「カット!」
短い声と共に、周囲の空気がふっと和らぐ。倒れ伏していた雨彦は、ゆっくりと目を開いた。
物語のクライマックス、緊迫感の漂う撮影が続いていた。長丁場ではあったが、大きな問題もなく進んでいる。
雨彦の演じるナハトは、立ちはだかる敵として最後には討たれ、そこで出番終了だ。撮影も一区切りとなるため、スタッフから休憩を入れるとアナウンスされる。
「雨彦さん、お疲れ様!」
近寄ってきたのは隼人と春名だ。春名の手を借りて立ち上がる。激しい戦闘シーンの後だったこともあり、二人も少々息が上がっている。
「やっぱりナハトは強いよなー!」
「俺たち途中まで全然相手にされてなかったもんな」
二人は楽しげに笑いながら、撮影シーンを振り返り始める。二人とも随分と演技に熱が入っていた。きっと良いものに仕上がるだろう。
「クリスさん?大丈夫ー?」
和やかな空気の中で、不意に少し戸惑うような、心配そうな想楽の声が届く。クリスの声は、聞こえない。嫌な予感を覚えながら振り向くと、そこには呆然と座り込むクリスがいた。
「古論?」
「……あかつき、さん」
近寄って呼びかけると、ぼんやりと雨彦を見上げたクリスは、雨彦ではない名を口にする。その目は、雨彦の向こうにナハトを見ている。
「古論、撮影はもう終わった」
役者というのは、役に入り込みすぎて自分と役の境目がなくなってしまうことがあるという。
クリスは情熱的な性格ではあるが、その内面は理性的でもある。だからこれまでに出演した作品でも、役と自分との切り替えに苦戦している様子はなかったはずなのだが。
「お前さんは理人じゃない。戻って来い、古論」
「あ……あめ、ひこ」
クリスの目を見ながらはっきりと否定してやる。雨彦の言葉にクリスは何度か目を瞬かせて、それから大きく息を吐いた。
小道具のブラスターを強く握りしめたままの手が、ガタガタと震えている。
「大丈夫かい?」
「……はい。役に入り込みすぎてしまったようです」
手を差し伸べてやると、緩慢な動作で手が伸びてくる。うまく力が入っていないようなので、そのまま手を掴み引き上げてやった。
まだ半分夢の中にいるような、ぼんやりとした様子だが、受け答えができているのでひとまず安堵する。
「クリスさん、この後少し休憩になるみたいだから、控室で休んできたらー?」
「想楽……すみません、そうしますね」
隣で様子を見守っていた想楽も、安心したような、まだ心配しているような表情だ。
「出番も一段落したことだ、俺も一度戻るよ」
この状態のクリスを一人にさせるのは雨彦としても心配だ。自分に任せろ、と想楽にアイコンタクトを送れば、想楽は小さく頷く。
スタッフに一言告げて、二人でスタジオを後にする。控室に着くまで、クリスは一言も発することはなかった。
「古論があんな風になるのは珍しいな」
「そうですね、演じていた時間が長かったから、もしくは考える時間が長かったからでしょうか」
控室に戻るなり、雨彦はクリスを座らせ、水を差し出してやる。クリスは礼を言いながら受け取り、キャップを開けた。
会話も問題なくできるようになっている。これなら恐らくは大丈夫だろう。
「……全ては物語の中で、結末だってわかっていたはずなのに、どうしてこんなに苦しいのでしょうね」
「古論……」
クリスはナハトを悪だとは言わなかった。理人と同じようにナハトのことを想い、二人の決別を心から悲しんでいる。
「終わりがわかっていたとしても、それでも私は、ナハトとだってわかりあえるはずだと信じていたかったんです」
これも理人の気持ちでしょうか、とクリスは困ったように笑う。
「だって、大切な人と、あなたとわかりあえないとしたら、こんなに悲しいことはないですから」
「ああ、そうだな」
「……雨彦」
クリスは縋るように雨彦の背に腕を回す。埋められてしまった表情は、確認することができない。
「少しだけ、こうしていてもいいですか……?」
「ああ、お前さんが落ち着くまで、側にいるさ」
二人の間の距離をなくすように抱き寄せて、そっと頭を撫でてやると、クリスの腕にぎゅっと力がこもった。
「なあ古論」
「……はい」
「ありがとうな」
ナハトはきっと、どこかで選択を間違えてしまった自分の未来なのではないかと思う。クリスとは違って、雨彦はあの結末は仕方のないことだったのだとも思う。
けれどそんな最後を悲しんでくれる人が隣にいる。それがナハトとは違う道へ雨彦の手を引いてくれる。
クリスを悲しませたくはない。クリスの隣で、生きていきたい。だから雨彦は、間違えない。
腕の中の温もりを手放してしまわないように、雨彦はほんの少しだけ、抱き寄せる腕に力を込めた。