熱海に行きたいばじとらふゆ ペットショップて働くことを念願としていたのは場地さんだ。オレでも、ましてや一虎くんでもない。
「本当に良かったんすか、現場仕事で」
一虎くんの出所に合わせてオレの経営するペットショップを円満退職した場地さんが地元の一人親方の元で働き始め早三年となる。飲み込みが早く根性もありさらには人当たりも良いと親方家族にたいそう気に入られ、今や家族団欒の夕飯の席に呼ばれる始末である(なお、これについては場地さんと過ごす貴重な時間を取られるからあまり良く思っていない。場地さんには内緒)
「まあ、ちふゆんとこでも二年くらい働かせてもらったし、ペットショップには休みの日にいつも顔出してるだろ」
「そりゃそうっすけど……」
「それにオレ、体動かすの好きだし」
そもそもあのペットショップは、いつか場地さんに譲るためにとオレがこさえたものだった。二〇〇五年十月三十一日。あの日、一虎くんに後ろからぶすりと刺された場地さんは、それからなんと十年間眠り続けた。意識不明の重体、というやつが十年続いたのである。場地さんは薄暗い病室へ、一虎くんは鉄格子の中へ、そしてオレは高校に進学。いつか目覚めた場地さんのためにと、二十五歳になる歳にペットショップを開いた。そしてそれに呼応するように、十年間昏睡状態にあった場地さんは目を覚ましたのだった。
毎日病室を訪れていたオレは、あの地獄のようなハロウィンからおよそ十年経ったある日、薄暗い病室の中、真白いシーツに横たわる場地さんの目がうすく開かれて「ちふゆ」とあの懐かしいばかりの声が部屋に響くのを確かに聞いた。オレの私物がずいぶんと増えた場地さんの病室のまんなかで、オレは筋肉がほとんど衰えて自分の力で起き上がることもできない場地さんの身体を、力いっぱい抱きしめた。
さて、場地さんの目覚めとほぼ同時に始まったペットショップの経営は、不況の煽りも受けて順風満帆とは言えない出だしを余儀なくされた。自分の食い扶持を稼ぐのがやっとというのが本音で、退院後に雇わせていただいた場地さんのお給料を払うのすら厳しい月もあった。場地さんもそれはなんとなく気づいていて、だけどオレはそんなこと微塵も気づかれたくなくて、オレがそう思っていることも場地さんは理解していて、だからなんにも言わなかった。しかし次第に経営にも慣れてきて、なんとかオレと場地さんの給料も満足に支給できるくらいの稼ぎができたところで、場地さんの目覚めからおよそ二年後、一虎くんは出所した。
場地さんが一虎くんを恨むことはなかった。対してオレはというと、ぶっちゃけめちゃくちゃむかつくし腹が立つし苛立たしかったし一発ぶん殴ってやりたいところではあったけれど、場地さんが赦しを与えたならばオレが怒る道理などどこにもあるはずはなかった。親にも見捨てられ行き場を失った一虎くんは場地さんが引き取り、当時はオレと二人で暮らしていたので、おのずと三人暮らしを余儀なくされることとなった。
さて、ここでもっとも途方に暮れたのは、オレではなく一虎くんだ。出所後、限界まで生きたのちに頃合いを見て海に沈むことを目論んでいたらしい一虎くんの野望は、場地さんの登場によっていとも簡単に打ち砕かれてしまった。なかば強制的に連行された場地さんの家にはなんと、場地さんの信仰を試すべく用意された踏み絵であったところのオレが我が物顔でソファに腰掛けていたので、一虎くんは軽いパニックに陥った。場地はともかく、なんでオマエまでいるんだよ。至極当然と言えるその問いに、あの時のオレは何て返したのだったか。ああ、思い出した。場地さんとお付き合いしているからですよ、健全ではなく、不健全なお付き合いです。その時の一虎くんの顔ったら! 思い出すだけで笑えてしまう。
