Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    ナンナル

    @nannru122

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 💜 💛 🌸
    POIPOI 146

    ナンナル

    ☆quiet follow

    番 4 🎈☆
    次で終われば良いなぁ、の気持ち( ˇωˇ )

    雰囲気でふわーっと読み流してください‪(՞ . ̫ .՞)"‬

    番4(司side)

    「……ん、…」

    ふわふわとした感覚が、段々とはっきりしてくる。甘い匂いに不思議と胸の奥が満たされるのを感じながら、ゆっくりと目を開ければ、見慣れた天井が映った。のそのそと起き上がって時計を見れば、時刻はお昼近い。スマホも目覚まし時計もアラームが設定されていない事に首を傾げて、額に手で触れた。

    「…昨日……あの後、どうしたんだ…?」

    咲希と冬弥に会いに行ったのは覚えている。だが、途中から記憶が曖昧だ。類の話は極力避けながら最近の話をして、それで、急に頭がぐらぐらして…。そこで漸く、その後自分の周期がズレて発情期を発症したのだと思い出した。

    (………やってしまった…)

    はぁ、と深く溜息を吐いて、頭を抱える。
    運悪く薬も置いて行ってしまって熱で動けなくなったオレの為に、冬弥が類を呼んでくれたのだろう。発情期が治まっているのも、類の持っている抑制剤のお陰か。
    ふわりと甘い匂いがして、ふと視線を下げれば布団の代わりに類の上着がかけられている。しっかり握り締めていたのか、所々皺が寄ってしまって、くちゃくちゃだ。それを顔に寄せて、すん、ともう一度匂いをかげば、やはり甘い類の匂いがした。

    「……類の、匂いだ…」

    胸の奥が、きゅぅ、と音を鳴らす。満たされるような少しの苦しさにゆっくり息を吐いて、そのまま前屈みに蹲る。洗濯をまだしていない上着に、オレの苦手な匂いは混ざっていない。それに安堵して上着に顔を擦り付けていれば、部屋の戸が静かにノックされた。
    かちゃ、と扉が開いて、思わず跳ね上がる。

    「……ぁ、…おはよう、司くん」
    「ぉ、おおぉおおは、よう、類…!」
    「もう大丈夫そうだね。君の劇団には連絡をいれておいたから、今日一日はまだゆっくり休むんだよ」
    「…ぁ、あぁ……」

    なんとなく気恥しくなって、類から顔を逸らす。淡々と話す類の声は、怒っている様子もない。言いつけを守らず出掛けたのをいつ責められるのかと身構えていれば、オレより少し大きな手が額に触れた。
    少しひんやりとした指先の触れる感触に、ぶわりと顔が一気に熱くなる。

    「後で咲希くん達に連絡してあげておくれ。相当心配していたからね」
    「………わ、かった…」
    「それと、その上着はあげるよ。好きにしてくれて良いから」
    「っ……」

    いつもより、類の声音が優しく聞こえる。慌ててずっと握ったままの上着から手を離すと、類の指先がするりと離れてしまった。咄嗟に手を伸ばしかけて、思い止まる。ここで引き止めたとして、何を言えばいいか全く分からなかった。
    ただ、普段無関心かと思う程発情期の間はオレから離れる類が、自分の匂いの付いた上着を譲ってくれたという事実に、どうしようもなく嬉しいと思ってしまう。
    もごもごと口を動かして何と返すか迷うオレに苦笑した類が、眉尻を下げて口を開いた。

    「今度から、僕の匂いで少しでも君が楽になるなら、僕の部屋の物は好きに使ってくれて構わないよ」
    「っ、…そ、れは……」
    「使い終わったら、全て捨ててくれていいから」
    「………………は…?」

    さらりとそう言い切った類に、ぴしりと音がした。石のように固まるオレの目の前で、類がふわりと笑う。
    言葉の意味がよくわからんのだが、今、『使い終わったら全て捨ててくれ』と言ったか? 『今後』と言うのは、発情期の事で間違いないのだろう。類の匂いが必要なら、と言ってくれたのだから、類の部屋から服を持ち出していいという事なのも分かる。だが、『使い終わったら捨ててくれ』というのが全く分からん。捨てる必要が、あるのか…?
    戸惑うオレに、類がへらりと困ったように笑う。そのどこか諦めたような表情に、胸の奥がぞわりとした。

