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    20210521 トーナメント忠優勝IFバドエン 暗い!重い!救いがない!な全員満遍なく幸せにならないはなし 行為の匂わせがあるような無いような

    ##暗い
    ##全年齢

    あなたに似合うツバメを一羽 小さな、まだ好きにページをめくるより誰かに読み聞かせてもらうほうがずっと楽しかったころ。子守の選んだ絵本は難解すぎて、単に対象年齢が合っていなかったのだが、そんなこと知るよしもなかった幼い自分は何かの拍子に己の馬鹿が露呈しないか、そのせいで折角誘ってくれたご子息を怒らせやしないかと内心怯えていた。子守が絵本を閉じた瞬間、隣で黙って聞いていた彼が叫びだすまでは。
    「つまらない!」
     すっぱり言いきって寝転んだ彼はあらあらいけませんよと近づく子守を足で牽制しつつ、なあとこちらに呼びかけた。
    「そう思うだろ?」
    「え、……は、はい」
     主人一家の言葉には全て頷きなさい――父親から言われた通りにすると彼が「だよなあ」と大層喜んだから、理解できないなりに興味深い話だと思っていたことは言えなかった。結局それからずっと、言い出せないままだ。
    「ちっともわからない。これを聞かされていったい何を思えばいいんだ」
    「まあ……いいですか坊っちゃん。このお話が言いたいのは、真の幸福とは王子とツバメのような献身的な愛にこそあると」
    「ツバメはバカだ!」
    「坊っちゃん、何を言いますか」
    「だって王子を愛してるなら目をとるべきじゃなかった」
    「それは王子が望んだから」
    「のぞんだから何だ。ツバメは王子を守るべきだったんだ」
    「あら……」
     何番めかの子守は珍しく庶民の出で、だからか彼の自主性や想像力を伸ばそうとする傾向があった。そのせいですぐ居なくなったのだけど。
    「守る、とは?」
    「ずっとそばにいること」
    「なるほど。ですがそれならツバメはちゃんとやりきりましたよ。最期まで王子の傍にいました」
    「初めはエジプトに行こうとしてた。その後ものぞみをきいてあちこち飛んでた。もっと、ずっとがいい」
    「町にも、エジプトにも行かず? それじゃあお話が続きませんね」
    「つづかなくていい。ぼくがいる」
     つまらないとは言いつつ、ツバメと自身を同一視するほど彼はこの物語に心を傾けていただろう。子守の持つ絵本、その表紙で微笑む鈍色の王子をさすり「かわいそう」と呟いた。
    「ぼくは王子をあいしてるから、彼が苦しいのもいたいのもいやだ。うつくしいのがいい。近づくやつらはみんな、きっと王子をきずつける。それもいやだ」
     今ならわかる。彼はこの頃から既に愛について独自の美学を育てていたのだ。ただそれが形を成すために必要な感情を子供は持っていなかったため歪にしか発露されなかっただけで。
    「王子がぼくにきずつけろとおねがいするのもいやだ。自分からきずつこうとするのも、みんないやだよ」
    「……坊っちゃんは、王子が望んだとしても、彼を辛い目に遇わせないんですね」
    「うん。王子がそうしたくたって、それで死んじゃうなら何もさせない。かわりにそばで守ってあげる、ピカピカの幸福な王子のままでいさせてあげる」
    「……坊っちゃん」
     子守の顔がいつの間にか、とてもとても悲しそうに沈んでいたのを覚えている。
    「それは守ると言いません。それは――」
     
     ガラスを叩く風切り音。車内に伝わるノイズ。どうしても消えない走行音に、似つかわしくない鼻歌が混ざらなくなってから数ヶ月が経過しようとしていた。
     慣れ親しんだ物との別れは何であれ寂しいが、これに関してだけは喜びが上回る。正直なところ彼が不機嫌であればあるほど自分の心中は穏やかだ。発散する対象に選ばれるのもまた喜ばしい。身勝手な感情をぶつけられる度良かったと思う。
     あの日彼に勝利したことを、ただただ良かったと思う。
     エンジンを切りリアドアを開く。靴が地に触れれば暗かった表情は引き締まり、立ち姿すら様になる「らしい」主人がきびきびと歩きだした。
    「お帰りなさいませ」
    「ああ……伯母様達は」
     使用人への態度も変わらず
    「ただいま帰りました。今日は――」
     伯母達への報告も何ら変わりはない。家以外、例えば公務でも変わらず主人はその仮面の完成度を高め続けていた。
     ――責任を負う覚悟ですか。若さゆえの危うさが見事に消え失せている。面白みが減ったと言う輩もいるでしょうが、ええ、私は実にいいと思いますよ。
     訳知り顔の老人の放言だが危うさが消えたというのはあながち間違いでもない。正確には消したのだ。彼が自分自身でそれを封じた。精神の奥深く、手の届かない場所へ。
    「……彼は」
    「部屋に。では私は」
    「待て」
     足先を部屋に向けた主人はこちらも見ず、声に感情も含むこともなく。命令は淡々と下された。
    「付いて来い。もしもの時はお前が止めろ」
     
