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    アメムゲ④ ソラ編本文

    ##アメムゲ

    アメムゲ④ ソラ編本文「なあソラ。今日この後暇か?」
    「暇じゃないけど、どうかした?」
     朝食を食べ終えたソラは、流しで食器を洗っている兄に呼び止められ、リビングを出ようとしていた足を止めた。
    「昨日から公開されてるカーアクション映画の前売り券をもらったんだが、一緒に観にいかないかと思ってさ」
    「カーアクション映画?ああ……」
     そういえば前に予告のCMを見たときに面白そうだと話していた。海外の人気シリーズの最新作という話だったが、もう公開していたのか。
    「うーん、お誘いは嬉しいんだけど、僕これからバイトだから」
    「またバイトか?お前、土日はいつもバイト入ってるんじゃないか?休みは取れないのか?」
     洗い物が終わったのか、タオルで手を拭いている兄が呆れた声を上げた。
    「平日は大学だから、土日くらいはね」
    「そうか……。たまには休みをもらって、ゆっくりするんだぞ」
    「うん、ありがとう。兄貴も普段残業ばっかりなんだから、日曜日くらいしっかり休んでよね。あと冷蔵庫に昨日作った煮物があるから、それお昼で食べちゃって」
     鞄を肩にかけると、じゃあ行ってきます、と兄に声をかける。しかし帰ってきたのは「いってらっしゃい」では無い、別の言葉だった。
    「ところで、いつになったらお前はバイト先を教えてくれるんだ?」
    「教えません。どうせ遊びにくるつもりでしょ」
    「まあな。でも、どうせ厨房なんだから見えないだろ?お前が普段どんなところで働いてるのか、兄としては気になるわけだよ」
     気づけば玄関先まで見送りにきている兄から顔を背けるように、ソラは扉の取っ手に手をかけた。
    「……何も心配いらないよ。じゃあ、時間だから僕行くね」
    「そうか。……いってらっしゃい、ソラ」
    「うん。いってきます、兄貴」
     
     いつも通りの小さなカードショップ。
     その日は昼前から、賑やかな声が店内に響いていた。
     小さな子供たちや、大きなお友達。その客層は幅広く、それぞれが求めるカードの価格帯も異なる。
     小学生男子数人は、低価格帯のカードコーナーに群がってはお目当のカードを探している。
     一方の成人している客は、ショーケースの中にあるレアカードを物色しているようだ。
     そうしている間にまた新しい客が数名店内に入ってくる。小さな店は、それだけで一気に人口密度が高くなる。
     普段はやや閑散としているこの店も、日曜日ともなるとそれなりに混み合うため、アルバイトことソラは基本レジ前に立っていることが多い。アメヒコはカウンターに座って新聞を読んでいるが、必要に応じていつでも対応できる状態だ。
    「あれ、それ昨日の新聞ですか?」
     小学生たちの会計を終わらせたソラがアメヒコの読んでいる新聞を覗き込んだ。日付は前日、曜日も土曜日と書かれている。
    「ああ、昨日は結局まともに読めなかったからな。今日まとめて読んじまおうと思って」
    「なるほど。何か書いてありました?」
     そう尋ねられたアメヒコは昨日の新聞を折りたたみ、「昨日のは特には。新しいブースターパックの発売日が決まったことくらいか?」と興味なさげに呟いた。
     そして今日の分の新聞を手に取り、一面から読み始める。
     アメヒコが読んでいる新聞は、一般的な新聞ではなく、いわゆる業界新聞と呼ばれるものである。
     トレーディングカードゲーム業界、特にビークロに関する情報を多く取り扱う新聞。それに一通り目を通すことがアメヒコの習慣だった。
     深見ムゲンが先だっての全国大会セレモニーの一件以降謹慎処分となっていたことも、この新聞によって得た情報だった。
     一面の記事を読み終えたアメヒコが慣れた手つきでページをめくると、目に飛び込んできた記事に思わず硬直してしまう。
    (ムゲンの写真?)
     そこにあったのは、尋ね人のような形式で深見ムゲンの情報を求める記事だった。謹慎中の身だった深見ムゲンが姿を消してしまったため、情報提供者、または探して連れてきてくれる人を求める、とのことだ。しかもそれにかなり多額の謝礼金が提示されている。その金額にも驚くところだが、おそらくは閃極内部の闇を知り尽くしたムゲンを野放しにしておくことを恐れたが故の対応なのだろう。
    (これは、ムゲンを外に出すのは極力避けた方がいいな)
     無論、元よりあの状態のムゲンを外に連れ出すつもりは無い。しかし、これまで以上に気を引き締めなくてはならない。ムゲン本人も閃極の関係者だったが、業界における閃極の噂はそれは酷いものだ。ムゲンを取り戻した閃極がどのような対応を取るのか、考えるだけで寒気がするほどだ。
     はあ、と小さくため息を吐き、新聞を閉じた。ここ数日で一気に心配ごとを抱え込んでしまったような気がする。
     ふと店内の時計に視線を移すと、時刻はまもなく午後一時になろうとしていた。そろそろソラに昼休憩を与える時間だ。
    「ソラ、少し席を外す。すぐ戻るから待っていてくれ」
     レジ前に立つソラにそう声をかけると、アメヒコはカウンター後ろの扉を開き、その奥へと入っていった。
    「捨て猫さんのお世話タイムかな?了解でーす」
     ソラは誰にも聞こえないような小さな声で、そう呟いてはフフッと笑った。
     
