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    ナンナル

    @nannru122

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    POIPOI 146

    ナンナル

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    番 7 🎈☆

    番 7じっ、と道の先を見れば、少し離れたところに類がいる。強く地面を蹴って駆け出し、その背を追いかけた。何を言うのか、まだ思いつかない。それでも、今は追いかけなければ、と頭の中がそれで埋まっている。
    人にぶつかりそうになるのを何とか避けて、必死に追いかけた。曲がり角を曲がろうとする類の背に手を伸ばして、腕を掴んだ。

    「…類っ……!」
    「ぇ、…司くん…?」

    なんとか追いついて、その手を強く握る。荒くなった呼吸を整えれば、振り返った類が心配そうにオレを見てくる。オレの肩に触れかけた類の手が離れていき、道の端にゆっくり移動される。掴まれた手を振り払うこともせず、類はオレの呼吸が落ち着くのを待ってくれた。
    やっと落ち着いてきた呼吸に安堵して、顔を上げる。眉尻を下げてどこか困ったように笑う類は、オレと目が合うと少しだけ視線を横へ逸らした。

    「………類、先程は、すまなかった」
    「…僕の方こそ、……いきなり、ごめんよ…」
    「…………」

    なんと返していいか分からなくて、会話が上手く続かない。類の『ごめん』は何に対してだろうか。オレのは“返事が出来なくて”という理由なのだが、伝わっただろうか。
    類と視線が合わせるのが少し怖くなってしまって、オレも視線を逸らした。掴んだままの手を そろ、と離せば、一瞬類の手が小さく揺れた気がする。
    結局、話す事が浮かばない。これなら、追いかけなければ良かったのではないだろうか。視線だけが左右へ揺れて、体は動かないままだ。

    「……………司くんが、前に言っていたのって…」
    「…ぇ……」
    「………以前、君が僕に言った“浮気”って、さっきの話だよね…?」
    「…………………ぁ、…あぁ…」

    こくん、と小さく頷けば、類が片手で額を押えた。「やっぱり、…そうか……」という呟きが聞こえてくる。
    類の言う“以前”は、離婚しようと言った時だろう。多分、先程類が言っていた女性は、あの日一緒にいた人なのだと思う。綺麗な人だった。あんな風に、類がオレ以外の誰かと一緒にいる所を偶然見てしまうのが嫌で、類と離れようと思ったんだ。
    類の話が本当なら、浮気ではなかったことになる。だが、あの日外で腕を組んで歩いていたのは事実だ。それは、“浮気”ではないのか。

    「……類が…誰と居ても、構わん…、オレはもう、類とは…なにもないのだから…」

    心にもないことを、言ったと思う。類が誰と居ても良いなんて、全く思っていない。思えない。だが、そうでも言わなければ、オレがまだ類を好きなままなのだとバレてしまいそうで、怖かった。寧々の言葉があったからではない。類に知られて、これ幸いと先程の様に贈り物や言葉で絆されるのが嫌だからだ。またオレばかりが類を好きだと想い続けるのが嫌だからだ。

    「待ってよ…! 本当に誤解なんだっ! 言い訳にしかならないけど、彼女の名前は知らないし、あの日も帰り際に来た彼女が勝手についてきただけで、一緒に居たわけではないんだ…!」
    「…っ……」
    「っ、あ、…ご、ごめんよ……、つい、力が入ってしまって…」

    不意に強く手首を掴まれて、ズキッとした痛みに顔を顰める。それに気付いた類は、すぐに手を離してくれた。申し訳なさそうに一歩下がって距離を取ってくれる姿に、胸の奥が ぎゅ、と苦しくなった。
    類の感情が、上手く読めない。怒っている訳ではなさそうだ。焦っているというか、困っているというか…。そんな泣きそうな顔をされると、オレもどうしていいか分からん。
    痛む手首を反対の手で摩ると、類が ちら、とそれを目で見てから、視線を逸らした。捨てられた犬のようなその反応に、つい優しく声をかけたくなってしまう。

    (…ずるい……)

    泣きたいのは、こっちだ。ずっと他の人に会いに行って、帰ってこなかったくせに。オレばかり、類の事を考えて馬鹿みたいではないか。
    名前は知らないと言うが、会っていたのは事実だろう。匂いがつくほど、傍に居たのだろう。オレとは、そんな時間もなかったというのに、『誤解だ』と言う言葉で許せるはずがない。分かりました、なんて聞き分けのいいことを言える人間でもない。泣きそうな顔をされては、オレが悪いみたいではないか。浮気していたのは、類の方なのに。
    きゅ、と唇を引き結んで、類から顔を逸らす。