     一歩ごとに足音の間隔が短くなっていく。大振りの腕の先、固く握られ拳は白い。今は見えない表情はさぞや切羽詰まっていることだろう。
     賭けの代償として失われた自身は二度と取り戻せない。支払いはつつがなく終了した。それが生むはずだった苦楽も何も、もう彼の物にはならない。
     最も効率的な息抜きを失った主人は、解消されないフラストレーションをより強固にした理性で無理矢理に押し留めるようになってしまった。危険極まりない生存戦略をわざわざ選び、生涯の欠落からひたすら目を逸らす。その様はあまりに痛々しく、自分は咄嗟に唯一彼の心を守れる可能性のあった術を、その凶悪さに気づきながら行使した。
     鍵を開けておいた扉を不自然なほどゆっくりと主人が押していく。内にいる人間を怯えさせない気遣いとは裏腹に、横顔は待ちきれないとばかりにひくついていた。見えてくる室内、閉めきったカーテンが外の一切を遮る暗い空間。そこへやわらかな日光と共に細く長く伸びた主人の影が、ベッドに腰掛けた少年の足先へ触れる。
    「あ……」
     気づいた少年が顔をあげ、おそらく無意識に息を飲み逃げの体勢をとった。見逃すわけもなく早足で近づいた主人がその両肩に肘を乗せる。浮きかけた腰は再びベッドに押し付けられた。
     少年の顎から頬を掌で固定した主人がぐっと背を曲げた。強制的に合わせられた目線、赤い瞳にじっとりと狙われた少年の呼吸が浅く口からに変わっていく。外に漏れる前に扉を閉め内鍵をかけた。これでもう、誰も気付かない。
     光も主人の影も去り静かな闇が室内を包んだ。頼りを失った視界が朧気ながら辿った輪郭二つ、流れるように背後へ倒れていく。ばさりと足元にいくつか布地が捨てられると同時に、主人の姿がわずかではあるが鮮明に浮かびあがった。白い背中。そしてそれに組伏せられた、少年の白い腕。
    「ま、待って……! まだ居るから……」
    「今日はこのまま行うそうだ」
     その気がないだろう主人の代わりに伝える。
    「私からは何も見えない。気にするな」
    「……いや、」
     流石に嘘だと理解できたらしい。少年は何か言おうとしたが
     「君に拒否権はない」
     突き付けられた現実を前にすんなりと発言を止めた。
    「…………」
     呼吸を抑え平静を装おうとする浅はかさがまた子供らしく哀れだ。その振る舞いが尚更主人の欲を掻き立てると気付いていない。彼からしてみればそんなもの、乱してくれと言われているのと変わらないのに。
    「……は」
    「――ッあ、や」
     白い物がベッドから落ちる。おそらく素肌になった少年に主人が覆い被さると、愛撫と呼ぶには激しいリップ音が室内に響きだした。続けて何度も。
    「っふ、う、ぅ……」
     呆気なく偽装を剥ぎ取られた少年が短い声を発するたび二人の影は深く沈んでいく。
     術というのは、言ってしまえばただの贈り物だった。
     幸い勝利者からの施しなどと拒否されることもなく、主人は自分からのそれを無事受け取った。そうする他無かったのだろう、などという推測はそこまで彼を追い詰めた張本人として他人事過ぎるかもしれない。
     主人の憩いの場は寒空の下から暗い小部屋へと変わった。抱きしめるのは向かい風ではなく贈り物。初めは似合わないほどそっと、しかしほどなく今のように。
     内に潜ませるには巨大すぎる偏愛と嗜虐、彼はそのどちらもを贈り物ひとつへ注ぎ込むことに決めたらしい。
     闇に慣れない目が捉えたベッド上の影は、正常な輪郭を失いつつあった。両者の境目が消え、灰と黒の中間ほどの色をした生き物未満の大きな塊が形を変えながらのたうち回っているように見える。
    「ふ……っ……」
    「つ、ぅ、ぅあ」
     声に呼応して蠢く塊。歪な丸からふらふらと逃げ出した細長い白は、相似した影に呆気なく引き戻され黒く染まった。手足すら封じ込めたくなるものか。未成熟の身体をあますことなく貪らんとする主人の欲望は一線こそ越えはしないものの、日毎狂気の域に近づいている。彼自身では止められない程。
     ひきつった呼吸とうなり声は人間らしからぬ狂暴さ、いや人と比べること自体間違っている。ひっきりなしに粘着質な水音をたて形振り構わぬ様はまさに獣、行いは――捕食。そう言う他ないだろう。なるほどどうしてこんなにもグロテスクに感じるわけだ。番を食らう獣など聞いたこともない。
     苦しげな吐息が次々鼓膜を通り抜けろくに換気もされていない部屋へじっとり染み込んでいく。塊から出てくる影、白を纏う引き締まった肉体。
    「っ、は……あ……っは――――」
     酸素を求めるように言語以下の発声を断続的に繰り返す身。それが突如、撃ち抜かれたかのごとく停止した。
     荒い呼吸音が一人分減り、ただならない様子に思わず目をこらす。身じろぎひとつしない身体を注視すればうなじを這いずり落ちて行く何かがあった。虫、ならば透明ではないから違う、あれは。
    「――――」
     ひどい声だった。
     喉を捻切られたかと誤認するようなそれは一瞬でこの部屋に居る人間の耳を汚染し脳を掌握した。身体の下つたう汗。標的でない自分でこれなら少年は気が狂わんばかりだろう。