    「君の匂いが付いたものを使うのは、……嫌でしょ?」
    「………ぁ…」
    「気にせず使ってくれていいから、無理だけはしないでね」

    立ち上がる類に、何も言えなくなってしまった。
    『くれる』というのは、『要らないからあげる』という事なのか。発情期中は、どうしたって番の匂いを求めてしまう。特にΩは、αの匂いを集める習性を持っている。Ωが自分の番の為にする、最上級の愛情表現だ。自分の番の匂いの付いたものを集めて、自分だけの巣を作る。“巣作り”と呼ばれる愛情表現。オレはまだしたことが無いが…。
    オレも、類の匂いが欲しくて、発情期の度に類の部屋に行ってしまっている。だから、類からの提案は、願ってもない事だ。いつも我慢してこっそり何か一つ持ってきては気付かれないよう新しいものと替えていたのだから。それを、気にせず好きに使っていいと言われれば、その言葉通り部屋の中をひっくり返す勢いで持ち出すと思う。

    (……類が喜んでくれるなら、きっと、最高の巣を作る自信もあるのだがな…)

    だが、類はそれを喜ばない。オレの匂いが付いたものを、類がその後も使えるはずがない。オレは類の匂いが好きだが、類はそうでないのだから。オレが楽になるならと、オレを気遣って提案してくれただけで、類が喜んでくれるわけではないんだ。
    そう思うと、酷く虚しい気持ちになる。オレが思い描いていた番同士とは違う。類と共にいれば共にいるほど、オレが“なりたい”番関係から離れていく。

    (…もう、無理なのだろうか……)

    類と本当の意味で“番”になるのは、難しいのだろうか。このままお互いにやりづらさや我慢をし続けて、幸せと言えるのか。もうずっと、類と顔を合わせて笑っていないのに、それでいいのか?
    部屋の扉が開く音に、びく、と肩が跳ねる。扉の前で立ち止まった類が、眉尻を下げて笑った。

    「それじゃぁ、僕は行くね」
    「………あぁ…、迷惑、を、…かけた…」
    「……気にしないでおくれ」

    『行ってらっしゃい』は、言えなかった。
    ぱたんと閉じた扉を見つめて、ゆっくりとベッドの上で蹲る。室内に、類の甘い匂いだけが微かに残っていて、じわりと視界が滲んだ。
    本当なら、類に傍に居てほしい。『大丈夫かい?』と、もっと心配してもらいたい。構ってほしい。そう思うのはオレだけなのだと知っているから、そんな我儘も言えない。発情期後で匂いが強く残ってしまっているのに、オレの様子を見に来てくれた。それだけでも十分なはずなのに、類が全然足りない。

    「………………るい、と……は、なれたく、ないっ…」

    小さく零れた最後の我儘につられて、涙がぼろぼろと頬を伝い落ちた。

    ―――
    (類side)

    「………はぁ…」

    溜息を一つ吐いて、家までの道をとぼとぼと歩く。
    陽はまだ沈みきってはいない。体調が悪いわけでもない。いつもの帰宅時間より二時間ほど早いのは、集中出来ていないと劇団を追い出されたからだ。今日は休むように、と念を押されて。

    「……今帰ったら、司くんに気を遣わせてしまうよね…」

    帰りたくない言い訳に彼を使うのも何度目か。スマホの画面を見ては消してを繰り返して、いつもの三倍時間をかけて歩いている。『今日は随分早いのだな』と困った顔をされたら、そんな不安が頭を過って、また足が止まりそうになる。
    やっぱり今日も寄り道をしようか、と足が自然と行き付けのバーの方へ向く。店の前まで来れば、看板は『OPEN』の文字になっていて、安堵する。そのまま中へ入ると、今日はまだ店主だけのようだ。

    「いらっしゃい。随分早いんですね」
    「…少し、時間を潰したくてね」
    「それなら、今夜は軽いものにしましょうか」

    落ち着いた雰囲気のマスターが、ふわりと笑う。それに一つ頷いて、いつものカウンターの席へ座った。マスターの雰囲気は気に入っている。余計な事は言わない人なので、会話に介入してくる事も殆どない。ただ、人が少ない時に少しだけ話すのだけれど、話上手で良い人だ。
    スマホをもう一度取り出すも、通知が来る様子もない。そもそもメッセージの連絡なんて籍を入れてから殆どしていないのだから当たり前だ。
    はぁ、とまた零れた溜息に、マスターがくすりとわらった。