     自室に戻ったアメヒコは、さっそくムゲンの姿を探した。新聞の記事を読んだからというのもあるが、連れ去られたりしていないか、誤って外へ出たりしていないか心配に思っていたのだ。
     しかし、そこにいるだろうと予想された布団の中や卓袱台の前を見てみたが、予想は裏切られ見つけることはできなかった。あまり広くない部屋でそう行ける場所もないのに、いったいどこへ、と焦りを覚えたところで、床に這いつくばっているムゲンの姿を発見した。
    「ムゲン!?どうした!」
     思わず駆け寄り背中に手を置くと、ムゲンの口から弱々しい声が漏れた。
    「アメヒコ、その……お手洗いに……行きたくて……」
     見れば顔色が酷く悪い。冷や汗もかいているようだ。おそらく、限界ギリギリといったところだろう。
    「わかった。今連れて行くから、もう少し我慢できるか?」
    「は、はい……すみません」
    「俺の方こそ悪かった。もう少し早く来ていれば……持ち上げるぞ」
    「はい……」
     ムゲンの膝の裏に手を差し込み、もう片方の手で背中を支える。苦しそうに息をグッと止めるムゲンの小さなうめき声が聞こえる。見た目よりも軽いムゲンの体躯は比較的簡単に持ち上がった。それでも人一人抱えるのはそれなりの力を必要とする。フッ、と声をあげて立ち上がった。
     歩いてしまえばほんの数歩、数秒で着いてしまうトイレだが、目の見えないムゲンにとってはそうもいかなかったらしい。
     足の先で扉を開き、片手でムゲンを支えては便座を下ろし、そこへムゲンを座らせる。
     脇の下に左腕を回したままスウェットのゴムに右手の指をかけると、焦るような声が耳元で聞こえた。
    「あっ、あの、そこから先は、自分でできますので……!」
    「っ……!そうか、失礼した」
    「いえ、助かりました、ありがとうございます」
     切羽詰まったムゲンの声を聞きながら、慌てて個室の外に出て扉を閉める。流石にやりすぎだと気付いた時には遅かった。正直に言って少し気まずい。
     用を足す音を聞かれるのも良い気はしないだろう、と考え至ったアメヒコは、わざと少し足音を立てて、その場から離れた。
     台所に移動し、冷蔵庫を開いた。ムゲンの少し遅い昼食をどうするか決めようとしたが、残念ながら冷蔵庫の中には大した食料が入っていない。
     冷凍庫の中も見てみたが、冷凍食品のうどんと、あとはレトルト牛丼の肉のパウチ、それからアイスクリームくらいしか入っていない。
    「さて、どうしたものかな……。あとはカップ麺と、おかゆのレトルト……は今朝のメシで切らしたんだったか。あとは……カロリーブロックくらいか」
     食料を詰め込んだ箱の中を物色する。アメヒコ自身あまり食にこだわらないタイプであるため、手軽に食べられるラインナップが多い。
    「いっぱい食わせてやりたいんだがなあ……。仕方ない。後で買い物行ってくるか」
     とりあえずは栄養補給食であるカロリーブロックでも食べておいてもらおう、と箱ごと掴んでエプロンのポケットに突っ込んだ。
     