     ぶるりと震えた背中が勢いよく沈んで再びベッドを影の塊が占拠した。
     一拍置き、小さく、しかし鋭い叫び声が響く。
     影を跳ねる脚。塊の内に取り込まれなくなったそれは決死の抵抗を試みたものの胴体に乗った塊が動く度みるみる勢いを失い程なく動きを止めた。手も同様に投げ出されおそらく指先にあたる部分のみが時折ぴくりと反応している。
     もしもの時。それがすぐそこに迫っていた。
     顔にまで垂れていた冷や汗を拭い、そろりと足をあげる。刺激しないよう気配を消して危険極まりないベッドへ近づいていけば、やがて闇に慣れた目が二人の姿を明確に捉えた。
     少年は最早ひゅうひゅうとか細く息をするのみに留めていた。だらりと身体を弛緩させ喉を晒す様はまるでそうされるのを待ちかねているかのようだ。
     魅力的な誘いに捕食者の影が揺れる――まずい。
    「……愛之介様」
     返答はやはり無かった。代わりのように獣が獲物に向け口を開く。未だ表情を隠された暗い顔の中尖った犬歯がぼうっと浮いている。
     最早ためらう余裕など皆無だ。限界まで背後に寄り、上下する肩を一息で固め無理矢理起き上がらせた。
    「――ッ!?」
     当然少年から引き剥がされた主人は激しく暴れだした。遮二無二腕を振り回し、自身を拘束するそれが部下の両腕だと気づかないままひたすらに爪を立てる。焼けつく痛みが手の甲を走ったが決して離すわけにはいかなかった。もしここで自分が手を離せば、それこそ我を忘れた主人は自身の獲物を食いつくしかねない。彼はまだそこまでは望んでいないはずだ。
     更に深く腕を差し込もうと一度力を緩めた瞬間。
    「が、……っ」
     それを見逃す主人では無かった。速いスピードで脇腹に入った一発に息が止まる。床に崩れ落ちた身体にベッドから下りた主人による容赦ない追撃が始まった。
     顔を守るため組んだ手の向こう、ようやく見えた表情に心臓が凍りつく。マウントポジションからこちらを見下ろす主人は真っ赤な両目をらんらんと光らせ、目の前に居る人間を獲物を横取りしようとした憎き敵として完全に認識していた。
     殺される――その前に命令を果たさなければ。
    「…………」
     猛攻を耐え、残った力を振り絞りベッドを指差す。
    「……彼を」
     傷つけましたか。
     言うなり攻撃が止んだ。
     先程までの獰猛さが嘘のように静かに立ち上がった主人は、一歩ごとにバランスを崩しながら長い時間をかけ少年の元へ戻った。横たわる影のすぐ傍らに行くと――しかしそれ以上何もせずじっと踞り自らも影になる。そんなことをしても確認にならないことは理解しているだろう、おそらく触りたくとも触れないのだ。 触れれば再び少年を壊しにかかるかもしれないという懸念がその身にセーブをかけている。
     何とか呼吸が通りだす。倒れた床近くに壁があって良かった。手を付けば立てるし、そのまま壁付近を探ることもできる。
     スイッチはすぐ見つかった。
    「明かりを点けます」
     付着した綿埃ごと手のひらで押す。ぶうんと照明が鳴り三秒後には乳白色の人工的な光が部屋を照らした。
     長らく使われていなかったとしても邸宅の一部に変わりはなく一級品で揃えられた家具達。その中心に有りながら彼らとその周囲はあまりにも乱雑だ。無茶苦茶に縒れたシーツが絨毯に広がり、散らばる衣服を意地汚く巻き取っている。暴れたときに落ちたのだろうクッションはあるべき場所にないだけで随分くたびれて見えた。
     ベッドの上、影の塊でなくなった二人もまた酷い有り様だった。膝をつく主人のシャツには縦横無尽に皺が入り髪はセットされた名残すらない。光に晒され自らの行いを目の当たりにしたせいか、横顔からは全ての表情が抜け落ちている。 
     壁を、枠を杖としてベッドにあがる。少年に近づくこちらを主人は暗い目で見たが止めも、排除しようともしなかった。
     少年は序盤に上半身の衣服を取られていたうえ他の服や髪にも大きな乱れはなかったが、その姿は間違いなく主人の数倍むごい。
     かつて主人が何度も自分に聞かせた少年の魅力のひとつ。白い素肌。それが今、無数の鬱血痕に見る影もなく色付けられている。特に執拗に狙われたらしい首筋は、どうしたらここまでと思うほど毒毒しく変色していた。もう少し止めるのが遅ければこの首は――想像に身が震える。
    「…………」
     横を向いたままの顔を確認して緊張を解いた。
     目は薄くだが開いている。瞬きもしている。
     半開きの口に手を寄せれば息が触れる。手を握り「力を入れろ」と指示するとそれなりの強さで返された。軽く放心しているようだが時間が解決するだろう。
    「問題ありません」
    「……そうか」
     主人の人語を久しぶりに聞いた気がする。小さく掠れ憂いに満ちていてもやはり素晴らしい声であることには変わりない。
    「ですが一応の手当てを……」
     服の内で突如始まった振動、自分が反応するより早く主人が声を発した。「いい。出ろ」すぐさま内ポケットからスマートフォンを抜き取り耳に当てる。馴染みのある声だった。
    「――はい。では……」