    「……何を言っても言い訳にしかならないけれど、本当に、…司くん以外を、意識したことなんてないよ…」
    「…………そんな気遣いは要らん…」
    「本心だよっ! 話したいと思うのも、隣にいてほしいと思うのも、触れたいのも、全部君だけだっ…!」
    「っ、…なら何故そうしなかったッ?!」

    真剣な顔で一歩踏み込んできた類に、思わず大きな声が出てしまった。
    何度も夢見た台詞。そう言ってほしいと、ずっと願ってきた言葉を、類がオレにくれている。だが、それが何故今なんだ。何年も一緒に居て、ずっと待っていたのに、全く言われなかった。それなのに、別れた後に言うのはずるいではないか。
    キッ、と類を睨むように見れば、驚いた様なその表情が次第に歪んでいく。

    「一言でもオレに『好きだ』と言った事があるか?! 食事の後部屋に戻らず二人で話をしようとした事があるか?! 休みの日に出掛けようと類から誘う事があったか?!」
    「…そ、れは……」
    「一人で食事をするのがっ…、全然合わない休みを確認するのがっ…、いつ帰ってくるか分からない類を待つのがっ…どれだけ虚しいか考えた事があるかッ?!」

    ずっと我慢してきたものが、次々に口から溢れ出す。
    『類の匂いが好きだ』と言ったのも、『項を噛んで欲しい』と強請ったのも、発情期の時に『類が好きだ』と勇気を出して言ったのも、全て類は無かったことにした。出掛けようと誘うのだってオレからだ。最初の頃は一緒に食べていたが、いつしか類がオレと時間をずらすようになって、食卓を一緒にする事も殆ど無くなった。休みだって合わないから、出掛けようと誘う事すら叶わなくなった。
    ぼろぼろと涙が零れ落ちるのに気付いたが、拭う余裕も今は無い。ぐっ、と握り締めた拳を振り上げて、ほんの少し強く類の胸元へ振り下ろした。

    「『仲間だ』と言ったではないかっ…! プロポーズの言葉もなかったっ…! 番なのに、発情期の時すら傍にいてくれないっ…! それで今更やり直そうと言われても、信じられんッ! …っ、信じたく、ないっ……!」

    離婚を決意したのは、類の浮気だけが理由ではない。
    類がオレを“番”として見てくれないと気付いたからだ。“いつかは”と淡い期待を抱いていたが、それが“無謀”だと気付いたからだ。他人の隣にいる類を見て、もう無理なのだと感じたからだ。
    二、三度、類の胸元を殴ってしまったが、類は泣きそうな顔でオレを見るだけだった。振り払う事も、仕返しする事も、避けることすらされなかった。それが余計にオレの心を抉ってくる。余裕が無いのも、オレばかりか。
    ぐす、と鼻を鳴らしてもう一度腕を振り上げると、類が静かな声で「司くん」とオレの名を呼んだ。

    「……触れても、いいかい…?」

    子どもに問いかける時のような、優しい声音だった。意味がわからなくて、振り上げた腕がそこで止まる。ぐす、ともう一度鼻を鳴らすと、類が一歩踏み込んできた。オレの反応をどう捉えたのかは分からんが、類の両手が背に回され、そのまま ぎゅぅ、と強く抱き締められる。顔が類の胸元に埋まって、ふわりと甘い匂いに包まれた。

    「っ……」
    「…無理して信じてくれなくて良いよ。前に言ったように、ここから僕が頑張るから」
    「……っ、別れたのに…今更っ…」
    「初めからでいい。こんな風に、君は僕に時間をくれるだけでいいから」

    腕の力が強くなって、ほんの少し苦しい。熱い気がするのは、相手が類だからだろうか。久しぶりの類の匂いに、またぼろぼろと涙が零れ落ちていく。押し退けて逃げなければならないのに、このままでいたいのは、オレがまだ類を好きだからだろう。
    『別れた』と何度も言葉で類との関係を終わらせようとするのも、オレがまだ終わりたくないからだ。

