薔薇と無花果のタルトを君に 喝采せよ、神の獅子を。
幼い天使ロナルドが見たのは、眩い翼を与えられた熾天使である兄の姿だった。生まれたての天使が一対の翼しか持たないのに対して、兄の背には虹色の光沢を持つ力強い三対の翼が存在していた。
真紅のローブを羽織り、抜けば紅蓮の極光を宿す長剣を腰に帯びた兄の姿は、息を呑むほどに美しく畏怖に溢れていたのだ。
──、素晴らしい兄だった、誇り高い熾天使だった。優しく、美しく、誇り高い、素晴らしい天使だったのだ。
そんな兄が翼を落して、人間に転生すると知った時、心がどれほど絶望に染まった事か。
あの兄が、天使を辞めるというのだ。
あの兄が、神より与えられし翼を捨てるというのだ。
自ら誇りを削ぎ落として、たかが100年程度しか生きれぬ、輪廻をさ迷いう脆弱な魂に身を落すと。
それがどれほど、神の意に背くものか。
優しい神はそれを赦したという、優しく賢い妹も、それを赦したという。
けれど、ロナルドは……。何も、言う事ができなかった。
ただ、形式ばかりの「いってらっしゃい」をなんとか絞り出して、逃げるように駆け出したロナルドに向けられたのは、天使たちの憐れみの眼差し。
『■■家の美しきセラフィムの剣と翼……、二枚翼の弟では、触れることもできぬだろう』
『可哀想に、■■家の威光も此処までか』
『才能無い次男ほど、使えぬものはない』
嗚呼……、嗚呼……。
泣くこともできず、翔ける天使に茨の鞭を打つ。天使たちの悪意無き事実は、全て全て幼いロナルドの心を傷つけた。
実際、ロナルドには一対の翼しかなく、兄の長剣に触れる事さえ叶わなかったから。
事実は子どもの自信を奪い、悪意無き言葉は子どもの心を壊した。
ゆえに、彼は、一対羽のロナルド……。成人しても、彼はそのまま。
誇り高い血統でありながら、翼の少ない天使は、それを指摘されると申し訳なさそうに笑う。
「自分は、役に立たない次男だから」
天使ロナルドは、つぼんだままの百合の花である。誰が言ったか、言い得て妙なその台詞を。心に枷を負った天使は、兄の魂を見守りながら、静かに静かに暮らしていた。
※※※
的を得た言葉だと、ロナルドはそう思った。
「辛気臭い顔だねぇ、君」
そう言って、ロナルドに声をかけてきたのは、黒い外套を羽織った人間の魔術師のような姿の男だった。手に使い魔であろうアルマジロを抱き、闇の中にひときわ暗い影を作り出して立っている。
魔術師だと思った理由は、その真紅の目が真っすぐにロナルドを見たから。
本来であれば、人間達には見えない筈の天使の姿を捉えて、不遜にも語り掛けてきたその魔術師は、大きく見開いたロナルドの目を見て、宝物を見つけた子どものような顔をした。
「わぁ、空の色だ!」
「っ!?」
屈託ない言葉と共に、枯木のような両手が伸びてきて、ロナルドの顔を挟んでしまう。本来であれば、人や弱い悪魔が天使に触れれば灰になってしまうのだが。ロナルドは思わず、聖なる力を制御して、目の前の存在が死んでしまわないように加減した。
大好きな兄が、無意味な殺しを、好いてなかったから。……、だからロナルドは、男の冷たい掌の感覚を受け入れたのだが。
「わっ、ピリってした!」
けれど、静電気くらいは感じたらしく、その男は手を離してしまう。
「当たり前だろ……、」
プラプラと手を振る男に対し、ロナルドは呆れた顔でそう言い返した。
「お前、魔術師だろ? 天使に触ったら、灰になるって知らねーの?」
「ん?────、あぁ、そうだったね。まぁ、いけると思って」
一瞬、不思議そうに瞬きをしたものの。その魔術師は、天使の存在を知っていたのだろう。軽い口調で、ロナルドに返した男の反応は、命の危機が迫っていたことを分かっているのかいないのか……。現に、腕の中のアルマジロは、抗議するように、魔術師のクラバットを引っ張っている。