「もう場地さんも一虎くんも雇えるだけの余裕はありますよ。だから、無理して土方続ける必要はないです」
一虎くんの更生の道程に、働いて賃金を得るという経験は必須だった。しかし、十余年鉄格子の中で生きてきた彼をいきなり赤の他人のもとで働かせる勇気はオレにも場地さんにもなかったし、一虎くん自身もたいそう日和っていた。なので、我がペットショップでお手伝いさんとして働いてもらうことにしたのである。そしてそれを機に、場地さんは今の親方の元へ転職した。
「一虎くんを雇ったときは、確かにおふたりの給料をじゅうぶんに払える余裕はありませんでした。でも今なら大丈夫です。オレ、場地さんが、昔からの夢だったペットショップで働いてる姿をもう一度見たいんです」
場地さんは当時のペットショップの経営状況を理解していたし、これから三人で暮らしていく上でさらに金がかかることは明白だった。三人で暮らすことで手狭になってしまったアパートも引っ越さなくてはいけなかったし、三人ともなれば食費だって増えるし、髪の手入れに謎のこだわりのある一虎くんのサロン専売シャンプーは無駄に高い。
いつだって肝心なことは言葉少なな場地さんは、ある日勝手に退職して勝手に転職先を決めてしまった。そのときは大変な喧嘩になったけど、喧嘩の発端となった一虎くんがあまりの居心地の悪さに自殺未遂に及びかけたのをきっかけに、なんとか和解に至った。いや、和解というのは語弊があるな。オレが無理矢理に納得をしたのだ。今でもしこりは残っている。あのペットショップはいつか目覚めた場地さんのためにオレが用意したものだ。だから、そこに場地さんがいないのはどう考えたっておかしい。
「千冬、オマエなんか勘違いしてるぞ。べつにオレは今の職場になんの不満もないし、ペットショップはオマエと一虎がちゃんと切り盛りしてくれてるし、それでじゅうぶん」
「でも」
「でも、じゃねェよ。ハイこの話は終わり。一虎が聞いたらまた夜の道路に寝転がりだすぞ」
今日の店の締め作業は一虎くんの当番。オレは一足早く帰宅して夕飯の用意。現場仕事から帰ってきた場地さんに振る舞った豚丼はオレの母さん直伝の味。時刻は二十時。そろそろ一虎くんも帰ってくる。
一虎くんはたいそう不安定な人間なので、生き心地が悪くなると、すぐにデストルドーが全開になってLCLの海に溶けてしまいがち。だけど本当に死にたいわけではなくて、死の淵に立った自分の迎えをいつまでも生きて待っているのだからタチが悪い。手すりのない屋上に登って何時間も立ち尽くしてみたり、交通量の少ない道路に寝そべってみたり、たまに自傷行為に走ったりもするけど、これについては過去に場地さんがガチでキレたことがありそれからはなくなった。
場地さんがペットショップではなく土方として働いていること。これは一虎くんにとって死にたくなる要素の大きな部分を占める。オレがペットショップで働かなければ場地はそのまま働き続けられたんだ、だけどオレはここ以外で働けると思えないし、ちふゆといっしょじゃないと嫌だし、アレ、オレって、生きてる意味なくね? まあこんな感じである。
「オレは、場地さんになんにも諦めてほしくない」
場地さんがペットショップに戻ってくることは、一虎くんの重たい心臓をかるくすることにも繋がる。そしてオレも我がペットショップのエプロンを纏いかわいい動物たちに囲まれる場地さんを毎日眺められてハッピーエンドだ。世帯収入はたしかに減ってしまうけれど(現在の場地さんの給料はなかなかにいい。なんせ親方にたいそう気に入られているので)、目立った贅沢さえしなければ暮らしていけないなんてことはない。
「ちふゆぅ」
突然降ってきた場地さんの唇からは豚丼の味がした。ペヤングにしろ豚丼にしろ、オレたちのキスはいつも色気がない。人生の教科書であった少女漫画にはキスはレモンの味とあったけれど、そんな甘酸っぱい味を感じたことは一度だってなかった。だけどオレはこれがすき。少しこってりした、場地さんとオレのキス。
