番 8「…類……!」
「お疲れ様、司くん」
練習終わりに劇団を出れば、裏口の少し先に類が立っていた。思わず声をかけてしまったオレの方へ、類が笑顔を向けてくる。その綺麗な顔に、胸の奥がきゅぅ、と音を鳴らす。
「一緒に帰ろう? 君の家まで送るよ」
「……か、まわんが…」
隣に来た類がオレの方へ手を差し出してくる。ステージの上で見るようなその自然な流れに唇を引き結んだ。言葉で言われなくても分かる。“手を繋ごう”という意味なのだろう。恋人のように接しようとしてくる類に、不覚にも胸がきゅぅ、と甘い音を鳴らした。
恐る恐るその手にオレの手を重ねれば、そっと握られる。
「君さえ良ければ、夕食も一緒にどうだろうか?」
「…それは、……今夜はもう、夕食を用意してもらっているはずだから、また今度ではダメか…?」
「それなら、今度は事前に誘うことにするよ。今夜は残念だけれど、次の機会に、ね」
「………」
何事もないように笑顔でそう言った類に、ほんの少し胸が痛む。オレより少し大きな手は、温かかった。微かに震えているその手を握り返して、顔を逸らす。もしかしたら、今の誘いも、類は緊張していたのだろうか。それなら、断ってしまったのが申し訳ない。だが、夕食を用意してもらっているのは本当のことだ。それに、オレもまだ、類の隣にいるのは緊張する。
(……類と食事に行くのは、あの食事会以来か…?)
類が何かを食べているのを見たのは、その日が最後かもしれん。夫婦だった頃、最後に一緒に食事をしたのがいつだったか思い出せないしな。正直、類と二人きりというのはまだ慣れん。あまりに一緒に居なかったから。オレの方から別れ話をした手前、居心地悪いというのもある。メッセージや贈り物をくれたり、こうして会いに来てくれる類に、どう接すればいいのかも分からない。
「司くん」
「んぇ、…ぁ、なんだ…?」
不意に名前を呼ばれて、慌てて顔を上げた。不思議そうにオレを見ていた類が、困った様に眉尻を下げて笑う。繋ぐ手にほんの少し力が入ったことに気付いて、思わずオレも肩に力が入った。黙って類の言葉を待てば、視線が一度横へ逸れてから、真っ直ぐオレへ向けられる。
「…君を困らせたくは無いのだけど、一つだけ、確認させてほしいんだ」
「………ぁ、あぁ…」
類のその言葉に、身構えてしまう。
何を聞かれるのだろうか。この前の返事だとしたら、なんと答えればいいんだ。類の事は、まだ好きだ。だが、寧々が言っていたように今は『好きだ』と気軽に返せない。というのも、類の想いが分からないからだ。オレを本当に好きなのか、それとも、離婚しない為の方便なのか。オレはまだ、類の言葉を信じきれていない。
(…それか、『まだ離婚したいか』と、聞かれるのだろうか…?)
今まで以上に類がオレに構ってくれるのは、正直嬉しい。こうやって手を繋ぐだけでもドキドキしてしまう程、類と一緒に居たいと願ってきたのはオレだ。その願いが叶って嬉しい反面、いつこの幸せが消えるのか怖くて堪らない。オレの願った通り離婚しようと、類にそう言われるのが怖い。離婚しようと切り出したのはオレなのに、類に『好きだ』と言われて、“夢”を見てしまった。もしかしたら、このままやり直せるかもしれないと。自分の心の中が矛盾だらけで、どうしていいのか全く分からん。
黙ったまま類の言葉を待つと、繋ぐ手が軽く引かれた。類の方へ手が引かれ、体が傾き自然と一歩分距離が近くなる。目を丸くさせたオレに顔を寄せて、類が口元へ反対の手を寄せた。
「君は今、好きな人はいるかい?」
「…………は…?」
「その、以前からずっと想いを寄せている人とか、以前とは違う人が気になる、とか…そういう想いは、あるかい?」
「………そ、れは…、…」
どういう意味だ。
少し緊張気味に、けれど真剣な顔の類の問い掛けが、頭の中でぐるぐると回っている。『好きな人』というのは、どういう事だ。類なのだが。『以前から』とか『違う人』とか、意味がわからん。高校の時からずっと、類だけを想ってきたんだ。今更心変わりするわけがないだろう。類だけが好きだ。αと気付いて、意識するようになってから…いや、類のショーを初めて見たあの日から、ずっとオレの心は類のモノだ。番になったあの日、オレの身体は全て類のモノになったも同然だろう。
それなのに、今更『好きな人はいるか』だと?
