シュイ、と拘束具で後ろ手に回させた手首を束ね、そのまま気絶している相手の腰に固着させた理人は、隊服の襟元に仕込まれている通信モジュールに唇を寄せた。
「1700、対象確保。これで最後だ。保護部隊を頼む」
明らかにこの時代の者ではないタイムジャッカーといえど、法で裁かれるまではあくまで被疑者だ。
その身柄を輸送するための応援を要請し、雨の近い鈍色の空へ向かい顔を上げる。そこで、たん、と地を蹴る音がした。
本来の身体能力を補強するため、重量を無視した跳躍を可能にするブーツを履いた足が、赤茶けた地面に着地する。
「ノイ」
落ち着いた声音で名を呼び向き直った先、そこにたたずむブラスターを携えた若者は、バディの姿を認めると、星を挙げたというのにあからさまに眉をひそめた。
「……理人さん、僕の到着を待つって言いましたよね?」
打ち倒した他の対象の捕縛をノイに任せて。最後に残った対象はなりふり構わず抵抗してくる可能性が高いから、追跡のみに留める。そう言ったのは本人ではないか。
そんなノイの反応を気にした風もなく、理人は朗らかに笑った。
「ノイは銃器の方が得意だろう。自分は接近戦も慣れているから、一対一なら単独でも制圧できると思い行動した」
「理人さん」
うん? と、結い上げた髪を揺らした理人が新米隊員を見る。
ノイは、改めてバディの正面に立つと、緋を帯びた目で理人を見上げた。
苦戦を示す乱れた髪。おそらく組み合いになり縺れこんで地に押しつけられたのだろう、パワードジャケットの肩から背が土にまみれている。目鼻立ちの整った顔の頬に走る、浅い切り傷に、血が、滲んで。
――育成学校時代、こっそり眺めたブロマイドの中の、清く凛とした理人・ライゼの姿。
カッと、頭に血がのぼった。
「あなた……、うう、もう、……あんたさあ!」
ブラスターを背に格納するまま、両の拳でどん、と相手の胸を叩いた。
おっと、とそれを受け止める形になり、理人はバディの丸みを帯びた後ろ頭に眼差しを落とす。
「バカなの? そんな戦い方してたら、そんなふうに怪我するし、命いくつあっても足りないでしょ!?」
ブロマイドで並び立っていた、もうひとり。
かつてのあのバディであれば、同じ境遇でも、きっと彼をこんな危険に晒したりしない。
自己嫌悪と心配と八つ当たりの混ざった感情にうめくノイに、しかし理人は笑顔を崩さぬまま、穏やかな声音で語りかけた。
「ノイ。今は自分が時空警察特殊部隊の「最強」だ。そんな自分は、まだ信頼に足らないか?」
ノイは、理人の胸に額をつけながら息をのんだ。
がん、と頭を殴られたような衝撃が走る。
自分が理人のバディに相応しいことを示したいともがく一方で、かつての「最強」を失った特殊部隊の長となった理人は、組織全体の志気高揚も含めた重圧を背負っている。
それには、まだ未熟なバディをカバーしながらも、これまでと同じ結果を出し続けることも含まれる。
なのに。自分は。
求められる職務に、危険など厭わず己を投じている相手に対して、まるで駄々をこねる子どもだ。
「……ごめんなさい……」
理人は笑みをたたえたまま、うつむくバディの急ぎ駆けつけたことのわかるはねた髪を撫でつけるように、ポン、と手を置くと、顔を上げて座標の確認を求める後処理班の通信に応えた。
そして、帰還報告が求められる彼らの上官は、ノイがいま一番会いたくない相手だった。
暁ナハト管理官。
憧れていた分、初対面の印象は最悪で、しかし現在の状況を知られるに、理人のバディとしての力量を疑う彼の懸念に抗弁することなど到底できない。
本部執務室で滑らかに報告を続ける理人の横で、姿勢を正し真っ直ぐ前方を見つめていたノイは、相手を射すくめるような冷徹な瞳に一瞥すらされないことに澱む心を漂わせる。
