893パロ事後の鯉月 空調の低い音が耳について月島は目が覚めた。暖房が掛けっぱなしになっている。これが自分の部屋であれば、電気代のことを考えて、やってしまったと少々後悔するところだ。もっとも、ここは「仕事」のあとに連れ込まれた鯉登の部屋なので、部屋が温くていいなとしか思わなかった。ベッドに横たわった裸の自分を、同じように裸の鯉登が後ろから抱えるようにして寝ているので、余計に温かい。
その分、空気が乾燥しているのか喉が渇いていた。それともこの渇きは、薬のせいか、声を上げすぎたせいかもしれない。自分の上に乗っている褐色の腕を押しのけて、質の良いシーツから這い出ると、ベッドの縁に座って辺りを見回した。全裸でうろつくのは少し憚られた。
とりあえずそこらに散らばっている服の中から下着を拾って履き、寝室を出る。
まだ夜も明けきらぬキッチンは冷蔵庫の稼働する音以外は静まり返っていた。一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫から水のペットボトルを出し、戸棚の中から一番安そうなガラスのコップを選んで注ぐと一口飲んだ。よく冷えた水はそれだけで甘く感じる。もう一口、とコップを口に運んだ時、寝室のほうから、ぽすん、という音がした。何事かと月島は様子を見に戻った。
「んん……月島ァ……」
くぐもった寝言を吐きながら、先程まで月島のいた辺りを鯉登がぽすぽすと叩いていた。手応えが無いことに眠ったままで顔を顰めている。
「……おらん…………月島……?」
月島の温もりが残る場所を一頻り撫で回して、薄く目を開けた鯉登は、そこに何もないことに気づいた。一瞬にして眠気が吹っ飛び、がばりと上体を起こす。
「月島ッ……」
「はい」
叫びながら起き上がった鯉登は、予想外の方向――キッチンの方から平然と返事をした月島に目をやって、一瞬ほっとした顔になったが、それを隠すようにむすっと目を薄くした。
「勝手にいなくなるな」
「水を飲もうと思っただけですが……」
月島は服を拾いあげながら自分のもの、鯉登のものと分けて、鯉登の服一式を近くの椅子の背に引っ掛けた。高そうな服なのに、皺になるのも構わず脱ぎ捨ててしまうのだから困ったものである。と、何か踏んづけた感触があり、月島は足の下から踏んだものを拾い上げた。見覚えのあるシャツのボタンだった。
「…………」
ベッドに腰掛け、月島は自分のシャツを点検した。案の定、首周り近くのボタンが無くなっている。昨晩、服を脱ぐ間も惜しく、もつれ合うように求めあった結果である。これが初めてではなく、月島が待てというのも聞かずに鯉登が胸元に手を掛けて乱暴に引っ張るものだから、度々こういう被害が出るのだ。瞳に異様な光を宿し、食らいつくように唇を貪ったかと思うと、不意に切ない声で囁いてみたり、とにかく薬を口にした後は感情の上下が激しくて疲れる。
また裁縫しなくてはいけないという面倒な思いと、そういう勢いに流された自分の不体裁とで月島は苦虫を噛み潰したような顔になった。鯉登はクリーニングに出して一緒にボタンの直しをしてもらえば済むじゃないかと提言したことがあるのだが、月島が睨んで以降そのようなことは言わなくなった。
背中を向けている月島が、ボタンの取れたシャツに袖を通したのを見て、横になりかけた鯉登が再び体を起こした。
「……帰るのか?」
「ええ」
「何時だ」
「5時過ぎです」
「まだ早いだろ……何か用事でもあるのか」
「帰って寝ます」
「ここで寝ればいいだろうが!」
苛立った様子で鯉登がぽすんとベッドを叩いた。そんなに一緒のベッドが嫌かと、気持ちがささくれ立った。月島が鬱陶しそうに肩越しに視線を送る。