(試されているのか…?)
オレが類を愛しているのかどうか、試されているのか? 類も、オレの想いを疑っているのか? オレはずっと、類だけが特別なのに。類がオレを『仲間』だと言うより前から、ずっと類を想ってきたのに、今更疑うのか? オレは正直に、『類が好きだ』と打ち明けたのに、信じてもらえていないのか。
じっとオレを見る類に、唇が震える。大きな声でもう一度言ってやれば、信じてもらえるのだろうか。今なら、『僕も』と、類から愛が返ってくるのだろうか。そしたら、また一から類と夫婦になるのか。類と夫婦になったら、また、あの家で一人になるのだろうか。
「…………」
「……言いたくなければいいんだ…、ただ、これは、…確認しないと、いけない気がして……」
「………」
「…君が誰を想っていても良いよ。怒るつもりは無いから、安心してほしい」
ふわりと笑う類の表情に、心が重くなっていく。『誰を』とは、どういう事だ。オレは、ただ一人、自分の夫だけを愛しているのに、浮気まで疑われているのか? それとも、『類だ』と、言わせたいのか? オレの口から類の名前を言わせて、言葉巧みに言いくるめようとしているのか? 離婚も無かったことにして、全部元通りにするために、オレにこんな質問をしてきたのか? もう訳が分からん。
(……類が好きだと言えば、満足するのか…?)
だったらいくらでも言ってやる。それで類がオレを愛してくれるなら、何度だって言ってやる。類が余所見せずオレだけを見てくれるなら、何だって出来る。だが、そうではないのだろう。オレが今更『好きだ』と言ったところで、類はオレを好きにはならんのだろう。それくらい知っている。
類から顔を背けて、ゆっくりと息を吸う。寧々にも言われた通り、オレはまだ、類を簡単に信じるわけにはいかない。好きだと、安易には言えない。言いたくない。
「…………」
「…すまないね。答えづらいことを聞いてしまって…」
「………いない」
「ぇ…」
「……好きなやつは、…いない…」
そう返すと、類は目を丸くさせた。
オレからの、ちょっとした仕返しだ。『好きだ』なんて言わない。もう類への想いも無いのだと、そういう意図の返し。もしこれで離婚を成立させようという話になったら、それを受け入れるしかない。これ以上期待するよりはマシだ。期待して、戻れなくなるよりも、類と離れるのを怖がっている今キッパリと関係を断つ方がいい。
震える足に力を入れて、ゆっくりと息を吐き出す。平静を装って真剣な顔で類を見れば、目を丸くさせていた類が嬉しそうに笑うのが見えた。
「………ぇ…」
思わず、戸惑うような声が口からこぼれた。
『好きな人はいない』と、そう告げたはずなのに、類は変わらない優しい顔で微笑むと、オレの手を両手で掴んでくる。「良かった」と、そう呟いた類に、余計に困惑した。
「それなら、僕はまだ頑張ってもいいかな…?」
「……頑張るって…、オレは、……その、…類の事も、す、きでは、ないと…言ったんだぞ…?」
寄せられたその綺麗な顔に、息を飲む。
月色の瞳も、さらさらとした藤色の髪も、整った顔も、全部愛おしい。ショーで見る時はいつも凛としているその顔が、まるで愛おしいと言わんばかりに優しく微笑む様に、心臓が ぎゅ、と掴まれたかのような気分になる。ドキドキして、顔がじわりと熱くなった。二歩程後ろへ下がると、類も大きく一歩距離を詰めてくる。堪らず目を強く瞑れば、両手で包むように掴まれた手を優しく引かれた。
「君が僕を想っていないことは知っているよ。もし君がまだ、僕ではない誰かを想い続けているのなら、僕の想いは迷惑かと思ったから 確認しておきたかったんだ。君に想い人がいないなら、僕に頑張らせてほしいな」
