朝日の中で眠れ① 遠征から帰った足でパーシヴァルの部屋を訪ねてきた男は、酷い顔をしていた。
明らかに寝不足なのだろう、顔色は悪く目の下には濃い隈ができている。
「……どうした」
グランサイファーにある自室、その窓際で読書をしていたパーシヴァルが思わず駆け寄るほどには、ジークフリートの顔色は最悪だった。
乾いた唇を抉じ開けるようにして、ジークフリートはやっと声を絞り出す。
「……呪いを、受けてな……」
「呪いだと? 何故、解呪しない?」
「……厄介な……呪いでな……眠ると死ぬらしい」
「何だと!?」
うつら、と目蓋を下ろしかけ、ジークフリートは気力で頭を振る。パーシヴァルがゆらゆらと揺れているジークフリートの体を抱き止めるようにすると、初めて聞くような懇願の声音が届いた。
「頼みがある……、お前にしか頼めん……」
「何だ!?」
「朝になったら、口付けをしてくれ」
「……何?」
力なく肩に額を置いているジークフリートの言葉に、パーシヴァルの声が裏返った。
「唯一、眠っても、起きられるのは……、朝……に、なったら、口付け……を、して……もらうこと……らしい」
「らしい、などと、不確かなことを……」
「頼んだぞ……」
ずるりと力が抜ける体を支えれば、かすかな寝息が聞こえてくる。
「ジークフリート!」
肩に担ぎ上げ、急ぎ寝台に寝かせる。背中の大剣を外し、ゆっくり仰向けにしてやれば、疲労の色で染まった顔があらわになる。
髪を払い、瞳孔や脈を見るが、これといった異常はない。パーシヴァルは急ぎ、グランの元へと駆けた。
「眠っているだけ」
そう診断されたものの、ジークフリートが眠る前に残した言葉が言葉なので、様々な呪いの痕跡も探られた。
その結果、確かに呪いをかけられた形跡はあった。しかし、余りに古い呪いで解呪は容易ではないとのことだった。
「呪いで眠った美女に王子様が口付けをして起こすっていう、御伽噺があったでしょう? あれと同じよ」
ロマンチックね、と微笑むロゼッタに渋い顔を返し、パーシヴァルは大きな溜息を吐いた。
同じと言われても、相手は竜殺しの異名を取るジークフリートだ。美形は美形だろうが、婚約者同士がそれと知らず惹かれ合い、呪いによって眠らされた恋人に口付けをして救った話とは訳が違う。
「解呪は不可能なのか?」
「もちろん、可能よ。キスをすればいいんだから、簡単でしょ」
「簡単ではないから言っているのだ」
「あなたが頼まれたんだから、ちゃんとやりなさい。そうしないと、彼は眠り続けるわ。衰弱して死ぬまでね」
言葉を飲み込み、パーシヴァルはきつく眉根を寄せて腕を組む。
「……朝になったら、というのは?」
「分からないけど、時間的な拘束があるのかもしれないわ。厳密に何時から何時まで、というより、朝日が昇ってから数刻ほどの間じゃないかしら」
「曖昧だな」
炎を宿す鋭い眼光に、ロゼッタは軽く肩をすくめた。
「仕方ないわ。呪いの詳細を知っているのは彼だけだもの。その当人が眠っているのだから、聞きようがないしね」
「……朝日が射した瞬間からか、それとも昇りきってからか」
「分からないわよ。起きなかったら、何度かキスをしてみたら?」
ゴッと炎を纏うパーシヴァルに、ロゼッタはきゃあ怖いとわざとらしく逃げ腰になる。
「まぁまぁ、パーシヴァル、落ち着いて」
グランに押し留められ、パーシヴァルは舌打ちして横になっているジークフリートを見遣る。
「……今夜はここで様子を見る。明朝、言われた通りに実行して、起きなければ報せる」
「うん、分かった。簡易ベッドを持ってくる?」
「いや、いい。不測の事態に備えて、こいつを見張る」
「無理しないでね。交代時間を決めようか?」
「構わん。一晩や二晩、眠らずとも差し支えない」
頷き、グランはジークフリートの顔を覗いてからパーシヴァルの肩を叩き、ロゼッタと部屋を出ていった。
パーシヴァルは寝台の横に椅子を引き寄せ、どっと疲れた体を預ける。
口付け、と心の内で呟き、膝に両肘をついて頭を抱えた。髪を掻き上げ、規則正しく寝息を立てている男を見つめる。
一体、何年もの間、彼を慕ってきただろう。敬慕に恋慕が加わり、焦がれてやまない気持ちを抱えながらもどうにか抑え込んでやってきた。
「どういうつもりだ、ジークフリート……」
この気持ちが知られているのではないか、と疑った時もあった。しかし、ジークフリートは素知らぬ顔でのらりくらりとかいくぐる。