    「たまには贈り物もいい物ですよ」
    「……贈り物…?」
    「ゆっくりと話すきっかけになりますからね」
    「………」

    この人がそんなアドバイスをくれるのは、珍しい。人の事情に踏み込む人ではないと思っていたけれど、それだけ僕は変な顔をしていたのだろうか。
    何となく気恥しくなってしまって、へらりと笑って誤魔化した。

    (…司くんに贈り物なんて、そういえばあまりしていないな…)

    正直に言うと、そんな余裕はなかった。会話だって上手く出来ていた気がしない。最近は特に、二人でいる時間が殆ど無くなっていたから余計にだ。そう思うと、贈り物をするという提案は、良いかもしれない。何を贈れば彼が喜ぶのか、僕には分からないけれど。

    「良ければ、その贈り物について、相談しても良いかい?」
    「勿論です」
    「ありがとう。僕の好きな人はね、――」

    他に誰もいない店内で、僕は司くんの好きな所を一つひとつマスターに打ち明けた。

    ―――
    (司side)

    大きな封筒を抱えて、類の劇団に向かう。
    カレンダーに書かれた類の予定も確認した。類の練習が終わるのは、三十分後だ。十分間に合うだろう。

    (…また、あの人と一緒にいるのだろうか……)

    以前に類を迎えに来た時は、同じ劇団の人だろう女性と腕を組んでいた。もしかしたら、今日もそうかもしれない。
    それでも、あと一度だけ、類を信じてみたい。

    (『寄り道して、帰らないか』と、言うだけでいい…、そう言って、類が頷いてくれるなら、…もう少しだけ頑張れる)

    類と、少しだけでいいから話がしたい。家で待つと、きっと類はまた帰りが遅くなるのだろう。それなら、寄り道をされる前に捕まえればいい。今夜は、一緒に居てほしいと、そう言うだけでいい。仮にも夫婦なのだから、一夜くらいは時間を作ってくれるだろう。家では緊張してしまうから、どこか人の少ない公園とかで、少し話がしたい。外なら、オレの匂いも気にならんと思うしな。
    よし、と一つ気合いを入れて、類の劇団の裏口へ回る。前と同じ場所に立って、ゆっくりと息を吸った。大丈夫、と自分に言い聞かせて、スマホの時間を確認する。

    「……後、三十分…」

    腕に力を入れると、大きな封筒が くしゃりと音を鳴らした。
    今日は家でゆっくり休むよう、類には言われている。昨日の事があっだばかりで類の言葉を無視するのは、類も良い気はしないだろう。だが、このままお互い曖昧に過ごすのは やはり駄目だ。一度、話をしなければならん。
    オレが類を好きな事も、類ともっと一緒にいたい事も。その上で、類の気持ちを確かめたい。

    「…あと、十分か…」

    迫る決戦の時刻に、肩へ無意識に力が入る。
    心臓が煩いほどドキドキしていて、息苦しい。嫌な事ばかりが浮かんで、その度に頭を横へ振った。
    大丈夫。そう心の中で何度も何度も繰り返す。オレの勘違いで、類はただ相手がΩだと思わず一緒にいるだけかもしれん。昔から女性に人気があったから、言い寄られて困っていたかもしれん。それを、オレが“浮気だ”と一人疑って、勝手に落ち込んでいるだけかもしれん。それを確かめる為にも、ここに来たんだ。
    類は、不誠実な事はしないと、そう信じている。

    「………そろそろ、出てくるか…?」

    スマホの時間を確認して、顔を上げる。
    時間通りにきっちり出てくるとは思わんが、片付けや相談をしていたら遅くなるだろうか。ぎゅ、とスマホを握り締めて、端の方へ寄る。心臓の音に気付かないフリをしながら、じっと待てば、裏口の扉が開いた。
    ハッ、と顔を上げれば、扉から知らない人が出てくる。ぱち、と目が合い、慌てて顔を逸らした。

    「お疲れ様です」

    ぺこ、と頭を下げて挨拶すれば、訝しげに顔を顰めたその人は足早に去っていった。
    知らない者が裏口で待っていれば、そういう反応になるだろう。なんとなく、気まづい。そわそわとしたままその場で待てば、次々に人が出ていく。オレを見て、不思議そうにする人達は、会釈をして通り過ぎて行った。挨拶を繰り返しながらその人達を見送っていれば、女性が「あ…」と呟くのが聞こえた。
    顔を上げれば、以前類と腕を組んで歩いていた女性がそこにいる。

