありがとう」
手を出すと迷うそぶりも見せずに書類を渡してくる。リオの仕事には動揺も何も見られない、いつも通り優秀なものだ。この書類はきっとリオなら勝手にまとめてくるだろうとわざと指示しなかったものだが、案の定リオは望み通りの結果をくれた。期待に応えられるたびに、迷いは増える。リオに対する好感度が上がるばかりで、自分でどうしようもない。その衝動は俺を突き動かす、強者と戦いたい欲求と同じ強さで俺をむしばむ。それなのにリオが何を考えているのか全く分からない。
立場を利用して体の関係に持ち込んだのだから、嫌われているのは当然だ。むしろその状態であんなに冷静に仕事をこなすなんて、特別に優秀なファデュイだろう。とは思っていても、嫌いだと言われても受け入れることもできなさそうだった。
淡々と進む報告を締めて、リオは胸に手を当てて礼を取る。
「それでは、これで失礼します」
「リオ」
反射的に呼び止めてしまい、振り返ったリオの視線が俺に向けられるのに、内心で動揺した。いつもの自分らしくないと自分で叱咤しながら、続ける適当な言葉を探す。
従順に俺の言葉を待っている姿に、また苛立ちを覚えながら、それがままならない感情の八つ当たりだということも分かっていた。
「他に俺に報告することはないかな」
「いえ、特にありません」
違和感のない間の後にそう返事をされて、俺はそれなら、と次の行動を決めた。
本人が話さないのなら、他の人間に聞くまでだ。
リオが再び礼を取って退室していく背を見送ってから立ち上がった。どちらにせよ別の要件で彼に用がある。
往生堂に鍾離先生を探して足を向ければ、留守にしていると言われた。その口ぶりだといつもの散歩だろうと、璃月の街を勘を頼りに歩いていると、何者かが近寄ってくる気配がする。
「浮かない顔だな。公子殿」
案の定の知った声に、振り返るとそこには相変わらずの泰然とした様子の鍾離先生の姿があった。
「まあね。この街でファデュイに向けられる視線の厳しさには参るよ」
「それだけか?」
珍しくつっついてくる鍾離先生に、俺は肩をすくめた。
「他に理由があるって、先生はどうして思うのかな?」
「リオに同じセリフを言ったら、素直に謝ってきたが、公子殿のほうは素直じゃないようだ」
「俺もしかして挑発されてる?」
動揺を顔に出さなかったのはかろうじての話だ。
鍾離先生の台詞で、彼が事情のいくらかを知っているらしいということを察して、俺は瞳に敵意と口元に笑みを浮かべても、鍾離先生は動揺一つ見せない。
人気のない方に移動しながら、俺は問いかける。
「鍾離先生はどういうつもりで俺にそんなことを言ったのかな」
「公子殿がそんな風に言うほどのことはない。友人が困っていたら助言をするものだろう」
「へぇ。じゃあ鍾離先生は、その友人にどんな助言をしたんだい?」
「相談事をおいそれと人に話すことは出来ない」
まじめな調子でそう返されて俺は溜息をついた。
「そうリオのことを知っているとひけらかしておいて、そのくせ情報の一つもくれないなんて、ちょっと意地悪なんじゃない?」
「彼にとって公平じゃないから話せない」
「公平?」
鍾離先生らしい返答に、俺は鍾離先生が言わんとしていることの察しがついた。
「彼は公子殿についての情報を何も持っていないのに、公子殿が一方的に彼の情報を知るのは不公平だ」
「ああ……。先生にしてみたらそういうことになるよね」
さて、俺のことを知られずに聞き出すには、どうしたら良いだろう。いっそこれを機に戦って、なんて思考が脳裏をよぎるが、そう安直に行く話じゃないしそれで口を割るような人でもないだろう。
俺は腕を組むと、鍾離先生に問いかけた。
「じゃあ取引はどう?鍾離先生の望むものを差し出すよ。もちろんなんでもというわけにはいかないけどね。やっぱり鍾離先生の現状を考えると、モラがいいかな?」
「ふむ」
鍾離先生は思案するようなそぶりを見せてから口を開いた。
「なら、引き換えに別の情報をもらいたい。ファデュイの情報網なら問題ないものだ」
「へえ。なんの情報?」
「とある薬師の女性の情報だ。知りたい薬の調合方法がある」
「……薬師の女性?」
最近聞いたような話に、俺は慎重に聞き返した。対する鍾離先生は、なんの黒い意図もなさそうな顔だ。とはいえ、この人が食えないことは、すでに思い知っている。
