嵐の夜に「神様、もう帰ろう、おいで」
荒海の中で腰まで浸かった彼の肩に手を掛けた。振り返ってこちらの目を見たその表情は、暗くてよく見えないことを差し引いても、「心細い」と言う感情が薄らと滲み出たものだった。
叩きつけるような風雨に包まれながら海に向かっていく彼を発見した時には、剣士として人生経験をそれなりに重ねた自負が砕けた思いがした。己は大抵のことでは動揺などせんという驕りを捨て、大慌てで駆け寄り、風邪を引いてしまう、使用人も心配するだろうと言い聞かせた。少し抵抗されたものの、半ば引き摺るようにして浜辺に上げた。さて、これからどうしたものか、自分の小屋に連れ帰るか、嫌がられはするだろうが屋敷に同行でもするか。いずれにせよ一旦風呂に放り込まねば…と後ろ手に彼を引っ張りながら思案する。
「……こえん」
風が吹き荒ぶ音に混じって、背後からか細い声がした。
「余を呼ぶ声が聞こえなくなった。海鳥の声も、魚たちの声も。何もかも」
あんなにそばまで寄ったのに。貴様のせいだ、邪魔をするな。余の深淵を侵して、全てを奪って、今更余にどこへ還れと言うのだ。
だが、無遠慮に紡がれる言葉の荒々しさと、発する声の脆さの歪なバランスをもってしても、小屋へと急ぐ歩みを止めさせることは敵わない。
「好きなだけ吾のところにいると良い。還るところが見つかるまでな」
風の音は一層高く強くなり、言葉が彼に伝わったかどうか定かではない。ただ、海水に晒されてすっかり冷え切ってしまった作り物の手が、先導する端くれ立った手をぎこちなく握り返したのを知覚し、詰めていた息を漸く吐いた。