高級ディナー(たいみつ) テーブルマナーとは、それぞれの食文化が培ってきた決まりに従い、食事の際に用いられる道具を適切に使い、食事を共にする人に敬意をはらうマナーのことである。出典、ウィキペディア。
「ぶっちゃけ、高級レストランとか苦手なんだよね」
やわらかなエスプーマが添えられたアスパラガスの冷製ポタージュを前にした三ツ谷がそんなふざけたことを抜かしたのは、ささやかな二人の記念日のことであった。十一月十四日。数年前、この男と恋人という関係に至った日である。
「記念日のたびに毎回こんな素敵なレストランを用意してもらっといて言える台詞じゃないのはわかってるんだけど……」
「おい、スープをすくうときは手前から奥にって何度言やわかるんだ」
「それ、それだよ、そういうとこ」
三ツ谷の手で奥から手前へとすくわれたスープはスプーンいっばいにひたひたで、口に運ばれる途中で一滴皿の淵に垂れてしまった。汚れた口をナプキンで拭う。あ、このやろう、口を拭う時は折り畳んだ内側の面を使えと言ってるだろうが。汚れた面を表に出すのはマナー違反。
「スープなんて、絶対に奥から手前にすくったほうが食べやすい」
「食べやすさうんぬんじゃねぇんだよテーブルマナーは」
「端的に言うと面倒くさいんだよね」
三ツ谷に出会ったばかりの頃、こいつのテーブルマナーに関する意識は最悪だった(今も微妙なところではあるが)。カトラリーは外側から使うという基本的なことや、中座する時のナプキンの扱い、食べ方の作法に至るまで、三ツ谷は本当に何も知らなかった。大寿くんがやたら詳しすぎるんだよ、と言われたこともあり、確かに自分は食事について人より造詣が深い自覚はあるが、それにしても三ツ谷は知識がなさすぎた。だからこうやってマナーを重視するようなレストランで食事をする時、オレは良い機会とばかりにテーブルマナーのいろはを叩き込んでいた。だが、その気遣いを面倒くさいだと?
「テメェ、いい度胸してるじゃねぇか」
「食べながら怒られるのも気分悪いし、マナーのことばっか考えて料理の味が頭に入ってこねぇし、本末転倒じゃね?」
それはまだオマエがマナーに慣れていないからだ。いずれ、息を吸うようにできるようになる。オマエだって、いつの日か誰もがその名を知るような有名デザイナーになった時、テーブルマナーのひとつも知らないようじゃ恥をかくだろう。
そもそも、記念日に恋人がレストランを用意するというこの状況にわざわざ文句を言う奴があるか? こんな扱いをされたことは人生でただの一度だってない。ただひとり、オマエだけ。
「オレは、きみとわいわいお喋りしながら、マナーなんか気にせずにごはんを食べたりするのが一等好きなのになぁ」
だがそんなことを言われたら、オレはもう言い返すすべを持たない。記念日にレストランに連れてきたのも、テーブルマナーを叩き込もうと躍起になっていたのも百パーセントの善意だった。だがその善意を、こんな可愛い台詞で否定されちゃあもうお手上げだ。来月のクリスマスの夜に予約していたフランス料理のレストランに断りの電話を入れなければ。だが、どうすればいい。記念日に美味い飯屋に連れて行く以外に、一体なにをすればいいっていうんだ?
「それでわたしたちに相談してきたってわけね」
三ツ谷はわりと図々しい。恋人との食事の席で「ぶっちゃけ高級レストランとか苦手なんだよね」と言ってのけるくらいには図々しい。たぶんそれは遺伝なのだ。なぜなら、三ツ谷の妹もあいつと同じくらいに図々しいからである。
オマエらの兄のことで相談したいことがある、と書いたメールの返事には、日時と、いちごパフェで有名なカフェのURLが付されていた。当日、指定された場所に向かうと、先に席についていたルナとマナはオレに断りを入れることもなく注文したいちごパフェをそれはもう幸せそうな顔で頬張っていた。さすが三ツ谷隆の妹と言ったところか。
「お兄ちゃんは確かに作法とかあんまし気にしないタイプ」
「ご飯食べるのもめちゃくちゃ早いもんね」
「まあ三ツ谷家はスピード勝負だから。お兄ちゃんなんて家事に勉強に忙しいし」
「食べ物は飲み物みたいなとこある」
「わかるー、ほとんど噛んでないよね。胃に悪い」
いちごパフェは減るばかりだが解決策は一向に提示されない。しかしわかったのは、三ツ谷は料理が好きであるわりに、自分が食べることには存外無頓着ということであった。
「単刀直入に聞く。クリスマスに向けてレストラン以外の飯のアイディアを寄越せ」
「うわ、大寿必死」
「ウケる、めっちゃお兄ちゃんのこと好きじゃん」
「当たり前だろうが」
いちごパフェを前にしたルナマナが「きゃあ」と黄色い声を上げる。くそ、面倒くせぇ。兄によく似た姉妹め。
「じゃあそんなお兄ちゃんのことが大好きな大寿にとっておきの情報を教えてあげよう。お兄ちゃんの大好物」
「なんだ」
「じゃがいもとベーコンの炒め物」
じゃがいもとベーコン。まあ確かに、組み合わせとしちゃ悪くねえ。でもそれは、はたして、クリスマスの夜に食べるべきものなのか?