「一人のほうがよく眠れるでしょう、お互い」
「ふん、可愛げのない……昨日の夜は、あんなに声を上げて善がっていたのにな……」
「…………」
黙っている月島に、追い打ちをかけるように鯉登が低く囁いた。
「悦いんだろうが。私とするのが」
呆れた目になった月島は、ふいと顔を背けた。残っているボタンを留めつつ、しれっと答える。
「ええ、気持ちいいですよ、あなたとのセックス」
「なっ……」
「薬使ってるんですから当たり前でしょう」
目を見開いて固まった鯉登だったが、その言葉にぐんにゃりとベッドに伸びた。元はと言えば、気の進まない月島に、薬の効き目を確認するためだとか何だとか迫って始まった関係だった。それ以来、何度となく関係を持ってはいるが、一向に距離が縮まる様子はない。
夜は全然違うのだ。少しだって離れたくないとでも言うようにしがみついて、泣きそうな顔で喘いでいるかと思えば、濡れた瞳で煽るように笑みを見せてみたり、愛しげに繰り返し名前を呼んでみたり。思い出すだけで体の奥が熱くなってくる。あれが全て薬の力かと思うと恐ろしくもあり、そして悔しくもあった。普段、月島は鯉登に笑いかけたりなどしないからだ。
すっかり着替えてしまった月島は、片手をベッドについて、携帯電話をチェックしている。鯉登は背後に這い寄ると、空いているその手をそっと掴んだ。
「なら……一度薬抜きでやってみるか」
携帯に注がれていた月島の目が鯉登に向けられる。しかし、一瞬見つめ合っただけで、すぐにその目は携帯の方に戻ってしまった。
「……嫌ですよ。自分みたいなのを素面で相手するなんて、萎えるに決まってます」
「そんなことは……案外、いいかもしれんぞ」
掴んだ手の指を諦め悪く絡めようとしながら、聞き分けのない子供がするように言い返した。
本当はどんな風に思って抱かれているのか。誤魔化しの効かない状況で真実向き合えたならわかるかもしれない。もしかすると、薬なんか無くたってうまくやれるのかも――。
「やめましょう」
ため息をつくと、月島は少し身体を傾けて、感情を見せない瞳で鯉登を見下ろした。
「俺たちには似合わないですよ。そういう恋愛映画みたいなのは」
冷めた態度に反して、ボタンが取れてはだけた胸元には、自分が夢中でつけた艶めかしい情交の痕が見え隠れしており、鯉登を悩ませた。
「……そうか……そうかもな……………………月島、恋愛映画を見たことがあるのか?」
「……昔の話ですよ」
「おい待てッ!貴様が自分から恋愛映画なんぞ見るタマか!誰だ、誰と見に行った!教えろ!」
「じゃあ、お暇します」
鯉登が腕を伸ばすより一瞬早く、月島はすっと手を引いて立ち上がった。こうなっては、引き留めようとしてももう遅い。捕まえ損なった鯉登は鼻を鳴らして、ベッドに転がったまま片手で頬杖をついた。
「たまには自分から来い。……合鍵、持たせたんだからちょっとは使え」
「使ってますよ」
ジャケットの内ポケットから、キーホルダーも何もついていない鍵を月島が出してみせた。
「あなたが起きるのを待たずに戸締まりして帰れるので、助かります」
「くれてやるんじゃなかった」
不機嫌を隠すこと無く鯉登が剣呑な目付きになった。指でつまんだ合鍵をちらちらと月島が揺らす。
「いつでもお返ししますが?」
「うるさい。ちゃんと持ってろ」
シーツに顔を埋めて不貞寝しながらも、そのように釘を差すことを鯉登は忘れなかった。今のところ望んだ使われ方はされていないが、それでも合鍵を持っているなら、部屋に帰ったときに、月島がいるかもしれないという淡い希望を抱くことが出来る。
「……はい」
そんな鯉登の思惑を知ってか知らずか、月島は小さく答えると、合鍵をきゅっと握り締めた。