I.O.U. many things 特段会おうと思っていた訳でもなかった。仮に見かけたとしても声をかけるつもりはなかった。ただ、改札から漏れ出る雑踏を離れ、駅舎の屋根の際でぽつんと雨を眺めている後ろ姿が目に入った時、少し憐むような、同情するような気持ちがリンドウの中に芽を吹いた。
「……傘、持ってこなかったのか」
「あ……リンドウ」
振り向いたフレットは、ちっす、と力なく片腕を上げた。
「朝は雨予報無かったじゃん、リンドウもそれ折り畳みでしょ?」
「そうだけど」
彼の言う通り、意識して持ってきた訳ではない。朝のニュースでは降水確率は30%で、些事に細かく振り回されることを好まないリンドウは手持ちの傘を持たずに出かけてきた。ところが電車が五反田に差し掛かる頃には窓に水滴が張り付いており、今や勢いこそ弱いものの、しとしとと柔らかく冷たく肌に張り付くような雨模様になっていた。リュックのサブポケットに折りたたみの傘が突っ込んであったのがたまたま功を奏しただけである。
「……フレット、相手まだ来ないのか?」
フレットは再び駅の外の灰色の景色を少し眺め、ふぅっと息を吐き出した。
「来ないねぇ」
「待ち合わせは?」
「10時」
渋谷までの電車の中、ふと見た広告サイネージの時刻が10時5分を差していたことを思い出す。
「……遅刻じゃん。連絡ないの?」
「ないね〜、寝坊してんのかも?俺もよく遅刻するし、しゃーない」
リンドウも腕を組んで濡れた街を眺める。週末の時間をよく共にする二人だが、今日は会うという約束をしていなかった。珍しく、「俺今日別件で人と会う約束あんだよね」とフレットの方から先回りで断りを入れてきたのだ。他人が誰と会うとか誰と仲がいいと言った交友情報に興味を持たないリンドウは特に深堀りすることなくその場を流したが、いざ雨の前でしゅんと待たされている友人の姿を見てしまうと、なんとなく見えない相手への憤りのようなものが胸の奥に燻るのを感じた。
「そこ、寒くね?風邪引くだろ」
「んでももうすぐ来るかもしんないし……どうせ傘持ってないし」
「一瞬だから二人でも何とかなるだろ。冷えるし、どっか中居られるとこで待とう」
「いやでも、一応俺人待ち中だしさ。このままでいいよ」
申し訳ながるようにへらりと笑みを浮かべた。普段は押しが強くも見える性格の友人は、こう言った時ばかりは妙に遠慮がちに縮こまってしまう。見慣れぬ家に連れてこられた犬のようだった。
「すぐそこで待って、連絡来たら戻れば同じだろ。向こうだって待たせてるんだし」
「……なんかゴメン、リンドウも用事あるんでしょ?」
「急ぎじゃないし。別にいいよ」
そう言って半ば無理やり友人を傘の中に収め、交差点の斜向かい — ハチ公カフェへと早足で向かった。
駅に近い窓際の席に向かい合ったまま、何を話すでもなく二人分のカップから立ち上る湯気を隔てて向かい合う。細やかなシャワーのような雨が窓に当たり、サワサワという憂鬱な音とともに滴を伝わせていた。愁わしげな様子でそれを見ていたフレットが不意にスマートフォンを持ち上げ、覗き込み、再び机の上に置く。そしてマグカップを手に持ち、小さくフッと冷ましてから啜った。
「雨、止まないなー」
放心したような呟きが小さく沈黙を破る。同じくスマホを覗き込んでいたリンドウが顔を上げた。
「……来たら、俺の傘使っていい」
フレットが白いカップをソーサーに置き、カチリという音を響かせた。少し間を置いて、遠慮がちな言い訳が返される。
「いやー悪いって。リンドウが濡れるし」
「そのうち止むだろうし……上がるまでここで待つからいい」
「なに、リンドウ。優しいじゃん」
「せっかく言ってんだから茶化すなって」
その言葉を聞いたフレットは小さく唸って悩んだのち「ありがとう、そうするかも」と申し出を受け入れた。それから少し何か言いたそうに言葉を探したが、結局目線を下げて再び口をつぐんでしまう。
「……何だよ」
「あーいや……今日の待ち合わせもリンドウなら良かったなぁ、って。リンドウ約束破ったりはしないし」
「おまえは結構遅れるよな」
「ゴメンなー」
無音の何秒かが続いたのち、フレットは諦めたような溜息をついた。
「俺、リンちゃんに助けてもらってばっかだね。死神ゲームの頃から」
全部は分かんないけど、リンドウは色々とやり直したんだよな。何となく覚えてることもあって、リンドウがいなかったら俺きっと消えてたんだと思う。あの頃からリンドウには助けてもらってばっかりで、あんまり返せてなくてごめん。 — フレットはぽつりぽつりと言葉を探し、紡ぐ。そんな相手にじっと目線を注ぎながら、片肘をついた気怠げな姿勢と表情でリンドウは黙って聞いていた。やがて徒然語りが終わり、思いの丈を吐き切っただろうというタイミングで、フッと息を吐いて目を細める。
「……それは、お互い様だって」
「いや、俺多分何も返せてないよ」
「そんなことない」
薄茶色の瞳に柔らかな光を揺らめかせ、リンドウもゆっくりと声をかける。
「俺もおまえがいなかったら、多分ちゃんとRGに戻ろうってしっかり思ってなかったと思う」
何も言わずに戸惑っているフレットを諭すように、語り続けた。 — 確かに色々助けたかもしれないけど、やり直す前の世界でもフレットはちゃんと俺を信じてくれたし。頑張れって送り出してくれたから、絶対俺たちで戻ろう、頑張ろうって思った。だから有耶無耶で消えないで最後までちゃんと元の渋谷に戻ろうって思えたの、結構おまえのお陰だよ。
聞き届けたフレットはぱちぱちと2・3度瞬きをして、それから照れ臭そうに子供のような笑みを浮かべた。
「こそばゆいね、そういうの」
「俺も二度と言わないと思う」
「えー、なんか嬉しかったんだけどー……あ」
机の上に置かれたままのスマートフォンが、ブ、と短く振動した。来たっぽい、と席を立ちかけるフレットに、「これ」と折り畳み傘を差し出す。
「あとで学校で返して」
しばし迷ったが、結局彼は素直にそれを受け取った。
「悪い、本当に借りてくわ」
「ん。寒いから、濡れるなよ」
「おけ、んじゃね」
背を向けた彼がふと静止する。少しの逡巡ののちくるりと向き直り、訝しむリンドウに懐いた犬のような笑みを向けた。
「ありがとう、リンドウ」
「……どういたしまして」
答えを聞くと改めてひらりと手を振り、レジカウンターに向かった。彼が会計を済ませてドアを潜り、雨の中に出ていくまで、リンドウはその後ろ姿を見送る。雨はまだ止むことなく道路と街を煙らせていたが、遠くまで曇った空の所々で灰色が薄まっている。少し残っていたカフェオレを飲み干し、そのまましばらく傘の色が行き交うスクランブル交差点を眺めていた。