こいつ、危機管理能力がなってないんだな。
そんなことを思っていると、魔術師の手が再びロナルドの方に伸びる。
さらりと、髪を撫でられた。
「ん、だよ、」
「や、綺麗な髪だなって」
きっと、痛みを覚えている癖に。指先を赤くしながら、たわいもないことを言った魔術師。それが、妙に心に引っかかったのは、それが久々に誰かから齎された賛辞だったからだろう。
とっくに成人していながら、一対しか翼の無いロナルドを、褒める天使は天界にいないから。
「それにしたって、天使がなんでこんな人界に?」
だから、意表をつくように、魔術師から投げかけられた問いかけに。
「兄貴だった方が、此処で転生して生きてるから」
思わず答えてしまったのは、きっと、この存在が、久々に出会った「ロナルドを出来損ないとして見ない存在」だったから。
その日、何時もの如く、天界から逃げるように、兄の魂を見守りに来たロナルドは。
アルマジロの使い魔を連れた、飄々とした魔術師に出会ったのだった。
※※※
その魔術師は、自分のことを『ドラ』と名乗った。
魔術師という存在が、真名を知られることを厭うのは知っていたから。ロナルドは、偽名であろうその名を気に留めなかったし。自分の『ロナルド』という名が真名でないことも、ドラルクにははっきりと伝えていたから。
その『ロナルド』という名も、本来であれば教える義理は無かったのだが。魔術師からの熱烈なお願いに負けて、出会った初日に仕方なく教えてやったのだった。
「ロナルド、私の空。……、赦されるなら、また、夜の時間に君と会いたい」
そしたらすぐに調子に乗って、そんなおねだりをしてきたドラに対して、ロナルドはまぁ、仕方がないなぁとその『お願い』も叶えてやることにした。
浮かれた、自覚はある。
そも、翼が少ないロナルドにお願いをする存在は少なかったので。そんな自分に、真剣にお願いをしてくる存在に、心が揺らいでしまったのは仕方ないことだった。
だから、ロナルドは、ドラが望んだ夜に、彼が住む古城を訪れるようになったのだ。
「ロナルド君、逢いたかったよ」
深夜、窓を二回ノックすれば、それはロナルドが訪れた証。
窓を開け放ったドラは、嬉しそうに笑いながら、ロナルドをそっと抱擁する。静電気が走るような痛みがある癖に、それを気にもせずにドラはロナルドに触れたがった。
ドラは、ロナルドの世話を焼く。ロナルドのために紅茶を淹れて、ロナルドのためにお菓子を焼く。
……、最初、口にすることを拒んだが。
「天使が、人間からの供物を拒むのかい?」
そう言われると、嫌と言うのは憚られた。
一口、口を付ければ。ドラが作るカップケーキも、クッキーも、天界で食べるものよりずっと美味しくて。気づけば、口いっぱいに頬張ってしまっていて。
「ほら、口の端についてるよ」
そんなロナルドを慈しむように見つめながら、ドラに頬をつつかれる……。この時間を、ロナルドは『楽しい』と思うようになってしまっていた。
気づけばロナルドは、夜の訪れを楽しみにするようになっていた。
風も怯える新月の夜、ロナルドはいつものように古城の窓を叩いた。
「なぁ、ドラ、今日は何を作った?」
いつものように、魔術師の抱擁を受け入れ、使い魔のアルマジロの頭を傷つけないようにそっと撫でながら。尋ねたロナルドに対して、ドラルクはにっこりと笑う。
「今日は無花果と薔薇のタルトだよ」
そう言って、ドラが指し示したのは、薔薇の花弁と真っ赤な果実が鮮やかな丸いタルト。
