フラッグシップの恋だった①side:七海
春の訪れを告げる役目も終わったとばかりに、早々と散り零れる梅花は地面にピンクの絨毯を広げてなお風流なのに、その風下三メートルのきな臭さまでは誤魔化せないでいた。
風に舞うひとひらに誘われるようにして、七海昴は湿った吹き溜まりに人が倒れているのを目に留めた。
昨夜から降りだした花散らしの雨は明け方を前にやみ、小さな電気室横の水はけの悪いコンクリートは、男の金髪とたくさんの花びらを水面に漂わせている。
クライアントへの統計データの開示が予想よりも早めに終わり、直帰に選んだ道だった。
そんな偶然があるものか。
半信半疑ながらそれでも足を向けたのは、深夜の繁華街では珍しくないその光景も帰宅ラッシュを少し過ぎたばかりの都市計画公園では特異に映ったからと、もう一つ。
「救急車を呼びますか?」
後輩の高橋が携帯電話を取り出すのを「いや」と制止する。
ちょうど街灯の明かりから逃れる場所で仰向いているのは、少年だった。顔色まではわからないが、腫らした瞼がピクピクと震え、次いでその逆がゆっくりと持ち上がるのを見て確信する。
「────大丈夫かい? 花垣君」
枯れた葉っぱを頭に乗せているこの少年とは顔見知りだった。
あちこちを泥に汚して片目を塞いだ状態でも、瞳だけは澄み切った晴天のようで、平素に見ればさぞ綺麗なそれも生憎彼とはこんなクソのような状況でしか会っていない。
七海の呼び声に泳ぐように藻掻き始めた花垣武道は、上がらない左瞼の代わりに口を開けた。
「だ……大丈夫ですか? っていう声掛けは、よくないらしいです……っ」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
「に、日本人はどうしてもそれに対して『大丈夫』と返しがち────」
「うん、大丈夫そうでよかった」
そう結論付けるが早いか、武道の腕を引き、若干戸惑いを残している高橋には「知人なんだ」と最低限の説明で済ませて路肩のタクシーまで引きずった。
開いたドアを前に、薄汚れた少年の埃を少し払ってから後部座席に詰める。自分も身を滑り込ませ、行き場をなくした携帯を握り締めたままの後輩に短い別れの挨拶を告げた。
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武道と会うのはこれで二度目だった。
場所は違えど初回も同じような状況だったが、その時は自宅で介抱まではしなかった。
「君はよくトラブルに巻き込まれるね」
「ははは……」
ぎこちない笑いに負けず、目元を覆ったガーゼはよれることなくしっかりと貼り付いている。それを見て手当てを完了とした。
救急箱を戻すため、テレビ横の低いチェストの引き出しを開けた背後で、なぜ家にまで連れてきたのかと尋ねられたがそれはもっともな質問だった。
「高校生に優しくしておくとご利益があるような気がしてね」
「何ですかそれ」
なんかちょっと変態臭いです、とからかうように目を細めてくるこの少年は、普通そのものだった。サージカルテープ越しの白が健康そうな彼とのギャップを強調する。
「それともまずかったかな。キミ、確か恋人がいたよね」
────男の、と敢えて付け足したのは、真偽のほどを確かめたいためだ。
初対面時に聞いた話だった。
繁華街の路地裏、悶絶の息に上半身を喘がせていた武道は、何故か恋人の昔の所業を怒っていた。
『腕を折る必要はやっぱりなかった!』
そう拳を振るい、掘り下げはしなかったがそんなDV男とは別れるべきだとは思った。
「よく覚えてますね」
何でもないふうに笑う彼からしたら、男の恋人という存在はその程度のことなのかもしれない。
「七海さんて一見面倒臭そうなタイプで、実は優しくて、でもやっぱり癖が強そうですよね」
星の数ほど女性を泣かせてそう……と謂れのない憶測に愁眉を寄せる。そして当面の目的が終わって暇を持て余し始めたのか、部屋をキョロキョロと見渡す彼に温かいものを出してやるため、その足でキッチンへ向かった。ひどい言われようではあったけど。
「そこまであけすけな言い方じゃなかったけど、同じようなことを今好きなコにも言われてる」
それを思い出し、少年の憎まれ口もただ笑みが零れるだけだった。
七海には現在、気になる存在がいた。
日夜部活に勤しむ、健康的な十六歳の男子高校生だ。ひょんなことからテレビで見かけ、更に偶然が重なり直接会った。物怖じしない性格、意志の強そうな大きな瞳、打てば響く掛け合い、そして自分以外の人間に現在強い興味を引かれているところも、全てが七海の好みそのものだった。
愛嬌は大事だが丸きりバカではつまらない。
彼はその配合を奇跡のバランスで成立させ、普段ならそのままモーションをかけているところなのだが────そうするには彼は少々厄介だった。
性的少数者への理解に乏しく、センシティブな内容はいつも後手に回るのがお家芸とでも言うようなこのお国柄、七海の憚られた想いは別にそれが原因でもない。
それでも酒宴の一瞬の賑やかしのため、ツマミ代わりに提供することもせず自分一人の胸に留めていたのだが、割とオープンな性格の武道にだからこそ気軽に話せた。次はもうない邂逅への餞別のつもりかもしれない。
「ちなみに同じ男子高校生だからと言ってキミに下心を持ってるわけじゃないから、安心してね」
「絶対このタイミングで言う話じゃないんですけど、オレ実はその彼氏とはもう別れてるんです」
七海は憐れみの意をふんだんに眉に乗せた。
「ごめんね。見込みのない恋だけど、それでも俺が好きなのは彼だけなんだ」