「こ、こら、ばじさん、誤魔化さないでください。チューしたらオレが黙るとでも思ってるんすか」
「静かにはなるだろ」
「そんなこと……」
「ほら、つづき」
八重歯の覗く口がぱかりと開かれて、そこからざらついた舌が伸びてくる。その仕草を見ただけでぞわりと背中が震えた。あの長く厚い舌で蹂躙されたい。口のなか、ぜんぶを暴いてほしい。恐る恐る口を開いて舌を出し、場地さんの舌先にちょんとくっつけた。それで満足か? いじわるなことを言ってばかりくる場地さんにほんのちょっとむかついたので、その厚い舌を甘噛みしてやった。やわい痛みに引っ込めようとした舌を追い求めてこちらの舌を絡めると、唾液と唾液が弾かれるいやらしい音が部屋に響いた。それからはもう、互いの求めるままに。絡み合った舌は縦横無尽に口のなかを暴れ回って、こぼれ落ちる唾液もそのままにオレたちは指先を絡ませながらお互いの唇を貪った。
「オレさ、千冬たちとずっと一緒に暮らしたいんだ」
離された唇からこぼれ落ちた言葉。酸欠でぼんやりとした頭を何とか働かせて場地さんを見やれば、そこにはやわらかい笑みがあった。
「いつまでも賃貸で暮らすのももったいないし、家もほしいよな。戸建ては無理だから中古マンションとか」
「……え、マンション?」
「三人で旅行とかも行きたい。英語は無理だから国内で。北海道、沖縄」
「旅行」
「オレの新しい夢だよ」
場地さんの手がオレの頭の後ろに伸びてきて、そのままぎゅうと胸に押しつけられた。仕事から帰ってきてすぐに夕飯を食べた場地さんの胸板からは汗のにおいがする。外で働いてきたにおいだ。それもこれもぜんぶ、新しい夢を叶えるため。
「……場地さん、オレ、ごめんなさい、自分のことばっかりで、まさか場地さんがそんなことまで考えてたなんて、知らなくて」
「オイ、泣くなって。オマエの泣き顔見るの、苦手なんだよ」
さっきまで絡めあっていた舌が目尻に伸びてきて涙をすくう。だけど涙はどんどん溢れ出てきて止まらない。情けなくて、恥ずかしくて、うれしくて。あなたがオレや一虎くんとずっと一緒にいてくれようとしてくれること。愛されていること。あなたが見つけた新しい夢の真ん中に、自分たちが立っていられること。
「すき、場地さん、すきです」
「知ってるよ」
「場地さんも、一虎くんもすき。オレも旅行行きたいです。三人で。温泉とか」
「いいなあ、温泉。今度の休みに行くか? なるべく近場で、熱海とか」
三人で熱海の街を歩く。年季の入った温泉街。一虎くんは大浴場に入れないから、風呂付きの部屋を探さなきゃ。そうしたらたぶん、オレのせいで無駄な手間かけさせてごめん、ってまたデストルドー全開になって、熱海の夜の街に飛び出してしまった彼を二人で追いかける。生きていてほしい。みんな、すべからく、すこやかに、しあわせに。
「あ、やべ」
「どうしました?」
「ちんこ勃っちゃった」
「ハハ。もう、ムードねぇんだから」
「今日どうする? 誰が下やる?」
「ウーン、一虎くんが帰ってきてから決めましょうか」
「そうだな。勝手に決めると拗ねるし」
「ですね」
「ばじぃ、ちふゆぅ、ただいまー」
うちの猫のご帰還。ペットショップなんて開かなくてもまるでここは動物園。虎の皮を被った我儘猫と、オレは犬みたいってよく言われるし、じゃあ場地さんは? 場地さんは猫みたいに何考えてるのかわかんない時もあれば、狼みたいに勇猛果敢で、じつは寂しがりなとこはうさぎっぽいかも。どんなあなたも好きです。あなたが繋いでくれた一虎くんのことも、ちょっと悔しいけど、結構好き。知ってるでしょ、オレ世話焼きなんです。手のかかる子ほど可愛いってね。