兎と燕液晶に映った弟の顔を見るなり兄は噴き出し、一頻り相好を崩した後、こう問い掛けた。
「ふ…っ今回は何の催物だ?イースターには少しばかり早いんじゃないか?」
「笑い過ぎだ…耳の日、転じて兎の日なんだと」
そう言えば頭部に生やした耳がそのままだった。わざわざ冥府にいる彼に見せるような物でもない、どうせこのふざけた余興には参加しないのだ。ポセイドンが今日の為に生やした耳を消すと、画面の向こうのハデスが愛らしかったのに、と残念そうに呟いた。小さな声だったが、最近のマイクは優秀だ。余計な感想までご丁寧に拾ってくれる。
「また困った末弟が楽しいイベントを企画遊ばせたようだな?」
「ご明察…冥府はいつも通りで何よりだ」
身内で唯一、難を逃れている兄に対する嫌味である。それを知ってか知らずか、じっと考え込むような間ののち、これまた余計な一言が集音された。
「…せっかくだしこっちでもやろうか………」
「なんでそうなる。彼奴を甘やかすな」
「お前には言われたくないな」
前回の猫の日に引き続き、今回は兎の日である。ある者は見事にぴんと立った白い耳を、またある者はふわふわした栗色の長毛を頭部から垂らしている。ポセイドンも例外ではなく、
元々の頭髪に近く色素の薄い、ふさふさした耳を衆目に晒していた。お兄ちゃんもやろうよおと末弟に泣きつかれると鬱陶しく、黙らせるためにはこの催しにのるしかなかった。流石に2回目ともなると、腫れ物に触るような扱いを受けることも、…無くもなかったが、慣れなのか前回ほど他神から露骨に避けられることは無かった。猫の日と比較すると、参加している者も少し増えた気がする。併せて、普段と違う装いの者も少しいるようだが。
そんなことは気にも留めず、今日も今日とて海神はいつも以上に仕事に邁進していた。普段と違う雰囲気に誘われているのかいないのか、己の執務に邪魔が入ることが増えてきている。あの人間め。今日こそは襲来される前に速やかに仕事を片付けて、居城に帰ってゆっくり休んでやる。努めていつもの如く、だが慣れた者には海神の背後に燃え盛る炎が見えていた。頭部にある余計な白い耳が迫力を鎮火させてはいるものの。
従者にあの、と話しかけられる度、いつもの冷静な顔を崩さず、けれど耳は忙しなくぴこぴこと反応するものだから、そわそわしているのが誰の目にも明らかだった。待ち人来ずで心ここに在らず。視線を寄越されずとも付き合いの長い者たちであれば、察するに余りある態度。勿論誰も指摘しない。触らぬ神に祟りなし。
日が落ち、一柱、また一柱と退勤していく中、海神は執務机に向かい燃え尽きかけていた。
(来んではないか)
覚悟を決めて平素より早いペースで取り組んだ結果、執務は大幅に片が付き、予定より早く休暇を取っても差し支えない段階を迎えた。だが、拍子抜けとはまさにこの事。すぐ来る、きっと来る、と仕事中もちらちら時刻を確認していたが、最後まで奴は来なかった。
こういったやたらと賑やかな雰囲気を敏感に嗅ぎ取り、いつの間にか音も無くそこにいるような奴だ、何かあったかも知れないーそんな思いが帰り支度をしながらも捨てきれない。神殺しを成した者にくだらない事由で伏せっていられては沽券に関わるからだ。断じて心配だからではない。ポセイドンは根城に帰る前に、宿敵の居宅に不本意ながら寄ることに決めた。
明かりも無ければ生き物の気配も無い。人知れず倒れている…ことも無さそうだ。戸口は施錠されていて(そういえば奴の時代に今ほど整った施錠の習慣は無かっただのなんだの抜かしたのを以前咎めた)留守のようだ。今日に限って何ぞ用事があったのだ馬鹿馬鹿しい。無駄足だった。踵を返そうとすると、
「神様?」
ずっと聞きたかったような、二度と聞きたくないような声を鼓膜が捉えた。正面に立つ小次郎が、薄暗い中で独り立っているポセイドンを見て虚を衝かれていた。
「どうした、こんな時間にこんなとこで」
貴様が顔を出さんのが悪い。などと告げられる筈も無く。かと言って用事も無いのにわざわざこんな僻地まで来たのも不自然だ。どう取り繕うか考えあぐねていたところ、小次郎の方からこう提案が為された。
「月見酒といかんか?余りもんで悪いが」
3月とは言え、まだ夜間は肌寒い。あんたは冷えるの嫌だもんな?そう言って小次郎は窓を閉め切り、火鉢を用意した。ほんのりと暖かくなったところで縁側に並んで、円い月を肴に白酒をゆっくり嗜んだ。
「あんたは参加しなかったのか、ほら、兎の」
「知っていたのか…まあ…この通りだ」