「箱売りで、芽が出ちゃって食べれる部分がだいぶ限られてきたじゃがいものなんとか食べれる部分を薄くスライスして、ベーコンと炒めて、塩胡椒をふる」
「……それだけか?」
「それだけ」
「それは、高級レストランのアスパラのポタージュよりもあいつのテンションが上がるもんなのか」
「えっお兄ちゃんそんな美味しそうなもの食べさせてもらってるの? うらやましー今度私たちも連れて行ってね」
相変わらず面の皮が厚いルナマナのことは放っておいて、じゃがいもとベーコンに想いを馳せる。なんとも原価の安いメニューだ。三ツ谷のことだから単価の高い食材を使っているとは思えないし、作るのも簡単。しかしそんなお手軽料理がクリスマスの席にふさわしいものとは到底思えなかった。思えなかったが、三ツ谷の好物であることは間違いない。じゃがいもとベーコンの炒め物を出すような店などどうやって探せばいいのか。
「何言ってんの、大寿が作るんだよ」
「……オレが?」
「手作りがいちばん美味しいに決まってんじゃん」
自分で料理を作る。八戒たちがまだ小さい頃に何度か挑戦したことはあるが、自分には才能がないとして早々に見切りをつけたことを思い出す。金を出せば自分が作るよりもはるかに美味い料理が食えるのだから、そうするに越したことはないという判断だ。
「絶対喜ぶよ、お兄ちゃん」
「うん。ていうか何作っても喜ぶと思う」
「大寿がキッチンに立ってる姿見るだけで感動しそう」
「食べたら泣きそう」
おい三ツ谷、オマエ妹らに好き勝手言われてるぞ。今すぐにでもそう教えてやりたいが、この案件は内密に進めなければいけない。じゃがいもとベーコンの炒め物。誰だって簡単にできるよとルナマナは言うが、それははたして自分でもそう言えるだろうか。これは、本番前に何度か練習を重ねる必要がある。まずは包丁の使い方から。
「えっ、大寿くんが料理してる?!」
最悪だ。合鍵を渡していたのが裏目に出た。いや、だからって、アポ無しで急に家にやってきて、チャイムを鳴らすことなく無断で他人の家に入ってくるやつがいるか? おかげでクリスマスに向けて練習していたじゃがいもとベーコンの炒め物は、その時を待たずして三ツ谷の前に晒されてしまった。
「これ、オレの好物じゃん」
「……ルナマナに聞いた」
「へ? なんで」
「オマエがレストランで飯食うのは嫌だっつーからだろ」
三ツ谷が一瞬何かを考えるように瞬きして、それから目を見開いて口元を手で押さえた。え、もしかしてこれ、オレのために? やばい、感動すんだけど。ルナマナの予想通りの反応で少し笑える。
「……まだ練習中なんだ。クリスマスまでに仕上げる予定で」
「クリスマス?」
「レストラン、キャンセルしたんだよ。オマエが嫌だっつーから。その代わりの料理がこれだ」
サプライズがその時を待たずして露見した時にどういう対応をすべきか。変に取り繕わずに素直にすべてを暴露すること、これに限る。三ツ谷は少し焦げ臭いじゃがいもとベーコンの炒め物をまじまじと眺めてから、おもむろに食器棚から箸を一膳取り出し、なんの断りもなくそれを一口頬張った。あ、くそ。あまり出来が良くないっつーのに。
「……うまい」
箸を口に咥えながら喋るなと何度言えばわかる? だけど、じゃがいもを頬張りながらぼろぼろ泣き出した三ツ谷にそんな言葉をかける余裕はなかった。なんだこいつ、なんで泣いてやがる。
「ウウ、うまいし、大寿くんがオレのために料理作ってくれてるって事実とか、キッチンに立ってた後ろ姿に、こないだのオレのわがままに振り回されてくれてたこととか、なんかぜんぶ、愛おしい、すき」
言葉の矛先がてんでばらばらで何を言いたいのかいまいちわからない。まあ、オマエがオレのことを好きだということだけはよくわかった。
「記念日とか、そんなのじゃなくていいんだよ。高級料理もたまにはいいけど、こういう、庶民的な料理をさ、ふたりで囲んで、他愛無い話をしながらなんでもない日にご飯を食べたい」
こいつ、なかなかに恥ずかしいことを言っている自覚があるんだろうか。聞きようによってはプロポーズだぞ。だがこんな台詞をプロポーズとしてカウントされちゃあオレの方が困るので黙っておく。永遠の愛を誓う言葉こそ、オレの用意したオレの店で最高の料理を食いながら聞いてもらわなきゃならない。
「焦げててまずいだろ」
「そりゃオレが作ったほうが美味いけど」
「テメェ、謙遜って言葉知らねぇのか」
「大寿くんに謙遜する必要なんてないでしょ」
焦げ臭いじゃがいもとベーコンが涙に濡れた三ツ谷の口元にどんどん運ばれて行く。うまい、うまい、と言いながら何故か泣きじゃくる三ツ谷を見て、オレは頓挫してしまったクリスマスのサプライズについて想いを馳せるのだった。この料理はもう使えない。こいつの別の好物を聞かなくては。そうなるとまたあいつらにパフェを奢ることになる。大袈裟な兄とそんな兄によく似た二人の妹を想って、オレは大きなため息をついた。