「その調合方法は何に使うものなのかな?」
「病気の治療に使う。とある希少な薬草の煎じ方を教えてもらいたいが、居場所がつかめないでいる」
「ふぅん。分かった。その調合方法、こちらも把握するけど、問題ないよね?」
「問題ない。隠すようなものではないからな」
「分かったよ。じゃあ契約成立だ。情報が手に入ったら連絡するよ。それと、依頼してた璃月の人間の金銭に置ける心理傾向についての見解はまとまった?」
「ああ。そちらも問題ない」
渡された紙束を受け取り、報酬であるモラを渡す。
「じゃあね。先生。新しい依頼についても、頼んだよ」
「ああ」
頷いたのを確認してから、背を向けてその場を立ち去る。そもそも感じてはいないが、周囲に人がいなかったかの確認も怠らない。
仕事の優先順位を少し調整しよう。
北国銀行に戻ってくると、いつも通りにリオが仕事をしている机に近寄った。
「公子様、何か御用が?」
顔を上げたリオがいつもよりまっすぐに俺を見るのにどきりとする。関係を持ってから、あまり視線が合わなくなったように感じていたが、久しぶりにリオの瞳の奥を覗く。
「この前君の報告にあった薬師の女性の資料と報告書が欲しいんだけど、俺の部屋に持ってきてくれない?」
「……薬師の、ですか?」
首をかしげるリオから戸惑いの気配を感じた。
「何か不都合があるの?」
「いえ。分かりました。すぐにお持ちします」
手早く立ち上がったリオは資料室に向かうつもりなのだろう。俺を見送るように立ち止まっているリオに視線を一度送り、それから執務室へと足を向けた。
すぐにノックの音と、リオの呼びかける声がしたのに入るように告げる。
入ってきたリオは、こちらですと書類を俺に差し出すと、そのまま礼を取って退出しようとした。そのそっけない態度にいら立って、机から身を乗り出し、その腕をつかんで引き寄せる。襟首をつかんで頭を下げさせるように引っ張ると、リオは簡単に俺と間近で目を合わせた。
「今夜行くよ。久しぶりだから楽しめそうだね。リオ」
何事もなかったかのようなふりをしてそう告げる。断られる可能性は考えたが、それよりもリオの淡々とした態度を崩したかった。嫌われているのなら同じことだ。それなら、振り回してしまった方が良い。
目を合わせてそう笑って見せた俺の顔を、リオはじっと見つめている。
「……タルタリヤ様」
「……えっ?」
ゆっくりと口を開いたリオから零れ落ちたその名前に、俺は目を見張る。顔を寄せるようにしたリオに、キスをされると目を見張ると、触れそうな位置でリオは小さくいった。
「お慕いしておりました」
「っ」
予想もしていなかった言葉にリオを見返す。静かな瞳には、情熱の色と、そして。
「だから、終わりにしましょう」
諦めの色があった。
「リオ、俺は……」
「失礼します」
身をひるがえして出て行ってしまったその背をもう引き留めることもできない。茫然と見送って、椅子に座りなおす。
「ア、ハハ……」
天井を仰いで目を覆う。口から洩れるのは、乾いた笑い声が漏れた。
そのままうつむいて歯を噛みしめる。
「そんなの、聞いてないよ。リオ」
聞いていたら。
聞いていたら?どうなっていたというのだろう。
上官相手は逆らいにくい。恋心を持ってもらっていたのがおかしなほどだ。どちらにせよ。もう遅い。
踏んだのは薄氷だった。もう割れてしまった。溺れるよりも冷たく、心が凍り付くようだ。
溜息をついて、手渡された書類を眺める。
「無駄になっちゃったなあ」
リオの心はもうわかってしまった。
指で書類をつまみ上げて、内容をぼんやりと読む。そこには、情報提供者により不死仙草という薬草の情報を得たと書かれており、提供者の名前はなかったが、そんなもの知っている相手の心当たりなんて三人といない。きっと鍾離先生だ。
少しぼんやりとしてから、すぐに気を取り直して立ち上がる。
契約は契約だ。それに、今更遅くても、リオのことをもっと知りたかった。
諦めるべきだとはわかっている。あんなにはっきり振られて、どうにかなるはずがない。
でも今だ好きだと騒ぎ立てる己の心に、嘘もつけない。
溜息をついた。
「全く、いっそ闘争心だったら良かったのに」
同じ情熱だというのなら、収め方なんて知らないから。