    「……こんばんは…」
    「…お疲れ様です」

    ぺこ、と頭を下げると、彼女も頭を下げた。どうやら、オレの事を覚えていたらしい。なんとなく気まづくて、声が小さくなってしまう。だが、今日は類と一緒ではなかったことに、少なからず安堵してしまった。
    ゆっくりと詰めていた息を吐き出すと、彼女が困った様に眉を下げる。

    「………あの、神代さんを待っているなら、もう帰りましたよ…?」
    「…ぇ……」
    「今日は、途中で早退されてましたから…」
    「……そ、うですか…」

    どこか申し訳なさそうな、困惑した様な声音に、自分の声が震えているのが分かった。視線が、足元へ向く。
    早退したというのは、知らない。体調が悪かったのだろうか。だが、それなら、家に帰っているはずだ。連絡だって無い。家に帰っていれば、オレが居ないことも分かるだろうに…。

    (……………いや、…オレが家にいるかどうかなど、気にしていないのだろうな…)

    本当に体調が悪いという可能性もある。
    昨日は類に心配をかけてしまったのだ。練習で疲れているのに迎えに来させてしまったし、もしかしたら、そのせいで体調を崩したのかもしれない。家に着いた途端力尽きて玄関で倒れている可能性だってある。連絡が無いのも、普段からあまり連絡を取り合っていないからで、心配しているかもしれん。
    それなのに、類を信じたいのに、疑ってしまっている自分がいる。

    「…教えて、いただき…ありがとう、ございます」
    「……いぇ…」
    「………………し、つれい、します…」

    ぺこ、ともう一度頭を下げて、その場に背を向ける。
    来た道をとぼとぼと歩きながら、ゆっくり息を吐いた。家に帰れば、類がいる。体調が悪くて早退した類が。本当に体調が悪いなら、原因がオレかもしれん。それなら、類が本調子にもどるまで出来ることはしてやりたい。
    だがもし、家にいなかったら? 早退した類が、オレより後に帰って来たら? それはもう、“そういう事”なのではないだろうか。

    (…もしそうなら、オレも、…引き際、というものなのだろうな…)

    抱えた大きな封筒を強く掴んで、もう一度大きく息を吐く。と、楽しそうな女性の声が聞こえてきた。明るい女性の声が、ひたすら何か話しかけている。「嬉しい」とか、「今度は一緒に」と言葉の所々が聞こえてくる。相手側の声は聞こえないが、仲が良いようだ。それがなんだか羨ましくて、ちら、とそちらへ視線を向けた。
    楽しそうに笑う女性が、腕を組んで体をぴったりとくっつけて歩いている。背の高いその相手の方へ目を向ければ、見覚えのある服と綺麗な藤色の髪が視界に映った。ぱち、と月のような瞳と視線が合って、その瞳が丸くなる。

    「……つ、かさ、くん…?」

    小さく呼ばれた名前に、思わず ひゅ、と喉が渇いた音を鳴らした。
    反射的に体が後ろを向き、そのまま全速力で駆け出す。類にもう一度名前を呼ばれたが、立ち止まることなく逃げるように家に帰った。

    ―――
    (類side)

    「…鍵っ……、鍵、…えぇと、…っ……」

    ポケットの中に手を突っ込んで、慌てて鍵を探すも見つからない。こっちでもない、そっちでもない、とわたわたしながら鍵を探して、漸く見付けた。何度も鍵穴に挿し損ねて手間取りながら家の鍵をなんとか開ける。珍しく乱雑に脱がれた彼の靴を見て、慌てて僕も靴を脱いだ。リビングに駆け込むも、真っ暗なその部屋には誰もいない。急いで司くんの部屋の扉の前へ行けば、中からがさごそという物音が聞こえてきた。
    極力優しくを心がけながらも、力の入ってしまう手で扉をノックする。

    「っ、…司くん、いるでしょ…?」

    中から物音はする。けれど、返事は返って来なかった。ドアノブを回すも、扉の向こう側でなにかに塞がれているのか、全然開く気配がない。仕方なくもう一度扉をノックして話しかけるけれど、やっぱり返事が返ってこない。

