ささめく愛 翌日が休みの竜三は、テレビで続きもののドラマを観ている。画面の隅に小さく表示された時間はもうそろそろ日付が変わりそうなな頃合だった。
「そろそろ寝ないか」
「先に寝とけよ。今いい所なんだ」
明日仕事なんだろ。テレビ画面からチラリとこちらに視線を移してそう言ったきり、竜三はこちらを観ようともしない。そうは言っても、今日も昨日も一昨日も、今いい所も何も、ずっといい所ではないか。
「俺だって続きがみたい」
「じゃあお前も見てたらいい」
ドラマの主人公の名前すら覚えていない俺の、嘘と呼ぶにもお粗末な駄々も軽く笑っていなされてしまう。それっきりジッと食い入るように画面を見つめている竜三に、腹が立つやら悲しくなるやら。そこで意地になり竜三が寝るまで隣にいると決めてしまったのが運の尽きだった。
話の内容が分からぬまま、画面の中では様々な登場人物が入れ替わり立ち替わり会話を繰り広げている。そうしてオープニングとエンディングを2回見た頃、テレビのリモコンに手を伸ばした竜三が、電源ボタンを押し込んだ。
「いい所は終わったのか」
普段ならとっくに寝ているはずの時間。眠気に負け、グラグラと揺れる頭を何とか持ち上げて竜三に視線を合わせる。
「いや……終わってはないが、もう寝た方が良いだろ。特にお前は」
僅かに身を引いて距離を置いた竜三が解せないが、言われたことに異論はない。
「歯磨いてくる。先にベッド行ってろ」
ドラマを見始めた頃に少しばかりの酒とナッツを摘んでいた竜三が洗面所へと向かうのをスウェットの裾を掴んで引き止める。
「お前……」
「大丈夫だって!歯磨いたら俺も寝るから」
眠くてろくに言葉が出てこないが竜三には通じたらしい。絶対だぞ……、そう念を押してフラフラと寝室へ向かう。ドアを開け放したままベッドに潜り込んで洗面所から聞こえる音が止むのを待つ。そのまま寝てはなるものかと眉間に力を入れていると竜三のパタパタとした足音が近付いて来る。パチンと寝室に通じる廊下の電気が消えた。ドアが閉められて、直ぐに竜三がベッドに潜り込んでくる。
「寝てりゃ良いのに」
「ここまで来てそれは嫌だ」
「強情なこって」
そう言って笑った竜三が寝室の電気を消した。枕に頭を乗せてモゾモゾと動いていた竜三だったが、落ち着いたのか長い息を着いている。
「おやすみ」
「おやすみ……」
目を閉じればすぐそこまで眠りが来ていた。時刻は既に午前2時過ぎ。起床時間は6時半だ。
起床時間は6時半。6時半のはずだったのだ。それなのに焦った様子の竜三に叩き起されて寝起きざまに見た時計は8時を指している。何度見ても8時だ。寝起きで動かない頭に浮かぶ遅刻の二文字に惚けていると目の前でパンパンッと手を叩かれる。なんだか柏手みたいだな。
「仁!遅刻するぞ!!」
「ああ……」
目覚まし時計は?なぜ鳴らない……。不思議に思ってスマホを見ると何の目覚まし時計も設定されていなかった。いつもなら設定されている平日に繰り返しになっている目覚まし時計すら。今日は土曜日だ、もしや設定した気でタップして平日用の目覚まし時計をオフにしたのか……? 現実逃避とも言えるような思考を重ねている間にも竜三はせっせと俺のスーツやらシャツやらを引っ張り出していた。
「飯はどうする?」
「無理だろう」
「無理だと思うことが出来るならもう少し焦ってくれ!!」
諸々の支度をしながら何故か俺より焦っている竜三にせっつかれ、準備を終えたのが8時20分。いつの間に握ったのか、おにぎりを渡されて追い立てられるように玄関に向かう。
「行ってくる」
「本当にお前はもう少し焦れよ!気をつけてな!!」
そう言ってシッシッと手を振る竜三に見送られながら家を出た。
普段より空いている気がする快速列車に揺られて始業時間のほんの数分前に会社に滑り込んだ。朝が慌ただしかったせいか普段よりも早く時間は過ぎ去り、あっという間に昼休憩になった。一息ついて竜三に持たされたおにぎりを食べようかと鞄を開くと、鞄の中でスマホの通知ランプが点滅していることに気づく。ホームボタンを押し込むと緑のメッセージアプリがポップアップを表示させている。新着メッセージありの通知を開くと竜三からのメッセージが表示された。
『間に合ったか』
スマホを見られないことは知っているだろうに、よっぽど気になったのか始業時間から少しした時間に送られてきているメッセージに思わず顔が綻びそうになる。
『間に合ったぞ。ありがとう』
そのまま画面を開いていると直ぐに既読の2文字が表示された。
『そりゃ良かった。今日は何時に仕事終わるんだ』
『17時には終わると思うが』
『午後は雨らしいぞ。駅には何時頃着く』
ポコンポコンと小気味よくメッセージが表示される。朝は天気予報を見ている余裕もなく家を出たから傘は持ってきていない。現に今の窓の外を見ても雨が降るとは思えない程の晴天だ。まさか駅まで迎えに来てくれるのだろうか?
