虹を待っている 第2章 (1/2) その試練が終わって日向が正気に戻った頃、ハッと気づいた。終電を逃しちゃった。スマートフォンの時刻を見て、うーんと唸った。タクシーで帰っても門限を過ぎているし、寮の鍵も朝までかかっている。
かがやきの入り口のドア枠に寄りかかりながら、スマホの画面を指でなぞり、連絡先に移動しスクロールした。友達の家にでも泊めてもらおうかな…苗木はコンビニで深夜シフトで、日向が出勤するまで帰ってこなくて無理だろう。花村はそろそろ店じまいだが、日向が出勤前に少しでも寝ようと思えば、花村の家に泊まるのも得策とは言えない。花村が日向に不適切なことをするわけがないことは百も承知だけど、一晩中あるビデオを見させようとするのだろう。それもアウト。
日向はため息をつき、カ行に戻った。霧切しかいないかなぁ。通える範囲に女性警官のための警察官寮はなく、彼女は希望ヶ丘に自分のアパートを持っていたのだ。しかし、霧切のところに泊まるのは…スマホを額にあてて考えた。
いや、そんなことはできない。いろいろと面倒なことになる可能性があった。
スマホをポケットに押し込んで、居酒屋の前を歩き回りながら考えた。近くに泊まれるような安いホテルや漫画喫茶はなかったのか?ないだろう。交番で一晩過ごすか?
足を止めた。交番だ。一番いいところかもしれない。あまり快適とは言えないが、奥に休憩室があって、一晩過ごすには十分だろう。鍵を貸してもらえばいいだけだ。
再びスマホを取り出して霧切の番号にダイヤルした。
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「いや、交番に泊まるのはダメよ」
日向はいらだちを隠そうとするのに、肩を落としてしまった。
「鍵を取りに来てって言ったじゃないか!」
霧切は玄関先で腕を組み、無表情に日向を見上げて瞬きをした。厳しい顔をしながらも、彼女はいつもより少し若く見えた。カジュアルなルームウェアを着て、髪も仕事中のルーズお団子から解放され、肩にかかっている。
「ここに来なさいって確かに言ったけど、鍵を渡すとは言ってないわ」
彼女は一歩下がって、ドアを広く開けた。
「だから、交番に泊まるのはダメでしょう。さあ、上がって」
「先輩」
霧切は再び視線を受け止めたが、日向が意味ありげな表情をしたことで、少しイラついたような顔を浮かべた。二人の間にはずっと前から、霧切の境遇を話さないという暗黙の了解があった。彼女はそれを無視したいようだったが、日向は事態を悪化させたくはなかった。
霧切は短いため息をつくと、長い髪を振り乱しながら踵を返した。
「バカなことを心配しないで。中に入ってきなさい」
日向はしぶしぶ、後についてワンルームアパートに入った。先輩が何かを決めたら反論することはできないし、日向もよくわかっていた。
「予備の布団を貸してあげるわ」と、霧切は布団を取り出し、日向に渡した。
「あそこに敷いて。銭湯はもう閉まっているから、今夜は我慢して」
「ありがとう」と日向は呟きながら、指示通りに布団を広げた。
「悪いな」
「いいって言ってるでしょう」
二人は沈黙したが、日向はまなざしが背中に注がれているのを感じていた。ついに我慢できなくなったのか、肩越しに霧切の法を見た。
「なんだ?」
彼女は腕を組んだまま見つめ続け、手袋をはめた指が思わせぶりに上腕を叩いた。
「何が起きたの?」
「何が、って…何もなかったんだ」
無表情な視線に慌てたのか、日向は再び顔を背けた。
「飲みすぎて終電逃しちゃった。それだけ」
「もっとマシば嘘があるでしょう」と霧切は即答し、その嘘言をあっさり打ち消した。
「一杯しか飲んでないってわかるわよ」
日向は苦笑いを浮かべた。こんなにも観察眼が鋭いのに、田舎気味の交番に配属されるなんて、あんまりにも不公平なんだな。
「で?」
「変な初対面のやつが来たんだけだ」
布団を敷き終えた日向は立ち上がり、霧切に直接向き直った。
「酔っぱらってたから、家まで送るのを手伝ったんだけど、予想以上に時間かかっちゃった」
霧切は眉をひそめた。日向がすべての詳細を明かしていないことを察していたようだが、彼女は体勢を崩し、どうやら受け流すようだ。
「もういい。その辺にしておいて、寝ましょう。寝坊はさせないわよ」
「期待してないよ?」
日向はオーバーシャツを脱ぐと、ありがたく布団に潜り込み、一晩の疲れを癒す気になった。
「おやすみ、先輩」
「おやすみ」
電気が消え、日向は見慣れぬ暗闇を眺めた。疲労で体が重く感じられたが、また一人で考えることになった今、頭の中には増して多くの疑問が渦巻いていた。
なぜ、霧切に居酒屋の男について詳しく話さなかったの?ヤクザを疑っているのなら、もっと詳しく話したらいいはずだろう?自分でもよくわからないうちに、非難するのはよくないのもあった。しかし、それは甘く、率直に言って危険な考え方ではないだろうか?