「……な、んだ、それは…」
「好きだよ、司くん。無理して応えてくれなくていいから、これからも僕に君の時間をおくれ」
「…………んっ…、る、ぃ…ちかぃ……」
逃げるように後ろへ下がると、背中が壁にぶつかってしまった。退路のなくなったオレに構わず、類が一層距離を縮めてくる。とん、と額が触れ合って、類の吐息が鼻を掠めた。どくん、と身体が大きく跳ねて、慌てて息を詰める。類の髪が肌を撫でて、少し擽ったい。この甘い匂いは、類の匂いだ。そう気付くと、途端に心臓が煩く騒ぎ出した。
唇を引き結んで、自由な方の手で類の肩を精一杯押す。が、震える手ではさほど力も入らず、押し返すことが出来ない。
「…ねぇ、キス、してもいいかい…?」
「は、はぁ…?! なななに、言ってっ…!?」
「嫌かい…?」
「……ぃ、ゃ、とかでは…だが、オレ達はっ……!」
するりと手が離れていき、頬に触れる。その掌の熱さに、思わず肩が跳ね上がった。話の流れが全く分からん。何故そうなった。今オレは、類のことは好きではないと言ったはずだ。なぜその話から き、きききキスをする話にっ…?!
一人脳内でパニックを起こすオレの目の前で、類がゆっくりと息を吐くのが分かった。頬に触れた手が、感触を確かめるかのように頬を撫でてくる。額がそっと離れ、気配がゆっくりと近付いてくるのを感じて、慌てて息を止めた。
(ま、てまてまてまてっ…! 本当に、するのか…?!)
頬に添えられた手とは反対の手が、前髪を優しく撫でてくる。心臓が破裂しそうなほどバクバクバクと鼓動していて、顔が沸騰しそうな程熱い。
離婚しようと言った日、初めて類とキスをした。あの時の様なものを、今この場でするのか?! 道の真ん中で? まだお互いの想いが不確定だというのに…? オレを意識させるために、類はここまでするのか? 少なくとも、類はオレとキスが出来る程度にはオレを想っていてくれるのか…? 本当に、オレの事を…。
(………あの時と同じなのに、全く違う…!)
初めて類としたキスは、泣くほど悲しかった。想いの伴わないキスが、どれ程虚しいか痛感させられた。それと同じはずなのに、今は、『嫌だ』と思えない。後頭部が壁に軽く押さえつけられ、ゆっくりと額に口付けられる。頬に添えられた手が、宥めるように優しく肌を撫でてくる。前髪を軽く指先ではらわれ、ほんの少し離れた唇が目尻に押し付けられた。ちぅ、と聞こえてくるリップ音に、心臓の鼓動がどんどん煩くなっていく。足が震えて崩れ落ちそうになるオレの太腿の間に、類の膝が割り入ってきた。体が支えられ、崩れ落ちる事も逃げることも出来ないオレの頬へ、そっと唇が触れる。近付く唇の感触に、ごくん、と喉が音を鳴らした。
「…っ、…る、…る、ぃ……、…」
「好きだよ、司くん。大好き」
「……ぁ…、…ゃ……」
頬に触れていた唇が離れ、緊張が一層増す。自分の唇に意識が集中して、期待と戸惑いで頭の中がめちゃくちゃだ。類に好きだと言われると、嘘でも心が勝手に満たされていく。オレも類が好きだと、応えたくなってしまう。
こんな風に類とキスをするのを、ずっと望んできた。類に好きだと言われて、優しく求められるのを。あの夜とは違う、夫婦としての関係を。
「…………………ぇ…」
「…ありがとう。僕の我儘に付き合わせて、すまなかったね」
「…………ぉ、わり…?」
待っても来ない唇の感触に、恐る恐る目を開ければ、目の前で困ったように笑う類と目が合った。赤い顔に手で触れて、どこか緊張した様子の類が、へらりと笑う。パッ、と手が離され、類が数歩後退った。類との体の距離が少し開いた事に、何故か残念な気持ちになる。
呆然としたまま動けないオレに、類がもう一度手を差し出してきた。
