「……あの、雨彦?」
鍛えられた逞しい腕の中。後ろからすっぽりと抱きしめられた状態のクリスは、少々戸惑うように雨彦の名前を呼んだ。
「どうした?」
そう返ってきた声はひどく穏やかで甘い。後ろを振り向こうとすると、それに応えるかのように顔を覗き込まれて、ミステリアスな色の瞳と目が合った。ふっと満足そうに微笑まれると、照れくさいような気持ちが湧き上がってくる。
「ええと、この、状態は……」
「嫌かい?」
「いえ、嫌というわけでは、ないのですが……」
よくよく見ると、当の雨彦本人も自分の行動に戸惑っているのか、その瞳にはほんの少しだけ困惑の色が混ざっている。それでも雨彦は、クリスを離してくれる気配がない。
雨彦の家で一晩を過ごして迎えた翌朝。家を出た後は一人海へ向かおうかと、身支度を整えていたところだった。
リビングのソファに座る雨彦に呼び寄せられて、クリスは隣に座れということだろうかと近寄った。だが腰を下ろす前に腕を引かれて、気づけば雨彦の膝の上だ。そうして後ろから抱きしめられて、身動きがとれないまま現在に至る。
「雨彦、どうかしたのですか?」
「お前さん、そろそろ帰る時間だろう?」
「そう、ですね」
「……このまま腕の中に捕まえておけば、ここにいてくれるかい?」
耳元で低く囁かれて、顔にじわじわと熱が集まっていくのを感じた。クリスを見つめる雨彦の目は真剣そのもので、冗談などではなさそうだ。
「古論、照れているのかい?」
「……あなたがこんな風にストレートな物言いをするのは珍しいので」
「たまにはそういう時もあるさ」
雨彦はそう答えるが、どうにもしっくり来ていない様子だ。そんな雨彦にクリスが何かを言う前に、身体に回された手がクリスの身体を撫で始めてしまう。
「雨彦、だ、だめです……!」
するすると這い上がるような手の動きに、身体の方は素直に跳ねた。たったそれだけのことで、身体に残った昨夜の記憶が引きずり起こされそうになる。
だってあれからそんなに時間が経っていないのだ。あの熱が戻ってくるのなんて、きっとあっという間のことだろう。
だが慌てたクリスが雨彦の腕を掴むと、予想に反して雨彦は大人しく動きを止める。そして次の瞬間には、いつもの表情の雨彦が戻ってきていた。
「なんてな、冗談だ」
「雨彦……」
「悪いな。こんな風に離したくないと思ったのは初めてのことで、俺も正直どうしたらいいのかわからないんだ」
回された腕にぎゅっと力がこもる。少し困ったような顔で笑う雨彦を、今一人にしたくはないなと思った。それだけで、この後の自分の予定なんて全部消し飛んでいって。
「この腕の中に捕まっていれば、ここにいてもいいのですか?」
そう聞き返すと、雨彦は思いもよらなかったという顔でクリスを見た。
「帰してやれなくなってもいいのかい?」
「ええ、構いません。今は、あなたの側にいたいです」
本心からそう答える。驚いているような、それでいて喜びも混ざったその表情を、愛おしいと思う。
「雨彦、もっとあなたが思っていることを教えてください」
クリスはそれを、叶えたいのだ。
雨彦の身体に身を預けながらそう言えば、雨彦は敵わないなと言いながら笑った。