     言っては悪いが大した内容では無かった。ただ向こう方にとっては重要らしく早急にと何度も頼み込んでくるものだから仕方なく予定の最上段を少年の手当てからそちらに変更する。
     スマートフォンをしまうと通話の間居たたまれないほど見つめてきた視線の主が、色が濁り冷静さのやや増した目をすっと細めた。
    「話は聞いた。僕がする」
    「いえ、そんな」
    「お前にできることが僕にできないと?」
    「……」
     そんなことひと欠片とて思わない、むしろ彼にできないことなど無いと認識しているからこそこのような簡単かつ得にもならない作業に貴重な時間を使わせたくなかった。が、主人の希望に沿わなくてはいけないのも犬としての道理だ。
    「下らない質問をさせるな。いいからお前は――彼を」
     未だ心ここに在らずの少年にふいと目を向けて、主人が眉をわずかにひそめる。
    「介抱してやれ。優しく、もう決して苦しまないように」
     苦しめたと、そう芯から思わなければ、こんな悲痛な声音は作れないだろう。
    「では着替えを」
    「いい」
     主人がベッドの縁に腰かけ不思議な姿勢を作った。軽く開いた腿に肘をのせ受け皿のように広げた両手に顔を伏せる。例えるなら懺悔する罪人のような。
     顔面をきつく手のひらに押し付け、長く深く息を吸う。吐くと同時に上にずらされた手が額を通り前髪をかきあげれば、瞬間。彼の纏う空気が一変した。
     咄嗟に確保しておいたジャケット類を差し出す。それらをひとたび羽織れば多少の違和感など呆気なく吹き飛ばす正しさが存在していた。
    「行ってくる」
     溜め息が出そうだ。
     これが我が主人だ。神道愛之介だ。偉大なる彼を守るためならば許されないことは何もない。確信を持って言える。
     
     氷水を入れた袋を当てる。短い声があがった。
    「痛むか」
    「いや。冷たかっただけ……う」
    「……痛いんじゃないか。ほら」
     誤魔化すように患部を擦った少年がびくんと身を丸める。
    「痛いなら痛いと、苦しいなら苦しいと言え。君からそれらを取り除くのが今の私の仕事だ」
    「……痛い」
    「そうだろう。追加するか……寝て待て」
     大量のアイスパックを持ち込んだはいいが、それでも方々に散らばる患部を全て冷やすのは困難だ。いっそ水風呂にでも放り込んでしまおうかと力任せの考えが脳にちらついたが、やり方としては下の下なうえ何より主人の命に反する。却下。
     それにしても先程は肝を冷やした。
    「あの時何をした」
    「別に。大丈夫だよって言おうとして、でも口が動かなかったから」
    「から」
    「笑った」
    「……」
    「あの人、疲れてる? ひどい顔だった」
     ろくに喋れもしないなか主人を気に掛け行動したのか。良い傾向だが手段が微笑みというのはいけなかった。許しともとれる対応は、結果として差し伸べた手ごと少年を壊しかけ、主人をああしてしまった。
    「心配か」
    「うん」
    「ならせめて君だけは、あの方に何も訴えるな。ふりでもいいから大丈夫だと言え。きっと安心する」
    「わかった……」
     少年がこちらの方、一点をじっと観察している。
    「どうした」
    「あなたのほうが痛そうだ」
    「ああ……」
     深く抉られた甲は未だ血が乾かない。それなりの傷痕は残るだろう。包帯など付けていちいち指摘されるのも面倒だ。しばらくはテープや化粧で誤魔化すことにする。
    「気にするな」
    「でも……せめて何か。自分で冷やせるから」
     それこそ迷惑だ。自分が受けた命令なのだから。
     よくも爪でここまでと思うほどの一直線は、まさしく主人から少年への思いの強さの証明だ。ならばその手当ても彼が望むままに行われなくてはいけない。
    「必要ない。私自身の手当ては命令に含まれなかった」
    「……きっと心配してるよ」
    「まさか」
     彼は裏切り者の犬を気に掛けるような甘い人間ではない。
    「君は自分のことだけ考えていろ。例えば、それのうまい隠し方なんかを」
     今後を想像したらしい。少年が黙って口の端を下げた。痕は上半身の胴体ほぼすべてに及ぶ。神経をすり減らしながらの生活になるだろう。消える前に新たな痕を付けられる可能性も充分考えられるがわざわざ指摘してやる必要はない。
     扉が叩かれる。鍵を開くと内側へするりと長身が入り込んだ。
    「終わった。容易いことだ」
    「お疲れさまでした。どうぞ」
    「…………」
     主人の余裕はベッドに横たわる少年を前に容易く瓦解した。譲った椅子に腰掛ける背中は丸く、目を合わせようとしては逸らす素振りは幼い。
     所在無くベッドの端に置かれた手に少年の指が絡んだ。主人は一瞬息を詰め、気づいているだろう少年はそのまま指先で数度彼の手を撫でる。促されるように手がおずおずと浮き、少年の顔付近でさ迷いだした。
     肌に触れるのに抵抗を感じているらしい彼が狙いを付けたのはほつれた前髪。顔を隠していた分を退かすように手が鋤き、主人の目が小さく見開かれた。見てしまったのだろう、はれた目蓋、頬に伸びた涙のあとを。