日中のように耳を生やしてやる。おお月夜の兎だ、風流だねと囃し立てる小次郎を、酒を零さない程度に小突く。
「お前は今日はどうした。面白がってその辺をうろついているものかと思ったが」
「吾か?今日は吾の故郷では女子の成長を祈願する祭りの日でなあ。飲んでたんだよ。嬢ちゃんたちと、沖田殿と、近藤殿と、それから」
「何かにつけ酒盛りしているなお前たち」
しかし本当に用事があったのだ。合点が行った。
「この酒だって今日だけの為のもんだぜ?うかれて沢山調達したら余っちまったが」
桃の花弁がふわりと浮いた白酒を注ぎながら、軽快に笑う。
女子の為の祭りか。ポセイドンは今日の一部の女神たちの挙動や格好を思い出した。そう言えば彼女らの中にはいつもと違う召し物を身に付けた者もいたような。聴いたことの無い歌を口遊む者もいたな。笛や太鼓が何とか。
「しっかし兎か…懐かしいねえ…」
「飼ったことでもあるのか」
確か下界では一般的な愛玩動物として扱われていたはずだ。この鍛錬馬鹿が動物を甲斐甲斐しく世話しているイメージはまるで持てないが。何気なく聞いた言葉に、何でもない風に小次郎は答えた。
「いや」
顔色も変えずに
「喰ったんだよ」
月を見たままで
「美味かったぜ?」
静寂が重く立ち込め、頭頂部の耳を消す。臓腑の底をさりさりと鑢で削られるような、実に落ち着かない感覚がポセイドンを襲った。
「…消したのか。愛らしかったのによ」
「世辞は要らぬ」
つい最近似たような所感をぶつけられたもので、いい加減この姿にも飽きてきていたし、ここいらでお開きにして腰を上げてしまいたかった。大気がやたらと重く、動きにくさすら感じた。
「そもそもそんな話の流れで出しっ放しにする義理は無い」
そりゃそうか、と小次郎は笑う。こちらは何も愉快でないのに、それはそれは楽しそうに。
迂闊だったとさえ思う。
気付くべきだったのだ。
目だけがまるで笑っていないことに。
「いやあ吾はてっきり」
「お前さんも喰われに来たのかと」
違う。
口を開けたのに、酒焼けでも起こしたのか、喉が掠れて声が出ない。
「…妙な気を起こすな…余は」
「こんな遅くに用事も無く来たのかい」
この間のような妙ちきりんな薬袋もない。
身体に触れられてもいない。
なのに。
隣に座る男の、肉食獣のようなぎらついた瞳を見ると、床板に縫い留められたように動けなかった。
「ずっと昔の…道場に世話になってた幼い頃さ…吾には獣肉が必要でな…」
猪口を座卓に置き、ゆっくりと身を乗り出してくる。
まるで
まるで本当に狩りをしているかのように。
ほんの少しずつ、後退りする。
身体が本能的に争うな、避けよ、後退せよと叫んでいた。
背中に嫌な汗が垂れて不快だ。
何故余が人間如きに、こんな
「逃げんなよ、捕まえたくなるだろ」
「や、め…」
男の手が先刻まで白く柔い耳が在った場所へ、掴み掛かるように伸び———————
「…なんてな。冗談だよ、驚いたか」
その手つきはまるで別人のように優しいものへ変わり、ふわりと月明かりが照らす金糸をぽんぽんと撫でた。
「…何のつもりだ」
やっとの思いで喉からまろび落ちた声は情けないほどに掠れていた。
お前はいつもいつも、余の思い通りにならんどころか、外側も内側も全て掻き乱していく。
「…そっちの祭りに出られなくてちぃとばかし惜しいことをしたと思ってな」
頰を掻きながらこう続けた。
「あんたを一目見たかったなってぼんやり考えながら帰ってきたら、まさか居てくれてるとは思いもせんだ、」
「……つい欲が出ちまったんだよ」
欲。
なんと浅ましくこれ以上無いほど簡素な答えなのか。
「お前は…凄めば余が大人しく手篭めにでも出来ると思ったのだな?」
飄々と、のらりくらりと、彼方此方を跳ね回り、決してこの手に落ちて来ない。不快だ。苛つかされるのも、それをいつも良しとしてしまう己にも。
小次郎の胸ぐらを取り床板に引き倒してやった。今度はお前が床と懇ろになると良い。露わになった首筋に噛み付いてやる。
「どうだ、獲物に返り討ちにあった気分は」
思いがけず首に出来た傷に顔を顰めていた小次郎と目が合う。
「そりゃあ…捕まえられてくれるって事かい?」
海神は鼻で嗤ってやった。
「出来るものならやってみろ…酔っ払いなどに遅れは取ってやらぬ」
対する狩人、がしがしと頭を掻き、
「神様よお」
眼前の兎に狙いを定めた。
「自分の言葉には責任持ちなよ」
いつまでも終わらない追いかけっこを、
月だけが見ていた。