La dolce vita その一
視線を上げて目に入る姿に、ふと違和感を覚える。
(なんだ?)
何かが引っかかるが、原因がわからない。
一見するとそれは、いつもと変わりのない光景のように思えた。
数日前からの天気予報通り、外は激しい雨が降っているのでカーテンを開けていても室内は暗く、この時間でも灯りを点けないと手元がよく見えない。
その日は、いつ以来だったか記憶にないほど久しぶりとなる丸一日の隼人の休日だった。思いのほか一緒に出掛けることを楽しみにしていたらしい號は、雨が止まないものかとカーテンを握り締めしばらく外を眺めていたが、あーあ、と大きく声を上げるとばさりと乱暴に閉めてしまった。
「どうした」
「これじゃ出掛けんのなんか、無理じゃん」
「あぁ、そうだな」
テレビでは各地の大雨警報が次々とテロップで流れており、さすがの號も諦めたようだった。
「ちぇっ、仕方ねぇか……自然様には勝てねぇもんな。ま、とりあえず飯食おうぜ!」
隼人がトースターにパンをセットし厚切りのベーコンと卵を焼いている間に、號はコーヒーを入れ皿を並べる。一緒に暮らし始めた当初の號は、朝は米じゃないと力が出ねぇだろなどと文句を言っていたが、半斤のパンに厚切りベーコン数枚、卵と大量に具の入ったスープでそれなり以上に満たされることに気付くと、次第に文句を言わなくなっていった。
「今日はどうする」
朝食を食べながら問い掛けると、どうったってこの雨じゃ出掛けらんねぇし。あんたもたまにはゴロゴロして休むのもいいんじゃねぇの、と半熟の目玉焼きの黄身を丸のみしながら、ニカリと笑った。
「そうだな」
隼人は時間が足りないことはあっても、空いた時間をどうするか考えることなどほぼない。
それも良いかもしれないと思う。が、目を通せていない資料や趣味で執筆している論文、休み明けに提出予定の申請書類のことに思いを馳せていると「今日は休みなんだから、仕事すんなよ」と釘を刺されてしまった。
二人がほぼ同時に食べ終えると手際よく皿を洗い、もう一度コーヒーを入れる。
「ここに置くぞ」
「サンキュー!」
砂糖は入れず、ミルクが少し多めのコーヒーを入れた號のカップを、ことりとローテーブルに置く。號はそれほどコーヒーが好きだったわけではないはずだが、用意してやったものを飲むうちに舌が慣れたのか抵抗がなくなったのか、自然と飲むようになっていった。
リビングのソファは体格の良い二人が座ってもまだスペースが余るほど非常に大きく、部屋の大半を陣取っている。號は二人で過ごす時……隼人が仕事で自室に籠っている時以外は、大抵そこに居ることが多かった。
ソファに座る隼人の足元で、號は巨大な楕円形のクッションを締め上げんばかりにぎゅうぎゅうと両腕で抱えながらテレビを見ている。抱えているクッションはこの部屋には大きすぎるのではないかと隼人は思っていたが、これくらいある方が絶対いいって! という號の主張により購入したものだ。物に執着することのない號がそこまで言うのだから、と即決したが。およそ気に入ったものに対する仕打ちとは思えない扱いをされているクッションに埋もれて、號の顔がよく見えないのは少し不満ではあった。
もちろん、そんなことは口には出さないが。
時間が出来たなら、と結局休み明けにある会議に向けた資料を読んでいた隼人は、そんなに號が興味を持つような番組をやっているのかと目を上げると、そこでようやく先ほどからの違和感の正体に気付く。
「號」
呼びかけると、號はさほど真剣に見ていたわけでもないらしいテレビから視線を外し、隼人を見上げてくる。
「なんだよ」
「それは俺のシャツじゃないのか?」
「そうだけど」
それが何だよ? と、文句でもあんのかと言ったふうに逆に問い掛けてくる。號が着ているのは隼人の黒いVネックのシャツで、少し値は張るが結構気に入っているものだった。
朝食を食べて顔を洗いに行くまでは、寝巻にしているスウェットのままだった。外出を取りやめたので一日そのままでいるのかと思ったが、ちゃんと着替えたらしい。意外だが、こういったところはきちんとしている。
ただ何故、隼人の服を着るのだろうとは思う。
無論、自分の服を號が着ることなど全く構わない。