    「ねぇ、司くん、開けてくれないかい? 話を、させてほしいんだ…」

    ド、ド、ド、ド、と嫌な心臓の鼓動ばかりが煩くて、足が震えてしまう。どうしよう、と焦る気持ちが募って、自然と視線が足元へ向く。
    マスターと話をしている内に、時間があっという間に過ぎてしまった。そろそろ帰ろうと席を立ったタイミングであの女性が来てしまい、断っても店の外までついてこられてしまった。すぐそこまでだから、としつこくくっつくその女性に、断るのも面倒くさくなって好きにさせていたタイミングで、司くんに会ってしまった。
    あの時の、傷付いた様な彼の表情が、脳裏にずっと残っている。

    「司くん、少しでいいから、出てきてくれないかい…?」

    返事が返ってこないだけで、酷く不安になる。この場にいるのが怖くて、胸が握り潰されるのではないかと思う程苦しい。血の気が引いて、頭も指先も冷たくなっているのが分かる。足元から崩れ落ちそうになるのを必死に耐えて、もう一度息を吸う。全然吸えた気がしないけれど、僕の口から情けなくも震えた声は出てくれた。

    「……お願いだから、少しだけ、話をさせてほしい…」

    縋るように扉に額を預けて そう頼めば、扉の向こう側でガタガタとなにか大きな物が動く音がした。
    ハッ、として少し後ろへ下がると、扉がゆっくりと開く。大きな荷物を持つ司くんが部屋の中から出てきてくれて、ほんの少し安堵した。「…司くん」と名前を呼ぶと、宝石の様な瞳が伏せられる。
    そのまま玄関に向かおうとする司くんの腕を、慌てて掴んで引き止めた。

    「司くん、先程のは誤解なんだっ…、たまたま帰りに会ってしまって……」
    「……初めて、ではないだろ…、何度か、会っていたようだし…」
    「…そ、れは……」

    思わず、言葉に詰まってしまった。
    確かに、初めて会ったわけではない。あのお店に行く日は、殆ど彼女がいたから、かなりの頻度で会っていた。けれど、会いたくて会いに行っていたわけでも、まして、彼が誤解している様な関係でもない。名前だって知らない。名前を教えないようにしていたし、何度か教わった彼女の名前は覚える気もないから忘れた。
    それでも、彼からしたら“浮気”と何ら変わらないのだろうと思うと、弁明がしづらい。

    「…綺麗な人だったな。……類が、毎晩会っていたのも、納得したぞ…」
    「………会いに、行っていたわけでは…」
    「……オレがお前以外の匂いを付けるのは怒るくせに、お前は当たり前のように他人の匂いを付けて帰ってきていたな」
    「っ……」

    嘲笑にも似た、どこか諦めた様な力のない笑顔に、背筋がゾッとした。司くんのこんな表情は、見た事がない。こんな表情も、するんだ…。ひんやりとしたものが背を伝い落ちて、指先の力が抜けていく。
    彼が言っているのは、この前の事なのだろう。東雲くんの匂いを纏った彼を、責めた時のこと。

    「…あ、れは、……司くんが…」
    「………そうか…、そうかもしれんな…」
    「っ、…ねぇ、一度二人で話そう…? 君には、誤解されたままにはしたくないよ」
    「もういい。誤解も何も、類が誰と居ようとオレには関係ないからな」

    掴んだ手を振り解こうとする素振りもない。全く力の入っていない手は、何故だか細く感じた。視線が全く合わなくて、心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえてくる。不安だけが募って、一歩踏み込んだ。ぴく、と彼の手が小さく反応したのが伝わってきて、ゆっくりと息を吐く。
    出来るだけ優しい声音を意識して、もう一度「司くん」と彼の名を呼ぶ。

    「そんな風に言わないでおくれよ。君と僕は、…」
    「“仲間”だろう? 仲間だからこそ、オレは類の幸せを願っている」

    淡々と、抑揚の無い声音でそう言われて、息を飲んだ。
    感情が全く篭っていない。それなのに、頑なに視線を合わせない彼は俯きがちに笑った。
    口角だけを上げて、諦めたように笑ったんだ。そんな今にも消えてしまいそうな司くんの雰囲気が恐ろしくなって、慌てて彼の腕を掴む手に力を入れる。