     ちょうどその頃、会計対応が落ち着いたソラがふぅ、と一息ついていた。
     まだ店内に客は少しいるが、見れば全員店内にある簡素なバトルスペースで客同士のバトルに夢中になっている。あの様子であればしばらくレジには来ないだろう。
     ソラはレジ横のカウンターの席に座ると、目の前に放置されていた今日の新聞に目を止めた。
    (そういえばこれを読んでる時の店長、少し様子がおかしかったな)
     そう思ったソラは、置かれている新聞に手を伸ばした。
     一面の記事は、海外の大会で優勝した人の特集だった。興味なさげに一読したソラはペラリ、とページをめくった。次のページのメイン記事は、閃極コーポレーション及び閃極ファイターズスクールの業務報告、それから尋ね人の記事だった。
    (この新聞で尋ね人なんて珍しいな)
     尋ね人の欄に載せられた顔写真を見るに、とても美しい容姿をしている男性のようだ。モデルかタレントかと思いきや、閃極コーポレーションの元幹部らしい。
    (深見ムゲン、か。どこかで聞いたことがあるような、ないような)
     ソラは少し考えたが思い出せず、まあいいかと次のページを開いた。みっちりと敷き詰められたカードショップの広告に、地方大会の予選の告知。ほかにも雑多な情報が載せられていたが、早々に飽きてしまったソラはパラパラと眺めた後に新聞を閉じ、元あった場所へ戻した。
    (店長もよくこんな新聞毎日見ていられるよね)
     手持ち無沙汰になったソラは、レジ下に収められたハンディモップを手にすると、陳列棚の埃を取る作業に移った。時計を見れば、既に休憩予定時刻を二十分ほど経過している。
    (早く店長帰ってこないかなぁ)
     バトルの決着がついたのであろう、客たちのにぎやかな声をBGMに、ソラはぼんやりとそんなことを考えていた。
     
     
     
     
     その日のアメヒコは、どうも寝つきが悪かった。
     寝苦しいというわけではない。そんな季節でもない。
     体調が悪いわけでもない。
     ただ、昼に読んだ新聞の影響か、悪い想像ばかりしてしまってどうにも気分が優れなかった。
     もしムゲンが閃極の奴らに見つかり、連れ戻されてしまったら。幽閉だけで済むのか、拷問や暴行など、死ぬ直前まで苦しめられるのか、あるいは秘密裏に消されてしまうのか。考えるだけで身震いがする。
     そんなことばかり考えていたら、気がつけば夜も更け、日付も変わろうとしていた。流石にそろそろ寝てしまいたいところだが、嫌なことを考えてしまったせいなのか、知らないうちにひどく喉が乾いてしまっていた。
     アメヒコは、隣で眠るムゲンを起こさないようそろりと布団から抜け出した。ぎし、と音の鳴る床を数歩歩き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して一気に飲み干す。
     はあ――、と大きく息を吐き、ゴミ箱に空のペットボトルを入れると、そのままムゲンの眠る布団へと足を進めた。夜中で静かなせいだろう、ぎし、と床が軋む音がよく聞こえる。そしてそれとともに、ムゲンのくぐもった呻き声のようなものが聞こえてきた。
     今ので起こしてしまっただろうか、と思って顔を覗き込むが、どうやらそうではないらしい。嫌な夢でも見ているのか、眉間にしわを寄せ、苦悶の表情を浮かべている。そして段々と、その寝言の内容が聞き取れるようになってくる。
    「嫌だ、来ないで、ください……やめて……触らないで……」
     その内容に、アメヒコは思わず動きを止めた。ふと、昨日目覚めた時のムゲンの様子が脳裏に浮かんだ。あの時も、触らないでと手を叩かれた覚えがある。
    「やめてください……たすけて、久城、久城……誰か、もうやめて……いやだ……や……あ、ああ、ああああっ」
     ムゲンは、何かから身を守るように体をうつ伏せにし、顔を布団に押しつけては怯えた声を上げていた。アメヒコは思わず「ムゲン!」と声をかけ、その背中に触れた。
    「やめて、もうやめて、触らないで、嫌だ、嫌だ……」
    「大丈夫だ、何もしない。大丈夫だから」
     小さな子供のように震えるムゲンの背中を、ただひたすら優しく撫でる。
    「やめて……嫌だ……触らないで……もう、嫌なんです……」
    「大丈夫だ。大丈夫だからな。もう大丈夫だから……」
     うわごとのように拒絶の言葉を繰り返すムゲンと、ただ大丈夫だと言い続けるアメヒコ。
     次第にムゲンの声が聞こえなくなり、代わりにすう、すう、と寝息が聞こえるようになってくる。
    「……悪い夢は、終わったか」
     ホッと気の抜けた声を漏らしたアメヒコは、背中を撫でるのをやめ、そのかわりにうつ伏せに寝ているムゲンを仰向けにするべく軽く抱え、枕の上に頭を置いた。見れば、涙の跡が目元にあった。
    「……やっぱり、絶対閃極には見つからないようにしないとな」
     狭い布団から落ちないように体を横にしたアメヒコは、隣で眠るムゲンの横顔を見ながら決意を新たにした。
     
     