    「…ずっと、こうしたいって思っていたのに、君に拒まれるのが怖くて、出来なかったんだ……」
    「………嘘つき…」
    「司くんを抱き締める夢なら、何度だって見たよ。君と番になる前から、何度も」
    「っ、そんな嘘で、今更納得しないからなっ…!」

    今更好きだと言われて、信じられるか。類がオレを抱き締めた事だって、殆ど無かった。類が“したい”と思っていたなら、もっとオレに触れていたはずだ。
    嬉しいと思う自分の気持ちを誤魔化すように、反抗的な言葉ばかりが浮かんでくる。絶対に、類の言葉に絆されてやらん。そうでなければ、また、今までの繰り返しになりそうで、それが堪らなく怖い。
    甘い匂いばかりがどんどん強くなって、なんだか頭がくらくらしてくる。心做しかお腹の奥が熱い気がして、ほんの少し身じろいだ。類の腕から抜け出そうとすれば、更に強く抱き締められる。首元に類が顔を寄せるのがわかって、びく、と肩が跳ね上がった。

    「ま、待てっ…、今は駄目だっ、……!」
    「安心しておくれ。これ以上は何もしないから。ただ、もう少しだけ君を感じていたいんだ」
    「違うっ…、そうではなくて、…!」

    首元で、すん、と類が鼻を鳴らすのが分かる。その瞬間、背を冷たいものが撫で下りていき、足が震えた。地面がぐらぐらと揺れるかの様な不安に、無意識に類の胸元を強く掴む。

    (……今は、匂いが残っているのに…!)

    類との家を出てから、類に会わなくなった。だから、必要ないと消臭スプレーは使用していない。持ち歩くようにはしているが、鞄は先程の店に置いてきてしまった。こんなにも近い距離では、いくら野外と言ってもΩの匂いが濃いはずだ。オレでさえ類の匂いをこんなにも感じているのだから、首元に顔を寄せられては防ぎようがない。
    ぐぐっ、と類の体を押しやろうにも、全く力が入らない。番である類の匂いに、体がゆっくりと熱を持ってしまっている。このままではまずい、と体を拗じるようにして逃げ出そうとすれば、項に類の髪が触れた。

    「ひぁッ……?!」
    「…逃げないでおくれ。もう少し、じっとしていて」
    「る、るるるるいっ…、ほ、んとに、…いま、はっ…」

    足が震えて、立つのがやっとだ。類に抱き締められているから、倒れずに済んでいるようなものだろう。声が裏返って、上手く言葉が紡げない。すり、と鼻先が項を掠めた感触に、ずくん、とお腹の奥が重たくなった。ぶわりと身体が一気に熱を持ち、目の前がくらくらとし始める。
    頭ではいくら拒んでも、類はオレのたった一人の番なのだ。その事実を、今この場で突き付けられている。

    (嫌だっ…、今、……類に否定されたくないっ…)

    『Ωの匂いが昔から苦手だったんだ』と、そう言った類の言葉を、今でもはっきり覚えている。類の隣にいるために消臭スプレーを手に取ったのだって、その頃だ。類が他のΩの人の匂いをつけてきた時に、必ずと言って良い程この言葉を思い出した。類の番になったオレだけが、一生纏う呪いだ。
    別れたくないと、ご機嫌取りでも言葉や態度で示してくれる類が、オレの纏うΩの匂いで態度を変えたら…。そう思うと怖くて、顔が上げられない。逃げなければ、と警笛が脳裏で鳴り響いているのに、足が震えて逃げることも出来ない。
    そんなオレを抱き締める類の腕に、ほんの少し力が入った。

    「……司くんの匂い、好きだなぁ…」
    「…ぇ………」
    「いつもの薬の匂いがしないからかな。とても落ち着くよ」

    何気ない事を言う時の様な、そんな声音だった。すん、と鼻を鳴らす類の腕の中で、呆然としてしまう。予想していた言葉は、全くなかった。聞いた事のないその一言に、言葉を失う。脳裏でもう一度、あの頃聞いた類の一言が流れた。『Ωの匂いが苦手だ』という、類の言葉。
    固まったオレに気付いた類が、不思議そうに腕の力を抜いてくれる。と、足の力が一気に抜けて、オレはその場にへたり込んだ。驚く類が心配そうに声をかけてくれるが、もうそれどころでは無い。

    (………好き、と言ったか…? 類が……?)