「今度こそ帰ろうか。あまり遅いと、君の御家族が心配するからね」
「……ぁ、あぁ…」
その手を取って、早足に歩き出した類の後ろを着いていく。
拍子抜けしてしまった。類がキスと言うから、てっきり唇にされると思っていた。まさか、唇以外に口付けられて終わるとは、思わなかったんだ。あれ程ドキドキして緊張もしたのに、あっさりと終わってしまった。唇でなかったことに安堵するべきだが、実際は残念でならない。
(……………誤魔化しようがないほど、類が…好き、なのだな…)
求めてもらえて嬉しかった。別れたいと言い出しておきながら、類が引き止めてくれて嬉しい。本音かどうかまだ分からんが、好きだと言われて嬉しい。手を繋ぐのも、類の方から会いに来てくれるのも、嬉しいんだ。オレではなく、類が自分から“オレ”を必要としてくれている気がして、嬉しくて堪らない。類の気持ちを疑っていたはずなのに、期待ばかりが膨らんで、心のどこかで勝手に信じてしまっている。裏切られるのが怖いと思っていたはずなのに、類に愛されたいと思ってしまっている。
自分が単純で情けない。
「………もっと、…すればいいだろ…」
「司くん、何か言ったかい?」
「……………別に、何も言っていない…」
「そうかい?」
不思議そうな顔をする類の手を強く握り返して、顔を逸らす。
そのまま、本当にオレを家へ送り届けて、類は帰っていった。
―――
(類side)
「つまり、神代先輩は司先輩と仲直りがしたいんですね」
「んなもん、司センパイと旅行でもして強引に進めればいんじゃないっすかね」
「それは、さすがにまた泣かれる気がするのだけど…」
大きな一口でパンケーキを頬張る東雲くんを横目に、小さく息を吐く。
そんな彼を肘で軽く小突く青柳くんは、真剣な様子で話を聞いてくれているようだ。僕の話を一つひとつ頷きながら聞いてくれていて、少しむず痒い。逆に東雲くんの意見は直球過ぎて困ってしまう。
この二人を呼んだのは、司くんとの今のこの状態をどう打開していけばいいかを相談しに来たのだけど、人選を間違えただろうか。
「あながち間違ってないだろ。あの人、そういうの嫌いじゃなさそうだし」
「前にそれで泣かれてしまったから、もう同じ失敗はしたくないんだ」
「センパイの事だから、好きだ、とかそういうの何も言わずにして泣かれたんじゃないんすか? 司センパイ、結構雰囲気とか気持ちとか大事にする人だし」
「ぅ…」
東雲くんに図星をつかれて、何も返せなくなってしまう。確かに、あの日は考えずに行動してしまった自覚がある。司くんを引き止めたくて必死だったこともあるけれど、彼が望んでくれたのだと思って舞い上がっていた。実際は、『したくなかった』と泣かれてしまって、離婚しようとまで言われてしまったわけだけれど…。
(……この前も、結局頬にキスをするので精一杯になってしまったしね…)
小刻みに震える司くんを前にしたら、手を出すのを躊躇ってしまう。無理をさせたいわけでもない。僕への想いがない彼に、僕のお嫁さんらしい事をしてほしいとも言えない。
ただ、なんとか彼を繋ぎ止めないと、このままでは離婚する話になってしまうんだ。番関係の解消なんて絶対に嫌だ。その為に、彼の想いだって確認した。本心かどうかは分からないけれど、好きな人はいないと彼が言ったのだからそれを信じたい。好きな人がいないなら、僕を好きになってもらえるよう、頑張りたい。
ぎゅ、と机上に置いた拳を強く握り締めれば、向かいの席に座る東雲くんが溜息を吐いた。
「普通、相性のいいαが相手でも、まして間違いで番になったからって、好きでもねぇのに結婚して何年も一緒にとか無理っすよ」
「……それは、たまたま僕と司くんが仲間だったから…」