     
     長い悪夢を見ているようだった。
     薄暗い牢屋に閉じ込められ、複数の手が伸びてくる。
     髪を強く引っ張られ、顔を殴られ、腹を蹴られ、服の中を弄られる。
     痛い。苦しい。気持ち悪い。
     何度やめてと懇願しても、その手が緩められることはなく、体を無理矢理開かれるときの冷たい絶望感が心を支配する。
     何度も何度も繰り返されるその地獄は、寝ても覚めても自身の心身を強く蝕む。
     日付の感覚も、時間の感覚も、なにもかもが既に消え失せてしまっていた。目が見えないという理由だけではない。全ての物事に対する感性というものが、少しずつ鈍っていくのを感じていた。
     再び、足音が響いた。牢の扉が開かれる。そしてまた、誰かの手が、足が、ムゲンの尊厳というものを奪い去っていく。
     ムゲンの口から、拒絶の声が漏れ出る。それが何の意味もなさないとわかっているのに、それでもやめてという言葉は悲鳴となって口から出てしまう。
     だからその時も、また終わらない地獄が始まってしまうのだと思った。しかし、降ってきたのは拳でも、足でもなく、穏やかで優しい声だった。
    「大丈夫、大丈夫だからな」
     暖かい声から漏れ出る熱が、体を包み込むように全身へとじんわりと広がっていく。
     それまで身体中に感じていた鈍い痛みのようなものが、まるで綺麗に消えていくような気持ちになった。
     背中が暖かい。繰り返し聞こえてくる「大丈夫」の言葉が、どうしようもなく優しくて、光を映さない瞳から涙が溢れてしまうのを止められなかった。
     そこはいつしか、牢屋の冷たい床ではなく、柔らかく温もりのある布団に変わっていた。
     
     
     ふっ、と意識が浮上した。
     嫌な夢を見ていたような気もするし、案外悪くない夢見だったような気もする。しかし、その内容は既に記憶に留まってはいなかった。
     耳を澄ませると、家の中でガサゴソと音が聞こえる。おそらく、アメヒコが何かをしているのだろう。
     ムゲンは寝返りを打つと布団に両手をつき、のそりと起き上がった。すると、ムゲンの様子に気付いたアメヒコが「お、おはようさん」と声を上げた。
    「アメヒコ。おはようございます」
     声の聞こえる方を向きながらそう言った。不思議なものである。つい数日前までは人の気配を感じるだけで恐怖で身が竦んでいたというのに、今ではこんな呑気に朝の挨拶をしている。それも、このアメヒコという不思議な男が成せる技なのだろう。
    「顔色は悪くなさそうだな。飯は食えそうか?」
    「ええ、おかげさまで」
    「なら良かった。朝飯はコーンフレークでいいか?」
    「はい。……すみません、お手間をおかけして」
    「なに、大した手間じゃないさ。気にしなさんな」
     アメヒコは軽い声色でそう言うと、パタパタと動き回っては朝食の準備に取り掛かった。バリッと袋を開ける音、容器にコーンフレークが注がれる軽快な音、そしてトプトプと牛乳が注がれる音。目が見えない分、何をしているのかを音で判断しているムゲンだが、最近聴いた中で最も心地の良い音だった。
     アメヒコは布団に座り込んでいるムゲンに近寄ると、「手を握るぞ」と声をかけ、ムゲンの手を取った。
     ムゲンはアメヒコの手を借りる形で立ち上がり、そのままゆっくりと足を踏み出した。そして卓袱台の前にたどり着き、その場に座る。それからアメヒコは流れるようにムゲンの手を卓袱台の上にあるコーンフレークとスプーンにそれぞれ誘導した。
    「ありがとうございます、アメヒコ。いただきます」
    「おう。召し上がれ」
     心なしか嬉しそうなアメヒコの声に促され、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。牛乳に浸されたコーンフレークは柔らかくなっており、口の中ですぐに溶けた。冷たい牛乳とコーンフレークの甘さは、少しくどく感じられたが乾いた体に心地よく、すぐに完食してしまった。
    「ちゃんと完食できたな。良かった良かった。おかわりいるか?」
    「い、いえ。大丈夫です」
     思ったよりも近くで、しかもすぐに声をかけられたためムゲンはどきりとした。まさか自分が食べているところをずっと見ていたのだろうか。だとしたら少し気恥ずかしい。
     アメヒコはそんなムゲンの様子を気にもとめず、再びムゲンの手を取った。今度はお手洗いに連れて行こうとしている。たしかに、そろそろ行きたいと思っていた。昨日のことがあったからなのか、アメヒコは割と頻繁に、お手洗いに行きたいかどうかをムゲンに確認するようになった。これも最初はやや抵抗があったが、生理現象であるから仕方がない、とアメヒコの厚意に甘えている。
     アメヒコの手を握り、お手洗いへと歩みを進める。
     ほんの一日二日の間に、アメヒコはすっかりムゲンの扱いに慣れてしまっているようだった。
     ムゲンの方も、こうやってアメヒコに世話を焼かれることに少しずつ慣れてきて、目が見えないことへの不安すら、アメヒコに委ねてしまっていた。ムゲンにとってそれは、これまで感じたことのない不思議な、それでいて悪くない感情だった。
     