     手がようやく少年の顔に触れた。それらを覆い隠すために。
    「痛くない?」
     ひどく簡素な問いかけに、手の下、唇が微笑みを作る。
    「痛くないよ」
    「……そう」
     主人もまた微笑んだ。二人共何て不自然な笑顔だろうか、歪で必死で、どう見たって嘘だとわかる。ここに居る三人の内誰か一人でも指摘すれば簡単に終わる光景――けれど誰もそうはしなかった。
     二人は笑っている。これが真実だ。この部屋の中だけの話だとしても、これこそが。
     
     君を贈り物にすると言った時少年は実に素直に頷いた。それが覚悟ではなく単に何も理解できていなかったのだと自分と少年が気づいたのは数度目の迎えの時だった。
    「もうできない」
     こちらの手をはね除けた彼に「金はいいのか」と聞くと「いい」と首を振る。高校生が稼げる額、それを何倍以上に上回る額を提示していた、これ程早く拒否されるはずはなかった。
    「足りないなら……」
    「違う。そういうことじゃない」
    「ただやめたいと?彼を置き去りにして?」
     あの方には君しか居ないと言えば罪悪感はあるのか目を伏せ、しかし
    「あれって本当に良いことなの?うまく言えないけど何か間違ってる気がする。あの人だって、多分……」
     子供の瞳からは固い意思を感じた。こうなってはやり方を変えざるを得ない、予め用意していたスマートフォンを突きつける。液晶を前に少年の表情が著しく曇った。
    「俺……?」
    「ああ。君がSに出入りするところが映っている」
     主人用とは別の監視カメラが撮った映像なので解像度は低いが、顔を判別するくらいは充分可能だ。
    「君の友人の分も既に入手済みだ。これらの映像を君の通う高校へ送る。どうなると思う」
    「……え、えと」
    「深夜外出と非合法施設への出入り。高校側としても流石に見逃すわけにはいかないはずだ。良くて数日の停学、最悪退学もありうるだろう」
    「――」
     ほぼ出任せだ。処分は何らかあってもせいぜい注意止まりだろうし、そもそもこちらにはSの映像を流出させる気など毛頭ない。主人の為にと起こした行動が他ならぬ主人の首を絞めてしまっては元も子もないのだから。
     考えれば解ることだが、疎く鈍い少年ならばこうして畳み掛ければあっさり飲み込まれると踏んでいた。
     案の定顔を青くして沙汰を待つように身を強ばらせる彼に止めをさす。
    「君が拒否しなければ何も起きない」
    「……」
     仕方ない、一度選んでしまった時点で彼にはもうこの道しか無かったのだ。好奇心と純粋な優しさをまんまと利用された、堪えるように唇を強く噛む少年の腕を叩き車に誘う。
    「喜ぶといい。その献身があの方を救うのだから」
     少年には皮肉に聞こえただろうが、心からの言葉だった。
     安らぎを求める我が主人。金銀財宝を持ってして埋まらぬその心に素直で善良なただの人間を贈ろう。彼の願いをひたすら受け入れる存在。彼だけのツバメ。
    「愛してくれ。――を」
     
     誰も居ないことを確認して小部屋に急ぐ。数着の着替えを見つからないように運ぶのは流石に骨が折れた、どれか一つでも気に入るといいが。
     窓から差す西日が眩しい。そろそろ少年を送らなくては。二人はまだ夢の中だろうか。
     たどたどしいやり取りを終えた主人は、そうしたいとも言わずやや強引にベッドに寝そべり、少年を抱き寄せるとしばしの眠りについた。終始少年は困惑していたが安らかな寝息に誘われたのかすぐ目を閉じ、小部屋に二人分の規則正しい呼吸が聞こえだすまでそう長くはかからなかった。
     かたやしわくちゃのシャツ。かたや内出血だらけの身体。寄せられた寝顔は揃って消耗しきっているというのにひどく心地よさそうに、それこそ作り物でない微笑を浮かべていた。
     ちらつく記憶がある。遊び疲れた幼子二人。感傷に浸る前に額越しの脳を小突く。
     全ては過去だ。この手が過去にした。
     鍵を開く。扉を数ミリ程度開けて覗けば、先程出る際に点けておいた常夜灯がぼんやり部屋を照らしていた。
    「……、…………」
     主人達は変わらず寄り添っていたが、もう目覚めているらしい。ぽつぽつと二人の会話らしきものが届いてくる。
     耳を澄ます。
    「……それでね」
     会話だと思っていたそれは殆ど主人の一方的な語りかけだった。
     寝起きでやや浮かれた声がとりとめもなく語るのは、一夜さえ越せぬようなありふれた話ばかり。食してみたら案外悪くなかった食わず嫌い。数年前紛失してから探し続けていた品との偶然の再会。庭に季節外れの薔薇が一輪咲き、それが大変美しいので保存するか散り様を楽しむかで悩んでいること。他愛ないそれらに淡々と相づちを打たれるだけで主人の声はいたく楽しそうに弾んだ。
    「ああ……」
     もぞりと動いた身体がもう一人を深く、自らの内へとしまいこむかのように抱きしめる。
    「ずっとこのままでいたい」