    Ωの匂いが苦手だと言うから、その匂いを消すために消臭スプレーを持ち歩いた。類の近くにいられるよう、努力したつもりだ。その類が、オレの匂いが好きだと言った…? 今は手元に消臭スプレーがないから、Ωであるオレのフェロモンの匂いが強く出ているはずなのに。
    全く理解が追いつかなくて、瞬きすら忘れて地面を呆然と見つめてしまう。番なのだから、オレの匂いだけは類も感じ取れるはずだ。それなのに、何故…。

    「体調が悪いのかい…? 無理をさせてすまないね」
    「……」
    「司くん、立てるかい? 無理なら、寧々たちを呼んで、タクシーで送ってもらおう…?」
    「…………」

    手が引かれて、何とか立ち上がる。寄りかかれるよう類に支えられ、ふらふらと歩き出した。黙ったままのオレに、類が何度も声をかけてくれている。だが、その言葉が全て頭に入ってこない。
    ぎゅ、と類の袖を掴めば、類は足を止めた。そんな類へ顔を向けると、月色の目がパチリと丸くなる。

    「………類は、…Ωの匂いが、苦手なのではないのか…?」
    「……どうして、それを司くんが…?」

    オレの言葉に、類が驚いたような顔をする。聞き間違いではなかった。確かに、“Ωの匂いが苦手”なんだ。それなら何故、先程はあんな事を言ったのか。やはり、オレのご機嫌取りをする為なのだろうか。
    聞きたくない、と頭の奥で声がする。類を問いただしても、嫌な思いをするだけだろう。それでも、有耶無耶のままでいたくない。類がはっきりとオレの匂いが苦手だと言えば、ほんの少し絆されかけた気持ちも消える気がするんだ。
    じ、と類を見つめて先を待てば、類が困ったように眉尻を下げて笑った。

    「どこかで君に話した事があったかい…?」
    「……誤魔化さないでくれ。高校の時、類がそう言っていただろう」
    「…………もしかして、寧々に言ったのを聞いていたのかい?」

    類の問いに頷けば、類が小さく息を吐いた。ほんのりと頬が赤くなる類が、オレから顔を逸らす。その反応が予想と違って、オレは目を瞬いた。首を軽く傾げれば、類が小さく「恥ずかしいなぁ」と呟くのが聞こえてくる。余計に意味がわからなくて、類をじとりと睨んだ。

    「苦手なのに、何故無理してまでオレを繋ぎ止めようとするんだ。…今日は特に、匂いがキツかっただろう…」
    「…もしかして、その後の会話を聞いていないのかい?」
    「………何の話だ…?」

    不思議そうな顔をする類が、オレの言葉を聞いて何かに思い至ったらしい。一人うんうんと頷くと、困ったように眉を下げて苦笑された。「そういう事かぁ」と呟いた類は、納得のいく答えを得たのか、どこか満足そうだ。
    まだ少しふらふらとするオレを手を引いて、類がまた歩き出す。支えながらついて行けば、類がオレの頬を指先でそっと撫でた。

    「僕が言っても信じられないと思うから、後で寧々に聞いてみておくれ」
    「……どういう意味だ…?」
    「僕は、君が長い事 気を遣ってくれていたのだと今更知って後悔しているところだよ」
    「…全くわからん……」

    後悔していると言いながらも、どこか嬉しそうな類に顔を顰める。類に気を遣っていたのは、匂いだけではないのだが…。それに、寧々に聞いたからと言って、何か変わるとも思えん。類がオレの匂いを苦手な事実は変わらんだろう。
    店の入口まで来たところで、類がスマホを取りだした。寧々に連絡をしてくれたのだろう。それを横目に、店の壁へ寄りかかれば、類の手が頭をそっと撫でてくる。

    「無理をさせてすまないね。ゆっくり休んでおくれ」
    「……………オレの方こそ、強く言い過ぎてしまった、…すまん…」
    「ふふ、それなら、今度気が向いた時にデートでもしようじゃないか」
    「…寝言は寝て言え」

    態とらしい誘いは断って、類から顔を背ける。
    そこへ店の中から出てきた寧々が、心配そうにオレを見た。「大丈夫なの?!」と声をかけてくれる寧々に笑って返せば、類はそのまま行ってしまった。あとから荷物を持って店から出てきた暁山とえむも、心配そうにオレに声をかけてくれる。
    それがなんだか申し訳なくて、笑って誤魔化した。