焦がれる気持ちからも、求める手からも。
重苦しい溜息を吐き、ふと考えが及んだ。
ジークフリートのことだ、自分の気持ちを踏まえた上でこのような頼み事をしたとは考えにくい。つまり、このグランサイファーで、女性以外で、他よりは気心が知れていて、恋仲の相手もおらず、そうそう迷惑がかかりにくい者は誰かと考えたはずだ。
思い至り、パーシヴァルの肩から力が抜けた。
なんのことはない、自分が最も適当だったからだろう。元部下で付き合いも長く、ある程度は信頼ができて、小言を言いながらも協力してくれる相手といったら、己くらいのものだろうと落胆する。
それでも、他の男や、ましてや女の所へ行かれるよりは良かった。そう思うしかない。
パーシヴァルは眠るジークフリートへ視線を送り、立ち上がった。洗面器に水を汲み、炎でぬるま湯にまで温める。そしてタオルを濡らして緩く絞ると、ジークフリートの元へ戻った。
汚れたままの額や頬を拭い、乾いた唇を湿らせる。目蓋を軽く拭いても、ジークフリートは目を覚まさない。
ありえないことだ。常のジークフリートならば。本当に呪いによって眠らされているのだと、ようやく納得した。
タオルをサイドテーブルに置き、ジークフリートの手甲を外しにかかる。なるべく窮屈ではないほうがいいだろうと思い、外せるだけの装備を外した。
布団を掛け、大人しく眠るだけの男を不思議な気持ちで眺めた。
朝日が昇る。
それが、こんなにも重圧に感じたのは生まれて初めてだった。
読書を続けようにも、気付けば同じ頁を見つめているだけ、剣の手入れはすぐに終わり、持て余した時間で何かせずにはいられず、汚れたジークフリートの鎧を手入れし始めた時にはがっくりと肩が落ちた。
この状況は、一体何なのだ。
すっかり泥も落ち、磨きに磨いた漆黒の鎧は蝋燭の火で鈍く光っている。大剣はさすがに触れられないが、泥にまみれた外套も脚絆まで洗い終えれば意味のない達成感を得る。
それでもまだ、夜明けまでは一刻以上を残していた。
時折、ジークフリートの顔を覗いて様子を伺ったが、眠っているだけで変化はない。穏やかな眠りとは言い難いかもしれないが、泥のように眠っているだけだ。
顔にかかった髪を、躊躇いがちに梳く。一体、どれほどの期間、眠らずに過ごしたのか。
ジークフリートがふらりと艇を降りて、ふた月は経っている。どこかで依頼を受けたのか、調査中に何らかの事件に遭遇したのか。
「……だからいつも、どこへ行くのか、情報を共有しろと言っているのだ」
パーシヴァルの小言が聞こえたように、ジークフリートがわずかに身動ぐ。ふ、と苦笑し、部屋を見渡した。
片付いている部屋は何をする必要もなく、読書も手につかないとなると、いよいよすることがなくなった。
日の出までの一刻、何をして時間を潰すか。
パーシヴァルは本棚に歩み寄り、辞書を手に取る。朝、という項目を探し、文面を目で追った。
朝。夜明けから二刻ほどの間。
思わず辞書を床に叩きつけたくなったが、何とか堪えて本棚に戻す。深呼吸をして、邪魔な前髪を撫でつけた。
夜明けから、ということは、日の出時刻からと考えていいはずだ。かなり時間に幅があるが、それは余裕があると捉えていいだろう。
寝台の傍らへ戻り、椅子に座り直す。
深く閉ざしたジークフリートの目蓋を見つめ、胸がざわめいた。静かすぎる寝息は、不安を掻き立てる。
こんな風に、ジークフリートの寝顔を見ることは未だかつてなかった。これからもないだろう。
「ん……」
眉根を寄せ、苦しそうに寝返りをうつジークフリートに歩み寄り、放り出された手首に指を添わせる。
脈に異常はない。魘されているのか。
そっと息を吐き、険しく顰められた頬に触れた。目元、目蓋、そして皺が刻まれた眉間と眉を宥めるように指先で撫る。
わずかに、表情が緩んだ。パーシヴァルはそっと深い眠りに落ちている男の耳元に唇を寄せる。
「悪夢は俺が全て焼き尽くそう。安心して眠れ」
頷くように、ジークフリートの体が弛緩する。顔から険しさが消え、呼吸が深くなった。
頬とぞんざいに切られた髪を撫で、またナイフで適当に切ったな、と今度はパーシヴァルが顔を顰めた。
「……お前はもう少し、自分を大切にしろ」
パーシヴァルの小言には何も反応を返さず、ジークフリートは撫でられる温もりだけを受け取っていた。
空に、最初の光が射した。
薄明かりの中で、パーシヴァルはジークフリートを見つめていた視線を上げ、窓の外を見た。部屋が明るくなるにつれ、心は重くなっていく。
