二人次第/終『Bonjour, estーce que Tanfu est là ??』
『……?』
『 Oh cher Désolé、 Japonais ――えっと、ごめんね、驚かせて。君、丹恒でしょ? 僕は景元。お兄さんに会いに来たんだ』
雨が上がったばかりの、春と夏の間の季節だった。
家に大人はいなくて、道場にいる兄さんの代わりに母屋で留守番をしていた時、チャイムが鳴ってあの人が尋ねてきた。
目が合った瞬間に、丹恒は童話の物語の中に引き込まれたような錯覚に陥った。
色の無い、キラキラと輝く細い髪。琥珀の飴のような目に、吸い込んだ息を吐き出すのを忘れた。そして魔法の水のように、甘い声が小さな体中に染み込みこんでいった。
ふわふわと雲の上を歩くような軽い心地が足元がせり上がる。
『丹恒?』
兄ではない。厳しい大人たちでもない。優しく甘い声が髪を撫でてくれるように耳元に触れる。
『……』
丹楓が景元に気づいて母屋に顔を見せるまで、小さな丹恒は声も出せずに顔を真っ赤にして、彼の言葉を待つ青年の前でもじもじしていた。
***
「花火じゃ!」
開幕を飾る小花のような花火が打ち上がり、本格的な夏の到来を告げた。
紺色にピンクの花柄の浴衣を着せてもらってご機嫌な白露が長兄の肩の上ではしゃぐ。
「白露の浴衣、ありがとう」
「なに。可愛いモデルさんに着てもらえて嬉しいよ」
甚平を着た丹恒が傍らを見上げると、ねだられ浴衣をプレゼントした景元がにっこり笑って団扇を仰いだ。
今日は家の近くの河原で花火大会が催されていた。大会といっても、いくつかの町内会が合同で開催している程度で出店も無く、規模も小さめだ。それでも立派な花火が次から次へと空へ舞い上がり弾けては、大勢の観客を湧かせていた。
「綺麗じゃのー」
身長の高い丹楓に抱き上げられた白露が、普段よりもずっと高くなった夜空の花弁を掴もうと小さな手を掲げる。そんな彼女を下から団扇で仰いでやりながら、丹楓も微笑んでいた。
「白露よ、花火がどんな種から出てくるか知ってるか?」
「え、花火って植物なのか!?」
「なんだ、学校でまだ習っておらんのか。あの光の一つひとつが本物の花でな」
「兄さん、またいい加減な……」
「あははは、純粋だなぁ」
しれっと妹に嘘をつく兄に溜息を落とす。景元が苦笑するように、白露も流石に騙されやす過ぎる。
弟の苦言に丹楓はカラカラ笑うと、白露を抱え直した。
「さて、もっと近くに行ってみるか」
「花火の種、見れるかの?」
「見れるかもしれんな」
白露が目を輝かせて、しっかり丹楓の頭にしがみつく(こんなことが出来るのは世界で白露ただ一人だけだろう)。
はしゃぐ白露をそのままに、着流しの裾を優雅に捌き、丹楓が丹恒と景元に振り向いた。
「お前たちも自由に見て回ると良い」
その口元に笑みを浮かべる兄に、何やらお膳立てされた気分になるのは、丹恒が意識しすぎてるからだろうか。
夜に花火が次々に咲く中、人波に兄と妹の姿が紛れていく。
「行っちゃったねぇ」
置いていかれた丹恒と景元はちらりとお互い目を合わせて、何を話すことなく、華やかな空を見上げていた。
夏の夜はしっとりとした風が吹く。河原にポッカリ空いた、花火の喧騒から離れたコンクリートの階段に並んで腰掛け、丹恒は履きなれない下駄で痛めた足を休ませた。
パン、パン、と遠くなった花火が細かく上がり、祭りの佳境を伝えてくる。
「足、大丈夫かい?」
街灯と花火の明かりを横顔に、景元が眉をひそめて丹恒の足を見やる。それに頷いて下駄を少し脱いでみた。案の定、鼻緒が当たる部分が赤くなっているようで血も滲んでいた。
「痛っ」