    「違うよっ…! 君は僕の番で、僕らは……」
    「夫婦らしい事を何一つした事がないのに、本当に“夫婦”と言えるのか?」

    僕の言葉を遮った彼の声は、いつもより少し低かった。
    パッ、とその顔が上がって、視線がぶつかる。先程の諦めた様な笑顔が一変し とても真剣な顔をする司くんに、言葉を飲み込んだ。じっ、と僕を見る彼に、なんと返せばいいか分からない。
    確かに、高校を卒業してすぐに籍を入れた。司くんと番関係になったのだから、当然の流れだろう。書類上、僕らは、“夫婦”だ。けれど、司くんの気持ちが伴わないなら、本当の意味で“夫婦”になんてなれるはずがない。だからこそ、司くんを好きだという気持ちは心の奥に押し込んで、“友人”として隣にいようとした。けれど、どうしたって彼を意識してしまって、“友人”でなんていられなかった。
    “友人”だなんて、思えなかった。

    (…“本当の夫婦”なら、迷ったりせず触れたのに……)

    司くんに嫌われるのだけは嫌だったから、我慢した。司くんの気持ちが伴わないなら、僕に触れる権利はないと、そう言い聞かせてきた。司くんには、他に好きな人がいると思っていたから。
    夫婦らしい事をしなかったのは、司くんが嫌な思いをすると思ったからだ。していいのなら、僕だって司くんに触れたかった。僕らの関係を、“夫婦”と言って良いのなら。司くんが、それを許してくれるなら…。
    はた、とそこで彼の言葉が気になった。掴む手に力を入れて、ほんの少し司くんの方へ体が傾く。

    「……して、良かったの…?」
    「………は…?」
    「…君は、……僕と夫婦らしい事が、したかったのかい…?」
    「っ…」

    じっ、と僕を見ていた宝石のような瞳が、揺れた。目を丸くさせてほんの少し驚いたかと思えば、期待するように司くんの瞳が微かに輝いて見えた。じわ、と赤くなる頬に、心臓が大きく跳ねる。きゅ、と引き結ばれた唇へ視線が向いて、喉が大きく音を鳴らす。司くんの肩に力が入ったのが、一目で分かった。もし、本当にそうなら、僕だって触れたい。
    一歩分彼の方へ踏み込んで、その細い肩を優しく掴む。びくっ、と身体を跳ねさせた司くんが、戸惑うように僕を見た。

    「…君が望むなら、……して、みるかい…?」
    「………は……?」

    司くんが望んでくれるなら、僕は嬉しい。後退る彼を壁に誘導して、退路を塞ぐ。先程より赤く染まる頬を指先で撫でれば、少し熱かった。パッ、と顔を俯かせる司くんに、ほんの少し屈んで顔を寄せる。頬へ口付ければ、目の前の身体が大きく跳ね上がった。

    (……可愛い…)

    俯いたままの司くんの顔を上げさせて、塞ぐように唇を彼のに押し付けた。

    ―――
    (司side)

    「…んぅ……」

    柔らかい感触に、胸の奥が今までにない程ドキドキした。
    肩から荷物がずり落ちて、どしゃ、と床から大きな音がした。近い距離からする甘い匂いで、頭の奥が甘く痺れているかのようだ。ふわふわとしてしまうのは、きっと、“自分の番に求められた”と錯覚する身体のせいだ。

    (…違う)

    震える両手で類の胸元を押すも、力が上手く入らなくて全然離れられん。
    “したくなかった”とは言えば嘘になる。ずっと、“番として”類に求めて欲しかった。触れたいとも思った。もっと近付きたいとも思った。
    だが、“こういう事”ではない。

    (……一方的なのは、…もう、嫌だっ…!)

    刃物で刺されるように胸の奥が痛んで、じわぁ、と視界が滲む。
    ぐ、と握った手に力を入れて思いっきり振り上げた。ばちん、と乾いた音がその場に響いて、類がほんの少し後ろへ後退る。掌がじんじんと痛むが、それどころではなかった。まだ熱の感触が残る唇を袖でごしごしと拭って、手で自分の頬を押さえる類を睨むように見る。

    「こんな形で、キスがしたかったわけではないッ…!!」

    普段よりも少し大きな声が出た。震える脚になんとか力を入れて堪える。まだ、崩れるわけにはいかない。類に、弱い所を見せたくない。類とこのまま一緒に居たくない。
    溢れそうになる涙を袖で拭って、縋るように自分の胸元を握り締めた。

    「こんな気持ちの伴わないキスなら、したくなかったっ!!」
    「……つ、かさ、くん…」
    「オレは、類と“夫婦らしい事”がしたいのではないっ!」
    「っ…」

