暗い海から届く波音だけが響いている。レジェンド号の甲板に一人佇むフリオは、荒く波打つ海を静かに眺めていた。
呪われた船であるレジェンド号の進む航路はいつだって荒れている。だが暗く渦巻く海は行く手を完全に阻むことはなく、ただ難しい航海を強いるのみ。フリオ達をいつか飲み込まんというように、あるいは永遠に逃さないというように寄り添い続けるだけだった。
キャプテン・ヒューゴにとっては忌々しいものでしかないこの荒れた海を、それでもフリオは好ましく思っている。引きずり込まれそうな暗い水底に、つい心が引き寄せられてしまうのだ。
「何をしている、フリオ」
波音をくぐり抜けるように低い声が届いて、フリオは現に引き戻された。振り返るといつになく不機嫌そうな顔をしたヒューゴが腕を組んで立っている。
「キャプテン」
「戻れ、進路を変える」
手短にそれだけ伝えたヒューゴは踵を返した。
ヒューゴは時折フリオがこうして一人海を眺めているのをよく思っていないようだった。
フリオはこの船の航海士でもある。海を見ることは自分の役目でもあるのだからと言っても、納得してはもらえなかった。
仲間のチャールズだって船内を気ままに動き回っているのに、ヒューゴはフリオを半刻も自由にさせてくれない。それが海賊にとって貴重品である航海士へのキャプテンとしての判断なのか、フリオ・マルティンへのヒューゴ・レインの個人的な感情なのかと問いかけても、ヒューゴが答えることはなかった。
ヒューゴに連れられこの船の一員となった時から、フリオはヒューゴのものだ。この船から逃げようという気も、ましてやヒューゴから離れようという気もないというのに、それでもヒューゴはなるべく手元にフリオを置こうとする。それがフリオにのみ向けられる執着であることを、フリオは心の奥底で喜んでいた。
動かせる船員などいくらでもいるというのに、ヒューゴはフリオのことだけはこうして自ら迎えに来る。フリオが好んで海を眺めているのは確かだが、そこにほんの少しだけこの瞬間を待ち望む下心が隠れていることは否定できなかった。
立ち去ろうとする広い背中を眺めていると、フリオが動こうとしないことに気づいたらしいヒューゴは足を止める。振り返ったヒューゴは不機嫌そうな表情のまま足早に戻って来て、少し乱暴にフリオの腕を引いた。
「戻れと言ったのが聞こえなかったのか」
「すみません、キャプテン」
これ以上は完全にヒューゴの機嫌を損ねてしまいそうだ。少しだけ後ろ髪を引かれるような感覚があるが、腕を引かれるままおとなしくヒューゴについていくことにする。
「……何を考えていた」
「もしこの航海が終わる時が来たとしたら、私たちはこの海に還るのだろうか、と」
フリオの答えにヒューゴは再び歩みを止める。剣呑さを帯びた目が振り向くのを、フリオは気に留めることなく続けた。
「航海の果てに、貴方と共に海に還ることができるなら、永遠に貴方と海と一つになれるなら、それは永遠の幸福と呼べるだろうと思いました」
「海も俺も、か。随分と欲張りだな」
「私は海賊ですから。貴方がそうしたんですよ、キャプテン」
そう言って微笑むと、ヒューゴは少し考える素振りを見せた後、フリオの腕を引いて歩きだした。
その向かう先がブリッジではないことなど、気が遠くなるほど長い間この船に乗っているフリオにはすぐにわかる。
「キャプテン、進路を変えるのでは?」
「気が変わった」
たどり着いた船長室の扉の先を許される者はほとんどいない。海賊にしては物が少なく整えられたその部屋に入るやいなや、フリオの身体は寝台に倒される。
「お前は俺のものだ。例え海に還ろうが、手放す気はない」
「はい」
「海賊ってのは強欲だ。自分のものが他のものに目を奪われているのを見逃してやれるほど優しくもない」
「なら、貴方しか見えないようにしてください」
フリオは自らヒューゴの首に腕を回し、その身体を引き寄せる。
生者の真似事のように冷たい唇を重ねると、存在するはずもない熱が宿るような心地がした。