    「それより寧々、少し聞きたいんだが…」
    「どうかしたの?」
    「…高校の時に、類と話していた時の事を教えてほしいんだ」

    無理矢理話を切り替えると、寧々が不思議そうな顔をした。暁山とえむも、首を傾げてオレ達を見る。心配してくれるのは有難いが、理由が理由なだけに少し気恥しい。それに、類の言っていた言葉も気になっている。

    「高校の時って…?」
    「…類が前に、『Ωの匂いが苦手だ』と、寧々に話していただろう?」
    「……もしかして、司、その時の話を聞いていたの?」
    「オレが聞いたのは、類のその言葉だけだ…」

    驚く寧々は、オレの言葉を聞いて、なにかに思い至ったのか手で頭を押えた。はぁ、という溜息も聞こえてくる。暁山も何かに気付いたのか、変な顔をしていた。えむとオレだけがよく分からずに首を傾げる。
    顔を顰めて頭を押えた寧々が、口元だけ引き攣らせて苦笑すると、オレに「あの時は…」と口を開いた。

    「Ωの匂いは苦手だけど、“司の匂いだけは特別”だって言われたのよ」
    「……………………は…?」
    「αはΩに言い寄られる事が多いから、類も昔からΩに苦手意識を持ってたんだけど、司が類にΩだって打ち明けた時、類、司がΩだって知らなくて驚いたんだって」
    「………どういう、事だ…?」

    あの日聞いた話と違う。
    Ωの匂いが苦手だとは言っていたが、オレの事なんて聞いていない。それに、オレがΩだと知って驚いたというのは、どういう意味だ。オレは、第二次性を打ち明ける前から類の事を意識していたから、てっきり類も知っていたとばかり…。αなら、Ωの匂いがある程度はわかるはずだ。Ωがαの匂いに気付くように。

    「司がΩなの、気付けなかったんだって。Ωの匂いは苦手だけど、司の匂いは、安心するって、言ってたから」
    「………っ…」
    「今度、類からも聞いてあげて。きっと、隠さず話してくれると思う」
    「……」

    寧々が優しく笑うのを見て、言葉を飲み込んだ。
    他の人と匂いが違ったから、オレがΩだと気付けなかった…? そんな事があるのだろうか。
    噛み跡の残る項に手を当てれば、しっかりと類の歯型が残っている。類の番である証が。オレがΩだという証明だ。

    (…オレがΩだから、類に避けられているのかと思っていた……)

    もっともΩの匂いが濃くなる発情期の時に類が傍に居ない理由が、それしか思いつかなかった。だが、オレの匂いが理由でなかったのなら、何故類は、発情期の日に合わせて家を出るのだろうか。
    発情期を起こすのに合わせて家を出ていく類の背中を思い出して、そっと、息を吐き出した。

    ―――
    (類side)

    『っ、…なら何故そうしなかったッ?!』

    怒ったように泣く司くんの顔を、何度も見た。この一ヶ月程で、何度も。

    『一言でもオレに『好きだ』と言った事があるか?! 食事の後部屋に戻らず二人で話をしようとした事があるか?! 休みの日に出掛けようと類から誘う事があったか?!』

    何も言えなかった。
    『好き』だなんて、彼を前に言ったことはない。言えなかった。司くんだけが好きなのに、司くんにだけは、言えなかった。よくよく思い返すと、確かに彼は、僕の為に時間を作ろうとしてくれていたのに。

    『一人で食事をするのがっ…、全然合わない休みを確認するのがっ…、いつ帰ってくるか分からない類を待つのがっ…どれだけ虚しいか考えた事があるかッ?!』

    そこまで言わせてしまって、漸く気付いた。彼と顔を合わせないようにと寄り道をして遅くに帰った日、僕が帰るまで彼が起きていた事を。僕がリビングに入る前に逃げるように部屋に入ってしまっていたけれど、あれは僕が帰るのを待ってくれていたのだと。いつからか言われなくなった、『遅くなるなら連絡をしろ』という言葉を思い出して、自分の最低な態度を悔いた。

    (別れたいと言われても、これでは仕方がないね…)

    これだけ彼に負担をかけたのだから。嫌われたくないと思って行動しながら、彼に嫌われるようなことばかり繰り返している。彼の方から近付こうとしてくれていたのに。
    一人きりのリビングで、昼間に会った司くんのことを思い出しては溜息を吐いてしまう。泣かせたくなかったのに、僕が彼を泣かせてばかりいる。どうして、上手くいかなかったのだろう。作りかけのオルゴールのネジを巻いて、小さく息を吐いた。
    ぽこん、と不意に聞こえた軽快な音に顔を上げると、机の上のスマホが通知を知らせている。見覚えのある名前に、思わず目を瞬いた。