    “オレが望むなら”でキスをされても、嬉しくない。オレに合わせて類がオレに触れるのは嫌だ。オレの御機嫌取りでこんな事をされても嬉しくもなんともない。オレの一方的な想いだけで、類と夫婦になんてなれない。
    オレがしたいのは、“夫婦らしい事”ではなく、“類と夫婦になる事”だ。

    「類が他の人とするような事を、オレにするなっ…! 他の誰かの代わりにもならないし、都合のいい“仲間”でもないっ!」
    「待って…! 僕は代わりのつもりは…」
    「煩いっ! もう類と一緒に居るのは嫌だっ…! 期待させられるのも、一人で類を待つのも、オレだけ悩むのも もう嫌なんだっ!」

    伸ばされた手を払うと、何故か類が泣きそうな顔をする。それが余計に腹立たしくて、堪えていた涙がぼろぼろと溢れ出した。
    類が傷付いた様な顔をするな。オレの方が、ずっとずっと苦しいのに。オレではない人と何度も会っていたのも、オレとはしないのに腕を組んで歩いたり、オレ以外と触れ合うのも、もう見たくない。オレだけが、類の傍に居られないのに、オレ以外の人達が類の傍に居られるようになったというのも納得いかない。Ωでなければ類の傍にいられたかもしれないと、そう悩むのだってもううんざりだ。
    床に落とした鞄を拾い上げて、中から大きな封筒を引っ張り出す。それを類の胸元に押し付けた。

    「…離婚しよう、類」
    「……………ぇ…」
    「番関係も解消しよう。それで、類は他の人と番になればいい」

    項の噛み跡は一生消えない。だから、一度番を持ったΩが他のαと番になる事は出来ない。だが、αだけは、番関係を解消して他に番を持つことが出来る。他のΩの項を噛めば、上書きする事が出来る。本来は番と死別した時の対処法の一つだが、番同士で話し合えば解消も可能だ。
    オレはもう類以外と番にはなれんが、それで構わん。類が他の人と番になろうと、オレは類以外と番になりたいとは思わんし、もう誰かと番になるつもりだってない。

    「…、……」

    何かを言いかけて、類が口を閉じた。押し付けた封筒が、床に落ちる。それをぼんやりと見つめれば、白い手がその封筒を拾い上げた。
    はっ、と顔を上げると、封筒を見つめたまま泣きそうな顔をする類が、眉尻を下げて笑う。諦めたような、どうでもよくなったような、そんな表情に見えた。

    「………君は、…どうするんだい…?」
    「…実家に帰る」
    「荷物は、それだけかい…?」
    「……近いうちに、取りに来る。…鍵も、全部運び出したら、返す…」
    「………………そう…」

    力のない声だった。
    こんな風に会話をしたのは、久しぶりな気する。それだけ、類と上手くやる事が出来なかったのだろう。封筒の中身を確認した類は、それを封筒にしまい、へらりと笑う。

    「今まで、ありがとう、司くん」

    そのたった一言に、体が一気に重たくなった。
    ずしん、と音がしそうな程、重たいものがのしかかってくる。

    「元気でね」

    口角を上げて笑った類の瞳に映るオレは、泣き顔のままだった。
    『嫌だ』と、言われるのを期待していたのかもしれない。引き止めてほしいと、無意識に思っていたのかもしれない。そんな事は無いのだと、今、はっきりと突き付けられた。自分が言い出したのに、最後まで身勝手だとも思う。
    それでも、一度で良いから、欲しい言葉があった。

    (……好き、だった…)

    ずっと、類が好きだった。
    引き止められたら、無かったことにしたのだろうか。泣いて『嫌だ』と言われたら、許せただろうか。『君が好きだ』と聞けたら、全て忘れられただろうか。期待したくないと言っておきながら、オレは類に期待してばかりだな。
    笑顔で別れを口にした類に、オレだけが踏ん切りをつけられない。ぱた、ぱた、と床に落ちる涙に、唇を引き結ぶ。袖で乱暴に目元を拭って、鞄を持ち直した。

    「っ、…お世話になりましたっ!!」

    大きな声でそう言って、動けなくなる前に玄関から飛び出した。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭😭😭😭😭😭😭💜💛😭😭👏😭😭💜💛💜💛😭😭😭😭😭😭😭🍡😭😭😭😭😭💜💛😭😭💜💛💒😭💘😭😭😭🙏🙏🙏😭😭😭😭😭😭😭😭🙏😭😭😭
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works