やがて、張りのある声が締めの言葉を告げ、それを承諾するように頷いた管理官は、すっと目を細めた。
一拍を置き、横から、理人の労るような優しい声が落ちる。
「ノイ。先に戻って休んでくれ」
ノイは前方に相対する管理官に顔を向けたまま、心中で呟いた。
――この人は言葉を交わさずとも、眼差しだけで理人さんを引き留めることができる。
ジリジリと胸を焦がす、得体の知れない感情。己とはかちあわない視線。
しかし、氷色の目を今は自分のバディである理人に据える管理官にきっちりと敬礼を捧げて、ノイは執務室を後にした。
部屋に留め置かれた理人は、あくまでも部下としての礼を失しない直立不動で立っていた。
広くとられた執務室の窓。外ではポツポツと雨が降り始めている。
卓を越えて、正面に立ち歩を詰めてくる相手。やがて昇進した上司と部下としては不自然な距離まで近づいてきたところで、理人は口を開いた。
「暁、管理官」
「はは、他人行儀だな」
ふたりは、かつてのバディとはいえど個人的な繋がりがあったわけではない。友人とは言えない、しかし同僚と呼ぶには互いを知りすぎた間柄に、理人は戸惑うまま口にした。
「……暁さん」
呼ばれて、理人の襟元にナハトの指が伸びる。
本来は任務中の意思疎通と記録監査のためジャケット脱着の際に制御するものだが、慣れた仕草で相手の通信モジュールをオフにした指は、そのまま乱れた亜麻色の髪を撫でる。極北の氷を思わせる紫を溶かした色素の薄い瞳が、間近に相手の瞳を見つめた。
汗と埃にまみれた特殊部隊の隊服と、シミひとつない本部中枢を司る管理官の制服。
それぞれに身を包んだかつてのバディは、吐息が絡みあいそうな緊張をはらむ距離で、ただ見つめあう。
「派手にやったな」
理人とノイがバディを組んでから、ここまでの激しい抵抗の絡む捕獲は始めてだろう。
もう血は止まっていたが、まだ生々しい傷跡が残る頬。ナハトはただ傷の心配をするように、髪を整えた片手で頬を包むようにしながら、親指でそっとその傷をたどる。
慰撫される男の口から、は、と、息が漏れた。
「どうした? 理人」
チリチリとした痛み。
そこから思い出されるのは、かつて命を晒す戦闘の高揚を慰めるためにふたりで重ねた、秘密の睦事。
蜜色の瞳が、戸惑いを滲ませて無礼を詫びるように逃れようとする。しかしそれを無視して、ナハトは頬を包んだ手の指先で、ほつれた長い髪の流れる耳の輪郭をたどると、震える下唇を親指でなぞる。
びくん、と背を慄かせて、目に涙を溜めて怯えるように身を引こうとした理人を眼差しで繋ぎ止めたまま、ナハトは先ほどまでとは違う、秘事を共有する声音で囁きかけた。
「仕方がないな。シャワーを浴びて着替えたら、またここに来なさい」
無論、命令ではないが。と言い添えると、かあ、と顔から耳の先までを赤らめた理人は、動揺を見透かされた恥じらいを打ち消そうとするかのように、かぶりを振ってナハトの手から逃れた。
失礼します、と目線を外したまま敬礼をし踵を返す姿。ナハトは、闘いに汚れた今の「最強」の背を見やる。
盗聴を避けるための重い扉を押し、廊下に消えていく。音もさせずに扉が閉まったのを確かめてから、管理官は、ふん、と目線を逸らす。
――彼は必ず戻る。必ず。
先ほどまでリアルタイムで傍聴していた理人とひよっこ隊員とのやりとりを、改めて卓上の機器で再生する。
父を失ったあの日から、目まぐるしいほどに色々なことがあった。もはや懐かしくも思える、今の外の雨音と交錯する過ぎた戦場の音声に、ナハトは窓の外を眺めやった。
私なら。傷をつけさせたりなど。
「……理人には、私のほうが相応しい」
薄い唇が囁く声は、誰にも届かないまま執務室の空気に溶けた。