     呼吸は噛み締めるように静かだ。
    「満足だ。もう何も必要ない。これこそが僕の幸福だ」
    「……」
    「君が居ればいい。君さえ居てくれれば」
     気付かれないよう注意を払いつつ、我慢できずに小さく拳を握った。
     平凡な愛の言葉。つまらないラブシーン。そうとも取れる光景は自分がずっと切望していたものに限りなく近い。穏やかに流れる時間。何の危険もなく幸福を語る主人。なんて退屈で、この上なく優しい。きっとこれが。
    「君以外、僕は何も要らない」
     大願成就の予感に打ち震える心はしかし次の瞬間、予想もしなかった衝撃に貫かれることとなる。 
    「……違うよ」
     頷くばかりだった少年の拒絶。あまりに唐突なそれに調子を崩されたのは自分だけではなかったようで、主人の声が途絶えた。
    「そんなことない」
     しんと静まった部屋に入れ替わって少年の否定が響く。
    「あなたが俺だけでいいはずない。美味しいのも、きれいなのも、それだけで……」
     少年が主人の懐へ身を埋める。彼の根幹に触れながら話そうとする健気な姿に何故か感じたのは――苛立ちだった。
     奇妙な気分だ。今から頭上に水が降り注ぎますよと宣告されたかのような。最高のエンドロールだと思ったそれが演出で何事もなく映画が続いたときのやわらかな不満。あそこで終われば一番素敵だったのに。
    「満足なんて、思ってもないのに言わなくていい」
     依然として主人は何も話さない。ただ少年の言葉に耳を傾けている。
     この小さな空間は今誰が支配して――誰が何を、許そうとしているのだろう。
    「だってあなたは」
     言うな。
    「――なんだから」
     名前を呼ばれた「彼」が少年の背をかい抱く。震える身体はどうとでも受け取れた、泣いているとも。笑っているとも。
    「そうだ。僕は……」
    「……」
    「……ランガくん」
    「何?」
    「君が好きだ」
    「うん」
    「君も、花も、美しい物、記憶……すべて愛してる。けれど、僕は……僕は…………」
    「うん……うん……大丈夫……わかるよ……」
     途切れ途切れに繋がれる会話を通して、二人は言葉以上の物を共有していく。
     先程よりかずっと感動的な光景を扉を塞いで視界から消した。
     気分が悪い。背をじりじりと夕日が焼く。身体に籠る暗い熱もそのせいだと思い込めたら楽だろうか。
     必死で圧し殺した息が行き場を求めて暴れ狂うのも無理はない、自分だって何でと馬鹿な餓鬼のふりをして壁でも殴りたい気分だ。
     手の甲、ようやく乾いた傷を爪で掻いた。わかりやすい痛みと共に血がにじむ。気にせず続けるうちに脳が冷静になっていく。冷静に、怒っていく。
    「…………」
     足音を立てず部屋の前から去る。もう少しだけあのままにしておこう。今あれに割って入るのは得策ではないし、手の惨状を彼らに見せるわけにはいかない。窓の向こう、黒い影。逆光の鳥。数は。
     
    「余計な真似をするな」
     何も変わらない小部屋。定位置に座る少年は言葉の意味が解らなかったのか首を捻った。
    「あの方と話をしていただろう」
    「知ってたのか」
    「方法はいくらでもある。とにかく今後は控えろ。彼の言葉は全て肯定するように」
    「どうして?」
    「疑問を持つ必要はない。いいな」
    「……いやだ」
     返しは大方予想通りだった。
    「そうか」
     少年の扱いやすい素直さは好ましくすら感じていた。それが彼と自分の選択次第で今日失われるだろうことが残念でならない。
    「なら敢えて明確に言うが、君は間違っている。あんな慰めではあの方の為にはならない」
    「ため……」
    「可哀想だと思わないのか。無いものを無いと自覚させるなど」
    「……無いってなんだよ」
    「君も見ただろう。全てなくなった。私がこの手で灰にした」
     夜空を突く炎。中心で踊る敗北の証。あれを少年も確かに目にしただろうに、
    「なくなってなんかない」
     何故そんなにも強く否定ができるのか。
    「馬鹿を言うな。あの方は負け、その代償としてスケートを捨てたんだ。君のそれは捨てた過去を押し付けているに過ぎない」
    「違う。過去じゃない――」
     強く握られた拳が胸を押さえる。
    「話を聞いてたならあなたも解ったはずだ。あの人の思いは何も変わってない。愛抱夢は――」
    「あの方をその名で呼ぶな」
    「……っ愛抱夢はスケートが好きなままだ!」
    「いい加減に……!」
     怒鳴った途端喉の奥が痺れた。普段ろくに使ってないせいだ。急に荒くなった息が少しも戻ろうとしない。
    「もう愛之介様は滑らない。この先、一生」
    「それが何」
     少年の声は凛と乱れない。
    「二度と滑れなくても、スケートが好きって気持ちは捨てなくていい」
     意思に輝く目は照明よりよっぽど明るく、自分のような人間が一番厭う無責任な希望に満ちている。
    「好きなら尚更、気持ちだけは。思い続けるのだけは止められない」