「オレはたとえ冬弥が相手でも無理です。まして、別れた後言い寄ってこられても、未練がなければ二度と会いたいとも思わないんじゃないっすかね」
「……………」
寧々に以前言われた事と、同じだ。
東雲くんの言いたいことは分かる。確かに、僕も司くんが相手だからこれだけ悩んでいるんだ。あの日、司くんが僕を求めてくれたから、項を噛んだ。そのことを後悔はしていない、と思う。司くんが僕を好きではなくても、他の誰かに取られるよりずっとマシだった。夫婦になってからはお互いにぎこちなくて、幸せだったかと問われれば頷けないけれど、彼が僕のモノだという証明は安心できた。
この想いが僕の一方的なものではなく、司くんもそうだったんじゃないか、と、東雲くんは言いたいのだろう。
「以前司先輩に映画のチケットを渡した時、神代先輩と行くと喜んでくれていました」
「…ぇ……」
「司先輩は、神代先輩と過ごす時間を作る為に、頑張っていました。少なくとも、仲間だからという想いだけではなかったと思いますよ」
「………」
青柳くんの言葉に、呆気としてしまう。
映画のチケットの話なんて、されていない。それは、いつの話だろうか。もしかして、青柳くんには僕と行くと言いながら、実際は他の誰かと行ったのだろうか? いや、彼は素直な人だから、きっと本当に僕と行く気でいてくれたのかもしれない。誘われていない理由は分からないけれど。
青柳くんがこう思っているということは、それだけ司くんが頑張ってくれていたということだ。僕だけが、それに気付けなかったから、こんな状況になっているのだろう。
(情けないなぁ……)
誰よりも彼を好きだと自負しておいて、僕が一番司くんの事を知らないなんて。何年も夫婦だったのに、恋人にすらなれなかった。なろうとしなかった、というのが正しいかもしれない。
つまり、彼の為だと言い聞かせながら、実の所は僕が彼から逃げ続けてきたのだと、漸く気付いてしまった。
「……愛想を尽かされるわけだね…」
「…愛想尽かしてたら、司センパイなら逃げると思いますよ」
「………うん。だから、きっと彼は出て行ってしまったのだろうね」
「そうじゃなくて、センパイに誘われても食事なんて行かねぇし、連絡も無視するんじゃないっすか?」
「…そ、れは……」
呆れたような東雲くんの言葉に、言い淀む。彼のことだから、そこまではしない気がする。優しい司くんは、たとえ嫌いな相手でも歩み寄ろうとすれば受け入れてくれるのだろう。僕がどれだけ彼の努力を無駄にしたとしても、彼は許してくれるのだろう。仲間として。きっとそこに彼の想いはなくとも。
黙ってしまった僕の反応をどう捉えたのか、東雲くんが溜息を吐いて頭を搔く。
「センパイとの関係を進展させたいって、司センパイに相談されたんで、少なくとも向こうはそのつもりだったと思いますよ」
「…相談って、…司くんが……?」
「結婚してから一度も手を出さない旦那をその気にさせる方法は無いのかって、相談っすよ」
「んっ…?!」
カシャン、と手に持っていたティースプーンを思わず落としてしまって、店内にその音が響いた。さらりと言ってのけた東雲くんは素知らぬ顔でもう一口パンケーキを頬張っている。その隣で不思議そうな顔をする青柳くんは、どこまでこの話を理解しているのだろうか。なんて現実逃避のような思考が一瞬頭を過った。
じわりと顔が熱くなるのが自分でもわかってしまい、そっと手の甲で顔を覆う。浮気していると思われていた事か、もしくは片想い相手にこっそり会いに行っていたのかと思っていたのに、予想が外れた。そればかりか、思ってもみなかった相談を彼にされていたとは…。
(…東雲くんがこんな冗談を言うわけが無い。なら、本当に司くんがそんな事を言ったのだろうか……?)