    「司くん…?」

    先程怒らせてしまったばかりの彼の名前に、息を飲む。なんだろうか、と手を伸ばせば、突然スマホが大きな音で鳴り始めた。咄嗟に掴んで画面をタップすれば、彼が設定しているアイコンと通話画面が映る。小さく聞こえてきた『類』と僕の名前を呼ぶ声に、慌ててスマホを耳に押し付けた。

    「つ、司くんっ…!」
    『……昼間は、すまなかった…』
    「…僕こそ……」

    泣かせるつもりなんてなかったのに、泣かせてしまった。ただ、やっと出来た贈り物を渡したかっただけだったのに。それなのに、追いかけてきてくれた司くんに嬉しくなったり、ずっと聞かせてもらえなかった本音を聞いて今更後悔して、空回ってばかりだ。笑顔にすると言いながら、それすら出来ていない。
    なんと返そうかと思案すれば、司くんが通話口の向こうで大きく息を吸うのが分かった。

    『…プレゼント、ありがとう』
    「ぁ、うん…」
    『その…、………気に入った…』
    「……それは、良かった」

    彼の言葉、無意識に入っていた肩の力が抜ける。お世辞でも、そう言ってくれて良かった。気まずくても律儀に御礼を言う為に電話をかけてくれる司くんは、やっぱり優しいね。
    不意に何かの音が止まったことに気付いて、机の上に目を向けた。作りかけのオルゴールが、いつの間にか止まっていたらしい。まだ少し音の足りないそれに手を伸ばして、ネジを巻く。ゆっくりと鳴り出した音に、司くんが小さく『ぁ、』と声を落とした。

    『…その曲……』
    「うん。高校生の時、君と一緒にショーをした時 使った曲だよ」
    『………懐かしいな。類に貰ったオルゴールの曲も好きだが、その曲も好きだ…』
    「……うん」

    先程より少し緊張の薄れた司くんの声音に、つい頬が緩む。
    知っているよ。君がこの曲を気に入っていたのを思い出したから、これを作ろうと思ったんだ。今日司くんに渡したのも、オルゴールだ。前に皆と一緒にショーをした時の曲で作ったオルゴール。司くんが当時好きだって言っていた曲を使った、たった一つしかないオルゴールだ。素人の作ったものだから、市販のものより音は悪いけれどね。
    途中で音が抜けたり、音が止まったりする未完成のオルゴールが、ゆっくりと止まる。ぱたん、と蓋を閉じれば、司くんが数秒置いてから、そっと口を開いた。

    『…類、……もう一度、会ってくれるか…?』
    「勿論。…今すぐにでも、会いたいよ」
    『……それは、さすがに…』
    「ふふ、司くんが会ってくれるなら、いつだって構わないから」

    困った様な彼の声音に、笑って誤魔化す。本音は、今すぐにでも司くんに会いたい。先程泣かせた事も、彼が今まで頑張ってくれた事にも、一つひとつに謝罪したい。もうそんな思いはさせないと、司くんの目の前で言いたい。そんな事を言ったら、彼が余計に会いづらくなりそうだから言わないけれど。
    作りかけのオルゴールを机の上に置いて、ソファーの背もたれに体を沈める。天井を見上げてゆっくり目を閉じると、昼間に見た泣きながら僕を睨む彼の顔が浮かんだ。

    「………好きだよ、司くん」
    『っ、…ぃ、きなり…何言って……』
    「大好き。ずっと、君だけが好きだったんだ」
    『…も、もぅ、いい……』

    『寝る』と短く呟いた司くんに、慌てて名前を呼べば、ぷつりと通話が切れてしまった。呆気ない終わり方に、肩を落とす。けれど、昼間に別れた時と比べれば、不思議と気分は軽くなった気がする。スマホをソファーの空いたところへ放って、もう一度目を瞑る。
    今度は、顔をほんの少し赤く染めた司くんが浮かんで、つい口元が緩んだ。

    「次に機会があった時は、僕も彼に大切な事を確かめないとね」

    ゆっくりと息を吐いて、作りかけのオルゴールに手を伸ばした。
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