     
     朝食を食べ終え、お手洗いを済ませたムゲンは、アメヒコに勧められるがまま再び布団の中へ入った。衰弱しきっていた頃と比べたら多少体力も戻ったが、それでもまだ横になっていた方が良い状況であることは間違いない。
     柔らかい布団と枕、暖かくて少し重たい掛け布団。それは思い切り手足を伸ばしても指先が外に出ないほどの大きさで、長身のムゲンにとっては嬉しい設計だ。
     そんな快適な布団で横になっていると、段々と眠くなってくる。アメヒコがキーボードをタイピングしているのであろうカタカタという音でさえ、心地よいBGMだ。
     何をするでもなく、周囲の音を聞き、時間をやり過ごす。それ自体は牢にいた時から変わっていないが、こうも心持ちが違うとは。
     そんな穏やかな空気に身を浸していたムゲンは、突如響いたガンガンという大きな音に大きく体を跳ねさせた。
    「なっ……この音は……?」
    「ああ、もうそんな時間か」
     なんでもない事のように呟いたアメヒコは、ムゲンの隣を通り過ぎ、部屋の扉を開いてはパタパタとスリッパの音を立てて遠ざかっていく。遠くから、カチャン、と鍵の開く音と、それに続いて人の話し声が聞こえてくる。
    「なんだボウズか。もう学校終わったのか?」
    「なんだじゃねえよーおっちゃん!お店開くの忘れてたのかー?それでも店長かよ!」
    「まあな。これでも店長だよ。今開けるから、ちょっと待ってな」
    「おう!今日はお小遣いもらったから、いっぱい買ってやるからな~!」
    「それはありがたいね。ごゆっくりどうぞ」
     どうやら、小さな男の子と話していたらしい。パチン、と電気が付く音が微かに聞こえると、軽快な足音が聞こえてくる。どうやらこの部屋は扉一枚隔ててアメヒコの持つ店と繋がっているようだ。
     眠気も吹き飛んだムゲンは、アメヒコと少年の会話に耳を傾けた。
    「これと、これと……あとこれ!」
    「ほう、お目が高いじゃないか。三百円だ」
    「おう!ピッタリ三百円!ありがとな、おっちゃん!じゃあなー!」
    「ほら走るな、危ないだろ」
    「へへっ!だって嬉しくてさー!またな!」
    「おう、またどうぞ」
     少年の元気な足音が遠ざかっていく。どうやら退店したらしい。たった一人だったというのに台風のような賑やかさで、それがあまりにも楽しそうだったのでムゲンは思わずクスリと笑っていた。
    「お前が笑うなんて珍しいな。何か面白いことでもあったか」
     いつの間にか、アメヒコは部屋の中に戻ってきていた。
    「アメヒコ。お店は良いのですか」
    「ああ、平日の昼間なんて学校帰りの小学生くらいしか来ないし、それもそう多くはないからな」
    「なるほど。……それにしても、元気なお客さんでしたね」
    「全くだよ。あの元気を分けて欲しいくらいだ」
     そんな何でもない会話をしていると、なんだか楽しくなってくる。
    「とはいえ、店を開いてるのに店の中を見ないのもな……。そうだ。ムゲン、ちょっといいか?」
    「?なんでしょうか」
     
