可愛い猫「二ギャオ!」
「っ、」
「丹恒!」
興奮した雪獅子の可愛らしい声と同時に鋭い爪がひらめき、丹恒の手の甲を切り裂いた。薄い皮膚一枚だけ傷つけ、丹恒の腕に抱かれてじゃれていた巨大肉食動物が慌ててそこから脱出し、景元の肩に顔を隠す。
「大丈夫か!?」
「いや、少し掠った程度だ」
うっすらと血の滲む手に飼い主の景元が慌てるも、丹恒自身は何でも無いと頷いてみせる。本当に雪獅子に引っ掻かれたら腕なんて吹っ飛ぶだろう。全く大したことない。むしろここまで力加減をしてくれたことに動物からの愛情を感じる。
「ぎゃう……」
丹恒を思わず引っ掻いてしまい、自分自身が驚いただろうに雪獅子は耳を寝かせて甘えた声で人間たちを伺ってくる。さすがに叱ろうかと景元が愛猫に手を伸ばすと丹恒がそれを拒否した。傷口がじんわりと痛むが、それ自体は本当に大したことはない。だが可愛らしい動物に余計なストレスを与えてしまったことに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ほんの少し毛並みを逆立てる雪獅子を撫でて宥めていると、三月が何か思いついたように穹少年のポケットを探る。
「ねえねえ、確かばんそこあったよね!」
「ばんそこ?」
「簡単な治療ができるんだよ。血が滲んでから、とりあえず手当はしておかなきゃじゃん?」
「ああ、すまない。だがもう塞がりそうな傷だ」
優しい友人達の気遣いだけ受け取っておく。
まだ眉を垂れてる二人に「大丈夫だ」と軽く笑おうとした時、傷ついた手を後ろから大きな掌が捕らえた。
「どうしたんだい?」
「将軍!?」
気配を感じなかった背中からの景元の声に、肩越しに見上げる。眉根を寄せた彼の問いに、一瞬だけ口を開くのを躊躇った。可愛らしい猫からの抵抗で怪我をしたことは、出来るだけ飼い主の彼には知られたくなかった。こんな些細なことで少しの瑕でも掛けたくない。
「将軍には関係ない。少し……引っ掻いただけだ」
「雑だね。化膿する」
丹恒の言葉を無視して、傷に触らないよう手を扱う。眉根を寄せる表情は妙に険しい。何でそこまで怒るのか
「将軍だって雑そうだけど」
「私は良いんだよ」
「なんでだよ、良くないよ」
穹が景元に絡んで中身のない言い合いに、心配した表情だった景元が笑った。
「まあそれより、彼に手当をしないとね」
「手当の必要は……」
「いいから!丹恒は素直にウチらの言うこときいてばんそこつけてっ!」
快活な三月の笑顔に丹恒は肩を竦めた。
仲間達は、丹恒のほんの少しの強がりも許してくれないらしい。ゆるゆると唇を緩めて、耐えきれない喜びが溢れてきた。
「まったく、過保護なことだ」
溜息交じりに出てきた強気な言葉に、他の三人はそれぞれ笑った。
丹恒に簡単な治療を施した三月たちが青鏃と一緒に雪獅子の食事に付いていく。それを見送ると、景元の肩に丹恒が甘えたように小さな頭を乗せた。頬に触れる丹恒の髪が擽ったいのか、右手で丁寧に撫でられる。よく馴染んだ手の感触に、丹恒も心地よく感じながらとりあえず心配かけたらしいことに謝罪と礼を言っておくかと溜息を少しついた。その時、
「そういえば私も、君のお陰で毎日痛むな――」
――背中の傷がね?
低く色気のある声が直接耳に吹き込まれる。
けだるい朝。熱い夜の名残。自分の爪の間にこびり付いた、赤い血。
どれだけ彼に抱かれた花売りがいたとしても、今や唯一自分だけが景元に抉り証をつけられる。その背中の傷が脳裏に瞬いた。
思考が止まる。呼吸も止まる。頬が一気に紅潮した。
「~~~!!」
「将軍のほっぺた真っ赤じゃん」
「……将軍も治療が必要か?」
悟りきった穹の眼差しと不貞腐れて部屋に籠ってしまった丹恒との間で、紅葉の跡がついた頬を笑い転げながら景元は「ずいぶんと愛らしい猫だ」と惚気た。