一緒に住んでいた時は、どこか落ち着かない様子でずっと緊張されていた。学生の頃と違い、会話だってぎこちなかった。それがなんだか気まづくて、必要最低限にしか会話もしていなかった。司くんは、形式上夫婦になったから頑張ってくれているんだと、そう思っていたのに…。
よくよく思い返せば、僕が彼に触れようとしても避けられたりはしなかったかもしれない。彼が出ていった日も、“夫婦らしい事をしないのに”と言っていた気がする。あの時はつい早とちりをして勝手にキスをしてしまい、さらに彼を怒らせてしまった。“夫婦らしい事がしたいわけではない”と彼は言っていたけれど、もし、本当に司くんが望んでくれていたのだとしたら…。
「…………つぅか、センパイが浮気した、してないって問題よりも、普段から愛されてる自覚がないから向こうが拗ねてるんじゃないっすかね。正直、発情期の時に番が傍に居ないとか有り得ねぇって思うし、Ωなら尚更、精神的に不安定になるんじゃねぇっすか?」
「ゔ…」
「浮気していないっつぅ証明より、誰が特別だって事を証明する方がいいと思いますよ」
適当に手をひらひらと振る東雲くんに、返す言葉もない。
そういう事を、自分から避けてきたのだから。僕の想いを伝えるのは迷惑になるからと、飲み込んできた。理性を失ってまた司くんを傷付けるくらいなら、と彼の発情期に合わせて距離をとることにした。それもあって、次第に司くん顔を合わせるのも気まづくなってしまい、余計に彼を傷付けていたのかもしれない。
東雲くんの言い分が正しいと言いきれないけれど、そう言われてしまうとなんとなく思い当たる部分が出てくるように思える。けれど、それではまるで…。
(………まるで、司くんが僕を好きだった、ということにならないだろうか…)
僕に構ってもらえなくて拗ねている、とか、僕に愛されたかった、とか、僕をその気にさせる、とか、全て僕に都合がいい解釈な気がする。仲直りさせたいから適当に言っているという可能性も無くはないけれど、そんな感じには見えない。そればかりか、隣に座る青柳くんが何故か うんうん、と頷いていることも気になってくる。
じ、と青柳くんの様子を見ていれば、彼は僕に気付くと眉尻を下げてほんの少し笑った。
「以前お聞きしたのですが、番と上手く関係を築けないと気持ちが不安定になりやすいそうです。場合によっては、発情期の周期が乱れるとか」
「………発情期の周期が、乱れる…?」
「きっと司先輩も、神代先輩と話をしたいと思っているはずですから、一度時間を作るのはどうでしょうか?」
「……………そう、だね…」
青柳くんの提案に頷いて見せれば、彼はどこかホッとしたように表情を緩めた。
司くんは周りに恵まれている。勿論僕も。相談に乗ってもらえて有難いことこの上ない。ぐ、と一気にグラスの中の飲み物を飲み干した東雲くんは、ガタッ、と席を立ち上がった。「終わったなら帰りましょう」とさっさとお店の出入口に向かう彼に、青柳くんが立ち上がる。僕も立ち上がり、伝票の書かれた紙を取ってから二人を追いかけた。
あっさりしているのが東雲くんらしい。
「ありがとう、お陰で少し気持ちが楽になったよ」
「お役に立てた様で、何よりです」
礼儀正しい青柳くんの返答の後、東雲くんが「ごちそーさまです」と短くそう言った。相談料として奢ったので、そのお礼だろう。
ひらひらと手を振る二人に僕も手を振って返し、背を向ける。スマホのメッセージアプリを開いて、司くんの名前をタップすると、今朝のやり取りが出てきた。新しく文字を打ち込んで、慣れたようにポン、とそれを送信する。
「……まずは、話し合い、かな…」