    「……ああ」
     子供の綺麗事というやつは、これだから。
    「その通りだ。全て君が正しい」
    「……」
     全肯定されたというのに少年が身構える。これから起こることを思えばその判断もまた正しかった。
    「君に指示を出す」
     意思は鳥だ。羽ばたくそれを捕まえることは困難に等しい。しかし翼を支える者が居たなら、それが鳥を後押ししているのなら話は恐ろしいほど簡単になる。
     彼と少年。二羽の鳥が寄り添う姿は美しかった。だが手を取られるまま、二人どこかへ飛び去ろうとするのなら。
    「――――。以上だ」
     潰すまでだ。 
     
     部屋に急ぐ主人に着いていく。拒否は示されなかった。危惧しているのだろう。それ程前回は危うく、そして今も彼の内では同等の熱が薄氷一枚存在しているに違いない。
     好都合だ。悪感情は道徳を無視させる。
     内心で焦っていようが主人の背中はたくましく自信に溢れている。今日も何も問題なく、彼は完璧だ。主人は変わらない。自分も変わらず安心している。これが恒久に続けばいい。
     鍵を解く。ラッピングを解くような丁寧さで扉を開いた主人がわずかに目をひそめた。自然光には敵わないがそれなりに明るい部屋。ベッドの中央座る贈り物のことも照明は残酷に照らす。
     主人を見つけた少年が喉の奥を鳴らし、ぎこちなく頭を下げた。
    「こんにちは」
     明るい部屋も、少年の挨拶も今まで一度もなかったことだ。主人の戸惑いが顔を見ずとも伺える。
    「おい、これは……」
     戸惑う背中が翻る、その前にこちらから背を向けた。扉の鍵を閉めるふりであからさまに直接の対峙を避ける背中を突き刺す視線は、しかしこの程度では何とも思わない。
    「……何を考えている」
    「あなたの幸福だけを」
     明らかに納得のいかない視線を流していれば、ことのほかすぐ圧は消え、代わりにわずかな振動が足元を伝わった。ベッドへ向かったのだろう。すぐ傍にある獲物を無視して話すことすらできないのか。痛ましい。
     自分が空けた穴は絶えず彼を追い詰めている。もしあの夜何かが――いや。考えたところで詮無いことだ。過去は変わらないのだから。せめて今日を別れとしよう。
     ベッドフレームが軋む。堪えるようなうなり声。こうなればもうこちらの姿など目に入らない。
     見れば二人の距離はやけに開いていた。広くもないベッドの端からじりじりと、ゆっくり時間をかけて主人は少年との距離を縮めていく。
    「はは、…………?」
     獲物に触れかけた指先がその場で静止した。身を離そうとする少年のことも追わず、ただ観察している。
     気付いたのだろう。少年の纏ったただならぬ気配に。まばたきすらせず待つ身体が恐れているのが自分ではないことに。
    「いつまでそうしている気だ」
    「あ……」
     感付かれる前に先手を打つ。少年の体が大きく跳ねた。
    「さあ」
    「お前――忠、何を」
    「……ごめん」
     限りなく同時にあがった声が混ざりあい互いを侵食するなか、部屋の隅までたどり着いたのは自分でも主人でもなく、少年の小さくつたない謝罪だった。
    「ごめん、ごめん……」
     堰を切ったように次々謝罪を繰り返し、辛くてたまらないとばかりに少年は頭を振る。半狂乱に陥る身体に主人が腕を伸ばした。
    「大丈夫、謝ることなんてない、何を言われたか知らないがあいつには後で――今は、ランガくん」
     顎を掴み額を押し付け、
    「ほら、僕の目を見て――」
     目を合わせようとしたのだろう。いつも無理矢理させていたそのままに。だが、それこそ少年が一番恐れていた展開だった。
     こちらを見る青い目。やれ――声に出さず口を動かせば、青が陰り、伏せた目蓋に隠され――。
    「……っ!?」
     次の瞬間、少年が突き飛ばされた。突き飛ばしたのは当然主人だがその表情は先程に輪をかけ戸惑っている。手が無意識だろう、口元をおさえる、おそらくたった今触れられたそこを。
     ベッドに打ち付けられた身体がよろりと起き上がる。
    「……なさ、い」
     謝罪は続いたままだ。少年の自責が、後悔が、そこまでさせている。
     少年はいつの間にか笑っていた。少年を壊しながら守ろうとしていた、確かに共に飛ぶはずだった、彼に向けてのせめての詫びの印だろうそれはやはり下手だった。そんな悲しい笑顔では彼をさいなむだけだ。
    「ごめん」
    「ランガ、くん」
    「ごめんなさい」
     呼べ。
    「愛之介」
    「――――」
     こうして聞けば少年は悪くない声をしていた。主人の名が映える。
     中々言わないから少々焦った。思い返せば少年は指示を聞いた瞬間からひどい顔をしていた気もする。案外勘がきくらしい、強く抵抗の意を見せてきたが映像はどうするのか、周囲の人間を泣かせたいのかと詰めれば最後には泣いて折れた。大切な存在というものは便利だ。少年にとっての友人と母親、主人にとっての――。