「別に告ってもいないのに振られた気分にさせるの、やめてもらっていいっスか?」
まだ朝晩の寒暖差が目立つ季節。湯気の立つ華奢な白磁器を目の前に置けば、武道はそれを両手で包み心外とばかりに鼻に皺を寄せた。
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あまり深く気にしていなかったが、もしかしたら花垣武道は少し有名なのかもしれない。
最初で最後の茶席のつもりが、気付けば帰りがけに連絡先を交換していたのは単なる気まぐれにすぎない。彼氏と別れたと語る武道に親近感を覚えたのは確かだった。
見込みのない恋と言ったのは卑下でも謙遜でもなくただの事実で、一枚の名刺を叩いて伸ばして、それを東京・宮城間の橋掛けにするにはあまりに心もとない。半畳の大きさで一円玉二枚分の重さにも満たない馬鹿みたいな薄さのひだか和紙より、なお薄いそれを頼りの綱とするには力不足感が否めず、かと言って他に縋るものもない。この想いがいっそ散る日を指折り数えるような毎日に、武道の辿った道を追うのもきっとそう遠くないだろう。
そんなところも勝手に仲間意識が芽生えた要因だった。
『あ、次来た時はコーラでお願いできますか?』という言葉が最後の挨拶だったのには流石に笑った。
以来、互いの都合がついた時には遊びに来るようになった。
そのような理由から一緒に街を歩けば、彼の友人と思しき人物からよく声を掛けられた。
人懐こい武道は学生ということもあり、幅広い交友関係を築いているのかと思ったが、それにしては人種の偏りが大きい印象を受ける。
中でも学ランを着崩し、シャツを開襟し、明らかに素行のよろしくないふうの男子学生による「お疲れ様です!! 隊長!!」の挨拶は鮮烈だった。
「そういうのはもういいって言ってるだろ」
特に人と一緒にいる時は勘弁してくれ、と苦笑する武道は板について見えた。
「もうとっくに引退してるんだから名前で呼んでくれよ」
ヤンキーの示す態度は武道への信頼度の指針でもあり、見るに男は余程心酔していた。
優しくて意外と豪胆な面も併せ持つが、良くも悪くも“普通”の武道に、何故それほど羨望の眼差しを向けるのかは謎だった。
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「七海さん、最近楽しそうですよね」
黒縁眼鏡を押し上げながら高橋が蟹を握る。
もとい、正確には蟹の爪の形をしたボールペンなのだが、ハサミの小さなとっかかりを引けば逆の先端から申し訳程度のペン先が飛び出る仕組みで、全貌はほとんど蟹の爪のそれだった。
彩度の低いデスク周り、その隅に異彩を放つ物言わぬ蟹を戻しながら始まった雑談は、午後の中休み。ドリップ式の自販機で買った二人分のコーヒーのうち、アメリカンを後輩に差し出した。
七海は高橋のメンターを務めており、新卒として入社した当初から少し独特な雰囲気を醸す彼だが、それは案外七海の気に入るところだった。
男の愛用する蟹を初めて見たとき不覚にも『……What is this』と聞けば『This is a pen‼︎』と顔の横に添え、臆面もなく力強く答えてくれる瞬発力が彼にはあった。
初めてこの英文が実生活で活かされたことに何やらよくわからない感動を覚えると共に、見た目以上にノリの良い高橋のことを好きになった瞬間でもある。
椅子に深く腰掛けながら自分もブレンドをゆっくり含む。
意識しなかったが、武道と過ごす時間は確かに思いのほか楽しかった。明るく裏表がなく、思ったことを素直に口にするその性格はこちらも必要以上に気を遣うこともなく、肩の力が抜ける心地だった。
彼が次に家を訪れた際、千ピースのパズルを持参してきた。趣味なのだという。勝手に長期滞在する気満々で、コーラの件と言い、常識の範囲内でのそういった自然な厚かましさは一足飛びで二人の距離を縮めさせるには充分で、七海はそんな武道を懐に受け入れた。
会うたびに新しい生傷を作る彼はしょっちゅう喧嘩に膝を汚しているようだが、イジメに合うタイプとも思えない。だから何故こうも頻繁に怪我を負っているのかが不思議でならなかった。余程絡まれやすいか、トラブルメーカーなのか。
元々自分自身がゲイなわけでもなく、偶然好きになった相手が男子高校生だったというだけの話。当然武道にそういった意味での興味はない。
それでも彼と一緒に過ごす時間は、不思議と気心の知れた旧友といるようで、決して同じではないパーソナルスペースの武道がすぐ隣でコーラを飲んでいる空間は悪くはなかった。
side:武道
初めて七海を目にした時、腹に一物を抱えているタイプだと強く信じて疑わなかった。少し長めの柔らかな髪は一見分かりにくいがツーブロックで、軽く波打つ髪をビル風になびかせる姿は、それは優美だった。
好奇心が強いのだろう、ポケットに手を入れたグレーのチェスターコートを翻しながら物珍しげにこちらへ闊歩する様は、ここがランウェイかと錯覚するほどだ。
鳩尾への重い一撃に、毛虫のように地面で蠢く武道に周りが無関心を装う中、甘いマスクの男をより完璧に仕上げる立役者の長いコンパスには思わず下敷きにしている材木を突っ込んでやりたい衝動に駆られた。
女性に事欠かない人生であり、これからもそうなのであろう男にやっかみからの悪戯心が沸き立つが、話してみるとこれが意外と愉快な人間だった。
なんのフラッシュバックか突如として思い起こされたマイキーによる右腕の骨折。それに憤っていれば『最近の高校生って何が趣味なの?』とマイペースに聞いてくるのだから、この男も大概だ。
二十六だという彼とは実年齢は同い歳で、だから一方的に親近感を覚えた。