     アメヒコは、店のカウンター後ろにある扉を半開きにしたまま、その開いた戸の隙間に収まるように座っている。そしてムゲンは、店の中からは見えない位置に置かれた座椅子に腰掛けている。
    「こうしておけば、お前と話しながら、店の様子も見られる。どうだ、名案だろ?」
    「は、はあ。アメヒコがそれで良いならば」
    「十分さ。さて何について話そうか。昨日も一昨日もなかなかゆっくり話せなかったからなあ」
     ムゲンは一瞬どきりとした。身の上を話すべきだろうか。自身の犯した罪について、聞かれるのであろうか。そう身構えたところでアメヒコの口から出てきた言葉は意外なものだった。
    「そうだ。お前は、駄菓子だったら何が好きだ?」
    「……はい?」
     全くもって予想だにしていなかった話題を振られ、ムゲンはポカンと口を開けた。
     駄菓子?駄菓子と言っただろうか。
     単語くらいはわかる。菓子類の仲間だろう。しかし、駄菓子と言われるといまいちピンとこない。
    「あの、アメヒコ……なぜ、駄菓子なのですか」
     ムゲンは戸惑いがちにそう尋ねた。
    「うちの店の隣が駄菓子屋なんだよ。いまさっきのボウズが店の前を通ったんだが、隣の店の菓子持ってたからなんとなく食いたくなってね」
     俺はきなこ棒とかポン菓子が好きだったな、とアメヒコは語り続けている。
     ムゲンはなるほど、と小さく呟いたが、それ以上の言葉が続かなかった。
     菓子といえば、使用人が作ったケーキやクッキーであれば口にすることもあったが、市販の菓子類を出されることなどほとんどなかったムゲンにとって、駄菓子などはまさしく未知の領域だ。
    「……まさかとは思うが、駄菓子を食ったことない、とか言わないよな?」
    「いえ、その……まさか、ですね」
     口ごもりながらも正直に答えると、アメヒコの「マジかよ」という掠れた声が耳に入った。呆れられてしまっただろうか。
    「わかった。じゃあちょっと買ってくるから、ここで待っててくれ。ああ、誰か来ても出るんじゃないぞ?」
    「えっ、あの、アメヒコ?」
    「大丈夫だ、すぐ戻る」
     そう言うと、アメヒコは扉を閉め、楽しそうにパタパタと外へ出て行った。
    (本当に行ってしまった……)
     仮にも店主が、そう簡単に店を空けてしまって良いのだろうか。いや、そもそも何の店をやっているのかも知らないのだが。少なくとも平日に客が来なくても経営が成り立つ職種なのか。
     ムゲン自身、閃極以外での就業経験は無い。そのため、他の業界での勤務体系については知らないことの方が多い。ならばまあ、考えるだけ無駄というものだろう。
    (しかし、こんなにも、知らないことだらけだったとは)
     多少落ち込みもするが、知らないものは仕方がない。これから知っていくほかないだろう。
     それよりも、アメヒコは駄菓子を買ってくると言っていた。この流れなら、きっと買ってきたものを食べさせてくれるのだろう。駄菓子を食べたことがないムゲンにとっては初めての経験になる。いったいどんな味なのか、心のどこかで期待している自分に気付いた。
     カラカラ、と店の扉が開く音が聞こえた。アメヒコが戻ってきたのだろう。駄菓子を売っているのは隣の店だと言っていたから、帰りが早いのも頷ける。しかし、聞こえてきた声は、予想していたものとは違っていた。
     