景元が何故かそう言って、自分が痛いわけじゃないのに整った顔を顰める。それが面白くて少年はクスリと笑った。
「貴方の方が痛そうにしてどうする」
「だって、血が出ているよ」
「このぐらい平気だ。こうして座って休めているし」
何なら裸足で帰れる、と言うと景元が苦笑した。
白露が怪我した時用に持ち歩いていた絆創膏をポケットから取り出し、丹恒の足に貼ってくれた。可愛らしいウサギのマークが何故か自分でもしっくり来る。
「これでよし。裸足はダメだよ。いざとなったら私が君をおんぶして帰ろう」
「! 結構だ。子供じゃあるまいし」
「じゃあ、お姫様抱っこかなぁ」
どうやって丹恒を運ぼうか思案する景元の言葉に、ふと懐かしい情景が浮かんだ。
それは景元も同じだろう、ふと言葉が止まって、そしてコロンと零れるように笑みを浮かべた。「あの時と逆だね」と、独り言のように囁く声が優しい。
「ああ……」
まだ二ヶ月も経っていない、あの再会の日。子猫は元気よく育ち、丹恒たちの関係も少しずつ変わってきた。あれだけ警戒していた自分が今ではこんな距離で景元の隣に居るのが信じられない。
鏡流と白露に後押ししてもらってすぐ、丹恒は今までのことを景元に謝罪した。
「平気だよ、気にしないで。私の方こそすまなかったね」
と、いつもの微笑みをくれたのだが、ちょうどその場に居合わせた兄と応星曰く、その後の景元といったら、丹恒が部屋から出ていった瞬間安堵のあまり力が抜けたらしい。「嫌われてなくて良かったよ」と、ぐったりしながら二人が腹を抱えて笑うのを甘んじて受け入れたそうだ。
それから告白の件はさておき、景元が家を訪ねてくる度に二人は改めて友人として一歩ずつ歩み寄ってきた。
こうして近い距離で話すのも、『まだ』友人としてだ。
恐らく景元には丹恒の隠し事なんて、途中で気づかれているだろう。無口で無表情なんてクラスメイトからは言われるが、兄やその友人からすると「お前ほど思っていることが分かりやすいのもそうそう居ない」と笑われてしまう丹恒だ。だとしたら、景元にだって気づかれててもおかしくない。
丹恒の謝罪の日、景元が帰っていった後に、散々笑った二人はそれぞれ少年の猫毛の頭をくしゃりと撫でた。
「いつものことだけどよ、俺が何度言っても頷いた試しがねぇ。あいつの頑固さには俺も負けるよ」
応星が肩を竦めて笑った。
「お前が思うがままに、やるが良い」
そう言った兄の翡翠色の目の奥に、穏やかに凪いだ光を見た。
「景元」
花火の音が聞こえる中、ポツリと呟く。眩い花が咲き、そして一瞬の静寂が訪れた。人々のざわめきさえ二人の耳には聞こえない。
隣を見ると、ずっと胸にあった笑顔がゆったりと丹恒を見守っていた。
少し乾いた唇を僅かに震わせる。
「まだ貴方は、俺が好きだとか言えるのか」
「っ!」
景元が目を見開いた。宝石のような目に花火の鮮やかな色が反射し、万華鏡のように一瞬ごとに色を変える。その不思議な色に魅入っていると、ふわりと色彩が優しく馴染んだ。夢から現実に引き戻される感覚を覚える。景元が真っ直ぐ丹恒に向き直り、大きな手で丹恒のそれを包んだ。
「言えるよ。君が好きだ、丹恒。……これでも私は一途でね。君が頷いてくれるまで、きっと言い続ける」
真剣な声が静かに鼓膜に届いて溶ける。
ずっとこの笑顔だけを思って幼い恋心を燃やし続けていた。
再会してから、自分の現実とあまりに違う彼に勝手に幻滅して、警戒した。
信頼出来る人達と一緒に彼の人となりを見聞きし、知った。
そして改めて思った。自分は彼が好きなのだと。
「貴方が好きだ」
そう告白した瞬間、一際大きな、最後の花火が上がった。