そもそも霧切に隠そうとするのはバカなことだ。彼女は明らかに裏があることを知っていたし、日向が他の人だったら、そう簡単に見放さなかっただろう。そう思うと罪悪感で胃がむかむかした。霧切は簡単に信頼を与えるような人間ではないし、2年間一緒に働いていたおかげで、これほどの絆が築けたのだ。日向はその信頼を、自分でもよくわからない理由で裏切っているのだ。
もしかしたら、自分でも認めたくないことなのかもしれないと、寝ぼけた頭の片隅で考えていた。でもおかしいんだ。日向にとって真実は何よりも大切なものなのに、何のために逃げるんだろう?真実を暴くために生きているのに…そのために、彼は…
眠気が押し寄せてくるから、日向はその思考回路を放棄して睡眠をとることにした。霧切に打ち明けようと思っても、その話を切り出すには遅すぎる。ついに、日向は無意識の領域に身を任せた。
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翌朝、日向はゆっくりと目覚め、まるで前夜よりも気分が悪くなっていた。寝返りでズボンが履き心地が悪いほどしわくちゃになり、口の中は寝起きと古いビールの味がした。ノースリーブのアンダーシャツを着て朝の寒さを迎えるのはまったく気が進まず、うめき声を上げて布団に丸くなった。しかし、いずれは起きなければならないと思い、掛け布団の下から手を出して、前夜に投げておいたシャツをを探した。
その手の上に、パリッとしたビニールに包まれたなにかが落とされ、日向は驚いて声を上げた。
「なんだ!?」と、霧切を睨み上げるように布団を引き下ろした。
「赤ん坊をやめて布団から出れば、歯ブラシだとわかるはずでしょう」
日向は顔をしかめ、しぶしぶ体を起こし、鳥肌が素肌をチクチクさせながら震えた。床に落ちているシャツを素早く見つけて着てたら、布団の横に転がっている新品の歯ブラシを手に取った。
「わざわざ買ったのか、これ?」
彼は瞬きをして、先輩を見た。確かに、もう通勤服を着ていた。
「そんな格好で出勤されても困るわ」
霧切は日向を見ずに冷蔵庫をあさり、栄養ドリンクを取り出し、軽く点検してからショルダーバッグに詰めた。
「出かける前に歯を磨くことくらいはするはずでしょう」
口の中があまりにも気持ち悪かったから、日向は喜んで引き受けた。
「ありがとう」と彼はつぶやき、立ち上がってシンクに向かって歩いた。
「後でお金を返すよ」
「気にしないで」
彼女は感心しない表情で歯磨きを手渡した。
「さっさと準備して。もう遅刻なんでしょう」
霧切の「遅刻」とは、アパートを出てスマホで時間を確認したら、日向は分かった。記載された執務時間より、まだ45分も前になっていたが、文句を言わず交番までの数区画を無言で歩いた。
二人が到着した時には、太陽はほとんど地平線から昇っていなかった。霧切が鍵を開けると、日向はありがたくついて中に入り、前夜の服をようやく着替えようとした…が、更衣室に向かう途中で立ち止まり、隣の霧切をちらりと見た。
彼女はすぐに視線に気づき、疲れた顔で返した。
「どうしたの?」と尋ねたが、その言葉の裏には暗黙の了解があった。
『持ち出さないで』
「別に」と日向はため息をつき、更衣室に入り、霧切はその後に従った。
普段は二人の出勤と退勤の時間が少しずれているため、更衣室が一つしかないというジレンマに悩まされることはない。ときどき同時に更衣室を使用することになったとき、日向はその無力感、制度に対するその鈍い怒りが沸き起こるのを抑えられなかった。しかし、霧切はいつも一言も語らず、部屋に掛けられた仮設のカーテンの向こうに消えていった。
カーテンは素早く閉められると、日向は再びため息をつき、制服に着替えて身だしなみを整える作業を取り掛かった。日向が着替え終わる前に霧切が部屋から出てくることはなかったが、それは偶然ではないと確信している。
そして、日向はいつもの日常を過ごしながら、所内の近視眼的なやり方に懸念を抱き、前夜の見知らぬ男のことをすっかりわ忘れかけていた。