薔薇と瑞々しい果実の煌きと、湯気立つハーブティーの香りを嗅いだ時。ロナルドは思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「美味そう……、」
「でしょう? ──、君の為に、とびっきりの食用花を使ったんだよ」
そう言って、ドラはロナルドに席を勧める。そのマホガニー材で作られた椅子に腰かけて、ロナルドは美味しそうなお菓子にじっと見入った。
ほんとうに、毒々しいほどに美しい薔薇だと思う。まるで、知恵の果実のような、恐ろしくも美しい光沢。
ああ、食べたいなあと……、頭蓋から湧き上がるような多幸感と共に、どうしてだろう。
ちりちりと、何処かで、警鐘が鳴っている。
「ねぇ、ロナルド君」
気づけば、ロナルドが座る椅子の背に手を添えて、ドラが影のように立っていた。
「私の、空」
ドラは、いつもの甘ったるい口調で、ロナルドの目の色を褒めて。
「天界の暮らしは、楽しいかい?」
何気ない口調で、そう尋ねてきた。──、ロナルドは、口ごもる。
言うに困る何かがあったからではない、ただ単純に、天界で『楽しい』という感情を得た事が無かったから。
「わかんねぇ」
そう、天界での暮らしは、真綿で首を絞められるようなもの。
力のない次男、才の無い次男。
誰も、ロナルドを声に出して責めることはないが。そんな視線を、いつだって感じていた。
あの熾天使だった、畏怖に満ちた兄になることもできず。権天使となった、賢い妹のようになることもできない。
ずっとずっと、一対羽のロナルドにとって。
天界は、楽しい場所では無かった。
「でも、今は、お前が居るし」
「────、ふ、」
そう言えば、ドラが笑う気配がした。
愉しそうな、歓喜に濡れた吐息が一つ。聞こえたと思えば、その細長い指先がロナルドの為に作られた小さなタルトを手に取って。
「ねぇ、ロナルド君……、」
「ん?」
「そんな場所に居るくらいなら、私と愉しいことをしてようよ。──、永久に。」
そう言って、口元に差し出されたタルトからは、朝咲きの薔薇の香りがした。
甘い香りが、ふわふわと頭を融かしていくようだ。ハーブティーも、タルトも、どちらも、眠たくなるほど甘い香りがして、それが酷く心地よく感じた。
「私は、君を褒めるし……。私は、君を必要とするよ。 ねぇ、美しい光りの子、どうかこの夜で私と永遠に踊っておくれ?」
その地獄の調べさえ、嬉しいと感じてしまうほどに……。
唇に、ちょんっと当てられたタルトレット。狂い咲く薔薇と、鮮やかな無花果のお菓子。
かつて憧れた、兄の剣とは異なる真紅。──、白い歯が、毒々しい紅に噛り付いて。
口の中に広がる果実の酸味と薔薇の花弁を咀嚼した。
ごくりと、喉が上下して、次へ次へと食らいつく……。
それは、とろけるように甘くて、痺れるような罪の味がした。
朝咲きの薔薇と、罪の果実と、悪魔の生き血。
「──、ドラ、」
天使が、呼ぶ。
「──、ドラルク」
天使だったものが、呼ぶ。
その翼の先端を、ほんのりと黒く染めた。白い服を着た、大いなる空の色を纏う子が。座っていた椅子を倒して、百合の絨毯に両膝をつき。
降り注ぐ赤い薔薇の花弁を髪に受けながら。唇を、赤いソースに染めて。
上気した顔で、うっとりと笑いながら。
「もっと、ちょうだい」
そう言って、手を伸ばし。
降り注ぐ薔薇の花弁を掌に閉じ込めて、美味しそうに食む生まれたての悪魔を見下ろすのは。
───、畏怖すべき上級悪魔。彼は、テーブルの上に腰かけると、可愛らしい子どもの顔の上に指先を差し出した。
そこから生じた血の玉が、薔薇の花弁に姿を変えて。──■■は、それを、旨そうに喰らう。
「いっばいお食べ」
そう言って。
雛鳥にしてやるように給餌を施す、悪魔の顔は深い深い愛情に満ちていた。