『30分もしないで着くと思うが。適当に傘を買って帰るぞ』
『そうやってこれ以上余計な傘を増やすな。駅まで迎えに行くから会社出る時に連絡入れろ』
既読が着いてから少し間が空いてメッセージが送られてきた。メッセージを送る間にスマホの画面を見ながらしかめっ面をしている竜三が目に浮かぶ。家の玄関には俺がそうやって買って帰ったビニール傘が二本ある。その他にも俺と竜三の濃紺と黒の傘が1本ずつ刺さっていて、小さな傘立ては既にいっぱいいっぱいだった。
『分かった。連絡する』
『おう』
それっきり特に会話を続ける事もなかったが画面をそのままにして、今朝持たされたお弁当の包みを開く。包みの中には大きなおにぎりが2つ入っていた。竜三が握るおにぎりはひとつひとつが大きくてまるい。
おにぎりを1つ手に取りアルミホイルを剥くと、中からはおかかが全体に混ぜこまれたおにぎりが出てきた。焦って作ったのだろう、おかかが偏っていて1口ごとに味に濃淡があるがこれはこれで好きだった。朝飯を食っていないからあっという間に食べ終わってしまう。2個目は梅干しが入ってるシンプルなおにぎりだった。握って直ぐに巻かれた海苔はしんなりしていて、歯を立てるとミチミチと海苔を引き伸ばしている感覚がある。丁度いい塩気と柔らかい梅干しの酸っぱさが堪らず1口1口食べ進めていればすぐになくなってしまった。
竜三のおにぎりは大好きだが滅多に作られることは無い。時々食べるから余計そう思うのか分からないが企業努力の塊だろうどんなおにぎりよりも美味しい。
『おにぎり美味しかった』
メッセージが送信されたのを確認してスマホの画面を消す。仕事終わりまで通知を確認することは無いだろうが、恐らく竜三からの返事はないだろう。
仕事おわり、窓を見ると竜三の言う通り雨が降っていた。窓には結構大きな雨粒が打ち付けている。スマホを開いて、竜三にこれから帰るとメッセージを入れた。既読が付いているだけの昼のメッセージの下に新しく吹き出しが表示されてから既読が着くまでにそう時間はかからなかった。
『分かった』
そのメッセージを確認してビルから出ようとした。出ようとしたがそう言えば駅までの道は雨に濡れるのか……。思わずコンビニに視線が行くが、竜三が折角迎えに来てくれるのに、なんだかそれを無駄にするようで嫌だった。駅まで走る覚悟を決めた俺だったが、背後から声をかけられて同僚の傘に入れてもらった。朝の占いの結果も見れていないが、良い運勢だったのかもしれない。同僚と別れて朝よりも人の多い電車に乗り込む。変わり映えしない吊り広告と停車駅を映す液晶を眺めているとスマホがブブッと震えた。画面を開くと竜三からのメッセージで、既に駅に着いたらしい。1個手前の駅にいると送ると、改札の辺りで待ってると直ぐに返事が来た。
駅の改札を抜ければ、改札の正面の壁に寄りかかるようにして人混みを眺めている竜三が目に入った。
「竜三!」
「おつかれさん」
そう言って、手に持っていた傘を渡される。俺が濃紺の傘で竜三は黒い傘だ。
「駅まで濡れなかったか」
「ああ、同僚の傘に入れてもらった」
「そりゃ良かった。あの後そう言えばと思ってな、てっきり傘買ってくるんじゃないかと思ったんだ」
「俺もいざ会社から出る時になって気づいて買うかしばらく悩んだ」
他愛ない会話をしながら歩いていく。そこまで大きくない駅だ、直ぐに出口についた。相変わらず雨はそこそこの雨足で降り続けている。