     ことがうまく運んだ満足感で少しぼんやりしていたようだ。いつの間にか主人がこちらを見ていた。
    「…………」
     振り返った顔からは何一つ読み取れない。無色透明に近い表情。しかし今その奥では幾つもの奔流が起きていることだろう。
     震える唇が必死に言葉を吐き出そうとしてはえずき、止まる。苦悶の形相は何が起きたか完璧に理解されている証拠だ。流石の聡明さは、しかし今の彼にとっては不幸そのものだろう。
     
    「おまえ」
     
    「なんてことを」
     
    「申し訳ありません」
     気付くまでに随分長い時間をかけてしまったことを心から謝罪する。
     過去。先代の主人と自分が、彼を絶望へ追いやったあの日。先代は彼のボードを燃やすのみに留めた。対象を失えば自然と気持ちも変わるだろうと考えられたのだろう。結果は語るまでもなく。止まらなかった意思がどれほどの悲劇を生んだことか。
    「何もかも捨てていただいたつもりでした。けれど――」
     そのつもりで自分はどうやら先代と同じ過ちを繰り返しかけていたらしい。
     するなら全てだ。彼を脅かすもの全て、敵も味方も記憶も、一片の未練も残さぬように抹消しなければいけなかったのだ。
    「あなたにはまだ、それが残っていた」
    「…………!」
     自分は甘かった――おそらく無意識に彼を哀れみ、手を抜いていた。目を逸らしていた。何事も起きなければこのまま黙認していたかもしれない。自分の目を覚ましてくれた彼には感謝を送ろう。そう思って少年を見れば主人が息を詰め、顔を腕で覆うように抱きしめた。麗しいことだ。彼だって負けず劣らず、今にも崩壊してしまいそうなほどひどい表情だというのに。
     どれほどだろうか。名前を失う絶望というのは。
    「愛之介様」
    「やめろ。僕は」
    「いいえ。あなたは神道愛之介様です。彼もそう言っている」
    「それはお前が」
    「はい、私がそうさせました。あなたの唯一の希望はこれで潰えることとなる。心中お察しします」
    「ふざけるな、僕は、僕は……」
     視線から逃れるように身体が丸く、丸く内へ閉じていく。さぞや辛いのだろう。一刻も早く癒されるべきだ。
    「愛之介様」
     かつての癒しはスケートだった。今の癒しは少年。けれどまるで足りていなかったから暴走は続き、主人は確かに疲弊していた。もっと都合のいい方法があると知りながら、少年を案じ諦めていた。優しくありたかったのか、誇り高い血には耐えられなかったか。もしくは――未だ欲していたのだろうか。真実の愛、運命の愛。そんな夢物語を。
     自分は主人のようには思えない。少年は彼を、彼が愛していた名前を呼ぶことで光へ導こうとしていた。ならば光そのものを失った跡を埋めるのも、また少年であるべきだ。
     既に伝えた。責任をとれと。
    「準備をするよう指示してあります。どうかその苦しみを、彼に」
    「…………は」
     顔があがる。彼を象徴する覇気に満ちた赤。色褪せたそれは見る影もなく、
    「きみ、」
    「ごめん」
     しかし陰る青とはよく似合った。再び近づいた唇が音もなく重なり、離れる。
    「俺と、してください」
     言い終わる前にこぼれた涙をぼんやりと主人がすくいとる。茫然自失であろうが泣かせまいとするほどの感情。膨大でありながら繊細に保たれたバランスは――背中を押されれば、呆気なく。
    「っ、……んん……! ふ、……!」
     少年が不規則に塞がれる呼吸にあえぐなか、主人は恐ろしいほど静かに少年の、そして自身の服を脱がせていく。
    「…………」
     声も出さず、大切にしていたはずの身体に手を這わせ、しかし彼は確かに笑っていた。
     内鍵を密かに外す。見張りはもう必要ない。あんな行為に走らずとも今から彼は少年の全てを手に入れ、本当の充足を知るのだから。
     照明を消し部屋をあとにする。ごめんごめんと泣きじゃくる声を扉が消した。少年はこれから何度も主人の名を呼ぶ。そう指示した。録音してあると嘘も吐いたので間違いなく懸命に呼ぶはずだ。主人の中から、それ以外の名が消えるまで。
     暗くなるまでの一瞬、主人の背が見えた。傷ひとつ、汚れひとつ存在しなかった。何とも喜ばしい。ずっと彼があのままでいられるようこれからも手を尽くそう。望むものには代わりを。願いは曲げて叶えよう。それをどう彼が感じようが真の痛み、真の傷がその身体を蝕むことはない。何より少年がいる。片割れに乞われれば拒むことは、いやそれ以上に主人は主人として少年を決して手放さない。そして少年も、あれほど縋られてしまえばいずれ主人から離れる気さえなくなるはずだ。
     それでいい。愛し合い、いずれ二人朽ちるまで。苦しまないように。傷つかないように。あらゆることから自分が守ろう。選択から、痛みから、別離から。二人に相応しくない全てから。
     ――それは守ると言いません。それは
     懐かしい声が暗い廊下に響く。少しだけ考えて、置き去りにした。
     ――奪うと言うのです。
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