    「店長~~?」
    (アメヒコの声じゃ、ない?)
     ムゲンの耳に飛び込んできたのは、聞いたことのない声だった。男性の声だが、少し幼い印象も受ける。少なくともアメヒコの声とは似ても似つかない。入ってきたのがアメヒコだと思い込んでいたムゲンは、驚きのあまり体をびくりと震わせてしまい、それに伴って動いた座椅子がガタンと壁に当たった音がした。
    「店長、そこにいるんですか?」
     声の主は、あろうことか店とムゲンとを隔てている扉を無遠慮に開き、中を覗き込んできた。扉ごしに聞こえていた声が、ダイレクトに耳に届く。
    「あれ?店長……じゃないな」
    「っ……!」
     ムゲンは咄嗟のことに対処できず、何も言えないままその場で硬直してしまった。少しの間、沈黙が流れる。人の呼吸する音が聞こえるため、その人物が近くにいるということだけはわかる。
     何か言わなくては、と思うのだが、上手い言葉が出てこない。
    「……ていうか、その顔……」
    「おいソラ!お前何勝手に人んちの中覗いてるんだ!」
     何も言えないまま困惑で固まっていたムゲンの耳に、少し聞き慣れない怒気と焦りが混ざったアメヒコの声が届いた。
    「あっ店長?おかえりなさい。すみません、呼んでも反応無かったから、中にいるのかなって思って」
    「あのなあ……。まあいい、とりあえずどいてくれ。ムゲン、今帰った」
    「あ、……はい。おかえりなさい、アメヒコ」
     ムゲンはやっと、言葉らしい言葉を口に出すことができた。アメヒコの声を聞くだけで、こうも安心してしまうとは。自分で自分が可笑しく思えた。
    「ムゲン?……その人、ムゲンさんって言うんですか?」
    「ソラ。言っておくが、こいつのことは他言無用だ。誰にも言うんじゃないぞ」
    「はーい。店長が人さらいをしたってことは隠しておきまーす」
    「人聞きの悪いこと言うな」
     アメヒコの釘刺しに対し、軽い調子で返す。ソラと呼ばれたその人物は、どうやらアメヒコと親しい間柄であるようだ。二人はいつの間にやら、アメヒコの買ってきた駄菓子の話で盛り上がっている。
    「えー、なんですかこのチョイス。安堂さんのお店ならもっと良い駄菓子が揃ってるでしょうに」
    「別にいいだろ。俺が好きなやつと、あとはこいつに食わせてみたいやつとで適当に選んだんだ」
    「このすももはどっちですか?」
    「まあ後者だな」
    「えー、悪趣味ー」
     ムゲンはそんな二人の会話を聞いているようで聞いておらず、どこか上の空で呆然とその場に佇んでいた。
    (この方はアメヒコの、何なのでしょうか。お客さん、にしては親しすぎるような。いえ、先程の子供とも、十分親しそうでしたし、アメヒコは誰とでも仲が良いのでしょう)
     そう思うと、何故かムゲンは胸がちくりと痛むような気がした。
    (この気持ちは、いったい……?)
     自身の不可思議な感情に戸惑うムゲンは、次第に二人の声が全く耳に入らなくなってしまっていた。
    「ムゲン……ムゲン?」
    「はいっ!?」
     肩をポンと叩かれ、思わず大きな声が出た。
    「どうした、何か、気になることでもあったか?」
    「いえ、そういう訳では……どうかされましたか?」
    「いや、せっかく買ってきたわけだし、お前にも駄菓子を味わってもらおうと思ってね。まあ口を開けてくれ」
     アメヒコの声はひどく楽しそうだ。
     ムゲンは戸惑いながらも薄く口を開けるが、まだ足りなかったらしくアメヒコから「もっと大きく」と言われ、さらに口を開いた。
    「良い子だ。はい、閉じていいぞ」
     子供扱いか、と眉間に軽く皺を寄せたムゲンは、それでも素直に口を閉じた。唇に何か細い棒のようなものが当たり、そして口内には何かパサついた甘いものが入れられていた。
    「んんっ!?」
    「これはきなこ棒。つまようじの先が赤くなってたら当たりなんだが……残念、ハズレみたいだ」
     ムゲンの口からつまようじを抜き取ったアメヒコが、しかし全く残念では無さそうにそう言った。
    「噛んでみろ。けっこうしっかりした食感だぞ。今水持ってくるから」
     確かに、パサパサしている上にねっとりとしており、これは口の中の水分を持っていかれる。もごもごと時間をかけて咀嚼しているムゲンに、アメヒコは蓋を緩めたペットボトルの水を手渡した。受け取ったムゲンは失った水分を求めるようにそれをこくりと飲み下した。
    「どうだ、なかなか美味いだろ」
    「え、ええ」
    「それじゃ次は麩菓子かな。もう一度口を開けてくれるか」
     今度は素直に、少し大きめに口を開けた。飛び込んできたのは、柔らかくもサクサクとした甘い菓子だった。思ったより大きくて、一口ではいけない。ムゲンはこのまま噛んでしまえば良いのか、少し悩んだ。
    「ん、……ちょいとばかし、アレだな。……食いにくいかもしれんが、思い切り噛んでみろ」
    「ふぁ」
     はい、と答えようとしたが叶わず、とりあえず歯をたててそれを噛み砕いた。行儀が悪いとわかってはいるが今更だろう。思い切り頬張ったそれをバリバリと噛み、それもまた飲み込んだ。手に持っていたペットボトルの水を再び口に含む。
    「店長、そういう趣味があったんですね」
     呆れるようなソラの声が、アメヒコに投げかけられる。
    「黙ってろ。……どうだムゲン?初めて食べる駄菓子の味は」
    「ええ……菓子、という名前のごとく、とても甘味が強いです。パティシエの作るケーキのような濃厚な甘さとはまた違いますが、舌にダイレクトに訴えかけてくる甘さですね」
    「ん?ああ、難しいことはわからんが、そうだろ」
     アメヒコは嬉しそうだ。
    「だが、駄菓子は甘いものだけじゃない。次のは中に硬い種が入ってるから、思い切り噛んだりすぐに飲み込んだりするなよ?」
     口を開けて、というアメヒコの声に従って、ムゲンは再び口を開いた。ツンとした酸っぱい香りが鼻腔を突く。そして口に放り込まれたのは、丸くて少し柔らかい、そしてとても酸っぱいものだった。
    「!?」
    「はは、びっくりしたか。こいつはすももだ。中に種があるから気をつけろよ」
     ムゲンはこくりと頷くと、もきゅ、と口の中のすももに恐る恐る歯を立てた。コリ、と割れた果肉から、さらに酸っぱい味が滲み出てきて、酸っぱさと渋みが口の中に広がる。ムゲンは思わず表情を歪めた。
    「いい顔だ、食わせた甲斐がある」
    「店長……」
    「お、ソラも食いたかったか?安心しろ、三個入りだから三人で分け合おう」
    「はあ。じゃあいただきます……んー、すっぱ」
     もごもごというソラの声と、アメヒコの楽しそうな笑い声が漏れる。ムゲンはしばらくの間、渋い表情を浮かべたまま硬直し続けていた。
     