「酷い雨だな」
「折角の休みだし布団干そうと思ってたんだがな」
2人で並んで歩き始めるが傘に雨が落ちる音は思いのほか大きく、僅かに声が大きくなる。折りたたみ傘でもない傘を2人でそれぞれ差していると2人の間にできる距離も自然と広くなる。傘の中に篭もる自分の声と雨音で聞き取りにくい竜三の声が惜しかった。
「今日の夕飯は?」
「昼に握り飯だけじゃ腹減ってるだろ。少しばかり豪勢だぞ」
「鍋か?」
「帰ってからのお楽しみだ」
傘がなければ言い当てるまで思いつくものを挙げていっても良かったが、竜三の顔がろくに見れない状況ではのらりくらりと躱されてしまうだろう。竜三は何か言い当てられると少しだけ右眉が上がる。本人は恐らく気付いて居ないだろうから内緒だ。
「久しぶりに食べたが、お前の作るおにぎりは美味しいな」
「昼にも言ってたが本当に好きだな。ただの握り飯じゃないか」
「竜三の作るおにぎりは丸くて大きいからな」
「味じゃないのか」
「味は言うまでもない」
そうかよと言って竜三が笑うと、俺の傘が僅かに揺れた。ふと竜三の方を見ると俺の傘が竜三の傘の下に潜り込んでいる。知らない間に近寄っていたのか。話すのに夢中になって竜三に寄っていたのかと思うと年甲斐もない事だと少し恥ずかしくなる。何はともあれこのままでは竜三が濡れてしまうと1歩だけ横にずれた。
それからも家に向かって歩く間、野菜が高いだのなんだのと話をしているうちに俺の傘は必ず竜三の傘の下に潜り込んでいた。家までの距離の3分の2程を並んで歩いてきてようやく分かったが、恐らく竜三がこちらに寄っている。傘が潜り込んでいる事に気づく度に、もう2度も3度も横にズレてできる限り寄らぬようにと気をつけているのに駄目なのだ。これはもう俺のせいではないだろう。
「竜三、もう少し離れないか」
会話の流れを断ち切るようにして突然そう告げた俺に、傾けた傘のしたからこちらを見る竜三は、随分怪訝そうな視線を向けてくる。
「お前の腕が濡れてしまう」
いまいちピンと来ていないようで、竜三は俺のいる側とは逆の腕を確認している。違うそうじゃないんだ。
「俺の傘がお前の傘の下に入ってしまうから、お前の腕が濡れてしまう」
「お前が寄ってくるんじゃないのか」
「最初はそう思ったがどうやら違うようだ」
自分の傘を少し傾けた。俺がもうこれ以上距離を置くことが出来ないくらい車道側に寄っているのを見せてやる。
「……すまん」
「別に謝ることでは無いだろう。今度はもっと大きな傘でも買おうか」
ふたりで入れるくらいの。そう言って笑いかけると傘でサッと顔を隠して距離を置かれてしまった。
「もう置く場所なんてないだろ」
「置く場所があったら良いのか」
からかえばグイグイと傘をこちらに寄せてくる。折角濡れないで帰ってこられたのにここで濡れては敵わないと、俺もサッと傘を竜三の方に倒す。良い歳してよ……。そう小さく呟いている声が聞こえる。年甲斐もなく恥ずかしいのだろうが、こうやってじゃれあっているのもなかなかだと思うし、なにより楽しいから良いじゃないか。
次にこういう機会があったなら、使い所のないままのビニール傘を持って来てもらおうか。今さしている傘よりも幾分小さいし、竜三の顔が良く見える。今だって、見ることができないのが惜しいがきっと竜三の耳は赤くなっているだろう。帰るべき我が家まであと少し。傘を畳むまでに竜三の耳が赤いままだったら良いなと思った。