隼人も大して服を持っている方ではない。業務上着ることが多い白いワイシャツとどれも同じような……ただしオーダーメイドの黒か紺のスーツが大量にクローゼットに掛かっているような状態だ。ここ数年は私服を着る機会など大してないので、買い足すことも少ない。
対して號はと言えば。
着のみ着のままここへやってきてから、これもいつも同じような……というより全く同じメーカーの半袖のTシャツを着ている。軍属になってからは隼人と同じく白いシャツにネクタイを締める必要もあるため、スーツ一式用意はしてやったが、私服はいつも同じものを着ているようにしか見えなかった。だからこそ気付いたのかもしれないが、気になる点がひとつある。
「お前には、少し大きすぎるんじゃないか」
いつも丸襟の白か色の付いたシンプルなTシャツだから、黒いVネックを着ると印象が変わるな、とまじまじと見る。隼人のものだから、ワンサイズ大きい。
「どうせ出掛けねぇからさ。いいと思って、さっき全部洗濯機に突っ込んじまったんだよ。着るもんないから借りたぜ!」
駄目だったか? と見上げて来る顔は、元より断られることなど想定していないように見える。
あまり號を甘やかさないで欲しいと先日翔に言われたが、勿論隼人はそんなことはしていない。なので人のものを借りる時は事前にひと言断れ、と厳しい顔で號に告げる。しかし、
「わりい! でもちゃんと洗って返すぜ!」
と隼人の膝に肘を置き、すまなさそうな手のアクションをつけてはいるが、まるでそう思っていないことが丸わかりの笑顔で謝罪される。
俺のものは俺のもの。隼人のものも俺のもの。
號のそれはジャイアニズムとやらから来るものではなく、隼人が號にそう告げているからだ。
(全部、お前にやる)
生涯を共に生きる約束をした時に、そう告げた。
己の持つもの全て。
資産など物質的なものだけでなく、この心も命もすべてくれてやると。
言われた方は目をぱちくりとさせたあと、そんな重てぇもんいらねぇよ、と俯いて顔を隠してしまったが。
耳が赤く染まっていたことは気付いていないだろうし、わざわざ教えるつもりもなかった。
しかしいらねぇよ、とは言ったものの。都合の良い時にはそれが適用されるらしい。
「全く……」
お前らしいと呆れながら、落とした目線の先。
サイズが合っていないVネックの緩い襟元から覗くのは筋肉であるはずだが、それが想定外に柔らかなものであることを知っている。そのことに思い至った隼人は、鋼の意思で視線を上げた。
(風紀が乱れる)
休日とはいえ今は昼間で、予定が変わったとはいえやらねばいけないことは山積みだった。
そして自分は號の伴侶であるが、同時に保護者であり責任者でもある。
(よし)
隼人は立ち上がると、お気に入りの肘置きが外されて少し不満そうな號とは目を合わせずに洗面所へと向かう。
洗濯、脱水、乾燥。
そしてこの後もしも雨が弱くなったら、號の服を買いに行く。
それが、隼人がこの休日に最優先で行うべきことだった。
その二
「あんたこれ、やめろって言ったよな!」
「急いでいたしそこにあったものだから、ついな」
「つい、じゃねえ!」
號が怒りながら握り締めているのは、洗濯した後たたんで洗面所に置いてあった號のボクサーパンツだ。怒るのも無理ないとは思うが、その時手に届く範囲にそれしかなかったのだから仕方ない。
「あんたが履くとゴム伸びちまうからやめろっつったろ? あと俺のシャツも着るな!」
「お前も俺のシャツを着ていたろう」
「あんたが着ると、伸びて着られねぇんだよ!」
大体あんた体でけぇんだから無理に着るな! と怒っている。隼人より小柄なことを気にしているはずなので、よほど腹に据えかねたのだろう。
ゴリラだ何だと悪口を言いたいのだろうが、生憎隼人は號の中ではどちらにも当てはまらないようで。
少し捻くれたところがあってもあれで根は素直で正直な男だから、思っていないことは言えないらしい。
「俺だってまだ育ち盛りなんだからな!」
絶っ対あんたよりデカくなって見下ろしてやる! と鼻息荒く宣言する。
(今くらいが収まり良くて、ちょうど良いのだが)
と口にしたら火に油なのだろなと思いつつ。
それなら育ち盛りに飯を食わさねばなるまいと、漏れ出そうな笑を堪えながら、隼人は冷蔵庫の扉を開けた。