「あの、雨彦……?」
二人きりの静かな部屋の中に、少し困惑したようなクリスの声が響いた。クリスは現在、雨彦の膝の上にいる。
ソロの撮影の仕事を終えて夕方に帰宅したクリスは、一息つこうとしたところで、リビングのソファに座る雨彦に呼び寄せられた。そうしてこの体勢になって、既に数分が経過している。
クリスを抱き寄せた雨彦は、ふうと一つ息を吐いて、それから一言も発していない。けれど少し戸惑っているクリスに気づいたのか、そこでようやく口を開いた。
「今日、千紫万紅の乱を観に行ってきた」
「そうでしたか」
クリスが出演した千紫万紅の乱は、先週末に公開されて、公開後の動員もなかなか好調のようだ。
前作に出演した雨彦も、公開されたら観に行くと以前から話していた。今日の雨彦は久しぶりのオフだったから、ようやくそれが叶ったのだろう。
「お前さんの偃月、良かったぜ」
「ふふ、ありがとうございます」
そう答えると、雨彦はそこで再び口を閉ざしてしまった。腹の辺りに回された雨彦の腕は、しっかりとクリスを抱きしめていて、あまり身動きがとれない。
上半身と首だけで雨彦の方を振り向くと、雨彦は何だか複雑そうな面持ちでクリスを見つめていた。
「あの紅蓮を演じたのは眉見だが、俺が演じた役の過去の姿がお前さんを殺すってのは、やっぱり気分の良いものじゃないな」
その言葉で、クリスはようやくなるほど、と合点がいく。
雨彦が演じた紅蓮は、とても重たく、大きなものを背負っていた。そして雨彦は以前、彼に少しだけ自分と似たものを感じるのだと話していた。
そんな紅蓮が、過去に自分の父やクリスが演じた偃月を手にかけたことは、演じた当初から設定として知らされていたはずだ。けれどそれを実際に完成した映像として見るというのは、また違った感覚になるのだろう。
今のクリスは、雨彦にとっては恋人なのだ。物語の中のことだと頭ではわかっていても、複雑な気持ちになってしまうのは、仕方がないことだと言える。
「……偃月は、自分の言葉を周囲に聞き入れてもらえないまま、あの最期を迎えました。けれど、それでも彼は、族長を支えるという自分の役目を全うしました」
「ああ」
「実は私も、彼の心情に寄り添おうとして、少し昔の自分を思い出してしまったんです。私にとっての偃月も、少しだけ昔の自分に似ていたから」
クリスの話を、雨彦は静かに聞いている。
クリスにも、周囲に自分の言葉が届かない時があった。その苦しさは、今でもはっきりと覚えている。
けれど今のクリスは、あの頃のクリスではない。クリスはもう、一人ではないから。
「ですが、今の私と偃月は違います。私にはあなたや想楽がいて、私の言葉はちゃんと受け止めてもらえる」
「……ああ」
「雨彦、あなただって、紅蓮とは違います。あなたも一人ではないですし、彼とは違った道を選ぶことができるんです」
だから雨彦は、あの物語のような結末を迎えることはない。きっとクリスが、そうはさせないから。
「だからあれは、物語の中だけの結末です。気にすることなんてないでしょう?」
そっと雨彦の頭を撫でると、目を瞬かせた雨彦はふっと微笑んだ。それがいつもの雨彦の笑みで、クリスは少しほっとする。
「そうだな」
そう一言答えた雨彦は、ぽすりとクリスの首元へ顔を埋めた。少し腕の力が強まって、ぴったりと身体が密着する。
「お前さんが、俺の隣にいてくれて良かったよ」
「ええ、それは私もです」
雨彦が何も言わないのをいいことに、クリスはまたぽんぽんと雨彦の頭を撫でる。ここまで甘えたな雨彦は珍しい。
いつもはクリスがたっぷり甘やかされているのだから、今日はクリスが雨彦を甘やかすというのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、クリスは雨彦に気づかれないように小さく微笑んだ。