次第に人が動く気配が伝わってきた。遠くでは、夜明けと共に起床した者達が朝の支度をしている音がする。
大きく、深い息を吐く。ちらとジークフリートの背中へ目を戻し、寝返りを打ったら……、と考えたのを察したように、ジークフリートが仰向けになった。
再度、大きな重たい息を吐く。重苦しい体をようやく上げ、寝台の端に座った。
顔にかかる髪を梳き、頬を指先でなぞる。顎先を親指で触れれば、唇が薄く開いた。
誘われているかのようだ、と錯覚を起こす。そんな己を嗤い、パーシヴァルは睫毛を伏せた。
これは、なんの気持ちも乗らない、呪いを解くという作業だ。少なくとも、ジークフリートにとっては。
一生涯、触れることはないと思っていた。
これは僥倖なのか、それとも拷問なのか。
どちらでも構わない。
どんな理由であれ、選ばれたのが己であるならば、期待に応えるまで。
暴れ出しそうになる激情を捻じ伏せ、パーシヴァルは至って冷静に、顔を近付けた。なんの感情も持たないようにと腹にわだかまる欲を殺し、思考だけを持って吐息すら止める。
口付けではない。これは、ジークフリートからの依頼だ。気持ちは必要ない。捨ててしまえ。
息が触れる。焦がれた男の温もりが、渇望した唇の感触が、すぐ触れられる距離にある。触れることを許されている。
「……っ、何故、俺を選んだ……ジークフリート」
身を引き、パーシヴァルはジークフリートの肩に額を押し当てて詰った。答えなどない、空回りの問いかけに、静かな寝息だけが耳に届く。
意を決して、パーシヴァルは腹から息を吐いて体を起こす。思考を排し、感情を滅し、唇を近付けて、重ねた。
かさついた唇は、暖かく柔い。
腹の底にあるものが暴れ出す直前に、パーシヴァルは素早く離れた。
じっと、ジークフリートの様子を伺う。
しばらくそうしていた。だが、ジークフリートは目覚めない。
眉根を寄せ、窓の外、次いで懐中時計を見る。時間帯は外れていないはずだ。
どぐり、と心臓が嫌な音を立てる。
「ジークフリート」
眠る男の頬に触れ、隈の残る目元を親指でなぞる。反応は返ってこない。
眠ると死ぬ。ジークフリートの言葉が、脳裏をかすめていく。
「ジークフリート!」
死ぬな、愛している、目覚めろ……、全ての想いで唇を求めた。柔らかく、弾力のある唇は、無感情にただパーシヴァルからの口付けを甘受している。
想いを自覚した瞬間から今までの、焦がれながらも愛しく、焼け焦げそうなほど狂しい激情を注ぐように、唇を吸う。
「目を開けろ」
表面をすり合わせ、もっと深く重ねる。
ぴくり、と体が震えた。はっとして顔を上げれば、ジークフリートの睫毛がゆっくりと上向いていく。
「ジークフリート……!」
両の頬を包み、とろりと溶けた金色の双眸が視線を彷徨わせながらも戻ってくるのを待つ。
「……シ、ヴァル……」
「あぁ……、そうだ」
乾いて掠れた声は、それでも生きていると報せた。心の底から安堵する。
ジークフリートの鼻先に己のを擦り寄せ、パーシヴァルは恋しい男の頬に唇を寄せようとして我に返る。ぐっと拳を握り、身体を起こした。
それを不思議そうに見上げている金色に苦く微笑み、声を絞り出す。
「……起きられるか」
「……眠い……」
「当然だ。一体、いつから寝ていなかった?」
「いつから……、今は……いつだ……」
すぐにでも眠ってしまいそうな様子のジークフリートに、パーシヴァルはほっと肩から力を抜き、安堵の微笑みを浮かべて髪を掻き上げる。
「話は後でいい。今は眠れ。ここで見ていてやる」
ぼんやりとパーシヴァルを見ていたジークフリートは、ゆっくりと瞬きをしながら真紅の夜着の裾を引いた。燃える赤の視線が戻るのを待ち、ジークフリートはやっとといったように口を開ける。
「パーシヴァル……、口付けを……」
「……あぁ、言われた通りに」
「自然と起きられるように……なるまで……、続けないと……いけない……そうだ」
「何だと?」
「すまんな……」
「おい、ジークフリート!」
ふつりと意識が途絶え、ジークフリートの穏やかな寝息が室内に満ちる。パーシヴァルは口を閉ざすのも忘れ、眠りに落ちた男に触れようとしてやめ、代わりに頭を抱えた。
「……そういうことは、先に言え!!」
無理だと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。