    「それで、お前は何しに来たんだ。今日はバイトじゃないだろ」
     しばらく駄菓子パーティーを楽しんだ後、アメヒコはソラにそう切り出した。
    「ああ、そうでした。これを届けに来たんです」
     ソラはカバンを漁ると、アメヒコにタッパーを差し出した。少し大きめなタッパーに入れられたそれは、おそらく二人前はあるだろう。
    「練習で作ったラタトゥイユなんですけど、作りすぎちゃったんでおすそ分けです」
    「へえ。野菜のトマト煮か」
    「言い方!店長全然野菜食べないって言ってたからこれでも気を使ってるんですよ?」
    「それはどうも。まあせっかくだから今食っちまうか」
     アメヒコはタッパーごとレンジに突っ込み、ツマミを回した。台所にいるアメヒコから、「お前も食べるだろ?」と声が投げかけられ、ソラは是の返答をした。
     ラタトゥイユのタッパーとスプーンを持ってきたアメヒコは、先程と同じ場所に座り、さっそくスプーンで掬って一口食べた。
    「おー、流石に美味いな」
    「でしょう?今回のはけっこううまく出来たんですよ」
    「ああ、店で出てきそうな味だ。ムゲン、お前も。ほら、口開けろ」
     突然声をかけられて肩をピクリと跳ねさせたムゲンだったが、アメヒコに促され躊躇いなく口を開いた。ラタトゥイユを掬ったスプーンが口に入れられる。ゆっくりと咀嚼したムゲンの顔が綻んだ。
    「これは……とてもおいしいラタトゥイユですね。セロリの食感が瑞々しくて……素晴らしいです」
     ムゲンは穏やかな笑顔でそう語った。
     ソラは一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、その幸せそうなムゲンの顔を見ては、「でしょう?」とはにかんだ。
    「っていうか、さっきから気になってたんだけど……もしかしてムゲンさん、目が見えてないの?」
    「……ええ」
     ムゲンは、焦点の合っていない目を伏せた。アメヒコが睨んできたような気がしたが、まあ気にしない。
    「ご不快に思われていたら、すみません。目が見えていれば、この料理の見た目の美しさもきちんと味わえたでしょうに」
    「別に不快ではないよ。なんか目が合わないなと思っただけだし。それにこれは普通のラタトゥイユだから。……ねえ、やっぱり、目が見えないのは、不便?」
    「ええ、それはもう」
    「だよねえ、ごめん。変なこと聞いて」
     ソラは困ったように笑った。
     
     三人でラタトゥイユを完食した後、アメヒコはタッパーを洗うべく席を立った。洗い場から、水を流す音が聞こえる。
     ソラは、目を閉じて穏やかな表情を浮かべるムゲンを一瞥した。
    (やっぱり、この人……昨日の新聞に載ってた人、だよな)
     しっかりと読んでいたわけではないので、顔も名前もうろ覚えだ。それに、目の前にいるこの人物は、あのまるでタレントのように美しかった写真のものとは違い、顔に痣やキズをつけていたため、少し印象が異なる。それでも、やはり似ている。
    (ちょっと確認してみようかな)
     カウンターの下、足元にある紙袋の中に、これまでの新聞が積み重なって入れられている。その一番上の新聞が、昨日発行されたものだった。
     広げて確認しようと思ったところで、台所の水音が止んだ。思わず新聞をそのまま鞄に滑り込ませてしまう。
    「待たせたな。……どうかしたか?」
     不自然な姿勢で固まっていたソラに対し、アメヒコは訝しげな表情を浮かべた。
    「いえ、なんでも。じゃあ僕、そろそろ帰りますね」
     アメヒコの差し出したタッパーを受け取ったソラは、そそくさとその場を立ち去った。
    「……ソラの奴、いったいどうしたんだ?ムゲン、何か話したか?」
    「いいえ?アメヒコが流し場にいる間、一言も話されませんでしたが」
    「そうか。俺の気のせいだったかな」
     そう言いながらも、アメヒコは腑に落ちていない表情を浮かべていた。
     扉のガラスの向こうに見える空は、少しだけ暗い灰色になっていた。まるで今にも、雨が降り出してきそうな空模様だ。
    「……何もないといいんだが」
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